三千世界の長い夜

MITA

崩れ去る世界

砦からの脱出

第一話

 霧の立ち込める山道を、二台のほろ馬車が進んでいた。石畳の上を先導する二騎の爪音つまおとが、静かな朝を迎えたエトス山の山肌に響き渡る。手枷を嵌められ前列の馬車に乗せられているのは先日帝国が捕縛した囚人で、名をシンといった。


「おい、あんた」


 馬車に同乗していた若い兵士が、彼に話しかけた。年は若く、先程から暇そうに外を眺めていた。おそらくは任務の退屈を紛らわすため、囚人にちょっかいをかけようと思ったのだろう。シンは兵士の方を見て、自分のことかと確認した。


 その仕草を見た兵士は頷く。


「あんたさ。あんたは一体、何をやらかした」


「分からない」


「分からない?」 兵士はハッ、とあざけった。「自分がどんな罪で捕まったか、分からないと?」


「君たちが考えているものについていえば、ただの勘違いだ」


「罪人はみな、二言目にはそういうものだ。商人を襲ったと聞いてるぞ」


「峠の険しい道だった。あの商人は高台から滑落して、身体を強く打ち付けていた。私が見つけたとき、すでに息はなかった」


「そこに偶々たまたま、兵が通りがかったと? ならばなぜ、弁明しなかった」


「なぜ、する必要がある」


 その返事ははあまりに淡々とした口ぶりでなされたので、兵士は拍子抜けしたような顔をして、


「ハ! そうしたらお前は、勘違いで死のうとしてるというわけか。嘘を付くなら、もう少しマシな嘘をついたほうが良い」


「そうかもな」


 安っぽい挑発を受けても、シンはあくまでそういって譲らなかった。


 妙なやつだと思ったのだろう、兵士は怪訝けげんな顔をした。こいつだって、これからどうなるか見当がつかないわけでもあるまいに、と。帝国の法では、市民の法的な権利を不法に侵した自由民は、その度合いに応じて罰を受けることに決まっている。今回で言えば、死罪である。この馬車の向かう先で処刑されるのだと、シンも当然、そのことを承知していないわけではなかった。


「死ぬのは怖くないのか」だからこそ不思議に思ったのか、兵士は尋ねた。


 しかしその問いは、シンにとってはまるで意味のないものだった。「なぜ、死ぬのが怖いと思う……考えてみるがいい。お前とて兵士だろう。お前は死ぬのが怖いと思うか」


「まさか。いつでも死ぬ準備はできている。だがそれは、誰かを守るための戦いに身を投じたときの話だ。お前の話が本当だとするなら、お前は無実ではないのか。俺がいうべきことではないが、罪の疑いをかけられた時、おまえは弁明をすれば逃れられたかもしれないし、無実であるならば事実そうすべきだったのだ。はっきり言って、そんなことで死ぬのはばかげている。死ぬならもっと、大きな目的のために死のうとは思わないのか」


「ない」シンはこの質問には、きっぱりと答えた。そしてどこか諦めたような口調で苦笑した。「どうやらお前と私では、ものの捉え方が違うようだな」





 どうしてこの男は、こんなにも強情なのだろう? この男が己の命より戦いの名誉を重んじる自由民であるから、こんなにも命を軽く見ているのだろうか? 兵士は、おそらくはそんな事を考えているのだろう。呆れ顔の兵士は、彼の意図をまるで理解できないようだった。確かに帝国的な、言い方を変えれば文明的な価値観には反するものであり、もちろんシンも昔であれば、兵士と同じ感想を抱いたに違いなかった。


 再び幌の中には、鉄の車輪が石畳の溝を打ちつける耳障りな音が戻ってきた。しばらく車列は曲がりくねった道を通りながらゆっくりと坂を下っているようだったが、ある場所でついに停止した。


 「降りろ」


 先ほどの兵士はさあ仕事だとばかりに表情を変えて立ち上がり、シンを立ち上がらせて先に外へと出るよう促した。シンが立ち上がると、御者台ぎょしゃだいに乗っていた兵士の片方が後ろへとまわり、幌の天幕を持ち上げた。


 外に出たシンを、冬の弱い太陽が出迎えた。万人に別け隔てなく注がれる光ほど、死を前にした囚人にとって無意味なものはない。無差別に降り注がれる陽光はあまりにも弱く、それゆえ冷たい雪を溶かすことは出来ない。


