第12話 夢



 それは、マリアローズが十一歳の時の事だった。

 この日もマリアローズは、ハロルドと遊んでいた。


「マリアローズは、最近あまり庭園に来ないね」

「ええ。淑女らしく刺繍をしているのよ」

「それで指が包帯だらけなんだ?」

「うっ……」

「どんな模様なの? 俺も見てみたいな」


 気恥ずかしくなって指を隠しながら、マリアローズはハロルドを見た。最近のハロルドは、『ぼく』ではなく、『俺』と言うようになった。最初は違和感があったけれど、今はしっくりくる。


 そんな事を考えていた時、マリアローズは白い仔猫を見つけた。迷い込んだらしい仔猫はフワフワの毛をしていたのに、撫でたら思ったよりも硬くてビックリした。


「可愛い」

「そうだね」


 柔らかく笑ったハロルドは十三歳。

 まだ背が伸びていない頃で、マリアローズは少し伸びたから、少しだけ低いくらいだった。マリアローズが仔猫を抱き上げようとすると、その猫は茂みの向こうに走って行ってしまった。そちらは後宮の敷地外――王宮だった。


「追いかけなきゃ!」


 仔猫ともっと遊びたいという思いと、王宮への好奇心。

 後宮から一度も出たことの無いマリアローズの提案に、ハロルドは目を丸くした。


「ダメだよ。出ちゃダメだって言われているよ?」

「こっそり! 秘密よ!」

「……マリアローズ、危ないから」

「どうして? ハロルド殿下は私を守ってくれるのでしょう?」


 純粋な色を瞳に浮かべ、天真爛漫な笑みでマリアローズが言うと、ギュッと目を閉じたハロルドの頬に朱が差した。マリアローズはその時には既に茂みをかき分けていた。ハロルドがすぐに追いかけてきてくれたので、ちょっとした冒険に胸を躍らせつつも不安があった彼女はホッとした。


 こうして二人は、後宮の外に出た。そこは王宮の裏庭に通じている場所で、切り立った崖が見えた。歩いていった二人は、仔猫がどんどん急な斜面の岩肌を登っていくのを確認する。


「危ないわ!」

「うん。帰ろう」

「違うわ! 猫が危ないのよ!」


 マリアローズが走り出した。慌ててハロルドが手を伸ばす。しかしマリアローズの服を掠めただけで、手は届かなかった。マリアローズはそれには気づかず、仔猫を助けなければと走っていく。子供の足でなくても険しい坂道を登っていく。こうなってはマリアローズは止まらないだろうと判断して、ハロルドもまた走る。マリアローズは優しい。優しいあまりに、自分を省みない部分がある。


「よかった……」


 マリアローズは、仔猫が戻ってきたので抱き上げる。そして両頬を持ち上げた。髪に飾ってある白いリボンが風で揺れている。その笑顔が誰よりも眩しく感じて、ハロルドが苦笑した、その時だった。


 唸り声が響いてきた。焦って顔を上げ、そちらを見た二人は硬直した。

 そこには魔狼がいたからだ。魔狼とは、狼の形をした魔力の塊だ。

 めったに王宮に魔獣は出ない。だが時折、魔狼が現れる事があるのは、二人とも家庭教師の先生から習っていた。唾液を嚥下し、ハロルドがマリアローズの元へと向かう。マリアローズも後ずさり、それから踵を返して目を涙で潤ませながらハロルドの元へと走った。


「逃げるよ。大丈夫だから、俺がついてる」


 ハロルドは、しっかりとマリアローズの片手を握り、音を立てないように気をつけながら、マリアローズを促して、すぐそばの入り口から、王宮の中へと入った。倉庫に続く裏口で、守衛もいない場所だった。ハロルドがたまたま探索して知っていた場所だ。


 暗くほこりっぽい倉庫に入り、きつく戸を閉め、鍵をかける。

 それから二人はホッと息をついた時、仔猫はニャァと鳴いた。気が抜けたマリアローズは座り込んで号泣する。仔猫は床におりると、影に隠れてしまった。


「マリアローズ、大丈夫。もう大丈夫だ」


 安心させるようにハロルドが言った。それからポンポンと叩くようにマリアローズの頭を撫でた。涙で歪む視界で、マリアローズはハロルドを見上げる。そしてびっくりして、涙を拭いて、もう一度ハロルドを見た。ガクガクと震えている。


 そこで初めてマリアローズは、ハロルドも怖かったのだと気がついた。

 すると屈んだハロルドが、両腕でギュッとマリアローズを抱きしめた。

 その腕もやはり震えていた。

 だからマリアローズも腕をまわし返して、また涙を零しながらも言った。


「大丈夫よ! 私がついてるもの! だ、大丈夫よ!」


 それを聞くとハロルドが驚いたような顔をしてから、にっこりと笑った。そしてゆっくりと瞬きをすると、頷いた。


「そうだね。ずっと俺のそばにいてくる?」

「ええ、いいわ。勿論よ!」

「約束だよ」

「そうね、約束」


 マリアローズもまた泣きながら笑って頷いた。その後二人は、いつもは優しい国王陛下と正妃様に酷く怒られたものである。




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