秘書としての覚悟 ①

 ――僕はその翌週のうちに秘書室への異動が認められ、秘書としての研修がスタートした。

 ちなみに、転属には所属していた部署の上長の承認が必要なのだが、島谷氏はあっさりと承認印を押してくれた。前もって社長や人事部長・秘書室長の承認印が押されていたので押さざるを得なかったのだと聞いたが、実は加奈子さんから何らかの圧力がかかったのだと僕は勝手に思っている。

 とはいえ、十月の異動シーズンからも少しズレていたので、僕のこの時期の異動はイレギュラーな特例だったらしい。


「――桐島くん、秘書の仕事でいちばん大事なことって何だか分かる?」


 室長から指導係に任ぜられた小川先輩が、僕に優しく問いかけた。

 研修が始まってから、僕は秘書の業務もそつなく覚え、こなしてきた。が、先輩にこう訊ねられたということは、僕にはまだ何かが欠けていたということだ。


「えーと……、時間に正確であること……ですかね」


 首を傾げながら、思いつく答えを言ってみた。あとは命令に忠実なこと、口が堅いこと、このあたりだろうか。


「まぁ、それも正解かな。ボスのスケジュール管理は秘書にとって大事な仕事だからね。でも、時間に縛られたくないボスもいるし、あまりにも忙しすぎるとかえってストレスを与えちゃうよね。だから、そのあたりはあまりナーバスになる必要はないとあたしは思ってる。大事なのは時間配分とさじ加減」


「要するに調整能力ってことですね。じゃあ、それが正解なんですか?」


 僕がそう解釈すると、先輩は「う~ん」と唸ってから「それも違うかな」と答えた。


「えっ、違うんですか?」


「うん。正解はね、どれだけボスに気持ちよく仕事をしてもらえるか考えて、工夫すること。まぁ、簡単に言えばボスへの愛、ってことね」


「愛、ですか……」


 彼女の源一会長への想いを知っていた僕には、この言葉にものすごい説得力を感じた。


「先輩が言うと、何か重みがありますよね」


「……あっ、違う違う! あたし、そういう意味で言ったんじゃないからね!? 愛っていうのは、信頼とかリスペクトとかそういう意味!」


 首元まで真赤にして弁解する先輩だが、ここは給湯室で僕以外には誰もいないので、そんなにムキに必要もないのではないだろうか?


「あたしは会長のこと人として尊敬してるし、秘書として信頼されてるのが嬉しいの。それは仕事のやり甲斐にも繋がっていくから」


「なるほど……。まぁ、先輩のこと茶化しちゃいましたけど、俺だって同じようなもんですよね。絢乃さんのために秘書室に異動したわけですし」


 小川先輩は違うかもしれないが、僕が異動を決意した裏には間違いなく絢乃さんへの下心……もとい恋心があったのだから。もちろん、篠沢絢乃さんという一人の女性を尊敬する気持ちもあるし、信頼関係を築きたいというのも本当なのだが。


「そうだよねぇ、桐島くんは絢乃さんのこと好きなんだもんね♪ でも不倫じゃないでしょ? ……あたしも違うけど」


「そりゃ、不倫ではないですけど。相手、まだ高校生ですよ? 未成年ですよ? やっぱりそういうところって気にしちゃうじゃないですか。『ロリコンだと思われて気味悪がられるんじゃないか』とか」


 僕はごくまっとうなことを言ったつもりだったのだが、小川先輩はケラケラと笑い出した。……もしかして、こんな考え方しかできない僕はチキン野郎なのだろうか?


