3.この恋が叶わないという定期的確認と、時雨との団らん(ご褒美つき)

 鈴木家から歩いて十分ほど。

 似たような建物が多く連なるその一角に、ぼくの家はある。


 二十二階建て分譲マンション。ぼくが生まれた年に両親が中古で購入し、築二十年。櫻井家は七○五号室。ぼくが住む部屋は七○六号室で、エレベーターで上がって進んだ外通路の一番奥にある。間取りは2LDKで三人家族なら、大体ちょうど、それ以上家族が増えると多少手狭。時雨がぼくの部屋の押し入れを使用しているのはもう一つの個室が両親の部屋しかなく、使うのを遠慮したからだ。


「あれ、要、今帰りー?」


 エレベーターの前で箱が降りてくるのを待っていると、声をかけられた。振り返らなくともそれが誰か分かるその相手に、ぼくは言葉を返した。


「うん、可奈子も? この時間なら部活?」

「ううん、違うけど、確かにちょっと遅くなっちゃったな。要は鈴木君と一緒だったの?」

「まぁいつもの如く。今日は鈴木家で夕食をごちそうになったよ」

「へぇー、いいなぁ。私も春頃に誘われて、一度行ったじゃない? おいしかったなぁ、あの時のお兄さんの手料理。今度鈴木君にまた誘ってくれないか言ってみようかな」


 可奈子と凛太朗に直接の繋がりはないけれど、ぼくを介してただの同級生や知り合いと呼ぶより頭一つ分出た感じがある。可奈子が鈴木家を訪れたのはまだ一度だけだけれども、凛太朗父や凛太朗兄からの好意的面識は既にある。人当たりのいい可奈子は誰にでも好かれる。


「うん、いいと思う。きっと歓迎されると思うよ」

「そうかなぁ。あ、ねぇ要」

「ん?」

「今度うちにも時雨ちゃんと一緒に夕ご飯食べにおいでよ、前みたいにさ。お母さんもお父さんも待ってるし」


 向けられたその屈託ない笑顔に促されて、ぼくも自然に笑う。うん、ありがとうと返すと、ちょうどエレベーターが降りてきた。ぼくは先に乗るように促した可奈子を追って乗り込もうとしたけれど、ふと足を止める。


「どうしたの、要」

 ぼくが立ち止まったのを見て、可奈子が振り返る。その拍子に再び漂った香りが、鼻腔をくすぐる。可奈子の髪から香るそれは朝とは異なるもので、それは若い男性が好んでつけるような香りだった。


「いや、なんでもない」

 ぼくは何事もなかったかのように応えてエレベーターに乗り込むけれど、髪に残り香が移るほどの密着度を想像すれば、エレベーターは上昇しているのに奈落に落ちていくような感覚を遺憾なく味わう。でも仕方がない。可奈子の彼氏は草野であって、ぼくじゃない。


 じゃあまたね、と扉の前で手を振る可奈子と別れて自分の家に向かう。

 玄関ドアを開けてリビングに入ると、

「おかえり」

 と、ソファに座っていた時雨が声をかけてくる。ぼくは、

「ただいま」

 と、返して一人掛けソファの方にどすりと座った。

 家に戻れば時雨がいる。ぼくがいない昼の間、彼女がどうしているのか知らないけれど、家に戻るといつも時雨はいる。


「うまかったか、鈴木家の飯は」

「……うん、これおみやげ」

「みやげ? ……これは随分とうまそうだな」

 持ち帰った包みを渡すと、中を確認した時雨が感嘆する。一つつまんで口に運ぶとその味にも感嘆した。


「ちょっと行儀悪くない?」

「お前に行儀に関して言われるとは思っていなかった」

 時雨は時に食べ物を摂る。けれどそれは生命を継続させるために行われるものではないようだった。食事というものを必要としない概念の持ち主である時雨にとって、その意義は時折たしなむただの娯楽でしかないようである。そのように目的が異なる自覚があるせいなのか、彼女はいつも家にいたとしてもぼくと一緒に食事をすることはあまりなかった。


「どうした、元気がないな」

 その声が届いて、ぼくは顔を上げる。

 時雨の隙なく整ったきれいな顔が、まっすぐにぼくを見ていた。心の内側にはいくつかのことがもやもやとしていたけれど、でもそれを外に出してしまいたくはなく、けれど何か、彼女には色々と見透かされてしまっているような気もして、ぼくは誤魔化すように笑った。


