第2話 お迎えと条件


「後宮の嬪として私を迎える、ですか?」


 呂修の話を聞いた春鈴は、現実味のない話を前に驚きを隠せないでいた。


 場所は春鈴の実家。


 高利の店のすぐ裏側にある小さな一軒家に移動をして、客間で春鈴は呂修の話を聞いていた。


後宮からの使者が来たとのことだったので、高利も店を臨時休業にして駆け付けて、今は春里の隣で呂修の話を一緒に聞いている。


 ……なぜ、私のような取り得のない女が後宮に?


 呂修の言葉を聞いた春鈴は、初めにそんな疑問を頭に浮かべていた。


 後宮に迎えられるような女たちは家柄が良いか、絶世の美女である必要がある。


 それに対して、春鈴の家柄は悪くはないがせいぜい地方止まりであり、絶世の美女と呼ばれるほど異性からのアプローチを受けた経験は春鈴にはなかった。


 自己分析を行った結果、増々謎を深めてしまった春鈴は一つの解答を導き出していた。


 うん、これはあれだ。人違いだ。


 春鈴が人違いであることを呂修に指摘しようとしたのだが、呂修は小さな疑問符を口に出していた。


春鈴がなにかしっくりこない部分が呂修にもあったのだろうと思って頷いていると、呂修は首を傾げてから口を開いた。


「『眠り姫』様は、私が来た理由も予知されていたのではないですか?」


 自分の正体を見抜いた春鈴には全てバレているのだろう。


呂修はそう思って話をしていたのだが、自分の言葉に驚いている春鈴を前に、呂修はその疑問を聞かずにはいられなくなっていた。


「『眠り姫』?」


 しかし、呂修の言葉を前に今度は春鈴が首を傾げていた。


聞きなじみのない言葉を前に眉をひそめていると、そう言えば、この人初めから私のこと眠り姫とか言っていたなと思い出した。


 何かの良い間違いかと思って聞き流そうとしていたが、どうもそんな感じではないようだ。


「あの、呂修様。先程からおっしゃっている『眠り姫』というのは、何のことなのでしょうか?」


「何のことと申しますと?」


「私、『眠り姫』などと呼ばれたことがないんですけど」


 春鈴の言葉を前にして、呂修は少しの間言葉を失ってしまっていた。


 『眠り姫』の噂はこの街を訪れた同期から聞いた話だった。初めは胡散臭い話だ通ったが、そのことについて調べてみると、この街の外の人間も知っているくらいに有名な噂だということが分かった。


 だから、多少なりとも本人も自覚しているものだとばかり思っていたが、春鈴は本気で知らないような顔をしている。


 一体、何がどうなっているのだろうか。


 しばらくの間があった後、呂修はちらりと春鈴の方を見てから口を開いた。


「夢で人々の未来を見て、助言を与える特別な能力を持つ巫女。故に、『眠り姫』と呼ばれていると少女がここにいると聞きましたが……もしかして、あの噂は嘘だったんでしょうか?」


