6章 労働とお金
雨の音と風の音は、僕たちの会話の隙間を埋めようとしては、タイミングを見失っている。僕たちの会話に生じたわずかな隙間は、すでに疑問と思考に埋め尽くされていて、ほかのなにかが混ざる余地は残っていない。ミュートボタンを押したような世界で、僕たちの議論は進んでいく。
労働は悪。命令や強制は悪。そんなものがなくてもなんとかなる。ニケはそう言う。だとすれば、僕が次に問わなければならないことは明らかだ。なぜ、僕たちの社会はこんなにも労働で埋め尽くされているのか?
■他人を道具にする方法
「でも、もし本当に労働が悪で、労働がなくても人間が自発的に貢献するなら、別に放っておけばよかったんじゃない?」
「ん? どういうことや?」
「勝手に人が貢献するなら、わざわざお金を渡して労働してもらう必要はなかったはずでしょ? なら、どうして僕たちの社会には強制・・・つまり労働が存在するの? それに、どうしてみんな貢献欲がないと思っているの?」
「さすがは俺の見込んだ少年。いい質問やな」
また褒められた。ニケの掌の上で踊っているようで、なんだか釈然としない。それでも僕は、続きを聞きたいという欲望に抗うことはできない。
「力への意志の話は覚えてるな?」
「うん。変化を起こす能力を増大させていくエネルギーだよね。練習して、自転車や車の運転を覚えていくような・・・」
成長欲の方が分かりやすいという僕の意見は、どうやらなかったことになっているらしい。
「そう。ほんでここからが恐ろしい話やねんけどな・・・」
ニケは急に怪談を話すように、声のトーンを大げさに落とし、間を作った。でも、別に怖くはない。
「もったいぶらずに言ってよ」
「趣のない奴やな・・・あんな、力への意志は自転車や車のかわりに他人へと向かうこともあるねん」
「他人?」
「そう。たとえば他人に暴力を振るって、痛がる様子を見てゲラゲラ笑う同級生はおらんか?」
「え?」
心臓をギュッと掴まれるような気持ちになる。そういえばこの前、掃除の時間に教室の隅でお尻を蹴られたことがあったっけ。
「まぁ・・・いるね」
「あれもな、他人に変化を起こして楽しんでいるわけや」
「やっぱり人間ってクズなんだね」
僕はお尻を蹴ってきた同級生の顔を思い浮かべながら言った。
「まぁ学校ってのはいじめくらいしかやることがないねん。力への意志をことごとく封じ込められている環境やからな」
「どういうこと?」
「学校は、ありとあらゆる自発的な行為が禁止されて、ルール通りに振る舞うことが求められる場やろ?」
「まぁ・・・」
その通りだ。僕たちは時間通りに学校に行くことを強制され、制服の着方から、列の作り方、教科書の置き場所まで、理不尽なほどに管理される。自分の意志でなにかに取り組むような経験はほとんど得られない。
「そうなると人は力への意志を挫かれる。でも、力への意志はなくならない。だからどこか違う場所で力への意志を発揮したくなる」
「それが・・・いじめ?」
「そういうことや。あとは、やたらとルールを押し付けてくる風紀委員っておらんか?」
「いるね。先生じゃないくせに、まるで自分が先生になったように指図してくる生徒が」
「せやろ。あれも力への意志の仕業や。その風紀委員は自分の意志で、他の生徒をコントロールし、変化させているという手応えを感じたいんやな」
なるほど。そんなふうに分析すると、いじめっ子も、風紀委員も、なんだか滑稽に思えてくる。
「学校という環境が悪いんや。まぁそれは置いといて、人間は道具を使ってできることを増やしていくように、他人を使ってできることを増やしていく場合もあるわけやな」
「それは他人を道具として扱うってことだよね?」
