九章 反撃の奇策(3)

「申し訳ございません、将軍……」


 女魔族は重傷を負った主に謝罪した。先の戦いで、主――獣魔将は腹を深く斬られ、退却している間に大量の血を流し、森の奥に逃げ込んだときには歩くこともままならない状態に陥っていた。巨躯の魔族兵に運ばせ、獣魔将は岩に身体をあずけるように座らされ、腹の傷を治療した。傷は塞ぐことはできたが、出血のせいで獣魔将はかなり衰弱していた。滲み出るようだった覇気も著しく薄れていた。


 ディノンたちは残ったヴォスキエロ軍の兵士は半分――およそ二万五千と見積もっていたが、実際に残ったのは一万五千ほどだった。残った二人の武将も一人は重傷を負い、これ以上の戦闘が不可能な状態だった。獣魔将率いるヴォスキエロ軍は、壊滅したと言ってよいほどの惨敗を喫した。


「気にするな……」


 獣魔将は薄く笑った。


「ですが、私をかばったせいで」

「あれは相手が上手だっただけだ。お前のせいではない。お前の魔眼は、高い集中力と精神力を必要とする。感情を揺さぶって、それを乱したのだろう。おそらくディノンの知恵だ」


 そう言った獣魔将は面白そうに笑った。


「将軍は、ディノンを高く買っておられるようですね」


 そうだな、と獣魔将は息をついた。


「この世界でゆいいつ魔王を倒すことのできる存在が、あの男だろうと、俺は思っている」


 まさか、と女魔族は目を見開いた。


「たしかに剣の腕は優れていたように見えましたが、将軍ほどの強者には見えませんでした」

「武芸が優れているだけで魔王を倒せたら、俺でも弑逆は可能だろう」

「将軍」


 弑逆という言葉を口にした主に、女魔族は咎めるように声を上げた。獣魔将は喉の奥で声を立てて笑った。


「だが、魔王は力でもって倒せるような、容易いお方ではない。五万、いや十万の兵をぶつけても、それは不可能だと断言できる」

「魔王様は、それほどお強いのですか?」

「お前は、魔王にお会いしたことはあるか?」


 女魔族は首を振った。会うどころか、姿を見たことすらない。若いのか年老いているのか、性別さえ分かっていない。――女だ、という噂は官の中で流れているが。


 そもそも現在の魔王の姿を見た者は、ほぼ皆無と言っていいだろう。獣魔将でさえ、玉座に座る魔王を御簾越しで見た程度だ。発せられる声はくぐもり、年齢も性別も判別できない。それほど謎の多い方だった。


「強い、という次元ではない。そんなもので推し量れるような、いや、そもそも人と相対できるような存在ではない。人に直接なにかをすることもない。ただ、従わせる……。生きる世界が違うのだ。逆らうことはもちろん、抗うことすらできない」


 不可解そうに首をかしげる女魔族に、獣魔将は苦笑した。


「説明されても分からぬな。お前もいつか魔王に拝謁する機会があるだろう。そのときになれば、俺の言ったことが理解できるはずだ」


 はぁ、と女魔族が頷いたとき、一人の兵が慌てた様子で駆け込んできた。


「レヴァロスと名乗る一団が、将軍に面会を求めております」

「レヴァロス? なんだ、それは?」

「分かりません。ただ、首領と思われる娘は、自分は先代の魔王の子孫だと申しております」


 獣魔将は女魔族と顔を見合わせた。


「ここに連れてこい。丁重にな」


 兵士は深く頭を下げて駆け去っていった。


「よろしいのですか?」

「なにを根拠に先代魔王の子孫などと申すのか、たしかめる必要があろう。それが真実だとして、なにが目的なのかも問わねばならぬ」


 やがて連れてこられたのは十七、八くらいの若い娘。紫の髪に湾曲した角、細長い尾、赤褐色の肌、そして赤と緑のオッドアイ――この特徴には見覚えがあった。たしかに先代の魔王も赤と緑のオッドアイだった。先代魔王の氏族の特徴だ。


 彼女はさらに二人の人物を従えていた。一人は狼人の男、そしてもう一人は先の戦いでディノンと一緒にいたソルリアム軍の女兵士。女魔族はそちらへ鋭い一瞥をくれて、娘のほうに目を戻した。


