有限会社転生トラック

おくやゆずこ

第1話

 ユウはとっくの昔に死んでいる。幽霊である。三十路。現代的に言えばアラサー。現在は模範的なサラリーマン。職場はあの世。そんな死者でありサラリーマンである彼は、トラックを運転していた。今から現世で人を殺す。仕事だ。

運転は得意分野だった。生前散々通勤に車を使ったからだ。愛車の車種は思い出せない。色んな女とドライブデートをした覚えはある。死者の記憶とは曖昧なものだ。

「なあ、お兄ちゃん」

 助手席から声がする。若々しいティーンエイジャーの声。ユウは反応しない。「無視しないでよ」と声はむくれた。くたびれたユウのスーツが引っ張られる。

「ちょっと、ケン、やめろよな。狂うだろ、俺の完璧なドライビングテクニックが。無関係な人が死んだら嫌でしょ?お兄ちゃん怒るよ?」

「怒んないでよ。だっておれ、今超絶暇なんだよ」

 ケンのパーカーの紐はなぜか蝶々結びになっている。推定十五歳。その割に幼い。幼稚。ユウはケンのその幼さを好ましく思っていた。右手で運転操作をしながらもう片方の手でケンの頭を撫でる。

 ケンは立派なティーンエイジャーでありながら優秀で素晴らしい、模範的なサラリーマンだ。赤の他人だが信頼できる。ケンは精神が図体に見合わず幼いからだ。幼い人間というのは大体表裏がないものだとユウは経験から決めつけていた。実際ケンは表も裏もない人間だ。ユウのビジネスパートナー。相棒。そして、弟のような存在だ。

ケンのぼさぼさの頭は彼のトレードマークと言っても過言ではない。犬を思い出させる。ユウは犬が好きだった。猫か犬かと聞かれれば断然犬派。職場で犬が好きなのはユウだけだった。とっくの昔に死んだ者ばかりの、アットホームでホワイトな職場。一度ユウが職場で猫か犬かの論争を持ちかけたことがあるが、他の同僚は白いうさぎがいいだの、ハムスターがいいだのと言って話にならなかった。唯一真面目に答えた女上司は悩んで「猫……かしら?」と確信の持てない様子で答えていた。やがてその話題は自分の娘の方がかわいいだの、自分の彼女の方がかわいいだのという話題に塗り替えられた。そういえばあの場にいなかった同僚が一人いるが、彼女はどちらなのだろうか。ユウはそんなことを考えた。タバコが欲しくなった。もしくは酒か女だ。何派か不明な彼女の胸は大きいな、と姿を脳の奥から引っ張ってくる。安産型の尻。ちびすけなのと彼氏持ちなのが悔やまれる。特に彼氏は鉄壁の守りだ。

「いいなあ、お兄ちゃんの頭」

「知ってるか、これオールバックって言うんだよ」

「違うぜ、おれが言ってるのは頭の中身について」

 職場での素晴らしい思い出、タバコ、酒、女の尻。これのどこにケンはいいなと言ったのだろうか。

「ケンは馬鹿だなあ。お兄ちゃんはろくなこと考えてねえよ?」

「眼鏡じゃん。眼鏡は頭がいいんだぜ」

 眼鏡は賢さの象徴だと思っているらしい。老眼鏡のどこがいいのか。生前スマホ老眼だったユウは息を漏らした。ケンにとっては魅力的らしい愛用していた老眼鏡は指紋が付いている。

「あ、お兄ちゃん。あいつだよ。なんかこう、どよんとしてるやつ」

 資料を撒き散らしながらケンは少年を指差す。仕事前に提示された写真と同じ顔の少年は、高校生だった。

「オーケイ、オーケイ。お兄ちゃんに任せてくれよな」

「さすがお兄ちゃん!」

「捕まってろよ」

 思いきりアクセルを踏む。癖で左寄りだ。少年を轢いた。少年と同じ学校の制服を着た少女が空を見上げて笑っている。その笑顔は数秒後に消えた。そのまま走り去る。少女の悲鳴がBGMだ。胸の大きい少女を拝めてユウは機嫌がいい。ユウの口笛に合わせてケンが合いの手を入れる。いえい、いえい。へい、へい。風を切るトラックはやがて実体を消した。二人は仕事を完璧に完遂した。ユウとケンは、模範的なサラリーマンだ。