「そう。包丁の使い方を覚えるように、他人の使い方を覚える。殴って反応を見て笑う。次はパシる。大人になれば部下をアゴで使う。「茶!」と一言伝えるだけで茶を用意するように奥さんを使う。店員に偉そうに命令する。そうすれば、自分の影響力が拡大していることを味わえる。権力者の完成やな」
包丁を使うように、他人を道具として扱う。ゾッとしない話だけれど、言われてみれば親や先生の命令に従うときは、道具扱いされているような気分になったこともある。
■労働が生まれた日
「でもさ、さっき言ったよね? 他人を命令に従わせることはむずかしいって」
「そう。ええところに気づいたな。実際、狩猟や採集といった生活をしている人々の間では、命令のない平等な社会を実現しているケースは多い」
「そうなの?」
「一概には言えんけど、明らかにその傾向はある。人間の社会は命令を社会から排除することが可能やったんや。なんでやと思う?」
「えっと・・・」
命令のない社会。急に言われれば、なかなかイメージが湧かない。
「他人を命令に従わせるためにはなにが必要なんやった?」
「暴力?」
「そう。でもな、めちゃめちゃ力の強い奴がおったとしても、二人か三人相手には勝たれへんやろ?」
「まぁ、多勢に無勢だね」
「それに、一回や二回くらい理不尽な命令を聞いてくれたとしても、永遠に従わせようとしたら、さすがに逃げるやろ?」
「たしかに・・・」
「少年は火星に行きたいか?」
「え? どうだろう? チャンスがあるなら行ってみたいけど、まだ無理だよね?」
「せやろ。無理やから諦めてるやろ?」
「諦めてるっていうか・・・そもそも諦める以前の問題というか・・・」
はじめから選択肢にのぼってすらいない。そういう行為に対して「諦める」と言ってもいいものか?
「たぶん大昔の人にとっては『他人を支配したい』っていう欲望は『火星に行きたい』みたいな無理難題やったんや。少年は火星に行きたくて夜も眠れないなんてことはないやろ?」
あるはずがない。そんなことに悩んでいたなら、もっと幸せな人生だったろうに。
「まぁそうだね」
「だから支配なんかしたいと思わず、人々は好きなことをやってた。他に楽しいことはいっぱいあったからそれでうまく回ってたんやろな。ところが、なんかの拍子に支配が成功して、永続化してしまった」
「それは・・・どうやって?」
「わからん」
「え?」
「そんなもん、証拠が残ってるわけないやろ? どの時代にそのきっかけがあったかもわからんわけやし、ぜんぶ調べようと思ったら時間がなんぼあっても足らん。それに、日本とヨーロッパでまったく同じ歴史を辿るわけやない。いろんな社会でいろんなストーリーがあったと想像するしかないんや」
「なにそれ。科学的じゃないね」
「想像することは科学の第一歩やろ」
ああ言えばこう言う。やっぱりニケにはうまく言いくるめられているような気もする。
「少年の質問は『なぜ人間の社会に強制や労働が誕生したの?』やったな。それに対しては『なんかの拍子に支配に向かった力への意志が、支配に成功したから』というのが俺の回答や」
「曖昧だね」
「ほんでな。命令されたらモチベーションがさがるって話をしたやろ」
「『ティッシュをよこせ!』ってやつだね」
「そう。つまり支配に成功して命令が永続化すると、人間は命令される行為がそもそも嫌な行為やと思いこんだんや。命令される行為ってなんやと思う?」
「それは・・・支配者に貢献すること?」
「せや。『オムライスをつくれ』とかそんな類の貢献を命令されたはずや。逆に、『俺がつくったオムライスを食え! さもなければ殺す』とは命令せんやろな。わざわざ命令しなくてもオムライスを勝手につくって渡せば食ってくれる人はおるんやから」
「たしかにそうだね」
オムライスをつくって食べさせてくる王様を想像してみる。実際にいたらちょっと可愛いかもしれない。でも、逆につくらせようとするなら? 憎たらしい権力者の完成だ。
