艶っぽい先輩
透子さんはすぐに酔うが、すぐに酔いは醒めるのだというのは6月の飲み会で分かった。今日もそうらしく、駅の裏手にある店に入った時には既にしっかりとしていた。
「僕、まだお酒飲めないんですけど……」
今いる店はかなり洒落た雰囲気のバーで、磨き上げられた木製のカウンター内には上品な黒い蝶ネクタイを付けたバーテンダーがおり、他の客と談笑していた。バイト先の飲み会では未成年なのでソフトドリンクを飲んでいたが、こんな店でジンジャーエールやオレンジジュースを頼むのはかなり気が引けた。
「大丈夫。ここの店は美味しいノンアルのカクテルも作ってくれるから」
ダウンコートを脱ぎ、水色のニットワンピース姿となった透子さんは慣れない場に緊張する僕とは反対に、とても落ち着き払っていた。よく来る店なのだろうか。
暗めの暖色の照明の中の透子さんは、ボディラインが強調されている服も相まって、いつもより艶然とした雰囲気を纏っていた。
「君、甘い系とさっぱり系だったらどっちがいい?」
「あっ、そうですね……さっぱりした方ですかね」
普段とは違った魅力を放つ彼女に思わず見惚れてしまい、返答に時間がかかってしまった。
「そっか、わかった」
透子さんは軽く頷いた後、バーテンダーを呼んだ。
「すみません、ウォッカ・トニックとサラトガ・クーラーをお願いします」
「はい、承りました」
彼はにこりと笑うと、カクテル作りに取り掛かった。
「サラ……、何でしたっけ」
「ああ、サラトガ・クーラーだよ。ジンジャエールに、ライムジュースと甘いシロップが入ったやつ。君、飲み会だといつもジンジャエールを頼んでるから、それがいいかなって思って」
透子さんはそう言ってゆったりと足を組んだ。
「飲み物、決めてくれてありがとうございます。僕、カクテルのことなんて全然知らないので……」
「知らなくて当然だよ。だってまだ十九歳でしょ?若いな〜」
「透子さんだって大して変わらないでしょう」
「そう?でもね、二十歳超えると色々変わってくるよ。例えば、前より太りやすくなったりとか」
「太ってる様には全く見えないです」
「え〜、これでも太腿とか、結構贅肉が付いちゃったんだよ。最近、入学式前に買ったスーツのスラックスを履いたら、太腿の部分だけパツパツになっててかなりショックだったんだ」
そう言うと、黒タイツに包まれた太腿を指で軽くつまんだ。
僕から見れば彼女の太腿は程よく肉がついていて、健康的な太さだと思った。
「このままだと不味いな、と思いはするんだけど、研究室とサークルとバイトが忙しいこと言い訳に、ダイエットを始めようとしないのが今の私……たまに自己嫌悪に陥るよ」
肘をテーブルにつき、困り顔で溜息をついた。
今のままでも十分魅力的ですよ。
そう言えたらいいのだが、こんな簡単な言葉でも、自分の羞恥心や自尊心が邪魔をして喉の奥につかえてしまう。
「ごめんごめん、こんなこと君に言ってもしょうがないよね。やっぱり私、まだ酔ってるみたい」
何も言えず黙った僕を見兼ねたのか、透子さんは苦笑いしながら謝った。
「いえ、僕の方こそすみません」
相変わらず気の利いたことの一つも言えない自分に苛立つとともに、また彼女に気を遣わせてしまったことへの罪悪感を覚えた。
「こちら、ウォッカ・トニックとサラトガ・クーラーです」
少し気まずい沈黙を破ったのは、バーテンダーだった。彼は黒いコースターの上にグラスを静かに置いた。
「きたきた。じゃあ、乾杯しよっか」
透子さんはグラスを手に取り、僕の方へ向けた。
「乾杯!」
「……乾杯」
グラスを軽く合わせるとキン、と無機質な、けれども心地の良い音が静かな店内に響いた。
透子さんは味わうようにゆっくりとウォッカ・トニックを飲んだ。
僕もそれに習い、サラトガ・クーラーを少しだけ飲んでみた。
ライムジュースが加えられているからか、いつも飲むジンジャエールより風味が引き締まっており、爽やかな飲み口でかなり美味しかった。
