第五章 想えども届かず
人間と人外の恋について話をしよう。
数千年生きてきた中で、人間と人外が恋するのを何度か目にしたことがある。最近では、人嫌いの人間がロボットと婚約するというニュースが報道されていたくらいじゃ。稀なケースではあるが、決してありえない話ではない。
しかし、種族の違いは恋路を幾度となく妨げるものじゃ。気味が悪いと周囲に侮蔑されたり、言葉が通じ合わんかったりと、わしが聞いた限りではうまくいった試しがない。そして、わしらみたく素性を隠して生きているような者たちにとって、異種族との恋はさらに困難を極めるのじゃ。
五百年ほど前、魔女が人間に恋した噂話を聞いたことがある。その魔女は恋を叶えるために積極的にアプローチし、男もその魔女の美貌に惚れ、二人は晴れて恋仲となった。
じゃが、その頃といえば、魔女狩りが盛んに行われていた時期じゃ。当然ながら、恋に落ちたその魔女も狂信的な人間たちに狙われることとなる。そして、相手を確実に炙りだすために、人間たちは恋仲の男に詰め寄り、金でたぶらかして居場所を聞きだそうとした。
男が恋人を守るために黙秘し続けていれば、恋人は救われていたかもしれん。じゃが、その男は金欲しさにあっけなく居場所を漏らし、さらには恋人の暗殺に加担までしでかした。その愚かな行為によって魔女は火あぶりにされ、男も結局魔女の手先とみなされて惨殺されたという。
まあ、これはあくまで最悪のパターンじゃ。今回は魔女でなく猫又じゃから、魔女狩りみたく危険な目に遭うことはない。それに、相手の稔は先ほどの不届き者と違い、純真で心優しいやつじゃ。噂話のような最悪な結果になりはせんじゃろうが、今のなこが稔を落とせるかどうかとなると、話は変わってくるかのう。
何せ、なこは猫又として生まれ変わって間もない。知識や常識を日に日に覚えてくれてはおるが、それでも一人前にはまだ程遠い。顔はかわいいと思うが振る舞いは子供同然、ファッションも「概念」Tシャツを頑なに脱ごうとせんから論外じゃ。
それでも、なこの稔に対する想いは本物のようじゃ。この前の旅行写真をスマートフォンで送ってからというもの、なこはそれらに映る稔を見つめてはうっとりすることが多くなった。夜に一緒に寝ているときなんかは、稔と呟きながらわしに抱きついてくることもあるほどじゃ。
しかしながら、なこは稔に対する気持ちがどういうものなのかをまるで理解しておらんようじゃった。わしは見かねて、異性に特別な感情を抱くそれを恋であると説明する。人間は愛の告白をしたり、恋人同士になって愛を育んだりするんじゃと話すと、なこは恋人という関係に強い憧れを抱くようになった。そして、自分も稔に愛の告白をしたいと躍起になった。
正直なところ、今のなこを稔が一人の女性として見てくれるとは到底思えん。そこで、わしは出莉愛に、なこの恋を叶えるための特訓を提案する。出莉愛はなことよく喧嘩しておったが、何だかんだで妹のように想うなこのことが心配じゃったようで、快く賛同してくれた。
稔を崇拝しておるキルケーにも話すべきか悩んだが、ほどなくしてキルケーのほうからわしらに電話をかけてきた。面倒事を恐れつつ用件を聞いてみると、どうやらなこが稔に熱い視線を送っていたことに気づいていたらしい。稔さまのことでなこが困ったりしていないかと、二人のことでむしろ乗り気になっておった。せっかくじゃと思い、それ以降キルケーにも協力を仰ぐことにした。
そして、三人がかりでの過酷な特訓がスタートする。わしとキルケーは人間としての常識を、出莉愛は若者の流行やファッションをなこに付きっきりで教授した。
なこは今まで、自分のペースで知識を身につけておったから、今回のスパルタ教育はかなり堪えたようじゃ。うたた寝をしたり頭痛に悩まされたり、時には荒れて暴れだすこともあった。
じゃが、なこの恋を叶えてやるためにも、引き下がるわけにはいかん。稔の恋人になりたければ我慢せいと、わしは心を鬼にして訓練を続けた。なこはそのたびに涙を呑み、しだいに自分磨きに精を出すようになっていった。
