前を向け! ③

 ――僕に「少しの間だけ仕事を抜けさせてほしい」と告げられた島谷課長は、あからさまに顔色を変えた。「そんなこと、許可するわけがないだろう」と言うだろうと僕は察した。


「――私からもお願いします、島谷さん」


「誰だね、君は」


「会長秘書の、小川と申します。彼は会長の奥さまから急な用件をうけたまわったので、抜けさせてほしいと申し上げてるんです」


 この部屋に本来いるべきではない小川先輩に怪訝そうな顔をした島谷氏。でも、先輩はそれに臆することなく堂々と発言していた。……先輩カッコよすぎ。俺、女性不信じゃなかったら絶対惚れてます。


「会長秘書? 会長の奥さまから……」


 島谷氏は典型的な中間管理職――つまり「長いものには巻かれろ」主義なので、先輩の〝会長秘書〟という肩書きに明らかにうろたえていた。


「ええ。直接ご指名があったんです。、と。もちろん、ダメだとはおっしゃいませんよねぇ? あなたの今後の査定にも響くでしょうし?」


 彼女はニッコリ笑って言っているように見えるが、そのニッコリ顔が島谷氏には氷点下の笑顔に見えたらしい、要するに「顔は笑っていても目が笑っていない」というヤツだ。


「お願いします、課長! 用が済み次第、ちゃんと戻ってきますんで!」


「そう言われてもなぁ……」


 この人が悩み始めたら、これは長期戦になる可能性大だ。こっちにはそんなことに付き合っているヒマはないのに!

 

「……桐島くん、絢乃さんをお待たせしちゃいけないから、あなたは行ってきなさい。この人はあたしが説得するから。学校の住所はナビで調べたら分かるよね?」


「先輩、ありがとうございます。じゃあ、ここはお任せしますね。――とにかく、僕行ってきます!」


 僕はその場を先輩に任せて、絢乃さんを迎えに八王子まで向かうことにした。



   * * * *



 クルマのナビは古すぎてアテにならないので、スマホのナビアプリを頼りに茗桜女子学院の門の前までどうにか辿り着いたのは午後一時半すぎ。そこで待っていた絢乃さんは、当然のことながら学校の制服姿で立っていた。髪もストレートで、焦げ茶色のヘアゴムでハーフアップにしてあった。

 クリーム色のブレザーに、赤の一本ラインが裾に入ったブルーグレーのプリーツスカート、そして胸元には赤いリボン。スカート丈がキッチリ膝丈なのと、黒のハイソックスを穿いているのが誠実な彼女らしい。

 前日の大人っぽいドレス姿もよかったが、制服姿はやっぱり可愛いなと思った。……いやいや、これは断じて〝制服萌え〟なんかじゃないぞ。


「――絢乃さん、お迎えに上がりました。どうぞ乗って下さい」


 シルバーの軽自動車から降りた僕を見てなぜか驚いていた絢乃さんに、僕は助手席のドアを開けながら声をかけた。


「桐島さん……? どうして」


 困惑している様子の彼女に、小川先輩を通してお母さまからお迎えの依頼があったことを伝えると、彼女は「そう、なんだ」と頷きながらもまだ理解が追いついていないようだった。が、乗車拒否をすることはなく、前日と同じように助手席に乗り込んで下さった。


 絢乃さんは車内で何だかソワソワしていて、「迎えに来たのがてらさんではなく僕でビックリした」と言っていた。前日、パーティー会場まで源一会長を迎えに来ていたロマンスグレーの男性こそが篠沢家のお抱えドライバー・寺田さんだという。もう三十年以上、篠沢家に仕えているのだそうで、彼女は自分の迎えにも彼が来るものだと思っていたらしい。

 僕は彼女のことや、彼女のお家に関することなら何でも知りたいと思っていたので、こんな他愛もない話題にもちゃんと相槌を打った。何より、話してくれたということが嬉しかったのだ。


「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」


 僕はその一言に、自分の耳を疑った。彼女は僕の迎えが嬉しかったと言ったが、本当なんだろうか? またもや、女性の言葉に裏があるのではと勘ぐってしまう、僕の悲しいさがが発動してしまったようだ。でも、彼女自身も自分が言ったことに動揺して赤面していたので、この言葉に裏なんてないのだとすぐに分かったのだが。


 彼女は続いて、僕と小川先輩との関係について訊ねられたが、そこから嫉妬のようなものは感じられず、これは好奇心からきた質問だと思われる。

「ただの大学時代の先輩・後輩の関係で、小川先輩には好きな人がいるはずだ」と答えると「小川さんに、好きな人……?」と絢乃さんの興味はそちらに移ったようだった。考え込むような仕草をされていたので、もしかしたら彼女にも分かったのかもしれない。先輩の好きだった相手が、自分のお父さまだったということが。


 僕は早く源一会長の病気のことが知りたかったが、絢乃さんはなかなか切り出そうとしなかった。それだけ受けたショックが大きすぎて、気持ちの整理が追いつかなかったのだろうと思い、僕は急かさずにいたのだが――。

 

「ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」


 もしかしたら、自分で切り出す勇気が湧かないので僕からキッカケを作ってもらうのを待っているのかとも思い、とりあえず僕から促してみると、彼女は「ちょっと待って」と呼吸を整えてから口を開いた。

 お父さまは末期のガンで、余命三ヶ月だと。


「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療を受けることにはなったけど、それでどこまで持ちこたえられるか、って……」


「…………そう、ですか」


 そのまま泣き出した彼女に、僕はそれだけ言うのが精一杯だった。

 彼女はきっと、お父さまが余命宣告を受けたことにショックを受けて泣いているのだと思ったが、それは違うとすぐに分かった。泣きながら、「どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのか」「どうして自分じゃなかったのか」とご自身を責めていたからだ。

 僕はそんな彼女の優しさに心を打たれ、同時にどうこくする彼女の姿に胸が締めつけられる思いだった。でもこういう状況の時、どう慰めていいのか分からず、気の済むまで泣かせてあげることしかできなかった。


 しばらく泣き続けた後、彼女はクルマに積んであったボックスティッシュで鼻をかみながら「ゴメンね、桐島さん。もう大丈夫」と真っ赤に泣き腫らした顔を上げた。

 健気な彼女に前を向いてほしい。そして、僕自身も前を向かなければ……。そんな想いから、僕は彼女にこんなアドバイスをした。

「お父さまの余命をと悲観せず、と前向きにとらえてみてはどうでしょうか」と。


「三ヶ月もあれば色々できますよ。ご家族で思い出を作ったり、親孝行もできます。お父さまが死を迎えられるまでの覚悟……というか心の準備も十分にできるはずです。これからの三ヶ月間、お父さまとの一日一日を大事に過ごして下さい。何かあれば、何でも僕に相談して下さいね」


 実を言うと、こんなに偉そうなことを言ってのけた僕自身が同じ立場になった時、同じように前を向けるかどうか自信がない。他人の僕だから言えたのかもしれない。

 でも、絢乃さんはこの無責任な僕の言葉で笑顔を取り戻して下さった。お父さまの三ヶ月という余命だけではなく、僕のアドバイスすら善意として前向きに捉えて下さったのだ。


 ――篠沢邸の前で「会社に戻らなければ」と言った僕に、絢乃さんはお礼プラス口止め料として五千円札を握らせた。一度は断ろうとしたが、彼女の強い意志に負けて結局は突っ返すことができなかった。


 紙幣を握らせた時、重ねられた彼女の手のひらのぬくもりがまだ残っているような気がして、僕は彼女がくれた五千円札を大事な宝物のようにそっと自分の二つ折り財布にしまった。

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