「てなわけで、これが報告書その一ね」

「ありがとう。お疲れ様。何もなかったかしら?どうもしてない?怪我とか……」

 猫派の女上司が二人をねぎらう。心配そうにユウの顔を覗き込む。ぽっちゃりとしているが美人だ。ユウの趣味ではなかった。しかし、信頼できる相手だ。

「ハハ、大丈夫でーす」とユウが笑う。

「腹減った!」とケンが手を挙げる。死んでいるのだから、腹が減るわけないのに。

「お父さん、ユウとケンが帰ってきたわよ」

「んー、そうかー」

 ケイコの父親、ユウたちから見て社長が新聞を読んでいる。社長はユウの老眼仲間だ。二人に視線をちらりと寄越すと、手を振った。いつも適当な人物だ。開襟シャツはよれよれ。ケンが大きく手を振りかえす。なんだか楽しそうだ。

「ケイコさんも大変ですねえ」

「最近ようやく慣れてきたわ」

 ケイコと呼ばれた女上司は上品に微笑む。同時に何か面白い記事でもあったのか、豪快に社長が唾を飛ばして笑った。この二人は全くと言っていいほど似ていない。

「ケン、ごめんなさいね。もう少しお仕事してくれる?」

 自分より背の高いケンを見上げてケイコはお願いする。ケンは大きく首を縦に振った。

「ケイコお姉ちゃんの頼みならしゃあねえな!」

小さな会社の奥にある扉を開ける。がたの来ている扉は悲鳴をあげる。明らかに外観と見合っていない広い応接室が現れた。轢いたばかりの少年が佇んでいた。

「へえ、少年はこういう高そうな部屋がお好みですか。俺もこういうの好き」

 ユウがふかふかのカーペットに足をおろす。柔らかい。この部屋は、ユウたちが殺した人間が死後訪れる場所。神が作った特別な場所。訪れる人物によって内装は変わる。今回の少年は、たいそう豪華な部屋が好みのようだ。

「どこですか、ここ」

 少年がユウを怪訝そうに見る。

「おっと失礼!こちら名刺になりまーす」

 ユウが差し出した名刺を少年は素直に受け取る。特に考えていないのだろうな、とユウは思った。それを受け取ったが最後、地獄に落ちるなんてこともあり得るのに。無論、そんなことはない。

「……株式……?会社?転生トラック……?」

「はい、注意力散漫―。読む力ないね、君。若い子って本読まないの?」

大きなカバンを持って動き回るケンの首についている首輪のリードを掴んで引き留めながらユウはにやにや笑う。首輪はケンの生前の持ち物らしい。犬っぽくてユウは気に入っていた。

「正しくは有限会社、ね」

 名刺にはしっかり有限会社と印刷されている。

「だからなんですか」

「死んだってのに君、すごく落ち着いてるねー。すごいすごい」

 少年の瞳孔が泳いだ。黒目が大きくなった。

「死んだんですか、僕」

「そうです!理不尽にもね」

 理不尽。社長の口癖だ。少年は体を確認している。まるで生きているようだ。轢かれたというのに血まみれではない。怪我はあるようだが、ユウがトラックを走らせる前からあったもののようだ。