それから、およそ二か月の時が流れる。外ではしんしんと降る雪が、枯れてしまったイチョウの並木道に白銀の彩りをもたらしてくれておる。クリスマスシーズンの到来じゃ。
長く厳しい特訓を経て一人前になったなこは、稔に今こそ告白せんと、クリスマスイブのタイミングを見計らって稔をデートに誘った。稔は最初こそ驚いていたようじゃが、やはり心優しいやつじゃから快く応じてくれた。
そして今、なこは稔に会いに葛西町へと向かっておるところじゃ。念願である「概念」Tシャツの克服を果たし、おしゃれもばっちり決めておった。
キャメル色のハイネックセーターに紺色のデニムのミニスカートを合わせ、その上に黒のボアジャケットを羽織っておる。カジュアルさと大人っぽさを両立させたコーディネートじゃ。タイツとスニーカーはジャケットに合わせて黒で統一し、猫耳を隠すためのキャップはセーターに合わせたキャメル色を選んでいた。
両手に持つトートバッグは、猫又であることをアプローチした肉球柄じゃ。ロングの茶髪もわしの手でとかしてつやつやにし、ついでにりんごの甘い香りがする魔法もかけてやった。出莉愛も問題ないと評しておったから、外見に関しては申し分ないはずじゃ。
立ち振る舞いもすっかり垢抜けた。以前はのほほんとした顔であっちらこっちら寄り道するような呑気者じゃったが、今では背筋をぴんと伸ばしてまっすぐ歩くことができておる。当たり前のことかもしれんが、ついこないだまで猫じゃったなこにとっては大いなる進歩じゃ。
ちなみに、わしと出莉愛とキルケーはというと、そんななこの跡をこっそりとつけていた。なこにばれんよう、インバネスコートを着て鹿撃ち帽を被り、サングラスとマスクも着けてばっちり変装しておる。もしデート中にまずい事態が起こったら、わしらが魔法で陰ながら助太刀するつもりじゃ。
なこはお金の使いかたにも慣れたもんで、駅に着いたときには、券売機で料金どおりに硬貨を投入している様子が窺えた。何度も一人でお使いに行かせたかいがあるというもんじゃ。間を置いてからわしらも切符を買い、電車が到着したときにはなこから離れて乗車した。
なこに見つからんように気をつけつつ、わしらは窓に沿った空席に並んで腰かける。その後、葛西駅に着くまでは特に動きがないのもあり、わしらはいがみ合っていた者同士で雑談でもすることにした。
まず気になるのは、わしをあれだけ敵視していたキルケーがなぜここまで友好的になったのかじゃ。決闘はもういいのかと訊いてみると、キルケーはわしに負けたときと同じく悔恨の色を浮かべ、まだ諦めたわけではないと答えた。そして、稔さまから人を傷つけるなと言いつけられたから決闘を挑めないんだと、残念そうに肩を竦めていた。
ちなみに、キルケーは今では切東慶那(きるひがしけいな)と名乗り、メイドに扮して稔の世話を勝手にやっているらしい。これからは慶那と呼んでやろうかとわしがからかうと、キルケーと呼べと睨まれながら怒られてしまった。
次に、アグラオニケはなぜ強大な魔力を持っていながら平凡な魔法しか使わないのかと、二人から詰問を受ける。わしは、魔女狩りを受けた過去を経て、人目を避けながらも人のために尽くそうとしているんじゃと答えた。
キルケーには「まるで意味がわからない」と一蹴されてしまう。その一方で、出莉愛はわしの意志を少しでも理解しようとしてくれておるようじゃった。
途中、一人の老婆が電車に乗ってきたときに、出莉愛がわしよりも先に席を譲ってあげていて、出莉愛の心の成長を感じた。どうやら、魔法に甘んじるなという言いつけを守っていたおかげで、出莉愛も人間の苦労を汲み取れるようになったようじゃ。
それからほどなくして、葛西駅に到着するアナウンスとともに電車が停止する。わしらは席を立ってなこの尾行を再開した。家を出たときよりも緊張してぎこちない動きになっておったから、もうすぐ稔と合流するんじゃろうと想像した。
降車して改札口を通過し、人波に流されながら駅を出る。こちらの外も、見渡す限りに粉雪が降りしきっていたが、それでも活気は相変わらず衰えん。目前のスクランブル交差点を行き交う人たちの白い吐息が、あちこちで煙のようにもくもくと上がっておった。