「貢献を命令されるうちに、貢献は労働化した。そして人間は貢献を欲望することのない怠惰な存在に貶められた。それは権力者にとっては都合がよかった」
「どうして? 権力者だって自発的に貢献してくれた方が嬉しいんじゃないの?」
「逆や。怠惰でいてくれた方が『こいつらは貢献を嫌がる怠惰な奴らやから、俺が命令せなしゃーないわ』っていう大義名分になるやろ。そうすれば権力が正当化される。権力者が欲望するのはなにか覚えてるか?」
「えっと・・・他人を道具のように使って、変化を起こす能力を増大させること?」
「そう。権力者は自分の命令で人々が手足のように動くのが見たい。子どもがラジコンに夢中になるのと同じや。ラジコンが人間に代わったというだけでな」
「でも、もし人間が命令しなくても貢献してくれるなら、どうしてはじめからお願いしなかったんだろうね。お願いしていたらオムライスをつくってくれたかもしれないのに」
「お願いっていうのは、拒否されるリスクがあるやろ? だから拒否されないように相手の気分や状況に配慮してからお願いせなあかん。たぶん支配者と呼ばれる人らは、これがめんどくさかった。自分の都合で、自分が命じるがままに行動させたかったんやろな」
■お金というイノベーション
「ほんでな、時代が進んで暴力以上に効率的な支配のツールが登場した。それがお金や」
「どういうこと?」
「たとえば俺が拳銃を持っていたとして、少年に毎日オムライスをつくらせたいとしよう」
毎日オムライスって・・・。まるで下手くそなプロポーズの言葉みたいだ。
「ちょっと気持ち悪いね」
「でもな、二四時間拳銃を突きつけ続けるのはむずかしいやろ?」
「そうだね。寝ている間にこっそり逃げ出すかもしれないし」
「そう。だから支配する側は、暴力に代わる支配のツールが欲しくなった」
「それが・・・お金?」
「そういうことや。お金で人に命令するのは、常に拳銃を突きつけるよりは遥かに楽や。遠くで暴力をチラつかせとけばええねん」
遠くで暴力をチラつかせる? まるでギャングかヤクザのような言い分だけど・・・
「どういう意味?」
「ところで少年。お金がお金として機能するのはなんでやと思う?」
「それは・・・『お金には価値がある』ってみんなが信じているから」
そんな話を社会の授業で習った気がする。あとはなんだっけ? お金の機能についても習った気はするけど・・・
「まぁそれもある。でもな、究極的にはお金の価値は暴力によって支えられているんや」
「どういうこと?」
「お金を払わずにお店から物を持って帰ったらどうなる?」
「えっと・・・警察につかまる?」
「せや。つかまるっていうのは具体的にはどういうことや?」
「えっと、警察の人がやってきて、パトカーに乗せられて・・・」
「そう。で、逃げようとしたらムキムキの警察に押さえつけられるし、それでも逃げようとしたら警棒か拳銃で暴力を振るわれるわな」
「そうだね」
「じゃあ、警察という暴力装置がおらんかったらどうなる?」
暴力装置・・・なんだか物騒な表現だけれど、警察が暴力の装置であることは事実だ。
「万引きしても捕まらない?」
「そう。暴力が根本にないとお金で命令することはむずかしい。だからお金は暴力に支えられてるってことや」
「でもさ・・・みんながお金を信じて約束するってだけじゃダメなのかな? 暴力がなくても、お金を信じることはできるよね? そうやってお金が生まれてきた可能性もあるよね?」
「お金の成立過程にはいろんな説があるから一回調べてみたらええわ。いずれにせよ、現代において金の支払いを拒んだり、借金から逃れようとしたり、税金を拒否したりすれば、暴力を振るわれることは事実。その結果、お金が命令の装置として機能していることも事実や」
「それは・・・そうだね」
お金は暴力に支えられている。あまり信じたくはないけれど・・・
