茜のしあわせ日記

さら坊

後日談

黒子くろこさん」


 背後からかけられた声に、失意の中にいた私は少し反応が遅れてしまった。はっとして焦って振り向くと、そこには私以上に瞳を曇らせた二人が立っていた。


「あっ、あかねの―――」

「久しぶり。こんな形で再会することになるなんてね」


 茜の母親は、そう言って私にぎこちなく微笑みかけた。若干震えている口角の端を見るだけで、相当無理してその笑顔を生み出していることが分かった。

 隣に佇む父親はどこか遠くを見つめており、私と話す気力すらも無いようだった。


「ほんとに―――そうですね。その件はありがとうございました、何から何までよくしてもらっちゃって」

「いいのよ。私たちはあんなに楽しそうなあの子を見れただけで―――貴方にはどれほど感謝しているか」

「それこそ私の台詞ですよ、私だってあの子に仲良くしてもらっていた身なんですから」


 母親は「ふふ、そう言ってもらえると、あの子も浮かばれるわ」と目元を拭った。その目元は赤く腫れており、何度もこすったせいか表面が擦れて皮が捲れてしまっていた。

 父親はそんな母親の背中をさすりながら、唇を噛みしめていた。


 私が二人の姿を見てもらい泣きしてしまいそうになっていると、母親は「ああ、そうだわ」と何かを思い出したように、手に提げていた黒い手提げに手を突っ込んだ。


「貴方にね、渡したいものがあったの」

「はあ―――」私は彼女の手元の動きを注視していた。


 彼女が鞄から取り出し、私の前に差し出したのは、一冊のノートだった。

 表紙には"~茜のしあわせ日記~"という文字が綺麗に綴られていた。そのノートは状態も良く、さっき買ってきた新品と言われても違和感がないほどだった。


「はい、これ。貴方に」

「これ―――」それは私にとって、思い入れがありすぎる物だった。


「亡骸のすぐ側にね、これが落ちてたんだって。大事なものだったのね、きっと」

「そんな、受け取れませんよ」


 しんみりとした空気を前にして、私はいつの間にか遠慮の言葉を吐いていた。


「いいの。あの子には悪いけど、私たちはこれの中身を見たの。だからこの日記がどのような経緯で生まれたのかも、知ってる。ここまで言えば、貴方にもらって欲しいと思う気持ち、分かってくれるでしょ?

 それにね、私たちはこれ以外にもいっぱい遺品があるじゃない? 整理しなくちゃいけないくらいなのよ、ほんとに」


 母親はそう言うと、私の右手を優しく掴んで、日記をそっと握らせた。


「だから、ね。これ、もっといてあげて」

「―――はい、分かりました。大切に保管します」


 私が日記を抱くと、両親は二人とも満足そうに笑った。


「それじゃあ、私たちは行くわね」

「ああ―――はい。この度は―――」急いで頭を下げようとした私を、母親は笑って止めた。


「いいのよ、そういうのは。気にしないで。気をつけて帰ってね」


 母親に肩や肘を優しく叩かれながら、私は「ありがとうございます」と控えめに頭を下げた。

 

 母親が私に背を向けて視界から遠ざかっていくのを見送っていると、私は一つの人影が私の前から一歩たりとも動かないことに気が付いた。


 かといって、話しかけられるわけではない。私は少しの恐怖を感じていた。


「あの、さ」低く震えた父親の声は、間違いなく私に矛先を向けていた。

「はい」


 やっぱり、私に話があったんだ―――私は少し身構えた。

 

「その日記、僕も母さんと一緒に読んだんだけどさ」

「はい」私は相槌を打つので精一杯だった。

「一通り読んだら、君なりの感想を聞かせて欲しいんだ。どんな形でも、いつになってもいいから、さ」


 どうして―――? 私はそれを聞けなかった。早く会話を終わらせたかったから?  分からない。とにかく、私は無意識のうちに断る選択肢を捨てていた。


「はい、分かりました」


 私が表情を殺してそう答えると、父親は納得したように頷いた。


「ありがとう。その代わり、といってはなんだけど、警察の方々の調査が進めば、その結果を随時伝えさせてもらうよ。あの子の―――状態が良くなかったこともあって、まだ死因も死亡時期も分かってないから、さ。

 ―――余計なお世話だったら、いいんだけど」


 私は眉をひそめた。それを、なぜ私に―――? 

