第4話

 次に目を覚ました時、俺は病院のベッドに寝かされていた。なぜすぐに分かったのかと言えば、白い天井が見えて薬品の匂いがしたからだ。


「あ、瀬川くん、目が覚めましたか」


 ちょうど俺の様子を見にきてくれた看護師が気づいてくれて、すぐに医者がやってきた。

医者の話を聞くに、俺は階段から転げ落ちて身体中を打撲したが、命に別状はなかったらしい。まあ、自分の命が助かったことは自分が一番よく分かっているが。


「頭を打っていますので、念のため1日入院して、問題なければ明日ご帰宅いただきます」


「入院……分かりました」


 自分の身に起こったことが半ば信じられず、ぼやぼやとした頭を動かすのに必死だ。


「あとこれ、瀬川くんずっと大事そうに握ってたから、置いておきますね」


 看護師がそう言って手に持っていたのは、例の糸だった。彼女はそれを俺の手元に置いた。どうやら俺は、階段から落ちている間も、執念深く糸を握っていたらしい。きっとこの人にも、この糸の特異さには気づいてもらえないんだろう。そうと分かっていたから、糸の見え方について聞かなかった。それよりも、糸を失くしてしまわなくてほっとしていた。


「ありがとうございます」


 俺は看護師が糸を保管してくれたことに感謝し、起き上がる。


「ちょっとトイレに行ってきてもいいですか?」


 念のため看護師に確認すると、「身体が動くなら大丈夫ですよ」と言ってくれたので、糸を握りしめてベッドから降りた。

 立ち上がって気づいたのだが、身体の所々がギシギシと痛む。頭には一部包帯が巻かれているのに今更気づいた。だが、立って歩けない程ではない。トイレぐらいなら大丈夫そうだと思い、病室を後にした。


 用を足した俺は病院の廊下の窓から、ふと外の庭が見えて気になった。冬が近づいて枯れた葉っぱが、ひとつ、ふたつ、と地面にはらはら落ちていく。窓の向こうには、もう一つ病棟があるようで、俺が今いる病棟と、向こう側の病棟は一本の渡り廊下でつながっていた。

 俺は、興味本位で渡り廊下まで歩いていく。渡り廊下の方からだと、もっと綺麗に外の庭が見えると思ったのだ。


「わ!?」


 渡り廊下の方へと続く角を曲がり、まっすぐに進もうとしたとき、身体が何かにぶつかって、俺はよろけた。衝撃で右手に握りしめていた糸がコロコロと床に転がる。床に尻餅をつくと、階段から落ちた時の打撲のあとに響いてきいんと嫌な痛みが走った。


「すみません! だ、大丈夫ですか?」


 透明な声が、降ってきた。

 綺麗な標準語の余韻が、耳にこだまする。

 あまりも素敵な声だと思って、一瞬身体の痛みも忘れてはっと顔を上げる。

 俺の目の前で、鼻の頭を押さえて立っていたのは、桃色の入院着を身に纏う女の子だった。見たところ、歳は同じぐらいに見える。肩のところで綺麗に切り揃えられた髪の毛は、まるで絹糸のようにさらさらとして美しい。ただ、それが逆に本物の髪の毛としては不自然に映り、俺は彼女がウィッグをつけているのだと分かった。

 彼女は、声も透き通っていたが、肌も真っ白だった。色素が薄い瞳は、どこか遠い国のお姫様を思わせる。なんて、じっくりと彼女を観察している場合ではないことは分かっている。でも、それくらい、曲がり角でぶつかった彼女との出会いは衝撃的だった。