「でも、常に拳銃を突きつけ続けるよりは楽やろ? 暴力という手間を削減した意味で、支配のツールとしてのお金は史上最大のイノベーションやった、でもな・・・」
「でも?」
■お金はコスパが悪い
「暴力を使おうが、お金を使おうが、命令されたら人のモチベーションがさがりがちなんやったな」
「そうだね」
「だから、少年がさっき『どうしてお願いしなかったんだろう』って疑問を抱いたのは正しかった。お願いされたときの方が人はイキイキと行為するもんやねん。ティッシュのときがそうやったやろ?」
ニケにティッシュを渡したときの気持ちを思い出す。そう言われれば、うっすらと役に立てた喜びを感じていたような・・・
「なら、少年が言うように、お願いによってお互いに貢献し合った方が効率的かもしらへん。いまの社会はお金を介してお互いに貢献を命令し合っている社会なわけや。お金はモチベーションをさげてしまう傾向がある。なら、はじめからお金抜きにしてお願いした方が高いモチベーションで貢献し合えるんとちゃうか?」
お金抜き? そんな社会を想像したことは一度もない。お金抜きの社会がどうなるかはわからないけれど、とにかくむずかしそうだということはわかる。
「さすがにそれは無理があるんじゃない?」
「心理学者に聞いてみたらええわ。お金をちらつかせたらモチベーションがさがって生産性がさがるし、逆に自発的な行動の方が生産性が高いって話を聞かせてくれるはずや」
「そうなの?」
「アンダーマイニング効果とか自己決定理論ってやつや。また検索したらええわ」
「検索するキーワードが増えすぎてもう覚えられないよ」
「調べたい言葉だけ調べたらええ。要するに、欲望や力への意志っていうのは命令を受けていない純粋な状況の方が機能するってことや」
「だからお金がない方がいいって言いたいの? それは暴論じゃない?」
「よく考えてみ? 街を歩いたら銀行がいくつも建ってるやろ?」
「うん、それがどうしたの?」
「銀行でどれだけの労働と資源が浪費されてると思う?」
「えっと・・・」
考えたこともなかった。あまりにも当たり前の光景だったから。
「銀行だけやない。レジ。コンビニのATM。券売機。現金輸送車。警備員。株式市場。仮想通貨。クレジットカード。消費者金融。ポイントカード。電子マネー。保険。年金。税金。為替。『お金の稼ぎ方』に関するビジネス書やセミナー。最近は学校でも投資を習ったりするんやろ? こういったものに捧げられている人間の労働と資源をぜんぶ集約したら、火星をテラフォーミングするくらい簡単にできるんとちゃうか?」
「テラフォー・・?」
「ともかくな、人間は社会全体でお金の管理に膨大な手間をかけてる。お金がなくなれば、これらの手間はぜんぶ必要なくなる。それだけの手間を補って余りあるほどのメリットがお金に本当にあるやろか?」
お金にメリットがあるか? 考えたこともなかった。でも・・・
「そもそもお金がなくても人は貢献を欲望する。お金はモチベーションをさげる効果がある。人類社会全体でお金の管理に膨大な手間がかけられている。なら、こんな風には考えられへんか? お金はコスパが悪いとな」
■価値を比較する理由
「たしかにお金の管理には手間暇がかかっているよ。でも、やっぱりそれだけのメリットがあるんじゃないの? お金がないと、なにがどれくらいの価値があるかもわからないし、どうやってものを交換したらいいのかもわからないし・・・」
「価値を比較したいってことか?」
「まぁそうだね」
「考えたことあるか? 『なんで価値を比較する必要があるか?』って」
「え?」
「比較するってことは得したいとか、損したくないって思ってるってことやろ?」
「え、そうなの?」
「そもそも価値ってなんや?」
理解が追いつく前に、質問を畳みかけられて頭がパニックになりそうだ。価値とはなにか? なんなんだろう?