「ちなみに、君を殺したのはこのイケメンサラリーマンなお兄ちゃん、俺でーす。かわいそうに。どうせならかわいい女の子がよかったよね」

「ここ、天国ですか」

「天国でも地獄でもないぜ!会社だぜ!」

 会話に首を突っ込んだのはケンだった。少年に噛みつきそうな勢いだ。

「転生トラック?っていうくらいなんだから転生させてくれるんでしょ。早く転生させてくださいよ」

「察しがいいな、少年」

 ユウは指を鳴らす仕草をする。音は鳴らなかった。ケンがおろおろしたあと、カバンからチラシを取り出した。「遅い、練習したのに。かっこよく決まんないじゃん」ユウが不満そうな顔をする。「お兄ちゃんだって鳴らなかったじゃん」とケンが反論する。

「理不尽にぶちのめされたそこのあなたへのとっておきのサービス?」

 少年が大きな字で書かれたキャッチコピーを読み上げる。社長が思いつきで作ったものだった。チラシなんかがあった方が会社っぽくてテンションが上がるとかなんとか言っていた。

「資料カモン!」

 皮膚と皮膚が擦れて滑稽な音を小さく鳴らした。一拍遅れてやってきたパンフレットが開かれる音の方が大きかった。

「お兄ちゃんたち、神様女神様のために異世界転生?ってやつのお手伝いしてるわけよ」

「ラノベで見たことあります」

 ああ、と苦笑しながらユウがこりのひどい肩に手を当てる。

「なんか長いタイトルのやつでしょー?お兄ちゃん知らないけど、生きてた頃に話を聞いたことが何度もある」

 少年は信用できない人を見る目をした。ユウが「でも面白そうだった」とフォローを入れると、少年の目は嘘つきを見る目に変わった。

「君は今回、女神様に指名されて異世界に転生することになりました!なんか現世でも流行ってんでしょー?異世界モノってこっちでも流行ってんのよ。だから誠に残念ですが、君は殺されちゃいました、ってわけ。神様にエンタメ消費されるなんて可哀想だね」

 ま、元気出していこうぜ。ユウが少年の背中を叩く。

「まさか、僕が異世界転生するって言うんですか」

「そーいうこと。君は……なんだっけ?ケン、資料くれ、早く」

 指は鳴らさない。ケンがカバンをひっくり返す。カーペットに紙が散らばる。それを踏むたびに紙が音を立てる。少年にとってそれは耳障りだった。

「あったあった。君はねー。根暗が勇者になるストーリーって言う仕事だね。うん、ぴったりだ」

 ライトノベルによくあるそれは、ある女神の依頼だった。趣味が悪い女神で、使いの天使は飼い主に似たフェネックだったのをユウは覚えている。紙を踏む音を聞かされた。最悪だ。みたいな顔をされて、ユウは笑った。根暗なんて言われていい思いをする人はいない。生者も死者も同じだ。どちらも同じ感情を持ち合わせているのだから。

「もう早く転生させてください」

「待って、サービスがまだだから」

 ケンに匂いを嗅がれている少年。つまらなさそうに聞く。「サービスってなんですか」

「なんと!大体のお願いを叶えてあげるシステムでーす」

「サービスじゃなかったっけお兄ちゃん」

「どっちでもいいんだよ、その辺察せる大人になってくれや」

 細かいことを気にしていたら人生つまらない、と豪語するユウ。少年は難問を前にしたかのようだった。

「で、少年。願いはなんだ」

「ありません」

 ケンが音量調整の壊れた声でなんでだよー、と叫ぶものだから少年が耳を塞いだ。

「じゃあ探しに行こうぜ」

「お兄ちゃん賛成―」

 少年の抵抗は無駄だった。そういえば自分の抵抗は人生において全て無駄だったな、と少年は自身の人生を思い返した。一夜漬けのテストも、いじめっ子も。二人に引きずられるようにして移動させられながら人生を反芻している間、不思議なものを見た。暖色に光る廊下だった。それが現世につながる道だと気がついたのは、少年の家に着いた時だった。一般的な一軒家。なんの変哲もない。キッチンというより台所、と言う方が適している場所に出た。