 アトス砦は、砦という名に反してその実態は小さな村だと言ってよかった。砦はあくまで外敵の侵入を防ぐ防壁であり、本体は村なのである。家構えを見れば、少なくとも三十名ほどの村人がそこに住んでいると分かった。


 外の寒さにも関わらず、村人たちは総出で処刑を見物しに集まっていた。不思議なことに、人の多さに反して、冬風が大気を切りさく音が聞こえるほど辺りは静まっていた。目を凝らすと遠くのほうで座具に腰掛ける貴人の姿があり、またその周りを取り囲むように護衛がついているのが見えた。


「お前は運がいい」馬車から降りてきた例の兵士が言った。


「あれは誰だ」


「ペトルカ第一皇女殿下だ。このような辺境の地にさえ、我ら兵士を慰問するためいらっしゃった。彼女こそ、まさしく帝国の良心だ」


 その兵士の声には誇りがにじんでいた。


「空気が張り詰めているのは、そのせいか」


 処刑場の周りには人だかりができていたが、公開処刑にお決まりの野次も今日ばかりはなかった。帝国の臣民にとって皇女という存在はそこまで大きなものなのだろうか。生まれながら貴い地位にある者に対する敬愛という感情が理解できないシンには分からなかったが、それでもたかがいち罪人の処刑に不釣り合いな真剣な眼差しが自分に注がれることをおかしく思って、その表情には思わず笑みがこぼれた。


「何がおかしい」


「いや、なに。あの女の前では、みな蛇に睨まれた蛙のようだと思ってな」


「お前にはわかるまいよ――斬首台へと進め、囚人。抵抗するな」


 その口調にはどこか棘があって、シンを憤懣ふんまんとさせた。シンのような自由民――帝国の市民権を有していないが、奴隷階級にもない居住民――は、帝国の身分階級では最も低い地位にある。市民の財産であるかそうではないかという意味において、その位は貴族が所有している奴隷より低いのだ。帝国人らしい特権意識を感じて、シンはフン、と鼻を鳴らした。


 台の上へと進もうとする最中、大地から獣の慟哭どうこくが如き震えが伝わった。歩いていても分かるほどの揺れに、シンは思わず立ち止まった。少しばかり地面が上下したようだ。群衆から狼狽ろうばいの声が聞こえてきた。帝国は一枚の旧い陸塊の上にそびえており、この手の揺れは珍しいのである。


「地震か」


 ちらと皇女ペトルカが目に入った。あくまで落ち着き払っている様子で、先程の揺れも気にせず、どちらかといえば退屈を隠そうとしているようだった。


「――あの落ち着きよう、まさかな」


「囚人!」


 将校の叫ぶ声が、群衆のどよめきを静めた。同時にシンは後ろの兵士から前に進むよう急かされ、小突かれ、再び処刑台への歩みを進めた。台の傍に立つ将校と処刑人はこちらに背を向け、皇女に頭を下げている。儀礼の一環なのだろう、将校は処刑を見物する群衆に向き直り、


「ここに我らが公正なる神に誓い、帝国の法の下、皇帝インペラトル元老院セナトゥスの名を借りて、罪人の処刑を行う!」


 身振り手振りの大仰おおぎょうな宣言に、人びとは拍手喝采を送った。何名かの者は更に威勢のよい掛け声を送った。群衆の隙間から、非日常に興奮を隠せない子どもの姿が見えた。処刑は娯楽であると同時に、悪事への報いを伝える子どもへの教育としての面も持ち合わせていた。


「処刑人!」


 処刑台の前に進むと、皇女と正対する格好になる。皇女は立ち上がり、手を掲げて執行の合図を送る。その最中風が吹き、ペトルカの緋紫あかしの髪が風にたなびいた。シンは綺麗な女だと思った。処刑人は斧を構え、後ろの兵士がシンの身体を跪かせてその首を台の上へと置く。


「執行を!」


 将校は叫ぶ。 執行を! 群衆が絶叫する。 執行を! 


 シュプレヒコールに群衆は感激し、そしてますます興奮しているようだった。


「執行を!」


 シンが目を閉じた、その時だった。皇女が声を発し、手を下そうとした。処刑人は天に掲げたその刃先を、彼の頭と胴体の間に振り下ろそうとした。まさにその時、砦を再び揺れが襲った。その揺れは先程とは比べ物にならないほど強いもので、周囲の人びとは立つことすらできずにその場に転げた。暗闇の中、地の底から響く巨大な轟音ごうおんの影で、シンは処刑人が落とした斧の刃先が目の前に落ちる音を聞いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る