 私は断ろうと思った。そんなこと今更知ったところで、あの子が帰ってくるわけじゃない。それになんだか、これは知らない方がいい気がする。


 理性ではそう分かっていながらも、私は親友の最後をより知りたくもなっていた。これは好奇心、とかじゃなく、使命感や責任感に近いなにかだと思う。


「じゃあ―――お願いします」


 父親はそれを聞くと再び頷き、「僕はもう行くよ。また、いつか」と小走りで母親の背中を追っていった。


 残された私は、無性にざわつく胸中に顔を歪めていた。




 私は家に帰ると、押し寄せてきた疲れのままにベッドに横たわった。

 精神的にも、身体的にも、どっと疲れているのが分かる。泣き疲れたせいか頭はガンガンと痛み、身体は鉛のように重くなっていた。


 正直、私はあまり人と話したりするのが得意ではない。人と話すときのあの"自分を作る"感覚が、どうしても好きになれない。そんな人間にとって、ああいう人が集まる空間というのは、極端に酸素が薄いように感じてしまう。

 とにかく、苦しいのだ。


 だから昔から友達も少なくて―――そうだ、社会人になってからの友達が茜だけだったのも、きっと私のこれが原因だ。

 ―――いや、違うな。この人嫌いに近い症状を持っているのは、私だけじゃなかった。なぜなら茜だって、私以外に友達なんて、一人もいなかったんだから。


 私たちが唯一の友達同士だったのは、私たちが似たもの同士だったからだ。

 

 私は再びこみあげてきた涙を、喪服で雑に拭った。ざらざらとした生地が私の瞼や目の周りの皮膚などを傷つけ、手をどけた跡もしばらくヒリヒリと痛んだ。


 だめだ。気を抜くとすぐ、あの子のことを考えちゃう。

 遺体が見つかったのがほんの数日前なんだから、それも当たり前なんだろうけど―――今だけは、あの子をしばらく忘れてしまいたい。

 そんな儚い願いが叶うことは、二人で過ごした時間が許してはくれなかった。


 私は勢いを付けて上半身を起こし、長い髪の毛を掻きむしった。

 そうだ、この際だし、あの子のことを考えまくってやろう。嫌になるくらいまで、あの子に浸ってやる。そうすれば、いつかはあの子離れできるはず。


 思い立った私はすぐに、身体と同時にベッドに放り投げていた鞄に手を伸ばした。

 取り出したのは勿論、あの"茜のしあわせ日記"だった。


「ほんと、綺麗な状態で残ってるなあ―――流石、几帳面」


 私は表紙を撫でながら、呟いた。ルーズリーフで閉じられた紙の束には、傷の一つも見当たらなかった。


 大切にしてくれてたんだ。それだけで、私は嬉しかった。


 厚紙で丁寧に作られた表紙をめくると、一ページ目には大きな文字でこう書かれていた。


 茜 の し あ わ せ 日 記 


 その文字はどれも可愛らしく飾られており、文字の周りには星やハートなどが散りばめられていた。

 力入ってるなあ―――私がそのまま視線をページの下部に移すと、そこには黒色のペンで添えられた文字があった。


青葉あおばちゃんに、感謝を込めて~


 私は目を見開いた。その文字の隣には、私の似顔絵とみられる女の子の絵があった。デフォルメされすぎていて私の面影もなかったが、紙の中の私は溢れんばかりの笑顔を浮かべていた。


 最初にこの一ページ目を見たとき、私は"このページを表紙にすればよかったのに"と思っていた。表紙も若干飾られていたとはいえ、一ページ目に比べると明らかに簡素なデザインになっていたからだ。

 でもこの文字と女の子を見て、ようやくそうしなかった理由が分かった。


 私を書きたいと、思ってくれたんだね。その為の、一ページ目だったんだね。

 私はこみ上げるものを抑えながら、無理矢理笑った。


 もう一ページめくれば、あの子の日記が始まる。

 さらっと次のページに手をかけようとしたとき、私の手はピタリと動きを止めた。


 この日記を読むということは、あの子が感じた日々を旅することと同義なんだ。それはつまり、あの子が死ぬまでの毎日を思い知ることになるわけで―――今になって、父親の言葉が頭をよぎった。


―――一通り読んだら、君なりの感想を聞かせて欲しいんだ


 私は頭を振った。

 何を言ってるの、私。これは"幸せ"を詰め込む日記なのよ。たとえあの子の身に辛いことがあったとしても、それがこの中に書かれているわけはない。


 だって二人で約束したもん。この日記は、後から見返したときに二人で笑えるような、そんな日記にしようって。

 

 私は疑った自分を叱りながら、動きを止めていた右手に力を込めた。

 

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