第10話 うるさいとバカ。



 昼時になり、やっと涙が収まったシオンだが、「こんな顔で夏期講習なんか行けるわけない…」ということで、塾は休み、しばらく神社にとどまることにした。

 ただただ、二人で鳥居の下の階段に座ってぼーっとしていた。持ってきた宿題もしなければ、スマホを触ることもなく、ぼーっと。

のっそりとシオンは立ち上がり、拝殿の前まで歩いて行った。キコはその姿を目で追う。


「アイさん、北海道の大学に行って、今北海道で一人暮らししてる」

「…ああ、そうなんだ、初耳」


 キコも立ち上がり、シオンの後ろに立った。


「だから今は親と俺との三人暮らしってわけ。前にも言ったけど、緑さんをお母さんとは思えないから、家に他人がいるような感じでくつろげないんだよ。かといって、学校も居場所ってわけではないし」

「本当のお母さんとは会ってないの?」

「仕事がしたくて親権放棄したんだよ、実の母親は。子供はもういらないんだって。会いたいって連絡一つないらしいよ」

「そう…」

「緑さんもアイさんも、キコのことずっと気にしてるんだよ」

「…へ?お姉ちゃんも?」


 母親だから、離れていても娘を心配している、という理屈は分かる。が、あの姉が、自分にイライラをぶつけ、冷たく接していた姉までも、自分のことを気にしていたことは意外だった。


「うん。子供のころいじめすぎた、って反省してるっぽいよ。キコは二人に会いたくないって言ってたけど、いつか会いなよ。お父さんにしっかり話してね」


 なんだか怖いけれど、シオンの言葉を聞いて、会ってみようかと初めて思えた。きっとこれは、キコのもやもやを晴らす第一歩だ。


「…会ってみるよ。今すぐは無理だけど、いつか。会ってみたい」

「そうするといいよ。窓口はここにあるし」


 ではシオンの第一歩は何だろうか。


「シオン君」


 たぶん、これじゃないだろうか。

 キコはシオンの前に立ち、その顔を見上げた。


「私のお母さんを認めてあげてほしい」


 涙で真っ赤になった瞳がさっと曇る。


「何をだよ」

「お母さんって認めてあげてほしい。お母さんと思えなくていいけど、お母さんだと認めてほしいの」

「はあ?!言ってる意味、まるでわかんねえよ」

「私もわからない!とにかくそうして!私ね、お母さんとお姉ちゃんと会って、仲良くなりたいと思うの。家族に戻りたいわけじゃなくて、小さいころ何があったかはっきりと知って、お父さんともしっかり話して、みんなを理解したい。そうしたら…ちょっとだけ変われる気がする。私もシオン君も、ちっちゃいときに、家族のごたごたで傷ついたよね。そこから成長が止まってるんじゃないかな」


 飼い猫だと思ってた少女が、自分の心をえぐり始めた。

 やっぱりあの人と姉妹だ。

 きっともう、この子には嘘をつけなくなるんだ。


「お母さんと思えないというより、お母さんとどう接していいかわからないんじゃない?」


 その言葉が、シオンの体の奥に突き刺さる。


「いうて私も具体的なことは何も言えないけども。記憶の範囲だけど、お母さん、定規みたいにまっすぐで真面目でしょ。想像だけど、シオン君にもまっすぐ向かい合ってると思うのね。今度は幸せな家庭を作ろう、血はつながってなくても、シオン君を大切にしようって。その…努力?それだけでも認めてくれたらなって」


 キコは、自分でも何を話しているのかよく分かってなかった。体なのか心なのか頭なのかわからないが、内からでてくる言葉を堰き止めることはできなかった。

シオンを不快にさせたらどうしよう、など考える暇もなく、今、思っていることを伝えなければという使命感のようなものだった。


 シオンの母は、子供より仕事を選んだ。

 母親が自分に興味を持ってくれるよう、幼いながら「良い子」でいようと努めた。それでも、母は自分を置いて出て行ってしまった。あの時キコに「大っ嫌い」と言ったのは、侵入者の女の子にイライラしてたんじゃない。うまくいかない現状と、自分のことが嫌いだったのである。ただの八つ当たりだった。