出莉愛の呼び声で我に返り、わしはなこに視線を戻す。すると、先に駅前で待っていた稔が、なこに手を振りながら歩み寄るのが見えた。
オレンジのセーターとブラウンのスラックスの上に、深緑を基調としたシャギーチェックのジャケットを合わせている。靴底が白い黒のスニーカーに質素なブラウンのトートバッグと、カジュアルかつかわいらしくまとめた服装じゃった。
稔と二人きりで対面し、なこは緊張で頭のてっぺんから足のつま先までかちこちに固まってしまう。それでもなお、練習どおりにあいさつしようと無茶をしたせいで、今までよりも片言な喋りかたになってしまった。
「み、稔さん、こんにちは! 本日は、お、お日柄も良く!」
「何だかロボットみたいだよ、なこちゃん」
稔に笑われてしまい、なこは頬を真っ赤にしながら口ごもる。わしらは近くにある電話ボックスの陰に隠れ、はらはらしながら成り行きを見守っていた。
稔は決してなこを困らせるつもりはないらしい。すぐに笑うのを止めると、稔はうつむいたままのなこににこりと微笑みかけながら言った。
「服、すごく似合っていてかわいいよ」
突然の男前な口説き文句に、なこだけでなくわしらまで目を剥き、思わず頬を染めてしまう。今日の稔は一味違うとわしらがひそひそ話している中、なこも慌てて稔に言った。
「その、稔さんも、すてきな服装で、かっこいいです!」
「あはは、ありがとう」
しかし、なこの褒め言葉を稔は笑って軽く受け流してしまう。余裕があるなと、わしとキルケーが感心する一方で、出莉愛は稔の呑気な振る舞いに憤慨していた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
稔に促され、なこはロボットみたいな動きのまま、一緒に歩いていった。わしらも二人に気づかれんよう距離を保ち、道行く人たちに怪訝な目を向けられながら尾行していく。
なこは稔に「二人で遊びに出かけませんか」と誘っており、実はその時にデートだと明言していない。そのせいか、稔はデートをしているという自覚がまるでなく、隣で歩くなこの手を握る素振りすら見せなかった。
一方のなこはというと、稔の手や腕をちらちら見てはもじもじするばかり。たまに勇気を出して稔の手を握ろうとするが、あと一歩のところで怖気づいてしまうのを繰り返していた。そんななこを後ろから見守り、わしらはやきもきしながら小声で応援し続けた。
しかし、応援のかいもなく、手をつなぐことがないまま目的地に到着してしまう。着いたのは、前にも来たことがある大型デパートじゃ。
映画館も隣接している施設じゃから、若者が遊ぶにはもってこいの場所といえる。なこが気になっていた猫のアニメーション映画もまだ観ておらんから、この際二人で鑑賞するのも良さそうじゃ。
二人は最初にフードコートへ向かっていた。ちょうど正午じゃし、スマートフォンで調べてみたら上映まで時間があったから、それまで昼食でも食べて時間を潰すことにしたんじゃろう。
なこのテーブルマナーに関しては、キルケーと二人で徹底的に叩きこんだから心配はいらんはずじゃ。とはいえ、なこはいまだに緊張しておる様子じゃったから油断はできん。こんなことで、子を見守る親の心境を思い知ることになるとはのう。
「何か食べたいものでもある?」
数多の飲食店を見渡しながら、稔がなこに尋ねる。なこは一瞬だけスパゲッティ屋のほうを振り向いたが、唇を噛んで堪えながら視線を戻し、苦しそうに「うどんにします」と答えた。
なこがうどんを選んだのは、キルケーのリサーチによるものじゃろう。キルケーはメイドとして稔に仕えておるから、稔の好みや趣味をそれなりに把握しておる。そんなキルケーが教えてくれた情報の一つに、稔は和食が好きというものがあったのじゃ。
なこ自身はというと、本当はうどんによく入れられるわかめが大の苦手。それでも、ほかに見渡して和食らしい店が見当たらなかったから、泣く泣くうどん屋を選んだんじゃろう。わしらが常識を叩きこんだ結果、このように我慢したり空気を読んだりすることも自ずと身につけていったのじゃ。
