木一堂とあたしの或る日⑫
「へ?」
突然の指名に思わずそんな間抜けな声を上げてしまう。店主はあたしを見て、一度だけ力強く頷いた。あぁ、そういうことか。あたしが、伝えなければならないのだろう。亡くなられた奥様と同じ、女であるあたしが。その時、ふっとかず子が言ったある言葉が浮かんだ。きっと、彼女も奥様も、こう言うはずだ。だって、恋と愛に生きた、二人だから。
「やっぱり、今も愛しているのなら、彼女に恋をしているのなら、その本は――『斜陽』は貴方が持っていてあげて欲しいです。もし、自分が奥様と同じ立場なら、自分の愛した人に持っていてくれた方が嬉しいから。それに、貴方の愛した奥様が愛した本は、きっと貴方のことも好きだと言ってくれると思うから」
あたしの言葉を聞き終えると、男性の頬には、一筋の光が伝った。
「妻が……」
男性はそれだけ言うと、嗚咽を漏らしながら、泣き崩れてしまった。きっと、今日この本を持ってくるまで、身を切るような思いで悩んだのだろう。だからこそ、辛いし、痛いんだ。本はきっと人生の一部になる。どのような形であれ、読んだ本はあたしたち読み手の記憶に深く残ってしまう。
やがて男性は泣き止むと、照れたような笑みを浮かべた。
「お見苦しいところをお見せしてしまいました」
「いえいえ」
店主とあたしは顔を見合わせると、ふっと小さく笑った。
「あの……やっぱり持って帰らせて貰ってもよろしいでしょうか……?」
男性は本を抱きしめるように持ちながら、恐る恐る訊いた。
「分かりました」
店主はにこやかな笑みを浮かべて頷くと、一枚の名刺を取り出した。
「木一堂はいつでもお待ちしております。また、何かあればおいでくださいませ」
男性はその言葉に頭を下げながら名刺を受け取ると、さっぱりとした笑みを浮かべながら店を後にしようと背を向けた。だが、思い立ったようにぴたりと立ち止まると、くるりとこちらを向いた。
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