第22話 それぞれの進み方⑪

 ドクン、と体の中心が脈打つ感覚と共に意識が覚醒する。

 彼女、リリィは、自分がうつぶせに倒れているという事を知覚した。

 次いで、まずは手を握ったり開いたりして、体が動くか確認をしている。彼女の骨の手は以前と変わらず問題なく機能しており、恐らく立ち上がる事も可能だろう。

 その次には、両手を床に付け、ぐっと体を起こしてみる。

 視界には、見慣れた地下室の風景が広がっており、見渡すと、彼が倒れていた。

 その姿を見たリリィは、居ても立っても居られず、立ち上がって駆け寄ろうとするも、うまく肉体制御が出来ずに倒れてしまう。

 前から倒れた彼女の横顔に、ふわりと何かが触れた。


(これ、は。髪?)


 そう、彼女の頭から、以前は無かった真っ白な頭髪が生えているのだ。それは腰辺りまで伸びる長髪であった。

 リリィはバフォメットの言葉を思い出しながら、疑問符を浮かべる。

 これがバフォメットからの贈り物なのだろうか。だとしたら、どういう意味があるのか。

 しかし、そんな疑問もそこそこに、早く彼の下に行かなくてはと立ち上がる為に右手を床に叩きつけるように置いて立とうとする。

 だが。

 重い破壊音と衝撃が右手に伝わってきて、思わずリリィは動きを止めた。

 見やると、堅牢な床が、右手をついた衝撃で割れてへこんでいるのが見える。

 以前はこんな事はなかったから、これもバフォメットからの贈り物だろうかと思いつつ、そういえば自身の体の感覚がおかしい事にも気付いた。

 力が溢れて、制御が難しい、そういった感覚だった。

 これは気を付けなくては、大切なものも壊してしまうと感じ、殊更ゆっくりと立ち上がり、彼の下に向かった。


 彼は、眠っていた。

 ひゅーひゅーと苦しそうな息をして、顔は苦悶に歪んでいるが、無事なようだ。

 リリィは、そんな彼を横抱きに抱え上げ、こればかりは力が増加して助かったと思いつつ、彼の部屋へ向かう為、移動を開始する。

 道中、抱きかかえるよりも、抱きかかえられる方がいいのに、と場違いな事を思ってしまい、首を振る彼女だった。


〇〇〇


 それから一カ月、リリィは地獄にも思える毎日を過ごしていた。

 彼は、依然正気に戻らないのだ。

 更に、拒絶反応が起きているのか、昼夜問わず暴れた。

 机を破壊し、扉を破壊し、壁を破壊し、獣のような声を上げながら暴れるのだ。

 それを何とか収めようとリリィも組み付いてみるのだが、尋常ではない膂力によって何度も薙ぎ払われてしまう。

 彼が振り払おうとした際に、拳が顔に当たった時には、頭蓋骨に大きなヒビが入ったりもした。

 リリィの体のそこここには、大小問わずひび割れや欠けができてしまい、まさに満身創痍といった体である。

 だが、リリィは諦めなかった。

 3か月分はある食料貯蔵庫から、毎日食料を持ち出し、彼に何とか栄養を付けさせようと奮闘していた。

 最初の頃は、陶器の皿に、フォークで食べさせようとしたが、抵抗され、彼はフォークを奪って自分自身の右腕をめった刺しにした。

 苦労を重ねてそのフォークを奪い返しても、彼は皿を割ってその欠片で自分を傷つけてしまうのだ。

 今や食器は木製のものを使っているし、木製のスプーン以外で食べさせる事はしないようにしている。

 また、料理にしてもそうだ。

 最初は栄養を付けてもらおうと、肉を焼いて一口大に切ったものを食べさせようとしたが、抵抗する彼に無理やり食べさせると、喉に詰まってしまって呼吸困難になってしまった。

 呼吸ができなくなって苦しむ彼を見たリリィは、怖くて、どうしていいかわからなくて、ただ狼狽える事しかできなかった。

 幸い、それは吐しゃ物と共に吐き出される事になり、事なきを得たが。

 今では肉は細かくミンチにして焼き、野菜もすり潰してスープに入れ、噛まなくても飲み込めるものだけを食べさせている。

 そんな毎日である。彼が発狂するのに決まった時間などない。朝でも、夜中でも、思い出したように叫び声をあげて暴れるのだ。何度も、何度も。

 自分自身を傷つける行動も起こすため、放っても置けない。

 24時間、ずっと気持ちの落ち着かない毎日を送っているのである。

 だが、彼女は挫けなかった。このいつまでも続く地獄のような毎日でも、彼女は絶対に彼の下を離れない。眠る時も苦悶に表情を歪ませる彼の寝顔に向かって、彼女はそう誓うのだった。


○○〇


 彼の手術から2カ月が経った頃。彼の発作の頻度も一日数回程度に収まってきた。

 もしかすると、回復するのかもしれない。リリィはそんな希望を持ち始めていた。

 対処するだけの毎日と違い、前向きな気持ちになると、今後に向けて色々思いを巡らせる事もできるようになる。

 目下彼女の懸念は、食料である。食糧庫の食材は半分を切っているのだ。

 食糧は生命活動にもちろん必要だし、彼は今、自分の体と戦っているのだ。そんな彼に、沢山栄養を付けて欲しいとリリィは思っていた。

 だから、狩りをしよう、と思いついたのだった。

 

 しかし、狩りなど一度もしたことがないリリィである。どうすればいいかなどはまったくわからないし、罠などを設置するのは無理であると思われた。

 結局、地下にあった弓矢と槍を持ち出す事にして、準備に取り掛かる。

 彼女には人間のような食事は必要ないので、矢筒に込めた数本の矢と、左手に持った弓、右手は槍、そして彼女にとって唯一彼から貰ったボロボロのローブ。それが装備の全てだった。

 出発前に、彼女は姿見の前に立ち、自分の姿を見る。

 腰まで伸びる白い髪は手入れもされておらず、汚れている。ボロボロのローブは、所々破れてしまっている部分が見受けられた。

 体も、所々ヒビが入っており、弓と槍は立派なものに見えるが、総じて少なくとも強そうには見えない容貌に思われた。

 けれど、彼女は胸中で自分を奮い立たせる。


(彼、の、為、に、力、の、つくもの、とって、こよう)


 そう胸中で呟き、拳を握ってから出かけたのだった。

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