12.亡命者たち


  名古屋 大須商店街

  正紀28年(西暦2004年) 7月16日(金)午後1時30分


 昼下がりの商店街を名古屋大学大学院教授である加賀敦かがあつしは、かれの研究室に所属する院生二人を引き連れて歩いていた。


「時代の流れとは不思議なものだな」


 元々は静岡の出身である加賀は、大学進学に伴って名古屋へと移り住んできており、その頃の大須商店街は衰退期の真っただ中にあった。


 かつて日本の三大繁華街として名の知れた存在にひかれて大須を訪れた学生時代の加賀はシャッター商店街と化したこの街に衝撃を受けた思い出があった。


 その後巻き起こった日本戦争の混乱と破壊を乗り越えた先に、地元大学生たちと商店街が手を取り合い復興計画が始まり、大須商店街は電気街として奇跡的な復興を遂げたのだった。


 そうして江戸時代に開発されて以降、常に時代の激動にさらされながらも栄枯盛衰を繰り返してきた土地の新たな歴史を加賀は間近に見てきた。


 とはいえ、かれ自身は研究に没頭するようになり自然と足が遠のいていた場所だった。今回久方ぶりの訪問ではあったが、加賀が記憶する町並みとの違い、あるいは変わらない景色に浮かび上がる感情は懐かしいという以外ないものだった。


 そして今向かっている場所もまた、かれの記憶と変わらない場所であった。


「変わらないな、ここは」


 日本戦争で焼け落ちた後に、元の場所に再建された喫茶店。ながらくこの場所で大須と共に歩んできた名物店だった。


 後ろについてきた院生二人を見て、かれはうなずいた。この場所を指定したのは先方であった。曰く、密談はこれぐらいの場所が丁度いいですからとの事だった。


 ――さて、鬼がでるか蛇がでるか。


 どちらにせよすでに自身が一線を越えていることを加賀は理解していた。


 カランと扉のベルが音を立てた。混みあった店内を見渡し、指定された奥のオープンテラス席に座っている人物がいることを確認。店員に待ち合わせであることを告げると、加賀を含めた三人は奥へと移動した。


「加賀教授ですね、初めまして」


 まだ若く精悍な顔だちの青年はそう言って手を差し出した。


 短く切りそろえられた髪、一見大学生にも見えない外見だが、シャツの内側には隠し切れない鍛えられた身体が窺える。


「加賀だ、よろしく頼む」


 軍人の手だなと、握手を交わしながら加賀は確信する。まあそうでなくてはならないか。これから自分たちが犯そうとする禁忌を考えれば妥当なことだった。


 青年に促されるまま、加賀たち三人は席に着く。なるほどいい場所だなと思った。適度に開けており、他の席とも距離がある。密談に丁度いいとの意味が理解できる場所だった。


「お昼は済ませてますか? まだでしたら、名物のエビフライサンドを頼んでみたらどうです」


「結構だよ――いや、月島君や藤本君は好きなものを頼んで構わない」


 すでに運ばれてきていたエビフライサンドに手を付けている青年に答える。これから話す内容を考えれば食事が喉を通るはずがないのだ。


 月島景子つきしまけいこ藤本幸也ふじもとゆきやの二人も同じように食事を断り、それぞれ飲み物だけを注文する。注文の品が運ばれてくる間、青年は昨日東海地方に出された梅雨明け宣言の他愛ない話でつないでいた。


「準備はどうなっている?」


 コーヒーを運んできた店員が十分に離れたことを確認して、加賀は静かに本題を切り出した。


「とどこおりなく」


「……では、わざわざこんな場所で会おうと言ってきた理由は?」


「見極めるため、ですね」 


「見極める?」


「あなた方の覚悟を。意外と多いんですよ、怖気づいて待ち合わせ場所に来れない人。決行前にそれを見極めておかないと、こちらとしても立ち行かなくなりますから」


 だから、こういう場所に誘って確かめるんです。


 なんてことのない口調で喋りながら、エビフライサンドに手を伸ばす青年。


「ご飯きちんと食べてますか? そんな調子じゃ本番までもちませんよ」


 図星だった。加賀はここ最近、緊張で食事もままならない状態が続いていた。


「これから亡命するんだから、きちんと体調は整えてもらわないと」


「ちょっ――」


 何気なく口にされた決定的な言葉に、青年の隣に座っていた月島景子が思わず腰を浮かしかけ、寸前でかろうじて静止した。


「ほら、神経質になってる。でも途中で止まれたのはいい判断だ」


 声をあげかけた月島の姿を見て青年は笑った。


「……嫌な奴」


 試されたのだと知って、月島がボソッと呟く。


「腹が減っては戦ができない。基本ですよ。経験豊富な亡命屋のいう事は聞いたほうが賢明ですよ」


 叱責するように加賀をにらむ青年。


「……そうだな」


 月島も藤本も体調が良さそうには見えない。自分と同じように食事がとれていないのだ。加賀は店員を呼んで三人分のエビフライサンドを注文する。思えば最初からやけに食事を勧めてくる態度はこちらの体調を気遣ってのものだとようやく気付いた。