「それはあなたの考えすぎなんじゃない? だって、別に元々ロリコン趣味があって絢乃さんのこと好きになったわけじゃないでしょ? 好きになった相手がたまたま高校生だったってだけのハナシでしょ? だったら問題ないよ」


「そうですかねぇ……」


「そうだよ。――まぁ飲みなって、コーヒー。せっかく淹れたんだし」


 先輩は休憩も兼ねて、僕のためにコーヒーを淹れてくれていたのだ(ちなみにインスタントである)。

 僕は「いただきます」と言ってマグカップに口をつけた。……が。


っつ! 先輩、これ沸騰したお湯で淹れたでしょ!」


「えっ? うん。そうだけど……何か問題ある?」


「コーヒーは、沸騰させたお湯で淹れたら薫りが飛んじゃうんですよ。それはインスタントでもおんなじです。美味しく淹れるには、お湯を少し冷ますのがポイントなんで覚えて下さいね」


 僕は講釈を垂れながら「あ、ヤベっ!」と我に返った。昔っからこうなのだ。自分の好きなもの――主にコーヒーやクルマについて語るとついつい熱くなってしまうという、悪いクセが出てしまうのである。


「……分かった、ありがと。ちゃんと覚えとくわ。っていうかそれ、桐島くんにとって絢乃さんへの愛になるかもね。秘書としての」


「……えっ?」


「絢乃さん、大のコーヒー好きなんだって。よかったねー、引かれずに済みそうで」


「そうなんですか。教えて下さってありがとうございます!」


 小川先輩のアドバイスが、大切な絢乃さんのために何ができるかという僕の悩みに対する答えになりそうだと思うと嬉しかった。



   * * * *



「――む? ケータイ鳴ってる。……あ、俺のだ」


 スーツの胸ポケットからスマホ(ちなみにカバーなどは着けておらず、裸のままだ)を取り出して画面を確認すると、登録していない携帯番号からの着信だった。

 横から覗き込んでいた小川先輩が「あ」と声を上げた。


「桐島くん、電話出なよ。これ多分、奥さまの番号」


「……へっ? ――はい、桐島……ですが」


『ああ、桐島くん? 私、加奈子です。分かるかしら』


 通話ボタンをスワイプすると、果たして発信者は会長夫人の加奈子さんだった。でも、僕はあの人に連絡先を教えた記憶がない。一体どうやってこの番号をお知りになったんだろう? 


「はい。ですが、よくこの番号がお分かりになりましたね」


『絢乃から聞いたのよ。この先、私からあなたに連絡を取らなきゃいけなくなることもあるだろうと思って。――お仕事中にごめんなさいね』


「ああ、いえ。――どうされました?」


 ちなみにこの頃、加奈子さんはすでに僕が秘書室へ異動していたこともご存じだった。小川先輩から伝え聞いていたのだという。


『あの子のことで、あなたにお願したいことがあるのよ。……多分、あなたにしか頼めないことなの。もちろんあなたには断る権利もあるし、無理にとは言わないけれど』


「僕にしか頼めないこと……ですか?」


 それも愛しの絢乃さん絡みだという。加奈子さんもおっしゃったとおり、僕にはお断りする権利もあった。が、絢乃さん絡みだとすれば僕には断る理由がなかった。


『ええ。桐島くん、本当に、ムリに引き受けなくてもいいのよ? あなたも部署が変わったばかりで大変なのはこっちも重々承知しているから――』


「いえ、ぜひともお引き受けします! ――で、僕は一体何をすればよいのでしょうか」


『あのね、これから時々でいいの。学校帰りの絢乃を、あなたのクルマでどこかに連れ出してあげてほしいのよ。あの子いま、学校と家の往復しかしてないから、気が滅入ってると思うの。だから時々、気分転換のつもりでドライブにでも、と思って』


「えっ、そうなんですか?」


 僕はそれまで、絢乃さんの生活パターンについて聞いたことがなかった。加奈子さんのお話によれば、お父さまが倒れられるまでは放課後にお友だちと連れ立って、お茶やショッピングくらいはしていたのだというが、それどころではなくなっていたらしいのだ。お友だちも彼女の心情をおもんばかって遠慮していたのだろう。

 何とも優しくて真面目な彼女らしいとは思ったが、そんな彼女にも多少の気分転換が必要だというのは僕も同感だった。

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