「えっと・・・」
「冷静にいこか。お金はなにを買うためにある?」
「えっと、商品やサービス?」
「そう。ほんで商品は他人の貢献の結晶であり、サービスは他人の貢献そのもの。ここまではええな?」
「・・・そうだね」
「つまり、お金が体現する価値っていうのは他人を貢献させる力ってことや。貨幣権力説って話を覚えてるか?」
貨幣権力説。たしか、お金は他者を強制的に貢献させる権力っていう話だっけ?
「そして、価値を比較するっていうのはどういうことや?」
「えっと・・・」
「まず、労働者は貢献の対価としてお金を受け取る。そして、そのお金を使って誰かを貢献させるわけや」
「うん」
「価値を比較するということは、『自分はできるだけ貢献せずに、他者を貢献させたい』とか『せめて、自分ばかり貢献するようなことはしたくない』って考えてるってことやろ? でなきゃ比較する必要があるか?」
「まぁそういうことになる・・・のかな?」
頭の中で迷子になりそうになる。
「でもな、もし人間にとって貢献が欲望の対象なんやったら比較する必要はないやろ?」
「お金で測ったりせずに、好きなだけ貢献して、好きなだけ貢献を受け取ればいいってこと?」
「せや。損って感じるのはな、やりたくないからやろ?」
わかったようで、わからない。
「むずかしいなら、ちょっと思考実験をしよか。少年がゲームをすればするだけお金がもらえる世界があったとしよう」
「なにそれ、最高の世界だね」
「ただし、その世界のお金の使い道は一つしかない」
「それは?」
「誰かにゲームをさせることや」
「え?」
「誰かに命令されて少年はゲームを一時間やる。そうすれば、少年は千円もらえる。そしてその千円を使って少年は別の誰かにゲームをやらせる。こんな世界があったとしよう」」
ちょっとよくわからない設定だが、もう少し辛抱してみよう。
「その世界では人間はゲームが大嫌いで、かつ、他人にゲームをやらせることでしか喜びを感じない性癖を持っていたとしよう」
さらに訳のわからない設定が登場したが、まだ我慢しよう。
「・・・うん」
「その世界でお金がなかったらどうなる?」
考えてみる。人は他人にゲームをやらせることが快感なんだっけ?
「お金がないなら、誰かにゲームするように『お願い』するだろうね」
「せやな。でもみんなゲームをやりたくない。渋々やってくれる人もおるかもしらんけど、そういう人も『俺はこんだけゲームしたんやから、お前もやれよ』みたいなことを言い出すやろな」
「そうだね。で、人にやらせるばっかりで、全然自分はゲームをやらない人も出てくるだろうね」
「せやな、ほんならこう言い出す奴がおるかもしらんな。『誰がどれだけゲームをやったのかを数値化しよう。そして、その数値と引き換えにすることで誰かにゲームをさせられることにしよう』と。そうすれば、誰か一人ばっかりがゲームをやらされたり、誰かがサボったりすることもなくなる」
だんだんニケの言いたいことが見えてくる。
「それはつまりお金だよね?」
「そう。こういう状況なら、たしかにお金は必要や」
「もし、本当にそんな状況ならね」
「そう。現実はそうじゃない。少年はゲームが好きで、みんなも好きなんや。なら、ゲームをやってお金をもらう必要もないし、誰かにゲームをやってもらうためにお金を払う必要もない。つまりお金は必要ない。さて、俺がなにを言いたいかわかってきたやろ?」
「うん。貢献がゲームみたいに楽しいことなのなら、お金みたいなものでいちいち測定したり比較したりする必要がないってことだよね」
「命令によって貢献が苦行になってしまったって話はしたな? なら、ベーシックインカムによって命令に従う必要がなくなったなら、人は貢献そのものの喜びを思い出す。そして、そうなれば、お金がなくても貢献することにみんなが気付きはじめる。そして・・・」
「お金が必要なくなる?」
「俺はそうなると見込んでいる。まぁベーシックインカムがあればお金の強制の側面は弱まるから、それだけでも労働はほとんど骨抜きになる。でも強制力は完全になくなるわけじゃないし、銀行といった管理の手間も依然として残ったままや。だったらお金そのものがなくなってしまう方が効率がいい。そうすれば労働はこの世から完全に廃絶されるはずや」
■八十億総ニート
お金がなく、労働がない世界。もしそんな世界が本当に実現したら、僕はなにをするだろうか? お父さんやお母さん、学校の先生や友達はなにをするだろうか?