 ある意味でこれは試験なのだと加賀は思った。自分たち三人がどれほどの覚悟なのかと確かめると同時に、亡命に耐えられるかを試しているのだと。


「なんか俺が食べてるのを見てたら、皆も食べたくなっちゃったみたいで、本当においしいですよこれ」


 全く緊張感なく店員に話かける青年を見て、加賀は安堵する。この、胆力こいつは当たりだと。自分は最高の手引き者を引き当てたのだと。



* * * * *



「ねえ、ところであんたの名前まだ聞いてないんだけど」


 一通り食事を済ませてリラックスしたのか、月島がそう切り出した。すでにその口調は大分くだけてしまっている。これまでの時間で、月島は目の前の人物を年下だと認識していた。


「名前ねえ……」


 もっともそれは、青年も同様だった。はっきりと年長者である加賀に対しては敬語を使うものの、月島や藤本に対してはこちらもくだけた口調で話していた。


 第三者から見た場合、それが自然に映ることは間違いなかった。


「信頼関係を築く第一歩は嘘をつかないことだしなぁ……まあ、偽名を名乗るのも気が引けるしファントムって呼んでくれ」


「はぁっ??」


「ファントムってまさか、オペラ座の怪人?」


 月島と藤本がそれぞれ反応を返すのを加賀は黙って見つめていた。自分が出張るよりも同世代であろう二人が話したほうが自然に見えると考えた結果だった。


 その思考ができるようになったことで、自分が冷静さを取り戻していると加賀は感じた。周囲を見渡しても自分たちが驚くほど日常に溶け込んでいることがかれを安堵させていた。


「いやコードネーム。俺自身が亡霊みたいな身分なんでね」


「コードネームって、なにかっこつけてるの……あんた大体あたしたちより年下でしょ? 二十歳ぐらいなんじゃないの?」


「正解だ、よく分かったな」


「げっ、5つも下じゃんか……」


 おおむね想像通りの年齢ではあったが、年齢に似合わない貫禄がファントムを名乗る青年にはあった。


「亡霊って、まさか……」


 何かに気付いたらしい藤本が言葉につまる。

 

「ご想像の通り、だから今は本名は勘弁してほしい。調べられると困るんでね」


 調べられて困る。その言葉が意味するのはかれが共和国に戸籍を持つ人間だという事実だった。


「むこうの人じゃないんだ……」


 亡命を仲介する人間。加賀たちは藁にもすがる思いで接触した人間を、共和国内に潜入した皇国の工作員だと想像していた。


「……想像通りにむこうの人間だよ……今はね」


「……」


 青年の言葉に押し黙る三人。


「安心したんじゃない。俺が実際に通ったルートを案内するんだからさ」


「なるほど、僕らの先達って訳だ……先生」


 藤本の表情は晴れやかだった。藤本も自分たちが亡命するための最高の鍵を見つけたと理解したのだった。


「ああ、これで我々の行く末は明るいだろう」


 大きく頷いて肯定する加賀、そして月島。皇国に渡り、今再び共和国に潜入した人間の存在はかれらの亡命の成功を確信させるに十分だった。


「……ところで」


 三人の顔を見回した青年は切り出す。


「あなたたちが亡命しようとする理由は何です? 正直言って人文科学者が生徒と共に亡命ってのは珍しいですからね」


 加賀の専攻は縄文・弥生時代の先史考古学である。国策として縄文時代に傾倒している共和国にとって政治的影響を受けやすい研究分野ではあるが、同時に手厚く保護されている分野でもあるのだ。


「……」


 押し黙る亡命希望者たち三人を見て、青年はかれらの根底にある覚悟のようなものを感じた。


「言えないのなら――」


「……我々は、共和国の根底に関わる発見をしてしまった」


 重々しく口を開く加賀。


「弥生人に滅ぼされた縄文人、〈賢者の石フィロソフィウム〉を弥生人に奪われようとし〈賢者の石フィロソフィウム〉と共に歴史から消え去った哀れな縄文人」


 それは、共和国が語る『歴史』であり、共和国という国が掲げる正義の根底となる学説だった。共和国が生まれ、日本という国が分断するにいたった原因でもある。


「もし、その『歴史』が覆る証拠が発見されたのだとしたら……それは間違いなく世界を変える力を持っているだろう」

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