よく我慢したと感心はするが、自分が食べたいものくらい素直に選べばよかろうとわしは思う。もしかすると、なこは自分の好物を差し置いてでも、稔と同じものを食べたかったのかもしれん。
じゃが、やはりスパゲッティへの未練は残ったままのようじゃ。うどん屋の行列に並んでいる最中、なこはよだれを垂らしながらスパゲッティ屋のほうをじいっと見つめておった。ずっとそれを続けておるもんじゃから、行列の真ん中あたりまで進んだところで、とうとう稔に気づかれてしまう。
「もしかして、うどんよりもスパゲッティのほうが食べたかった?」
稔に図星を突かれてしまい、なこはまたも顔を真っ赤にしながら口ごもる。首を傾げながら返答を待つ稔に、なこは隠しきれないと思ったのか、正直に白状した。
「その、稔さんは和食が好きだってキルケーさんに聞いたから、私も一緒のものを食べようと思ったんです。本当はわかめが苦手で、うどんはあまり食べなくて……」
一通り話を聞くと、稔は柔和に笑いながらなこに言った。
「なあんだ。それなら僕がなこちゃんの食べたいものに合わせるよ。僕は別に苦手な料理があるわけじゃないから、スパゲッティでも平気だよ。それに、僕となこちゃんで別々のスパゲッティを注文して半分こすればお得でしょ?」
稔がなこの手を握り、行列を抜けてスパゲッティ屋へ向かっていく。なこは稔に引っ張られながら、優しくされたうれしさで頬を染めていた。さすがは稔、かっこいいではないか。
その後、二人はミートソースとカルボナーラを一皿ずつ注文し、店からもらった小皿に取り分けて食べ合いっこした。わしらはというと、離れた席で山盛りポテトを三人でむしゃむしゃ食べながら観察を続けていた。
稔がフォークをいったん置き、頬が落ちそうになっているなこに向かって言う。
「口調とかもさ、謙遜しているんだったら気を遣わなくていいからね。日本語がすごくうまくなっていて、きっとたくさん練習したんだろうなって思う。それでも、僕はいつもの無邪気ななこちゃんがかわいいって思うな」
勘違いだったらごめんと詫びる稔に対し、なこはミートソースをすすっている途中でありながらぶんぶんと首を振った。
早く言葉を返そうとして無理に呑みこんだもんじゃから、なこは胸がつかえてしまう。稔に渡された水のコップを二口ほど飲んで流しこみ、ティッシュで汚れた口を拭いた後、なこはようやく稔に言った。
「私、稔さんの失礼にならないように、稔さんに嫌われないようにってずっと考えてた。でも、稔さん――いや、稔がいつもどおりが良いって言うのなら、私もそのとおりにする!」
稔があははと笑って言う。
「別に言葉遣いくらいで嫌いになったりなんかしないよ。僕に合わせないで、自分のやりたいようにすればいいからね」
それから、二人はスパゲッティを平らげた後も、アイス屋でまた別々のものを買って分け合っていた。すぐにアイスも食べ終えて席を立ち始めたので、わしらも山盛りポテトを一気に片づけ、急いで二人の跡を追う。
フードコートを離れたころには、なこもすっかり緊張が解れ、朗らかに稔と話すことができておった。間違いなく、稔が優しくしてくれたおかげじゃ。見るからに良い雰囲気じゃが、このままなこのプロポーズを受け入れてくれたら最高なんじゃがのう。
上映時刻が迫っていたからか、二人は遅れんよう小走りで映画館に向かい始めた。ただでさえお腹いっぱいなのに走る羽目になり、わしらは吐きそうになるのを堪えながら二人を追いかけた。
そして、人で賑わう映画館のロビーに辿り着く。わしらは二人に続いてチケット窓口の行列に並び、稔が会計を終えるのを待った。
背後から聞き耳を立ててみたところ、やはり二人は猫のアニメーション映画を観るつもりでいるらしい。シアター内でも観察ができるよう、稔がタッチパネルで選んだ席の位置も欠かさずチェックする。
稔が料金を払おうとしたとき、窓口の女性スタッフが稔たちに案内した。