「俺が獣魔将だ」

「先代魔王の末裔、ゼルディアよ」


 獣魔将は頷き、ゼルディアをまっすぐ見つめてたずねた。


「用件を聞こう」

「祖先が奪われたものを取り返すため、新たに王として起つことにしたわ。ひいてはヴォスキエロ軍兵士は私の傘下に入り、簒奪者をともに討つことを要求する。従わなければ、力を持ってあなたたちを叩き潰す」


 獣魔将は失笑した。


「叩き潰すか。ずいぶんと強気な王様だな」

「上が強気なら、下は迷うことなくついてこれるでしょう?」


 たしかに、と獣魔将は笑う。


「だが、理想だけでは行き詰まる。貴殿は打倒魔王を掲げているようだが、それは本当に可能なのか?」

「可能よ」


 即答したゼルディアに、獣魔将は笑みをおさめて軽く目を細めた。


「私たちは魔王の弱点を知っている。倒す方法も考えてある。そのために長い時間をかけて準備をしてきた。その証明に、私たちは先日、あなたたちが敗北したソルリアム軍からシュベート城を奪ったわ」


 まさか、と女魔族は驚愕し、獣魔将は女兵士を見た。


「貴殿もソルリアムの兵士であろう? 仲間を裏切ったのか?」


 ええ、と女兵士は頷いた。


「レヴァロスの同志には魔族だけじゃなく、多くの人間族や獣人族もおります。彼も、もとは犬人氏族師の将軍でした」


 と、ゼルディアの隣に立った男を見た。頷いた彼は、落ち着いた口調で言った。


「同志の数は三万にもおよぶ。戦える兵士はまだ一万ほどだが、先の戦いで疲弊した貴殿らと互角に戦うことは可能だろう。貴殿らを倒せば、ヴォスキエロ軍は事実上壊滅する。違うか?」


 獣魔将と女魔族は顔をしかめた。彼の言う通りだ。先の戦いで相当数の被害が出て、獣魔将と武将の一人が重傷を負った。ヴォスキエロ軍の士気は著しく低下し、ここでさらに大打撃を受ければヴォスキエロには戦う力がほとんど残らない。


「たとえ我が軍を壊滅できたとしても、貴殿らに魔王が討てるとは思えぬが」


 いいえ、と女兵士は首を振り、腰に佩びた剣に手をかけた。


「この剣を使えば、魔王を倒すことは可能です」

「それは?」

「氷の精霊が変じた霊剣。眈鬼を封印していた要石です」


 女魔族はぎょっとしたように顔を強張らせ、獣魔将は表情を険しくした。


「眈鬼――かつて神々に敗れ、バラバラに引き裂かれた女神エリュヒから生まれた怪物」

「知っておいででしたか」

「いちおうな。なるほど。そんな化け物を封印していた剣ならば、魔王を倒すこともできるかもしれんな」


 ゼルディアは微笑を浮かべた。


「戯言ではないと、証明できたかしら?」

「ああ。しかし貴殿らの軍門に降ることはできぬ。我らの主は、いま首都におられる魔王だけだ。貴殿ではない」

「我らの主、ね……」


 呟くように言ったゼルディアは、深くため息をついた。


「なるほど。獣魔族の王は、本当に落ちぶれてしまったようね」

「なに?」


 ゼルディアは射抜くような視線で獣魔族を睨み上げた。


「まるで慕うように魔王を主と呼んでるけど、あなたは自分が本来するべきことをあいつに押しつけただけよ。獣魔族の王だったあなたは戦うことしか能がなく、自分じゃ一族をまとめることができないから、それを放棄したんだわ。私の祖先から玉座を奪った魔王の強さに屈して、一族を売り渡した。そして自分はその下につきながら、託された軍事をほしいままにしている」


 獣魔将は黙した。ただ、鋭くゼルディアを睨み返した。


「矜持すら失ってしまったあなたは、もう最強の武人ではないわ。実際、あなたはディノンって男に敗北して、のこのことこの森まで落ち延びた」

「違う! 将軍は私を守るために!」


 思わず叫んだ女魔族に、ゼルディアは一瞥をくれる。


「よせ」


 獣魔将は部下を止め、傷の痛みで顔をしかめながら、ゆっくりと立ち上がった。まっすぐゼルディアを見つめる。


「俺を怒らせて、こちらから仕掛けさせようとしているな。その挑発、乗ってやろう。城で待っているがいい。調子に乗った小娘を、俺の手でしつけてやる」


 ゼルディアは、にっと笑った。


「上等よ。返り討ちにしてあげるわ」

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