家事と喧嘩は江戸の花、医者も歩けば棒に当たる。

水鳴諒

第一章:残んの月

第1話 懐かしき江戸の町


 春と夏の境目の清涼な風が、頬を撫でていく。


 久方ぶりに帰ってきた江戸の町並みを視界に捉え、柴崎椋之助しばさきりょうのすけは唇の両端を持ち上げた。柔和に細められた両目は優しげで、総髪は艶やかだ。長崎からの旅路を終え、椋之助は四年ぶりに江戸へと戻った。二十二歳で蘭方医学の知識を乞いに出向き、現在は二十六歳。小さく顎を持ち上げて、椋之助は空色の天を仰ぐ。


「皆、元気にしているでしょうか?」


 家族のことを考えると、再会が楽しみでたまらない。

 一歩足を前に進め、歩みを再開しながら椋之助は微笑した。


 まずは父である斗北とほく藩の家老、柴崎惣右衛門しばさきそうえもんに挨拶をする予定だ。惣右衛門とは祖父と孫ほど歳が離れており、兄の柊太郎しゅうたろうのほうと親子に間違われやすい。柊太郎の娘である姪のぬいは、今年で十八歳だっただろうか。


 なにより会いたい相手は、長崎に出向く前まで、己に漢方医学を教えてくれた叔父の凌雲りょううんだ。なにかと多忙な父や兄、亡くなった母よりも、幼少時から多くの時間、椋之助は凌雲のもとで学びながら過ごした。漢方医学はもとより、その他の勉学や簡単な武芸もまた、凌雲に師事したといえる。


 あれはまだ五歳の頃だっただろうか。

 子は七つまでは神のうちとはよく言うが、母も既に亡く、父と兄が不在の日々において、椋之助は泣いていたことがある。周囲の小者や乳母に世話をされていたとはいえ、自分を家族が見てくれないように感じ、膝を抱えて杉の木の幹に背を預けて泣いていた。


「ここにいたのか」


 すると凌雲が探しに来て、屈んで手を差し伸べた。見上げた椋之助は、涙で滲む瞳で叔父に視線を返す。


「私は父上の本当の子じゃないんだ。だから、父上は私を放っておくんだ」

「それは違う」

「でも、みんなが言ってる。私は父上の子じゃないって。私の顔が、父上にも亡くなった母上にも似てないって。寧ろ殿に似てるほどだって」

「椋之助。いいか? 人間の顔は皆似ている」


 凌雲はそう言うと柔らかく笑ってから、手を伸ばして椋之助の頬に優しく触れた。そして指先で涙の筋を拭いながら続けた。


「目が二つ、鼻が一つ、口が一つ、耳が左右についている。たまには違う者もいるが。ほら、似ているだろう? いいや、ほとんどおんなじだ」


 それを聞き、椋之助は目を丸くした。そのように考えてみたことが、一度も無かったからだ。


「だから顔かたちよりも、気持ちが大切なんだよ」


 凌雲は温かい声でそう告げる。


「お父上は椋之助を大切な子だと思ってる。それはお前の叔父である俺にはよく分かるんだ。ただ多忙なだけだ。今も久しぶりに早く帰ってきたら、椋之助の姿が見えないと聞いて、血相を変えて走りまわって探しているぞ。それは柊太郎も同じだ。ほら、元気な姿を見せに行こう」


 自分に手を差し出した凌雲をまじまじと見てから、椋之助はその手を取ることにした。

 二人で手を繋いで戻れば、慌てたように走ってきた惣右衛門が椋之助を抱きしめた。あまりにも力が強く、椋之助は目を白黒させる。それから惣右衛門は我に返ったように手を離すと、咳払いをしてから眉間に皺を刻んだ。


「何処へ行っておったのだ。心配をかけてはならん」


 この夜は、父と兄、そして叔父と共に、長らく話をしていた。

 それは楽しい一時で、今も強く記憶に残っている。

 椋之助が人体に興味を抱いたのも、この日のことだった。


 様々なことを叔父に習い吸収した後、蘭方医学にも興味を抱き、意気揚々と向かった長崎では様々なことがあった。今では椋之助は、いっぱしの刀圭家とうけいかになったと自負している。まだまだ研鑽を積む必要があると考えてはいたが、十分に叔父の手伝いは出来るだろうと思っている。


 こうして椋之助は江戸の町へと戻った。現在の将軍は十一代目だ。


 ――これが、一年ほど前の記憶である。その間は、新しく親しくなった者と手紙のやりとりなどもして過ごした。馴染みの呉服屋の若旦那が、縁あって運んでくれる。



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