第12話

――誰かが、庭にいる。


 そう思っても、意識は朦朧としたまま、気持ちの緊張に体がついていかない。


 まいったな。酔い過ぎた。


 体をよじって、壁の時計を見た。いつのまにか八時になっている。

 

 行動を起こさなければ。こんな時間に他人の家の敷地を歩くのは、泥棒か、そうでなくても不審な人物に違いない。


 警察に通報しなければ。


 腕力にはまったく自信がない。何者かと対峙するのは絶対に無理だ。

 

 床に手をついて腹ばいになり、そろそろと膝を前へ動かした。

 スマホをどこへ置いたか懸命に思い出す。

 

 勝手口のドアノブが、ガシャガシャ鳴り出した。

 磨り硝子が嵌め込まれた勝手口のドア越しに、黒く人の影が見える。


 通報どころじゃない。逃げなくては。

 

 慌てて立ち上がったが、ふらついて、ふたたび膝をついてしまった。

 と、背後で硝子が割られる音が響く。

 

 腹ばいのまま、恐怖で体が硬直し、動かなくなった。

 喉がひりひりする。

 声が出ない。


 とうとうカチリと、錠が外される音がした。


 もう猶予はない。

 

 孝太郎は懸命に周りを見回した。


 室内用の小さな箒と塵取り。

 プラスチックのゴミ箱と雑巾。

 床にあるのはその程度だ。


 日頃から几帳面な孝太郎は、床に物を置かない主義だ。

 

 棚を見上げても、手が届く範囲に、武器になりそうな物はなかった。

 包丁もしまわれているし、さっき飲んでいたウイスキーの空便ですら、分別ゴミの箱に捨ててしまった。


 駄目だ、やられる。

 

 そう思ったとき、ちょうど手の届く位置に、醤油の瓶が見えた。

 卓上の小さな瓶だ。武器にするにはあまりにも無様だが、無いよりはましだ。

 

 その瓶を引っ掴んだとき、侵入者と鉢合わせになった。

 黒い覆面を被った男だった。

 目と鼻と口に穴の開いた、悪役プロレスラーが被るお決まりの覆面だ。


「あわあぁぁあ」

 

 孝太郎は醤油の瓶を男めがけて投げつけた。


 狙いも何もない。

 子どもが親に駄々をこねたときのように、ただ腕を振り回しただけだ。


 ところが、それがうまく命中したらしい。

「ぅうう」

 逃げ出そうとした男が孝太郎にぶつかり、孝太郎は床に倒れた。

 

 誰か、――助けてくれ。

 

 ふいに意識が遠のいていった。

 孝太郎が最後に見たのは、割れた醤油の瓶と、逃げていく侵入者の、醤油で汚れた水色のスニーカーだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る