「はい、君が生きてた世界でーす」

「そうですね」

「家だ!少年の家だー!おれ、こいつが誰か知らねーけど!」

 走り回ろうとするケンの首につながるリードを引っ張る。ユウを不満そうにケンは見た。部屋からは女性が出てきた。ユウが少年の家族構成を確認する。少年の妹のようだ。

「うわ、あの、僕がいたらびっくりするんじゃ……」

 慌てる少年に、好感度があがった。ユウは耳をほじる。

「君は死んでる、俺も死んでる。だから見えないよ」

 ユウの言葉を証明するように妹は三人には目もくれずしゃがみ込んだ。少年が妹に手を伸ばす。貫通した。触れられない。お触り禁止、とユウが口角を上げる。妹は涙ぐんでいた。やがて鼻をすすると、わんわん泣き出した。

「なんで泣くんだ?」

「ケンは馬鹿だなあ。人ってのは大抵知人や家族が死ぬと泣くんだよ。はいここ、テストに出まーす」

 ケンが心配そうに妹を見る。その実に人間らしいケンの姿を見るたびに、ユウはこいつは本当に人間だったのだろうかなんて考える。人間らしく泣いたところを見たことがない。痛がる様子も見たことがないし、感動する涙、というのも見たことがない。前者は死んでいるのだから当然だが、後者は見てもおかしくないとユウは思っていた。自然に溢れ出す涙というのを彼は知らないのだろう。頬を伝う感動を、寂しさを、悲しみを、彼は知らないのだろう。感情豊かなティーンエイジャーの皮を被った薄情者。薄情者というのはユウとお揃いだ。

「ご両親、健在だよね。なんかないの?お金大量に遺したいとかさあ」

「保険金があるでしょ」

 少年は歩き出した。家に未練は無いようである。薄情者なのは少年もなのかもしれない。ユウは親近感を覚えた。

「少年よ、君はご両親が嫌いなの?クソだった?」

「失礼。両親や妹はたまにうざいこともあったけど好きです。大事に育てられました。クソではありません」

「おれもおかあさんとかおとうさんとか好きだった気がする!」

 突然の背後からの大声に、少年が驚く。尻もちをつく。体はないのに、しっかりと痛みは主張してくる。不思議な感覚に少年は戸惑った。幻肢痛とはこういうことを言うのだろうかとか考えた。

「気がするってなんですか」

「覚えてねーもん」

「お兄ちゃんたち、死んでから就職したりとか色々あったからさ。忘れちゃったのよ。もうあの世の住人認定されてるのかなー?」

 じっとりとした恐怖。スーツ姿の現代人と、パーカーを着た大柄な子供。人間に見える。だが、人間の定義がわからなくなるほどに彼らの存在は曖昧だった。少年が目線を逸らせば、目に入ってくるのは彼の遺影。笑っているのか困っているのか絶妙な顔をしている。気に入っている写真があったのだが、それは使われなかったようだ。

「あ……」

「おー。イケメンに写ってんね。俺より下だけどさ」

 少年は気がつけば家を出ていた。走った。疲れない。腹も減らない。喉も渇かない。尿意も無い。空気が感じられない。風が感じられない。呆然とした。口が塞がらなかった。空気を吸おうとしたが、吸えなかった。空気を吸うという生命活動における重要な動作ができない。忘れている。

「鬼ごっこか。速いな!おれびっくりした!」

 パーカー姿の大きな少年が目の前に立っていることに気がつき、少年は言葉を発しようとした。静寂が訪れた。自分は言葉さえも忘れたのかと思ったが、単なる驚きによるものだった。吐きたかった。吐けなかった。吐き出すものは言葉くらいしかなかった。