「おふたりさまはカップルでいらっしゃいますか? カップルでしたら、チケットを割引価格でご購入いただけますよ」
「え、えっと……」
稔が口ごもっていたところ、急になこが稔の腕に抱きついた。そして、食い気味に女性スタッフに言う。
「カップルです! ね、稔?」
「あー、えっと。そうです、はい」
照れながらも、稔はなこに合わせてうなずいた。にまにましている女性スタッフとの会計を済ませ、二人はくっついたままポディアムへと向かっていった。
わしらも二人の後ろの席を指定し、さっさと会計を終えて二人の跡を追う。男性スタッフにチケットをもぎってもらい、早足で通路を進んでいくと、二人がまだくっつきながら歩いておるのが見えた。
少し距離を置いて観察する。どうやら稔は、そろそろ離れてほしいとなこに頼んでおるようじゃ。しかし、なこは意地でも稔の腕にしがみつき、まったく話を聞こうとせん。
「稔が自分のやりたいようにしろって言ったもん。私はくっついていたいからそうする」
「本当にカップルというわけじゃないんだし、人前でくっついているのは良くないよ」
「じゃあ、映画館にいる間だけくっついてる」
てこでも動かんので、稔は仕方なしになこを引き剥がすのを諦めてしまう。わしとキルケーが口元を緩ませながらうんうんとうなずいている横で、出莉愛はこみ上げてくる笑いを必死に噛み殺していた。
二人の後に続き、わしらもシアターに入場する。照明はすでに消えており、正面の巨大なスクリーンにはビデオカメラの顔をした男のコマーシャルが流れていた。
これから始まる猫のアニメーション映画はどうやら人気らしい。シアターには満員に近い数の客が集まり、映画を心待ちにしてひそひそ話をしたり、愉快なコマーシャルを観てクスクス笑ったりしていた。
なこは初めて来る場所で思わず固まってしまっていたが、経験者の稔が優しくリードし、席に連れていってくれていた。わしらもこそこそと後に続き、二人の後ろにある指定席に着く。
映画が始まると、少しばかりざわついていた周囲がしんと静まり返った。なこも慌てて口を両手で押さえ、それを見た稔がクスリと笑う。稔がいる限りはなこが問題を起こすことはないじゃろうと思い、わしも二人からいったん目を離して映画を鑑賞することにした。
先ほどのロビーでは、恨めしく睨む猫のポスターが貼られていた。それを見た限りでは血みどろの復讐劇を想像したが、どうやらそのようなおっかない内容ではないらしい。
確かに物語は、野良猫社会で生きる主人公が、自分を見下してきた周りの猫たちに仕返しをするというものじゃった。じゃが仕返しの内容は、近所の怖い飼い犬を誘導して怖がらせたりといった、かわいらしいものばかり。結局は子供でも観れるコメディ映画のようじゃ。
この子供向け映画を観て笑っておったのは、わしら五人の中じゃとなこのみ。吹きだすたびにばつが悪そうにするなこを、稔は「面白いよね」と一緒に笑うことでフォローしてやっていた。そして稔自身も、後半で猫たちが仲直りしたりと、愉快でほのぼのとした内容に和まされておる様子じゃった。
出莉愛がつまらないあまり眠ってしまっておる横で、わしもそろそろ映画鑑賞を止め、キルケーとともに観察を再開する。薄暗い中での二人きり。何か進展が得られそうではあるが、いきなり出すぎたアプローチでもしようものなら逆に引かれてしまう。そんなことを悶々と考えながら、わしらはああでもないこうでもないと小声で言い合っていた。
映画も終盤に差しかかり、野良猫たちが肩を組みながらきれいな夕焼けを眺めるシーンが流れる。わしらが稔のほうを先に注目すると、口元を綻ばせながら映画にすっかり見入っておった。そしてなこのほうを見てみると、稔のほうをじっと見つめておることに気づいた。
エンディングが迫り、二人きりの時間がもうすぐ終わってしまうと焦ったのかもしれん。なこの何とも甘酸っぱいその表情は、二人きりでいるうちに何かしなきゃと考えておるのが筒抜けじゃった。これで変なことをしでかして、稔にどん引きされてしまったら一巻の終わりじゃ。
