神様の涙ヒモ
あおい
第1話 前編
何をしても
夕暮れ迫る歩道を歩く薄汚れたクタクタスニーカーは結んだヒモが解けそうで酷く元気がない。
「あっ……」
甲高い笑い声。子供の手を引く母親とすれ違うと、私は足を止めて振り返った。
ポニーテールの赤いリボンを揺らした女の子。消そうとしても消せない。どんなに振り払おうと、あの日が矢になり突き刺さる。胸から滴り落ちる鮮血。そう、私は七歳の娘を持つ母だった。あの瞬間までは……。
『須江さん、
旗振り当番だった同学年の母親が家の扉を開いたのが悲劇の始まり。今でも飛び飛びの曖昧な記憶しかないが、次は確か救急車に乗っていた。その次は手術室の前、次は医師からの『ご臨終です』の言葉。その次はなんだっけ?花に囲まれた蜃気楼な遺影。とどめは夫からの言葉だ。
『もう精神的限界だ。離婚しよう』
二年前、
いい加減、生きるのやめようよ。そんな台詞を風車みたい頭の中でクルクル回しながら二年も沼みたいな場所で生きてきた。
ここは海に近い田舎の港町。運の良いことに自殺名所がいくつかある。そろそろ幕引き。私は断崖絶壁に立った。緩んでいた靴ヒモは解けて伸びてる。もう疲れたんだよ。歩けないし走れない。
崖下は怒涛に打ちつける波飛沫。
「美帆理、今、逝くよ」
靴ヒモが揺れて片足が自然に浮き上がる。
「ちょっと待ちなよ」
刹那、背後から声がした。
足を引き、振り返る私。そこには白いツナギを着た老婆が立っていた。
ギリッと奥歯を噛む。
「邪魔しないで!死にたいの」
「それは見てたから分かってるよ。別に邪魔するつもりはない」
「なら、あっちに行って!」
「それはできない。こちらも仕事なんでね」
「仕事?」
「そうだ」
「なんの仕事?」
「引っ越し斡旋業者だよ」
「はっ?引っ越し?自殺と何の関係が……」
「ワシはこの自殺名所で自殺しようとしている人間に引っ越し屋を勧めている」
私は眉を潜めた。
「全く意味が分からない」
「だろうな」
老婆は白髪の髪に指を差す。
「引っ越すのは頭の中だ」
「頭の中?」
「そうだ。つまり人間以外のモノに脳を引っ越しさせるんだよ」
「人間以外のモノ?」
「そう、なんでもあるぞ。犬でも猫でも生き物じゃないなら机でも椅子でも何にでもなれる。ただし期限があって一年間だけだが」
「そんなモノになって何になるというの?バカバカしい。死んだ方がマシだわ」
「そうかな、また違った世界が見えるぞ。どうだ、体験してみないか?どうせ死ぬなら一年ぐらい先に伸ばしても変わらないと思わぬか?」
嫌だと言っているのに、この老婆はしつこく食い下がってくる。いくら他のモノに引っ越したって、自分の決意は変わらないのに。
だが、私は強引な老婆に連れられて『引っ越し屋』に来店してしまった。
ログハウスみたいな建物。木製扉を開くとカランコロンと鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こう側、銀髪の若い男性スタッフが頭を下げた。
「あの……」
戸惑っているとスタッフが顔を上げ、紙を滑らすよう差し出す。
「こちらの用紙に住所とお名前をご記入下さい」
「いえ、あの……私は、お婆さんに無理矢理連れられて」
背後に振り返る。しかし、さっきまでいた老婆の姿がない。
「えっ、あれ?消えた」
「あの老婆は、ここに自殺志願者を連れてくるのが仕事。役目を終えたら消えます」
男の声に顔を戻した。彼は真っ直ぐに私の目を捉える。青白い肌、狭いブルーの瞳は鋭いナイフのよう。怖いと感じ、蛇に睨まれたカエルみたいに身体が硬直した。
「さあ、早く記載して下さい」
「はっ、はい」
私は羽ペンを持ち住所とフルネーム、年齢を記載する。指が震えているのかミミズが這うような文字になってしまった。
「有り難うございます」
彼は用紙に目を落としてから顔を上げる。
「初めまして須江雅美様、わたくしは脳内の引っ越し屋です」
「あっ、はい」
「詳細は老婆から聞いていると思うので省きます。この契約書にサインを……」
二枚目の用紙をカウンター下から取り出して滑らせる。
「あの、ちょっと待って下さい!」
「なんですか?ご質問ならなんなりと承りますが」
「頭の中を引っ越すって、そんな非現実的なことできるんですか?」
「できますよ。仕事ですから」
「どうやって?」
「隣室にカプセルベッドがありますので、その中でお好みのモノにアナタの脳を移します」
「それは自分には必要ないかと……。私、死にたいんです」
「ご安心下さい。死ぬのが一年間、伸びるだけですから、一年後の選択で死を選べばわたくしが責任を持って安楽死させますので」
「安楽死……」
「そうです」
「あの、仕事ってことは無料ではないですよね?料金は?」
「報酬はお金ではありません。一年後、アナタが生きることを選択した時にのみ発生します」
「報酬は何ですか?」
「涙です」
「涙?」
「はい、アナタの一生分の涙、四回分だけ残して全て頂きます」
涙か……。まあ、そんなのはどうでもいいこと。どうせ一年後には死ぬんだから。
私は契約書にサインし、出されたカタログに目を落とす。動物全般、電信柱、家や車、細かくは天井、壁、塀、黒板、筆箱、鉛筆、消しゴム、なんと工事用ヘルメットまで、老婆の言った通り、何にでもなれるようだ。ページをめくる手を止め、適当に指を差す。
「これは?」
「これはベンジャミンという観葉植物です」
観葉植物ね、ただ立ってるだけだし楽そうだ。私はベンジャミンに引っ越すことを決めてカプセルに入って横たわる。どうなるんだろうか?少し胸がザワザワした。
「あの、脳が移転してる間、私の身体はどうなってるんですか?」
「どうにもなりませんよ。このカプセルで眠っているだけです」
「仕事は辞めたので良いですが、実家の両親が心配するんじゃ?」
「自殺を考えてるのに両親の心配ですか?心配無用です。眠っている間はアナタの存在が消えますから、つまり周囲の人からアナタは存在しない人間になるのです」
なるほど、なんとも不思議な世界。これは現実なんだろうか?
「さあ、カプセルを閉めますよ」
「はっ、はい」
ゆっくりと閉じられて、明るさが細く狭くなってゆく。カプセルが閉まると全てが暗闇になった。
どこからかバニラのような甘い香りが漂いカプセル内を満たす。瞬間、ツムジ付近がムズムズし、重くなった瞼が強制的に閉じられる。
次に目を開くと、私は見知らぬ場所にいた。
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