「本当にすみません……。私、外を眺めながらぼうっと歩いてて、前を見ていなくて……」


 ぺこぺこと頭を下げる彼女が、俺と真っ直ぐに目を合わせたところで、大きく目を見開いた。


「あれ? もしかして、瀬川先輩?」


「え?」


 彼女の口から紡がれた名前に、俺はびっくりして今度は腰を抜かしそうになる。


「そう、ですけど。なんで俺の名前を?」


「あ、私、半年だけ錦山にしきやま高校に通っていたんです。2ヶ月前に、病気が発覚して辞めちゃったんですけど……」


「錦山高校の? じゃあきみは、錦山高校の1年生?」


「はい。そうです」


 こっくりと頷く彼女。錦山高校は俺の通っている高校で、現在俺は2年生だ。俺のことを先輩、と呼んだ彼女の口ぶりから、彼女が1年生だったのだと分かった。


「へえ。すごい偶然やなあ」


 俺はお尻を押さえながら立ち上がる。


「これも何かのご縁かもしれへん。俺は、錦山高校2年生の瀬川紡です。って、きみは俺のこと知ってるのか。でも、なんで?」


 同じ高校の後輩だった人だと分かると、途端に俺は肩の力が抜けて砕けた口調になった。我ながら分かりやすい人間だ、俺は。


「5月に、文化祭があったでしょう? その時、先輩がクラスで着物を展示してるところを見たんです。私、飾られてる着物があんまり

綺麗で見入っちゃいました。それで、先輩に話を聞きたかったんですけど、なんか、ちょっとだけ話しかけづらかったというか」


 話しかけづらい、というところで、彼女は少しだけばつが悪そうに語気を弱めた。その点に関しては、俺は自覚があった。普段から、あまり社交的に振る舞う方ではない。文化祭での俺も、きっとむすっとした顔で接客していたんだろう。


「ああ、そういうことか。それはなんというか……申し訳なかった」


「いえいえ! 先輩が謝ることではありません! 私が一方的に気になっていただけなので」


 彼女はぶんぶんと首を振る。それから、「あっ、そういえば」と言って突如しゃがみ込んだ。なんだ、と俺が様子を窺っていると、

彼女は「はい」と右手を差し出してきた。


「これ、さっき落としましたよ。着物にも使う絹糸ですよね。大切な糸なんじゃないですか?」


 その手に握られていたのは、例の糸だ。

 そうか、さっき彼女とぶつかったときに落としたのか——そう納得して彼女の手から糸を受け取ろうとした時だ。


「え?」


 彼女の手に握られた糸が、すうっと透けているのが目に飛び込んできて、俺は瞠目した。


「透けてる……」


 完全に透明になっているのではない。透明度で言えば、50%、といったところだろうか。透けた糸の向こうに、彼女の白い手のひら

が見えて、俺は息をのんだ。


「どうしたんですか?」


 驚いて二の句が継げなくなっている俺の顔を彼女が覗き込んできた。


「こ、この糸、透けてへん?」


「え?」


 今度は彼女の方が目を丸くする番だった。俺の言葉につられて、彼女は糸をじっと見つめる。


「うーん、私には普通の白い糸に見えますよ?」


 他の人間と同じように、彼女は首を捻った。分かっている。昨日から散々いろんな人に糸を見てもらって確信した。この糸は、俺にしか特別な色に見えない。そして、今彼女が手にしたことで糸が透けていることも、半ば信じられないことだが俺だけに見えている。

 思えば昨日から、誰かにこの糸を持ってもらったことはなかった。糸を見せた時も、俺が持っている糸をみんなに見てもらっただけで。今、彼女が手に持ったことで初めて糸が透けて見えた。


「ねえ……名前、聞いてもいい?」


 糸のことが気になっていたのに、俺は気がつけば彼女にそう訊いていた。


「あ、そっか。私名乗ってなかったですね。私は向井絃葉むかいいとはです」


「向井、絃葉……」


 いとは。

 心の中で、「いと」が名前に入ったこの少女と出会ったことが、何かの運命なのではないかという気がしてため息が漏れた。


「向井さん」


 俺は、いきなり下の名前で呼ぶのが憚られて彼女を苗字で呼んだ。


「良かったら俺と、友達になってくれへん?」


 どうして自分の口からそんな言葉が漏れ出たのか、自分でも分からない。ただ俺は、彼女が手にしたことで透明になったこの糸の真相を知りたかっただけなのかもしれない。でも、圧倒的な透明感を放つ彼女自身に興味が湧いたのは本当だった。きっとここが教室だったら、こんなにも容易く彼女と打ち解けることはできなかったし、友達になろうなんてくさい台詞は出てこなかっただろう。


「はい。もちろん。喜んで!」


 花が咲いたように笑う彼女が、俺にはとてもまぶしくて。

 病室の窓から差し込む夕暮れ時の日差しが、彼女の瞳も白い肌も、真っ赤に染め上げていた。

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