とはいえ、常識的になった今のなこならさすがに場をわきまえてくれると、わしは高を括った。じゃが、油断したのもつかの間じゃった。なこが突然、うつろな目のまま稔の頬に唇を近づけ始めたのじゃ。
手をつないだりするだけならまだしも、ほっぺにキスだなんて、そんなえっちではしたないことをするのはまずい! 頭に灯る赤信号に従い、わしはすんでのところでなこに魔法をかけ、強引に稔の頬から引き離した。
稔に注目してみたが、こちらはまったく気づいておらん様子。その横で、なこは一体何が起こったんだろうとばかりに目をぱちくりさせる。そして、すぐにわしらの仕業であると勘づき、かんかんになりながらわしらを捜し始めた。なこに見つかってなるものかと、わしは寝ぼけておる出莉愛の首に腕を回し、キルケーとも一緒に座席の下に隠れてやりすごした。
ほどなくして映画が終わり、照明が明るくなるとともに客が一斉に席を立ち始める。稔に呼びかけられたところで、なこはわしらを捜すのを諦め、膨れっ面になりながら稔と一緒にシアターを出ていった。
間一髪で助かって胸を撫で下ろしていたところ、突然ズボンのポケットにあるわしのスマートフォンが振動する。取りだして画面を確認すると、なこからのメッセージがたくさんの怒った絵文字とともに届いていた。
「にけ! じゃましないで! せっかくのチャンスだったのに!」
わしは申し訳ないと内心で思いつつ、なこに「はしたないのはいけません」とだけ返信した。
シアターを出た後も、なこの怒りは収まらんままじゃった。じゃが、ロビーのグッズ売り場でお揃いのアクセサリーを買ったりしているうちに、どうにか機嫌を直してくれた。
不機嫌よりも、ずっと観たかった映画を稔と観れたうれしさのほうが勝っていたのかもしれん。稔のほうも、なこがいつもどおり明るくなってくれたことに安堵しておった。
十分満足できたところで、二人は腕を組んだまま映画館を後にする。外も映画のラストと同じく夕方になっていたが、空はねずみ色の雲に夕日が覆われていて薄暗かった。
なこにばれてしまったものの、わしらはせめて二人に見つからんよう、遠くから観察を続けた。これから夕ご飯を食べに行っても構わんが、稔の誠実な性格からして、なこを夜遅くまで連れ回すようなことはせんじゃろう。となると、そろそろ解散になるのではとわしは踏む。
すると、映画館の出入口前の階段を下りたところで、稔が予想どおりに話を切りだした。
「いい時間だから解散しよう、なこちゃん」
その言葉は、腕にひっつくのを止めてほしいという意味も込められていたんじゃろう。それを察したのか、なこは映画館での約束どおり、稔の腕からしぶしぶ離れた。
じゃが、なこの顔色を窺うに、やはりまだ未練が残っておるようじゃ。それもそのはず、なこはまだ稔にプロポーズをしておらん。稔に恋人になってほしくてデートに誘ったんじゃから、プロポーズをするまでは帰るに帰れんはずじゃ。
なこが顔を耳まで真っ赤にしながら、立ち去ろうとする稔を呼び止める。稔が振り向き、なこの言葉を待ってくれるも、なこは喉でつっかえた「好き」の言葉を口に出すことができずにいた。こればかりは、なこが勇気を振り絞るのを願うことしかできん。
わしらが固唾を呑んで見守っていたところ、なこはある言葉を思いだし、呟いた。それは、嫌われないように努めていたなこに対し、稔が優しくかけた言葉じゃった。
「自分のやりたいようにすればいい……」
なこが決然たる顔を稔に向ける。きっとなこは、好きと伝える羞恥心や断られるかもしれん恐怖を、夢を叶える意志で振り払ってみせたんじゃ。
「私、稔のことが好きです」
ついになこの口から発された言葉。稔が唖然とする一方で、なこはあふれんばかりの想いを紡いでいく。
「大好きです。稔が命懸けで、キルケーさんから私や仁希を助けてくれたときから、ずっと好き。もし稔と恋人になれたらって、ずっと夢見てたの。一緒に手をつないでいろんな所に出かけたり、ご飯を食べたり、笑い合ったり、ぎゅってしたり、キスしたり、それから……」