「元気がないなって、ぼく、そんなにいつも元気いっぱいのキャラだったっけ?」

「もしそんなキャラならとっくに息の根を止めている」

「それ、結構本気そうで怖いね」

「……別に話したくないならそれで構わないが」


 曖昧に笑うぼくにややきつめの声を放って、彼女は包みを手にダイニングキッチンの方へ行ってしまった。残されたぼくはやや緩慢に立ち上がり、料理を皿に移す彼女の前に立った。


「あのさ、ぼくの考えてることが本当に

 少し揶揄するように言ってみると彼女は一瞬だけ顔を上げ、また手元に視線を戻した。

「読めないんじゃなくて読んでないだけだ。何もかもが無尽蔵に流れ込んできては邪魔になるだけだ。それにこれは好みの問題だ。それができるからと、徒に行使すべきではないと思っている」


 彼女はその存在自体がぼくが理解できる範疇を超えていると思われるけれど、それとはまた違った意味で理解できる域を超えている部分がある。

 ぼくは二人分の冷えたお茶をコップに注いで、一つを席に着いた彼女の前に置いた。「ありがとう」と言って時折の食事をたしなむ時雨を、ぼくは窓際に立って眺めていた。


「そうだ、要」

「ん?」

「トイレにまた小便が零れていたぞ」


 穏やかに流れていたはずの空気が突如途絶え、手にしていたコップを落としそうになる。あまりにもそれは食事をしながらというか、今口にすべき言葉ではないと思うけれど、元凶がぼくでしかないので小言も返せない。でもとにかくやるべき謝罪はする。


「あ、ごめん……」

「こんなことで注意を繰り返したくはないな。それに毎度謝るが、その改善の努力が毎回欠片も見えてこないのはなぜだ。怠惰なのか? 愚鈍なのか? 要はその辺りをどう思っている?」


 残った右の方の瞳が冷ややかにぼくを見ている。『努力が欠片も見えてこない&怠惰&愚鈍』のワードに〝ぼく自身が〟熱くなりかけるけれど、ここはぐっと堪えて考えを巡らす。

 食事の支度や、洗濯掃除や家事一般。もちろん身の回りのことはぼくは自分でできるし、する。だけど時雨は家事に対する純粋な探究心の元に日々それらに向き合おうとしていて、その結果今では全てに於いて完璧と言っていい技術を会得している。

 今件もその一環であるトイレ掃除時に恐らく発覚したことであり、確かにこれはぼくが悪いのだけれど、時雨が時に今見ている姿姿ことを知っている。零れるのはその性別の者が持つ〝持ちもの〟を所持していれば時々起こることであり、だからそれを元にささやかな反論をすることにした。


「……じゃあ訊くけど、時雨はその姿でない時はちゃんとできてるわけ?」

 問うと、時雨は食事の手を止めて顔を上げた。

「その姿ではない時とは、私のもう一つの姿のことを言っているのか。だが悪いがその質問には答えられない。なぜなら私には排泄器官がないからだ」

「ええーっと……それってそこには何もない……ってこと?」

「そのような造形はある。何なら見てみるか」

「え? いや……それは遠慮しておくよ……」


 気軽な申し出ではあったけれど、ぼくは丁重に断る。それが人工的な感じてあろうが、超現実的なものであろうが、ファンタジー的なものであろうが、見てみることはしたくなかった。

 ちなみにぼくは鈴木家の人達が指摘するとおりに彼女いない歴が年齢と同じの童貞で、今後の予定も多分きっと、ない。だから純粋な探究心の元に見てみたい、という気は多少するけれど時雨のものだけに、軽いトラウマになりそうな予感もする。


「なんだ、別に構わないんだがな」

 そう言いながら無意識に拗ねたような顔をして、ネギだれの油淋鶏ユーリンチーを口に運ぶ時雨の仕草に少し心奪われる。

「それに恐れているようだが、お前の持ち物に施した造形よりはマシだ」

「えっ……?」

 そう言われて驚いて見返すが、ただ言葉に詰まる。けれどいつの間にぼくのアレの〝ソレ〟を見たのかと思えば、少し胸が高鳴って笑顔が浮かんだ。


「なんだ気持ち悪いな」

 おまけに重ねられて、ちょっとした餌をもらった気分になる。でも夕方からの一連の出来事を思い返せば、そんな場合でもなかったと思い出して、ガラスに映るにやけた自分の顔を見て自戒と落胆をした。

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