「少年、びっくりした?」

「そんなわけがない僕が死ぬなんておかしいしありえないよまだなにもしてない明日はテストだけど勉強してないなそうだ金もないからまた殴られるどうしよう」

 しゃがんで頭を抱える少年の隣にユウは座った。背中を撫でてやる。おれも、と言ったケンをユウは遮った。

「ねえどうしよう、また学校でいじめられる」

「……うん、そうだね。怖い?」

「怖いよ。当然でしょ」

 少年はユウを見た。それに寄り添う大人。首を傾げたあと周りを見渡す子供。その姿は、誰の目にも映らない。

「じゃあ、今日は帰ろう!」

 寄り添う大人が見せた顔は明るかった。

「おじさん、明日はどうするの?」

「もう休んじゃおうか。あと、俺はおじさんじゃないんだよなー。お兄ちゃんだよ」

 何か言葉を吐き出す直前、少年の理性が何かに気がついた。言葉を飲み込んで、うなずく。口元は笑っている。少年は明日学校を休むことを決めた。状況を冷静に見たらなんとも意味のわからない光景である。

「なあ、よくわかんないけど、何言ってんだ?」

 ケンは何も理解していない。死んでるのに。と言いたげだ。

「……薄情者、だな」

「お兄ちゃん?」

「なんでもねーよ、それより帰ろうな」

 ケンは大きな声で返事をした。あまりにも元気で場にそぐわない。子供と大人の間のはずの年齢。背の高い体はスキップを始めた。

「お、起きたか」

 いつのまにか眠っていた少年は埃臭い場所で目を覚ました。汚いでしょ、うちの会社。ユウがそう少年に言ったことでやっとここがオフィスであるということを少年は理解した。乱雑にダンボールが置かれている。ありきたりなデスクは似たようなのをテレビで見たことがあった。

「僕、死んだんですよね」

 ユウは何も言わなかった。困ったように笑っていた。しばらく二人が黙っていると、少年は何者かに後ろから抱きつかれた。ケンだった。

「そうだぜ!それより、腹減ってないか?」

「減ってないです。死んでるから」

ユウが静かに聞いた。「もう、向き合えるか?」少年は目を見てうなずいた。

「じゃあ、願いを見つけに行こうか」

「ああ、そうでしたね。……みんな、僕が死んで忙しいかな」

困り眉になったユウの顔を不思議そうに少年は見た。

「落ち着いてると思うよ。もう一ヶ月くらい経ってるから」

動けなくなった少年を二人は引きずるようにして運んだ。少年は陰鬱とした頭で考えた。光る廊下。そうだ、願いはこれにしよう。

「おじさん、僕願いを決めました」

「お兄ちゃんでーす。減点な。それで?何にしたの?」

「いじめてきたやつらに復讐したいです」と言えば、軽い笑い声が返事をした。

「いいじゃん」

 学校は少年がいなくても動いていた。当たり前だ。いじめっ子も変わっていなかった。

「じゃーん、意識操作できる魔導書」

「本なんですね。古風だ」

 覚悟を決めている少年はどこか意識が遠いところにあるようだった。

「こういうのって神様からもらうんだけどさ。これ、使い切りだから大変なのよー。個数に限りがあるから理由いちいち書かなきゃいけなくて。しかも使えるかどうかは社長の気まぐれ。ま、嘘ついて持ってきたけど」

 ユウと少年はお互い笑った。乾ききった笑いだった。ケンが暇そうにパーカーの紐を結んではほどいてを繰り返している。

「これでいじめっ子君たちを屋上に行かせまーす」

 言葉が足りていないので意図が少年に伝わっていなかった。少年は不思議そうにしている。休み時間、いじめっ子たちは思い立ったかのように屋上へ侵入した。漫画ではないのだから、本当は入ってはいけない場所だ。

「ねえおじ……お兄さん、これからどうするの?」

「ああ」

にやにやとユウが笑う。不気味だった。

「突き落としてもらいます」

 いじめっ子たちは景色を見ている。笑い声。

「……は?」

「こいつら。突き落として。今すぐ」

 突然のことに思考が止まる少年。にやにや笑う大人。興味を示す子供。何も見えないいじめっ子たち。彼らは何も知らない。善良な高校生に見える。少年の手が震える。そしてユウを指差した。

