殺人が趣味でも健康は大事

春海水亭

殺死杉、風邪を引く(前編)


「ゴッホ、ゴッホ」

 朝九時半、東京都内のマンション『家賃の安さと等価の命』五階、五六四号室にくぐもった咳の音が響き渡った。

 部屋の主は忙しい盛りの独身男性であったが、それで掃除をおろそかにしているということはないらしい。ローテーブル、ソファ、マルチラックにその上に置かれた少し古い薄型のテレビ、充電中のスマートフォン、クローゼットに武器庫、室内にある家具の上にも下にも埃の姿は見えない。あるべきものはあるべき場所に収納されているようで、昨日脱ぎ散らかしたジャケットが床に転がっているということもない。

 ベッドはない。五六四号室はワンルーム2Kキラーとキッチンで寝室はないから、ソファをベッドの代わりにしているらしい。

 部屋の主――殺死杉謙信は毛布を頭から被り、ソファの上でぐったりと横になっていた。

 職業は殺戮刑事、殺人鬼を法廷を通さずに処刑することで残された遺族と自分の恨みを晴らしつつ自身の殺人欲求も満たす一石二鳥のお得刑事である。普段ならば、こんな時間まで寝ているようなことはせず、外に出て公職として悪人を殺しまくっているのだが、たまの休みと体調不良が重なったために、休日出KILLもせずに、身体を横たえて体力の回復を図っている。


『殺人者の間では今、風邪が殺人的に流行っている模様です』

 殺死杉の視界には毛布しか映っていないから、ニュースの映像は見ていない。ただ、音だけを聞いている。テレビは昨日の夜にバラエティを映してから、放送休止の何一つ殺死杉に情報をもたらさない時間も含めて、ずっとつけっぱなしになっている。テレビを消すために指一つ動かすことさえ億劫であったらしい。


「ゴッホ、ゴッホ……殺人者の間で……風邪が……!?」

 殺死杉は毛布をめくり、視線をテレビに向けた。

 霞む視界、さほど離れていないはずの画面が水平線のように遠くに見える。

 その曖昧な視界の中に、風邪を引いた殺人者達へのインタビューが映り込んだ。


『ゴッホ、ゴッホ、半グレを襲撃した帰りなのですが風邪がだるくて逮捕されてしまいました』

『ゴーギャン、ゴーギャン、十年逃走中の殺人鬼ですが風邪が辛くて死にそうです、あっ、死……』

『セザンヌ、セザンヌ、いぇーい!今人殺しの間で風邪が流行っているみたいなんで流行に乗って風邪になってみましたーッ!何故、俺はこんな愚かな真似を……』

 ニュースキャスターは殺人者達へのインタビューに『流行の原因としては今も進化を続けるウイルスの間で殺人者に風邪を引かせるブームが流行っているらしいからです。予防としては殺人をしないこと、過去に殺人歴がある人は諦めて下さい。いやあ、人殺しって大変ですね。大体五割ぐらいは死ぬそうです』とどうでもよさそうに締めくくると、SSRの虹色のパンダが誕生したニュースを読み上げ始める。


「ゴッホ、ゴッホ、そんな……まさか……」

 殺死杉はよろよろと立ち上がると、マスクを装着し、武器庫からプライベート用のナイフと拳銃を取り出した。

 今、この瞬間も殺死杉の手にかかるはずだった殺人者達が風邪で死のうとしている。だが、そんなことはさせるものか。自分の手にかけてやる。

 ただの扉にすら鉄のような重量を感じながら玄関を出て、殺死杉はパジャマ代わりのジャージのままでマンションの外に飛び出した。

 それから少しして、充電中のままにしておきたかったのかあるいは単純に忘れていたのか。部屋に置かれたままの殺死杉のスマートフォンが鳴った。しばらく鳴り続けていたが、やがて諦めたようにその音は消えた。