「これ、美味しいです」
「そっか、口に合ったようで良かったよ」
透子さんは普段よりも柔和な笑みを浮かべた。
「こっちも美味しいよ。飲む?」
「そっちはアルコール入りじゃないですか。飲みませんよ」
「ふふっ、だよね」
また酔いが回りだしたのか、彼女は上機嫌な様子で笑った。
透子さんはお酒が入ると普段言わないような冗談や愚痴を言うようになる。
逆に、普段の彼女はそういったことをあまり言わない。
ひょっとすると、酔った時の透子さんが本来の彼女の姿なのかもしれないと僕は思うのだ。
「君がお酒を飲めるようになったら、一度酔い潰れさせたいかも」
頬杖をつきながら、透子さんはこちらをじっくり眺めるように見つめてきた。
「何でですか?」
彼女の視線にどぎまぎしながら、僕は尋ねた。
「だって、君っていつもどこかよそよそしい気がするから。何ていうか、本来の自分を無理やり押し込めてるような。だから、お酒で君の脳を麻痺させて、君自身の本心というか、欲望をさらけ出させたいな」
僕は反射的に目を逸らした。透子さんの言う通りかもしれなかった。僕は人一倍、自分がどう見られているのかを気にしてしまいがちだし、自意識過剰なのだと思う。
そのせいで自分をさらけ出すことに対する恐怖感が強く、本音を言えなかったり、行動に移せなかったりすることがこれまでも多々あった。
現に今だって、透子さんに自分の醜い部分を見せたくないがために無意識に気を張っていた。それが彼女の目にありありと映っていたのだろう。
「……怖いこと言わないでくださいよ」
僕は透子さんと目が合わないよう、カウンターの奥に並んだ酒瓶を眺めているふりをした。
「ほら、またそうやってはぐらかす」
「思ったことを言っただけです」
「ほんと、君はいつもそうだね」
そう言うと、透子さんはため息を付いた。
「……すみません」
僕はなんと言えばいいか分からず、つい謝ってしまった。
「……まあでも、本当の自分をさらけ出せ、なんて私が言えるような立場じゃないんだけどね」
透子さんは机の上でグラスをくるくると回した。飲みかけのウォッカ・トニックの氷がからり、と音を立てて崩れた。
「私も普段から本当の自分をさらけ出すことは出来てないし…… こうやってアルコールが入ってから、やっと心の内を少し話せるようになるしね」
と、透子さんは俯きながら少し物憂げに呟いた。
端正な横顔をちらりと見やると、伏せられた目を縁取る長い睫毛に目が行った。緩やかに弧を描いた上向きの睫毛は、憂いを含んだ美しい陰りを瞳に落としていた。
思わずはっと息を飲み込んだ。憂鬱でさえも、彼女の美しさを引き立ててしまうのか。
「いけない、また暗い話をしそうだった」
風の強い日の雲のように、彼女の表情から憂いはすうっと引いた。
「……僕にだったら、いくらでも暗い話をしてもいいですよ」
僕にしては思い切った発言をしてみた。
僕は嬉しかったのだ。それが例えアルコールのせいであったとしても、彼女が心の内の闇を少しでも僕に見せてくれたことが。
みるみるうちに顔が赤くなっていくのが、鏡を見ずともよく分かった。
「……ありがとうね、そう言ってもらえるだけでも嬉しいよ」
そう言った透子さんの表情からは、先程の陰りの名残はもう薄れていた。いつも通りの彼女だった。
開きかけた扉が目の前で閉ざされてしまったかのようだった。僕の頬の熱は急速に冷めていった。
当たり前だ。僕は彼女にとって、ただのバイト先の後輩だ。それだけの存在を頼るなんてこと、ある訳がない。
僕は胸のわだかまりを流し込むかのように、サラトガ・クーラーを勢いよく飲み干した。
透子さんはそんな僕を見て、
「なにか頼まなくて大丈夫?」
と聞いてきたが、僕は大丈夫とだけ答えた。
透子さんは二杯目にジンバックを頼み、それを先程よりも早いピッチで飲み終えた。
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