いや、それよりも、本当にそんな世界があり得るのだろうか?
「本当にそんな世界が実現できるの? やっぱりお金も労働も必要だから存在してるんじゃ・・・?」
「そんなわけあるか。その理屈で言うたらな、世の中をなにも変えられへんやろ?」
「どういうこと?」
「奴隷制は必要やから存在してたんと違うか?」
もちろん、そんなはずはない。奴隷制なんて必要ない。でもかつては、実際に存在していた。それはつまり・・・誰かが声を上げて変えたということだ。
「それでも、そんな簡単にはいかないはずだよ!」
「たしかに簡単ではないと思う。当時は『奴隷制がなくなったら社会が大変なことになる』ってみんなが口にしていたもんや。でも実際にやめてみれば必要なかったことがわかった。労働もお金も同じや」
「そんないい加減な・・・」
「もちろん、未来のことはわからんで。でもな、俺は労働もお金もなくなった未来を確信してるんや。そうじゃないなら・・・」
「そうじゃないなら?」
「俺が少年にこんな話をする意味はないんや」
「どういうこと?」
「アンチワーク哲学には未来を変える力があるんや。でも俺には変えられへん」
「ニケじゃないなら・・・僕が未来を変えるってこと?」
「そう・・・少年は未来を変えられるんや」
学校をさぼって公園で昼寝していただけの僕が、未来を変える? ニケはいったいなにを言っているのだろうか?
バカバカしい! そんなことができるはずがない!
「僕がそんなことできるわけないじゃん! 僕みたいな怠けものが『労働は悪』だなんて言っても、働きたくない奴の言い訳にしか聞こえないよ」
「でも、少年は怠けものじゃないで?」
「どうして? 僕は学校もサボってるし、働きたくないと思ってるよ」
「言ったやろ? 労働は悪やねんから、働きたくないと思うことは正しいことなんやって。それにな、少年は一円の得にもならんのに俺と議論してくれた。より良い世界がどんなものなのかを一緒に考えてくれたやろ? それは少年が世界のために貢献したいと思ってるって証拠や」
「僕が世界に貢献しようとしている・・・?」
「そう。そして、この議論は少年にとって楽しいものやった。俺も楽しかった。二人も楽しい思いをしたんやったら、それ自体が世界に対する貢献なんや」
「でも、僕らだけが楽しんでいたって仕方ないんじゃ・・・」
「ええか。社会っていうのは一人ひとりの人間が集まってできてる。少年が議論に夢中になる姿を見て、同じようにみんながなにかに夢中になったら、それだけで世界から労働は消えていく。世界は変えられるんや」
「そうかもしれないけど、そんなことになれば・・・」
「また、『誰も貢献しなくなる?』か? 少年は俺にティッシュをくれたし、飢えた子どもにお菓子をあげると言った。頑張ってる労働者を悪く言ったら『かわいそう』と言った。それは少年が『誰かが苦しんでいたなら救いたい』と思ってるってことやろ?」
「僕は、人を救いたいと思っている・・・?」
「そう。逆に救わないでいることの方が苦しいんや。飢えた子どもにお菓子をあげずに素通りしたら、後ろめたいんやろ?」
「それは・・・」
「人間ってのは助け合わずにはいられない生き物なんや。助け合うことが好きで好きで仕方ない生き物なんや。ほな、労働なんかやめて好きに助け合えばええ。みんなが必要やと思うなら、絶対に誰かがなんとかしてくれるはずや」
「労働をやめて、好きに助け合う?」
「そう。それはつまり八十億人全員がニートになるってことや。ようやく俺が言いたいことが伝わったんとちゃうか?」
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