第2章 ジークハイドの教授【2】

 今日も厳しい特訓だった。なにせ、魔力量の調整を掴むまで五時間の訓練をしていたのだから。結果は言うまでもない。

 そんなことを考えつつ寝室でのんびりしていると、コンコンコン、とドアが静かにノックされた。どうぞ、と声をかけた僕は、顔を覗かせた人物に思わず目を丸くする。

「兄さん、どうしたんですか?」

 そう問いかけつつ、寝室に訪れたジークハイドを窓際のソファに促した。あれほどまでにラゼルを嫌っていたジークハイドの訪問は、何やら奇妙な気分になる。ただ事ではないという予感だ。そうでなければジークハイドがラゼルの寝室に来るはずがない。ジークハイドの手には一通の封筒がある。僕は机の椅子に腰を戻して話を待った。

「お前の母親の実家から、お前の養育費の援助の申し出があった」

「養育費の援助?」

 ジークハイドに差し出された便箋には、丁寧な夏の挨拶のあと、ラゼルは母親の忘れ形見であること、大事な子どもであることなどがつらつらと綴られ、養育費の援助の申し出が記されている。最後にはラゼルへのメッセージ付きだ。

 ラゼルの母親の実家がラゼルをどう扱っていたかを僕は知らない。唯一記憶にあるラゼルが引き取られた時期から考えると、その申し出は少々遅すぎるような気がする。それも、ラゼルの母親の実家な平民である。貴族の家に養育費を払うなんてことは、普通であればあり得ない。

「公爵家にとって利点はないですよね。公爵家との繋がりを作りたいがための申し出ってことですよね」

「亡くなった人の実家を悪く言うのは忍びないが、そういうことだろうな。公爵家としては、養育費がなくともお前ひとりを養うくらいどうということもない。あとはお前の意思だ」

 もし僕がここで、母親の実家との繋がりを保っていたいと答えれば、公爵家はそれを尊重してくれるだろう。ラゼルにとって血族であることに変わりはない。僕は母親の実家のことをまったく覚えていないが、その打算的な申し出には賛同できない。

「いまさら母の実家にはなんの恩もありません。縁を切っていただいても構わないくらいです。いまさら関わる気はありません」

 もし、母親の実家が母親の死後、ラゼルを引き取っていたら。ラゼルだけではなくキールストラ公爵家の運命が変わった。それはもちろん誰も知らないことだが、母親の死後、ラゼルを引き取らなかったこと、そしていままで何も報せがなかったこと。その辺りを考えるといわゆる「お察し」である。

「そうか。わかった。断りの書面を送っておく」

「はい、お願いします」

 いますぐ破り捨ててしまいたいところだけど、便箋を丁寧に封筒にしまい、ジークハイドにリリースする。破っても問題ないだろうが、正式な書面である以上、扱いをぞんざいにするわけにはいかない。

 ジークハイドが丁寧に便箋をしまっている最中、僕はふと、あることが頭の中に浮かんだ。

「……僕は、公爵家にとって迷惑な存在じゃないでしょうか」

 呟くように言った僕に、ジークハイドは目を細める。

 ラゼルが公爵家に引き取られることがなければ、そもそも「呪いの子」などという陰口が生まれることもなかった。公爵家に引き取られていなければ母親の実家もその存在を知らないことにしていただろう。ラゼルは公爵家に引き取られなければ路頭に迷っていた。そもそもラゼルは許された存在ではないのかもしれない、とそんなことを思ったところで、悪役令息ラゼル・キールストラの絶望はそこから始まったのだと思い知った。

「迷惑だとしても、健全な生活の確保が難しい子どもを放っておくわけにはいかないだろ。ただ、慈善事業ではないということだけは理解しておけ」

 なんて優しい言葉だろう。眼光は相変わらず鋭いし、声色は棘があるのに。あれだけ睨みつけられていたジークハイドに、こんな言葉をかけられるとは。

「父も母もお前を受け入れているのだから、特に問題はないだろ」

「ありがとうございます。あとは兄さんに認められるだけですね」

「せいぜい勝手に頑張ってくれ。とにかく書面を出しておく」

「はい」

 ジークハイドは澄ました表情で寝室を出て行った。もし僕がラゼルとして覚醒していなければ、確認することなく断っていたかもしれない。そう対応されてもおかしくない申し出だ。それまで知らんふりをしていた子どもを利用して公爵家と繋がりを作ろうなど、単なる厚意として捉えられると考えていたならあまりに短絡的だ。貴族であったなら話は変わったかもしれないが、母親の実家は平民。その援助を受けることで母親の実家と繋がりを作ったとしても、キールストラ公爵家にはなんの利点もない。親戚でもないのに、なんとも厚かましい申し出だ。

 それにしても、ジークハイドは僕のことを気にかけてくれているみたいだ。なんだかんだ言いつつ放っておけないのは、長男気質なのかもしれない。元からとても優しい人なのだろう。味方につければ強い。なんとしても良好な関係を築きたいところだ。



   *  *  *



 夏季休暇も残すところあと三日になった。僕はというと、なんとなく魔力の流れを掴めてきたような気がする。的が大破するようなこともなくなった。中破程度に抑えられるようになっているはず。あとは放出する際の魔力量を調整するだけだ。