稔は深刻な面持ちでなこの言葉を聞き続けていた。稔がいつもの柔和な笑みを一向に浮かべんのを見て、わしは思わず考えてはならん結果を想像してしまう。あの優しい稔に限ってそんなはずはないと、わしは頑なにその想像を掻き消した。
勇気を振り絞れるだけ振り絞り、これ以上のプロポーズができなくなったところで、なこは赤面したままうつむいてしまう。そのまま黙っているなこを見て、稔も返事をしなければと思ったんじゃろう。すぐに言葉が出んかわりに、なこの両肩にぽんと手を置いた。
思わずびくっと跳ねるなこに対し、稔は苦々しげな表情を浮かべて言う。
「僕もなこちゃんのことが好きだよ。できれば、なこちゃんの気持ちに応えてあげたい。でも、僕には応えてあげることができない」
真っ赤になっていたなこの顔が、一瞬にして色を失った。稔が言葉を続ける。
「僕は仁希さんたちのように魔法を使えない。もし僕となこちゃんが結婚したとき、なこちゃんの正体がほかの人たちにばれてしまうのは避けて通れない。みんなが仁希さんみたいに優しければいいけど、世の中はそうでない人間がほとんどだ。面白がって見世物にしたり、気味悪がって悪口を言ったりというような酷いことを、そういう人たちは平気でしてくるんだ」
「でも、でもわたし、みのるのことが」
「なこちゃん、どうかわかってほしい。もしなこちゃんが世間の目に晒されたとき、僕はなこちゃんを守り抜くことができない。だから、なこちゃんを危険な目に遭わせてしまうとわかっていて、無責任な決断をするわけにはいかないんだ」
「やだ、やだ、みのる」
我慢できずに抱きつこうとするなこを、稔が両肩を押して強引に突き放す。その瞬間、ガラスがパキンと砕け散る音が響いた気がした。
なこがぽろぽろと涙をこぼし、とうとうまともに言葉を発せないまま立ち尽くす。なこの心が今どうなっておるかを思うと、胸が張り裂ける思いじゃった。
いや、誰よりも一番辛い思いをしておるのは稔自身なのかもしれん。好き同士なのに、なこを守るために苦渋の選択を強いられ、なこをあれほどまでに悲しませてしまっておるのじゃから。その心痛はわしらの比ではないはずじゃ。
稔が別れの言葉をかけても、なこはただうつむくばかりで、わずかな反応すら返ってこない。結局なこの返事を聞けんまま、稔は心苦しそうに踵を返して歩き去っていった。
キルケーも出莉愛も、想定外の結末に言葉を失っていた。しかしながら、わしを含め、誰も稔を責めることができなかった。稔は目先の幸福に飛びつかず、なこを守るために最善の選択をしたのじゃから、責められるはずがない。
不意に、ねずみ色の曇り空からぽつぽつと雨が降りだした。それはしだいに、辺りの積雪を溶かしていくほどの大雨になった。しかし、なこは衣服がびしょ濡れになってもなおその場を動こうとせん。
トートバッグの中に折り畳み傘が入っているはずじゃが、それを取りだす余裕すらなくなってしまったんじゃろう。今のなこは、稔に振られてしまったショックに堪えるので精一杯なのじゃ。
出莉愛に相合傘をしてもらいながら、わしは濡れたサングラスとマスクを外し、スマートフォンを取りだしてなこに電話をかける。直接声をかけるのははばかられたから、せめて電話で声をかけることにした。
なこはスマートフォンの着信に気づくなり、おぼつかない手つきで電話に出てくれた。
「雨が酷くなってきたじゃろう。迎えはいるか?」
なこはむせび泣くあまり、つっかえつっかえにしか喋ることができんようじゃ。
「ううん。しばらく、ひとりで、いたい。ごめんね、にけ。せっかく、おうえん、して、くれたのに」
「いいんじゃ、なこ。ちゃんと体を冷やさんようにして、落ち着いたらまっすぐ帰るんじゃぞ。今夜はりんごじゃなく、おいしい鮭のクリームパスタを作ってやるからのう」
ありがとうと返ってきたところで、電話はぷつりと切れてしまう。スマートフォンを手に持ったまま、なこはとうとう人目をはばからず泣き叫んだ。なこの悲痛な声は、視界が奪われるほどの土砂降りに掻き消されてしまった。
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