 呂修が恐る恐るといった様子で春鈴の言葉を待っていると、春鈴は小さく何かに気づいたような声を漏らした。


 春鈴はよく未来ことを夢として見る少女だった。


 本来ならば、夢という物はそれが夢だとは気づかないのだが、春鈴は未来に起こることを明晰夢として見ることができる。


 そのことを街の人に雑談のように話したことがあったので、多分そのことを言っているのだろう。


「そんな大層な物ではないですよ。少しだけアドバイス混じりのことを言っているだけです」


「ですが、未来のことを夢に見るのは本当なのですね?」


「まぁ……そうなりますかね」


 そう聞かれてしまっては首を横に振ることはでいない。そう思った春鈴は小さく頷いた。


 春鈴の言葉を聞いた呂修は、安堵のため息を漏らした。


 この街まできたことが無駄にはならなかったこと、また春鈴の代わりを探さないでよいのだという安心感から、呂修の表情は自然と緩んでいた。


 まさか、本人に噂を否定されそうになるとは思わなかったので肝を冷やしたが、問題なかったようだ。


 そんなふうに考える中で、呂修には少しだけ引っかかる部分があった。


 本人が知らないような噂がこんなに広まるものだろうか、と。


呂修がそんなことを考えていると、高利がふいに何かを思い出したように小さな声を漏らした。


「……もしかしたら、奔念(ホンネン)の仕業かもしれんな」


 奔念というのは、同じ李の街に住む食事処を経営している男のことだ。


 高利と歳が近いこともあり仲が良く、春鈴も子供の頃からよく通っているお店である。


料理を食べに来るというよりも、話し上手な店主の奔念に会いに来る客の方が多い印象だ。


 奔念の名前を聞いて、春鈴は納得したような声を漏らしていた。


 そういえば、奔念にはよく未来で見る夢のことを話したなと思い出したからだ。


 奔念の店の仕入れ先で問題が起こったり、無理難題を言ってくる客が来る夢を見たりしたので、予めアドバイスをしたことがあった。


 他にもいくつかアドバイスをしたことがあったから、それを奔念が面白おかしく話したのだろう。


春鈴と高利は奔念が春鈴のことを面白く話す姿を想像して、小さく頷いていた。


「面白おかしく話をする奴でして、『眠り姫』なんて名前を付けたのもあいつでしょうな」


 高利が少しだけ申し訳なさそうに話すと、呂修は小さく首を横に振った。


「特別な力があるのなら問題はありませんよ。それでは、春鈴様。私と一緒に後宮に来ていただいてもよろしいですか?」


 呂修は視線を春鈴の方に戻すと、懐から折りたたまれた質の良い紙を取り出した。それを受け取った春鈴は、その紙を開いて中に書かれている内容を確認した。


 ……本当に後宮から呼ばれるなんて、思いもしなかった。


 そこに書かれていたのは呂修が話していたことと同じ内容で、それに追加して後宮からの正式な通達書である印が押してあった。


 この通達書を貰ってしまったということは、実質的にこの申し出を断れないことを意味している。


 皇帝からの命に背くと同意の行為と取られて、最悪の場合首が飛ぶこともあり得るだろう。


 そんなことを考えながら、春鈴はどうしても気になっていることがあった。


「あの、なぜ特別な力があるかもしれないというだけで、嬪として迎えられるのですか?」


 春鈴は後宮が自分の力を買ってくれていうのは分かったが、なぜ嬪として迎えようとしているのか気になった。


特別な力を持つ者だけが目的なのなら、外庭で働いても問題はないはず。それなのに、わざわざ嬪の一席設ける理由が分からずにいた。


 春鈴が呂修にその理由を尋ねると、呂修はちらりと高利を見て少し考えた後、春鈴の方に視線を戻して口を開いた。


「代々、九嬪のうちの一人は何か特別な力を持つ者を置くことが決まっています。その一人として春鈴様が選ばれたといった具合ですね」


「どうしてこの時期に?」


 確か、新しい皇帝のために後宮に仕える女たちが招集されてまだ一年も経っていないはず。普通に考えれば、すでに九嬪は埋まっているはずだ。


 それなのに、私の席を設けるということは九嬪に空きができたか、空きを作ったかということになる。


まだお手付きにならないからといって、家柄の良い娘を実家に帰すのは早すぎないだろうか?


 いや、九嬪のうちの一人は何か特別な力を持つ者を置くと言っていたし、私と似たような境遇の娘の席が空いたということだろうか?



「そこは追々、後宮の方でお話いたします」


 色々と考えてしまった春鈴だったが、それらの考えは呂修にそれ以上の追及を止められてしまった。


 どうやら、外ではあまり話せない内容なのかもしれない。


 そう思った春鈴は、いったんそのことについて考えることやめて、背けてはならない現実に目を向けることにした。


 どうしたものか、このままでは後宮に連れていかれてしまう。


 当然、後宮に召集されて置いて、その申し出を断ることなどできるはずがないのだが、春鈴はその申し出をすぐに頷くことができないでいた。


 春鈴は後宮に行くこと自体に戸惑っているのではない。


 後宮に行ってしまうと、今よりも睡眠時間が減ってしまうのはないか。それだけが気掛かりだった。


 春鈴は一日の大半を床の上で過ごす。


 どこか体が悪いわけではなく、むしろ体は健康体。眠いから寝るというよりは、寝ることが好きだから寝るのだという考えを持つ少女だった。


 寝床で心地よく眠り、無限の可能性がある夢の世界に入ることが好きだった。


 その時間が削られてしまうかもしれない。そう思うと皇帝の言葉と言われても、すぐには頷けないでいた。


 そんな春鈴の俯く姿を見て、呂修は全く別の思い違いをしていた。


 それは、春鈴はこの家に残される高利のことが気にしているのではないかという勘違いだった。


 他の家族がいるのならここまで心配そうな顔はしないだろうし、高利様の唯一残された家族が春鈴様なのかもしれない。


 そう思ったが、呂修も皇帝の命に背くわけにはいかない宦官である。


 少し考えた結果、呂修は経済的に少しでも高利を支援することができれば、心配も小さくなるだろうと思い、一つの案を提示した。


「……高利様のお店は墨や木簡などを扱っているのですね。高利様、少量かもしれませんが、後宮に下ろしていただくことは可能でしょうか?」


「え、も、もちろんでございます」


 突然の商談の成立に驚く高利に対して、呂修は落ち着いた声をしていた。


 あくまで自分にできることはこのくらいだ。


これで多少は心配が紛れればいいと思って、呂修は申し訳なさそうに小さく笑みを浮かべた。


「春鈴様、いかがでしょうか?」


 呂修には優しい顔を、高利には期待に満ちた顔を向けられた春鈴。


 ただでさえ普段から惰眠ばかり取っていると高利に怒られていたのに、ここでこの申し出を断っては、この家にいることはできなくなるだろう。


 まさか、初めに高利を味方に取られるとは思わなかった。


 春鈴は頭の回る呂修に一本やられたと思いながら、小さな握りこぶしを強く握っていた。


「で、でも、やっぱり、睡眠時間が減るのは……」


「睡眠時間が減る? いえ、春鈴様。その点は問題ないかと思われます」


 春鈴が思わず漏らしてしまった本音に対して、呂修はさらりとそんな言葉を口にした。


 一番の懸念点を軽く流されてしまった春鈴は、小首を傾げていた。


「問題ない?」


 この人、私が普段どれだけ寝ているか知っているのだろうか?


 春鈴はそんなことを考えながらも、嘘を言っているようには見えない呂修の言葉を前にきょとんとしてしまっていた。

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