 新しい母親がやってきた。

 おやつは実子よりシオンを優先して渡してくれたり、しょっちゅうシオンの好物を作ってくれたり。いい家庭にしたいという気持ちは、シオンにも伝わっていた。

 アイとシオン、自分の子と他人の子を平等に可愛がろうと努力する、確かに真面目で、そして優しい人だ。これが母親というものなのかなあ、とうっすら思っていたが、幼くして良い子が身についてしまったうえに、母親との交流が薄かったシオンは、緑の前でも「良い子」にしかなれなかった。

 実の母親は「良い子」のシオンすら無視したけれど、緑は「良い子」のシオンに積極的に関わってくれた。

 それがうれしくて、でもどこか恥ずかしくて。

 シオンをかわいいと思ってくれているのは伝わるけれど、「でも本当のお母さんじゃないし」と冷めたところがあった。


 始まりは小さなことだった。「今日は学校からお便りある?」と聞かれて、本当は親に書いてもらう資料があったのだが、「ない」と答えてみた。自分でも理由は分からないが、そういいたくなってしまったのだ。そんなことは教師経由でばれるのに。

案の定、学校から連絡があった。シオンは「ごめんなさい、忘れちゃった」とまた嘘をついた。怒られると思っていたが、緑は「これからは気を付けてね」と、それだけで終わってしまった。

 それからちょくちょくと、わざと忘れ物をしたり、気持ちとは反対のことを言ったりしてみた。緑はたまに困った風ではあったが、グチ一つ言わず、変わらずに優しかった。


「…どう接していいかわからないのもあるけど…」

「うん」

「めちゃくちゃ甘えてもいるのかもしれない…その、緑さん、怒らないから、嘘ついても」


 それを聞き、キコは大きくため息をついた。


「…なんだよー反抗期かシオン」

「うるせえな」

「え、今日さ、言葉遣い悪いよ。それが素なの?」

「素ってなんだよ。全部素だよ」

「わあわあ、反抗期だ。私のお母さんが反抗のタイショーってわけね!緑さんって呼ぶのもそういうことなんじゃないのー?」

「なんなんだよ、そっちこそめちゃくちゃ態度悪いじゃないか!もっと大人しかったはずだろいつも!態度悪いと姉にそっくりだな!顔もそっくりだし!」

「え、そうなの?」

「あっちはキコの千倍口が悪くて、手も出るけどな」

「そうかあ、似てるのか」


 途中から違う環境で育ったのに、姉妹は姉妹だったことに、キコはなんだか顔がにやけてしまった。


「何にやついてんだ気持ち悪い」

「私を反抗期の対象にしないでくださいよ、渡辺君。早く塾行きなよその顔で」

「行くかバカ。中村さんこそ、家帰って弟と遊んでやれよ」

「はは、まだ保育園の時間だよ!」

「迎えいけば?」

「一緒に行く?」

「行くわけないだろ、ほんとバカだな」

「さっきからバカバカって、語彙力ゼロか」

「それしか出てこないほどのアホなんだよ」


 それからも悪態のつきあいだったが、二人は終始笑顔だった。

 お互い兄弟がいて友達もいるけれど、こうした、どうでもいいけど楽しいやりとりはしたことがなかった。

相手を傷つけたら、怒らせたら。そんな不安もなく交流できたのは新鮮で、おかしくて、何より心地よかった。

 神社に入ってくる日差しが、鈍くなってきた。ふとキコはスマホで時間を確認すると、少し焦った。


「あ、ごめん、本当に保育園にお迎え行くんだわ、今日。ということで、さよなら!」


 素早くカバンを手にして立ち上がり、神社をあとにしようとすると、シオンが呼びかけた。


「キコ!次はいつにする!?」


 心からの笑顔って、こんな気持ちの時に出るんだ。キコは一つ学んだ。

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