「あなたは、悪魔ですか」

 返答はない。しばらくして、震える少年の唇を見たユウが考える仕草をした。

「悪魔かもしれないねー。君にはどう見えてる?羽根とかあったらかっこいいとおもうんだけど」

 人間の形をしている。少年の目に映るのは紛れもない人間だ。だが、どこか人間とは違う。今はもう無い脳がそう告げている気がした。警鐘。

「なあ、悪口言ったか?悪口、だめなんだぜ」

 肩を掴まれる。強く爪が食い込む。痛みはない。なぜ痛みはないのか。考えようとしたとき、やめた方がいいと警鐘が鳴った。

「やめなさいケン。怒るよ」

 ケンが手を離す。どうせ痛くないのに、と不満そうだ。

「で、どうするの?突き落とさないの?」

「僕は……」

 目の前にいるのは、少年が憎いと思った相手。あるはずのない心臓が鳴る。そんな感覚が少年を包む。悪魔の囁きが聞こえる。君が殺したところで、なんの差し支えもないよ。俺らがなんとかするから。ユウが何か液体を少年の手にかける。液体は浸透していって、そして悲鳴が上がった。少年はいじめっ子の一人の肩に手をかけた。触れられる。風を感じる。それも、手だけ。純粋そうな高校生たちは、後退りするように柵に向かって逃げていく。ちょうどいい。手に込める力を強めた。

「……ふうん」

 ユウとケンは空を見ていた。綺麗とは言えない曇天。

「やめたんだ、殺すの」

「やめました。あいつらなんか驚いてたし。もう願いはありません」

 少年は清々しい顔をしていた。ユウは笑っていた。

「なんで笑ってるんですか」

「何が答えか、とか無いけどさ」

 ユウは少年の頭を撫でる。ケンは自分も撫でて欲しそうにユウに頭を押し付けている。

「俺は花丸あげちゃうかも」

 悔いはないようだった。

「はーい。ケイコさん、これ報告書その二ね」

 少年の行動は全て文章に起こされた。それらはひどく無機質で淡々と綴られている。文に癖がある。異様にしかしという単語が使用されている。ですます調。明朝体。見出しは角ばったゴシック体。

「あの子、今何してんの?」

「元気に勇者してるわよ。大丈夫、ちゃんと仲間もいる」

「人ってやっちゃったことある?」

「人を殺したかってことかしら?盗賊退治や悪い王族への謀反が格好よかったって女神様が言っていたけれど」

 その言葉を聞いたユウは少年への興味を失った。転生したら皆会社に関わった記憶を消される。願いも、願いのその先も忘れてしまう。ユウは少年のあどけない良心が好きだったのに。

「ふええ、社長、これ全部報告書書くんですか?無理ですゆ!」

「アズが可哀想だとは思わないのですかクソ社長」

 女の子たちが社長に文句を言う声が聞こえてきた。変な語尾の舌足らずな声と、ハスキーボイス。詰め寄られて社長が焦っている。ドーナツで気を引く作戦に出た。失敗している。

「アズお姉ちゃんと、ユカリお姉ちゃん!」

「うええん、ケン君助けてほしいんだゆ!アズには無理だゆ!」

「私も同感です。アズに難しい仕事は無理だと思いますわ」

 ピンクのワンピースを着たアズがケンに泣きつく。スーツの似合うユカリが社長に詰め寄っていた。片手にはスタンガン。

「やめてくれ、それ痛いんだよ死んでるのに。仕事しろ。なんならユウに話聞いてもらえ」

 視線でSOSを送られたユウはふいっとそっぽを向いた。

「お兄ちゃん!話聞いてあげようぜ!」

 アズの期待とユカリのスタンガン、そしてケンの笑顔にユウは勝つことができなかった。座るように促すと、アズが嬉しそうにサイドテールを揺らした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る