あの海で私は待たない

水野いつき

Lapu-Lapu (1491-1542)

 フィリピン、マクタン島。


 大航海時代、フェルディナンド・マゼランという航海士がこの島で死んだ。世界一周の途上だった。侵略者か、冒険家か、そして私は何者か。それが知りたくて降り立ったこの南国で、私は彼女に出会った。2019年の春だった。




 深夜、セブのゲストハウス。SF映画の冷凍睡眠のごとくずらりと並んだ二段ベッドでは眠っている人が大半だが、酔っ払い達の陽気な会話は止むことがない。

 騒音には慣れているが大麻の匂いが耐えがたく、めまいが頭痛に変わる前に大部屋を抜け出した。


 壊れかけの外階段を上がると屋上に出られる。バーベキューやら飲酒やら、ゲストハウスの利用客なら誰でも好きなように過ごせるのだ。

 ベンチで抱き合うカップルを横目に煙草に火を付けた。地上では野犬の遠吠えが呼応している。


「あの、えっと。ノー、ノー」


 急かすような英語の隙間から日本語が聞き取れた。その場を誤魔化すような咳払いも聞こえ、声の方を見やると小柄な女が絡まれていた。男が無理に手巻き煙草をすすめている。

 成り行きを見ていると、女が押し付けられた煙草を受け取ってしまった。助けを求めるように見回した視線に捕まり、綺麗な目だな、と思ったときにはもう体が動いていた。男に寄り、勢いだけが取り柄のあべこべな英語で低く唸った。


「You better back off before I fuck you.」


 ギョッとした男は舌打ちをくれ、煙草を引ったくると階段を下りていった。女は下を向いて震えている。


「大丈夫?」

「あなた日本人だったの。怖かった」


 同郷と知って警戒心がとけたらしく、ほっとしたと言って笑った。異国で久しぶりに聞く母国語には胸が絞られるような懐かしさを感じた。


「夜はベッドから出ないほうがいいよ。あんた、ここじゃ子供に見られるよ」

「部屋が臭くって、外の空気を吸いたかったの。そしたらあの人がついてきちゃった」

「一人? バックパッカーってなりには見えないけど」

「うん。一泊だけ。明日、ラプラプ像を見に行くの」

「四月二十七日、マクタン勝利記念日?」

「そう!」


 マクタン島の王、名前はラプラプ。十六世紀、改宗、植民地化を求める侵略者マゼランに抵抗し、見事その首を討ち取ってみせたフィリピンの国民的英雄。他国からの征服に立ち向かい、島と同胞を守るために命懸けで戦ったこの王は、国の誇りの象徴と言える。


 勇敢な戦士であることは間違いない。だが、歴史観は国によって異なり、マゼラン側に立てば見え方は変わってくる。挑む者と、拒む者。信じるものが違うだけだ。


 歴史的には重要な人物だが、日本人が祝日を狙って来るほどかと疑問があった。フィリピンにルーツがある女かもしれないと思いじっと顔を見つめると、首をかしげ微笑まれた。色素の薄い髪は緩くうねり、高級な猫を思わせる大きな瞳は笑うと目尻が下がる。品のある所作は日本的で、見た目はフィリピンというより西洋のニュアンスがあった。


「あなたこそバックパッカーに見えるな。むしろ地元民だと思われない?」

「しょっちゅう。この前なんかミャンマー人だと思われた」


 星は明るかったが、テーブルのランタンを点けた。煙草を消し、隣に座ると、親近感の増した声で名前を教えてくれた。


「ミサだよ。あなたは?」

「みんなシオって呼ぶ」


 ミサは私の目の奧を見ようとした。 

 気付いたら、私達以外人は誰もいなくなっていた。


「シオ、明日、一緒に行かない?」


 遠慮がちな誘いだったが、欲していた言葉に食い気味にうなずいた。ミサが何を求めてここに来たのか知りたかった。


 ラプラプ像は海沿いの記念公園にある。フィリピンに来てすぐ見に行った。有名な観光スポットだが、五分も眺めればじゅうぶんだったと記憶している。


「いいよ。歴史に興味があるならその足で要塞ようさいも行ける。飛行機は何時?」

「慣れてるんだね。シオは滞在して長いの?」


 不純な勘違いをしかけ、心臓がはねたが、そんなわけないと小さく息をついた。落ち着けない。ミサの顔は、少し可愛すぎる。


「いつの間にか居付いちゃった」

「日本に戻ってくる?」

「いまさら帰れない」


 空が白み始め、異国の水で荒れたらしいミサの肌を健康的に見せた。


「シオ、部屋に戻って支度しよう」


 ミサが笑うと胸が痛む。調子に乗ってでしゃばったことを、少し後悔した。


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