「あっ!殺戮刑事がいたど!」

 マンションを出てそうそう、殺死杉を出迎えたのは鎖鎌の分銅のように飛来する殺人鬼の鉄球であった。鎖付き鉄球と呼ぶべきか。

 人間の頭部ほどの鉄球は衝突すれば、容赦なく人体を破壊する。普段ならば悠々と避けてみせる殺死杉であったが、このときばかりは分が悪い。

 胸部を狙った一撃を腕で両腕を交差させてガードする。

 鉄球の衝撃で前面に出した左腕は折れたが、右腕はまだ動く。

 折れた左腕をだらりとぶら下げながら、殺死杉は右手にナイフを構えた。

 視線は真っ直ぐに十メートルほど先にいる巨体の殺人鬼を捉えている。

 巨体の殺人鬼は鎖で鉄球を引き戻すと、満足そうに笑った。


「ゴッホ……ゴッホ……元気そうですねェ……ッ……」

「ぶへへ!馬鹿は風邪を引かないという言葉を知っているど!?オデはステータスを一切、知性に振ることなく、パワーだけに振ってきたど!それ故に、殺戮刑事の腕を折るほどの強靭な怪力と風邪に対する耐性を得たんだど!」

「ゴッホ、ゴッホ……なるほど、それで弱った殺戮刑事を殺しに来たと……小賢しいですねェ……ッ……」

「殺戮刑事を殺せば殺人鬼業界での地位は盤石なものになるど!それでは死……」

 鎖付き鉄球を再度殺死杉にぶつけようとした巨体の殺人鬼であったが、鎖を振り回していたその手が急に止まった。

「ゴーギャン……」

 自身の口から漏れた咳に信じられぬという表情を浮かべ、それを否定するかのようにもう一度回転運動を再開しようとするが、どうも力が出ない。初めての感覚であった。手に持った鎖が重くて重くてたまらないのだ。


「ゴーギャン、ゴーギャン……い、一体……なんでだど……!?」

 猛烈な倦怠感に巨体の殺人鬼は最早、鎖付き鉄球を持っていることすら出来なかった。しかし、目の前には弱った殺戮刑事がいる。巨体の殺人鬼は弱々しくその身体を殺死杉に向けて近づけていく。殴り殺してやろうという心算であった。


「ゴッホ、ゴッホ……確かに馬鹿は風邪を引かないようですが……弱った相手を襲いに行き、自分の地位を強めという姿勢は、少なくともウイルスから見逃されるほど、馬鹿ではなかったということでしょう……」

「ゴーギャン……ゴーギャン……そんな……」

「ゴッホ、ゴッホ……では、死になさァーい……」

 殺死杉もまた、近づいてくる巨体の殺人鬼に応じるようによろよろと前方に歩きだす。リーチはその上背の分、巨体の殺人鬼の方が長い。巨体の殺人鬼のよろよろとした前蹴りが殺死杉の胴体を狙って放たれた。弱った身体の攻撃であるが、それでも常人ならば一撃で内臓破裂不可避、弱った殺死杉とて容易に受けて良い攻撃ではない。

「ゴッホ……ゴッホ……ゴホホホホホォーッ!!!!!」

 殺死杉は激しく咳き込みながら、横に回り込んで前蹴りを回避し巨体の殺人鬼の前に出た足を掴み、その体勢を崩した。その身を横たえた巨体の殺人鬼に殺死杉は馬乗りになる。

「ゴーギャン……」

「ゴッホ……」

 命乞いの言葉を吐こうとしたが、咳しか出なかった。

 殺意の言葉を吐こうとしたが、咳しか出なかった。

 咳だけが虚しく響き渡り、後は言葉もなかった。

 殺死杉は普段ならば一撃で殺せるタイプの殺人鬼を馬乗りになって何度も何度もナイフで刺殺することで撃退したのである。


「ゴッホ……ゴッホ……流石にこれは……風邪薬を買ってから殺した方が良いですねェ……」

 殺死杉は家に風邪薬を常備していない。

 殺戮刑事になってから数年、精神の充実が肉体にも影響を与えていたのか病気一つすることなく、今日ここまでやってきたのである。

 薬は買わないが、ドラッグストアの場所はわかっている。世間の多くの人間がそうするように、殺死杉もまたドラッグストアを食料の類がいい感じに購入出来る場所として利用していた。


 いざ、ドラッグストア――歩き出してからしばらくした殺死杉の前に、何かが上空から落下した。

 ずんぐりむっくりとした鉄の塊のようである。

 三メートルほどの大きさで、歩道を埋め尽くすほどの幅があり、殺死杉に向かい合うようにモニターがついている。その下にはスピーカーだろうか、小さい穴が幾つも開いている。

 咄嗟に周囲を見上げる殺死杉、周囲に高層ビルは無い。つまるところとんでもない長距離から投げられたか、あるいはこの鉄の塊そのものが飛翔してきたか、それとも、高橋さんちの次元ゲートが山鍼を打ったか――殺死杉はそこまで考えて頭を抱えた。熱と倦怠感のせいか、思考が朦朧としている。


『……ドウモ、殺戮刑事ノ殺死杉サン』

 モニターが突如として、古い時代のテクスチャの張られていないポリゴンのような顔を映し出し、人口音声を発した。


「ゴッホ、ゴッホ……機械に知り合いはいませんがねェ……」

『貴方ガ私ノコトヲ知ル必要ハアリマセン、モットモ、私ガ貴方ヲ殺害シタコトハ皆ニ知ッテ貰ワナケレバナリマセンガネ……』

「ゴッホ、ゴッホ……なるほど……ラジコンロボか何かでリモートキリングしに来たというワケですか……?」

『イイエ、身体ヲ機械化シタノデスヨ……風邪ノ症状ガ酷クテ……』

「ゴッホ……じゃあ、身体を機械化するよりも……もっと良い解決方法を教えて……あげますよォ……ッ……死という名の……ね……」

『ソノ言葉、ソックリソノママオ返シシマス』

 言葉を終えると同時に、機械殺人鬼がジェット噴射で空中に浮遊し、殺死杉から上空に構えた。先程まではただの鉄の塊も同然の姿だった。しかし、その体内にどれほどの兵器を収納していたのか。小火器、重火器、バズーカ、ミサイル、様々な兵器を展開し、殺死杉へとその照準を定めた。


『通常ノ殺戮刑事相手ナラバ心許無イ兵器デスガ、今ノ貴方ニハ十分デス……』

「ゴッホ、ゴッホ……なるほど、不味いですねぇ……」

 通常時ならば、兵器群の攻撃を避け――いや、避けるよりも早く、ナイフの投擲や銃撃で上空の機械殺人鬼を破壊出来ていただろう。だが、目が霞み腕に力も入らない現状では、攻撃を当てることすら難しい。


『遺言ハ聞キマセンガ、断末魔ハ録音シテ動画サイトニアップロードシテオキマショウ』

「ゴッホ、ゴッホ……それはどうも……ところで……この言葉を知っていますか……?」

 しかし諦めることはしない。

 生きるためではない、殺すために全力を尽くす。


「ゴッホ……馬鹿は風邪を引かない……」

『俗説デスガ……実際……馬鹿ノ中ニハステ振リノ関係デ風邪ニナラナイ者モイルデショウネ」

「ゴッホ、ゴッホ……逆に言えば……馬鹿じゃなければ風邪を引くということです……」

『ハァ』

「ゴッホ……科学の結晶とも言うべき貴方の身体はそうとう賢い……逆にかなり風邪を引くのでは……?」

『馬鹿ハ風邪ヲ引カナイハ賢ケレバ風邪ヲ引クトイウコトデハナイシ、ソモソモ機械ハ風邪ヲ引カナインデスヨ……』そう言おうとした機械殺人鬼であったが、代わりに発したのは『セザンヌ』という電子的な咳であった。


「ゴッホ、ゴッホ……ウイルスが進化して……コンピュータウイルスになって貴方に感染したのでしょう……ウ」

『セザンヌ……ソンナ馬鹿ナ……』

「ゴッホ……ゴッホ……進化したウイルスの間で殺人者に風邪を引かせるのが……流行しているとニュースで見たので……とりあえずウイルスに訴えかけてみましたが……なんか……うまくいきましたね……」


 機械殺人鬼は上空で激しく震え、それでも殺死杉に狙いを定めようとしたが、どうにもそれが出来なくなってしまったようで、やがてゆらゆらと元いた場所に落下していった。激しい落下音。アスファルトが崩れ、機械殺人鬼はその身体を歩道の中に埋め込むようにその身を横たえた。とにかく眠って体力回復に努めたい――機械殺人鬼の中にある考えは最早それだけになっていた。


「ゴッホ……では……死にな……さぁーい……」

『セザンヌ……』

 殺死杉の向けた銃口が機械殺人鬼の身体にひしと合わさった。

 零距離射撃、狙いを定めるのが難しい殺死杉でもこの状況では外しようがない。 

 殺死杉は震える指で何度も引き金を引いた。

 何発も当てて、ようやく殺死杉はドラッグストアへの歩みを再開した。


【つづく】

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