 氷の槍なのに爆発して煙が上がるのはなぜなんだろう。

「また抑制の余地があるな」

 ジークハイドが裏庭に出て来る。仕事の手が空いたらしく、屋敷が爆破されないように見張りに来たようだ。

「あの的は簡単に破壊できるものではないぞ」

「保有する魔力量は多くても、それを抑制するための魔法は知らないということか……」

 独り言で呟く僕に、ジークハイドは肩をすくめる。

「実習をサボるからだ。一年の頃もまともに受けていなかったらしいな」

「よくそれで二年になれましたね」

「他人事みたいに言うな。お前のことだから、講師を買収したんじゃないか?」

「王立魔道学院にも金に弱い講師はいるんですね」

「なぜ他人事なんだ」

 実際、僕にとっては他人事だ。二年生に進級したのはラゼルで、どうやって進級したのかを僕は知らない。買収は充分にあり得る話だ。きっとジークハイドもそう思っているだろう。

「次は自力で進級できそうですね。兄さんが教えてくれているんですから」

「教わっている時点で自力ではないんじゃないか」

「試験自体は自力ということで」

 僕が誤魔化すように笑うと、ジークハイドは呆れたように小さく肩をすくめて見せる。

 こうしてジークハイドと普通に会話をできるようになったのは大きな進歩だと思う。言葉や声に厳しさは残っているが、屑を見るような鋭い視線ではなくなった。と、僕は思う。まだ僕を警戒しているのはおそらく変わりない。それでも、アラベルを虐げることがなくなって、陥れるのではないかという疑いも徐々に薄れてきているようだ。僕から見ればそうだけど、実際にジークハイドがどう考えているかはわからない。態度が柔らかくなったことに自覚がない可能性もあることにはあるが、知らず知らずのうちに関係が改善されていくならそれでもいい。この調子で、ジークハイドの信用を勝ち取っていきたいところだ。

 何度かの練習のあと、小休憩中に僕は思い立って言った。

「先日、リーネ・トライトンから手紙が届いたんです。誰のことかわかりますか?」

 途端、ジークハイドはいつにも増して呆れた顔で目を細める。

「お前に散々絡んでいた光の魔法を持つ平民の女生徒だ」

「ああ……名前まで忘れていたみたいですね」

 そんな名前だったかな? 妹がヒロインのことを語ることがあまりなかったから、名前を聞いてもピンとこない。名前を聞けば思い出せることもあるかもしれないと思ったけど、そんなことはなかったな。もしかしたら妹は自分の名前を入れてプレイしていたのかもしれない。

「リーネ・トライトンはなぜか、入学当初からお前に興味を持っていた。お前も元々平民だし、貴族社会の中で親近感を覚えたのかもしれないな」

「なるほど……」

 同じ平民と言えど、ラゼルはもうキールストラ公爵家の一員で、貴族である。身分差が生じたことに変わりはなく、それでも親近感で絡んで来るのは無邪気なのか、それともやはり何か狙いがあるのだろうか。ジークハイドがそう思うならそれが正しいのかもしれないが、入学当初からということは、あらかじめラゼルのことを知っていた可能性が高い。とは言え、ラゼルは問題児だ。噂話か何かで知ったとしてもおかしくはないのかもしれない。

 ジークハイドは、リーネ・トライトンに何か思うことはないようだ。さほど興味を懐いていないように見える。ラゼルがヒロインに嫌がらせをすることでジークハイドが気にかけるなら、ラゼルがヒロインに興味を懐かないことで何か変わることがあるのかもしれない。入学から夏のあいだまで、ラゼルが悪役令息することはなかったのだろうか。そもそもラゼルがどんな嫌がらせをするかは知らないが、ヒロインが入学時点からラゼルに興味を懐いているというシナリオとの差異が、何かを変えているのかもしれない。

「散々絡まれておいて覚えていないとはな。よほど興味がなかったらしい。お前は外面がいいから、相手も興味を持たれていないことに気付いていなかったんだろうな」

「レイデン殿下とジェマも気にかけていたようですが……」

 攻略対象の中でも、レイデン王太子と騎士ジェマは、ヒロインが平民であることで嫌がらせを受けていると知って気にかけるようになるのだろう。そこでふたりが気にかけなければ話が始まらないわけだし。

「リーネ・トライトンは光の魔法を持つが、平民というところで嫌がらせを受けている。人柄も成績も申し分ないということで生徒会入りすることになるが、生徒会員という肩書きを与えて保護するのが目的のようだ」

 ヒロインが生徒会入りする理由はヒロインだからというだけだと思っていたが、実際はしっかりと目的があったのだ。確かに生徒会員となれば、生徒会長であるレイデンが目にかけることになる。そんなリーネ・トライトンに嫌がらせをすれば、生徒会に目をつけられるのは間違いないだろう。他の生徒がそれを不満に思い反感を懐いたとしても、レイデンは王立魔道学院の生徒の中で最高位の身分だ。ケチをつけることができる者はいるはずがない。

 そういう狙いだとしたら、権力にものを言わせているなあ。とは言っても、リーネ・トライトンが優秀な人であれば、実力で黙らせることもできるようになるかもしれない。

「お前も生徒会入りさせることはできないかとリーネ・トライトンが言っていた」

「僕を、ですか?」

「自分の境遇と似ているからだ、とか言っていたが、お前の場合は生徒会入りさせなくても大人しく嫌がらせを受けているなんてこともないだろ」

「それは間違いないですね」

 やはりリーネ・トライトンは転生者なのかもしれない。僕を攻略することで、何かを狙っている。顔も名前も覚えないくらい存在を無視していたのは、ラゼル・キールストラは何かに気付いていたのかもしれない。そうであれば、悪役令息の役割を全うする理由がなかったのだろう。ラゼルの趣味はあくまで弱い者いじめだ。堂々と絡んで来るリーネ・トライトンをいじめる気が起きなかったのかもしれない。

「リーネ・トライトンに興味が湧いたのか?」

 考えに耽っていた僕は、ジークハイドの問いに即座に首を横に振る。

「いえ、特には」

 転生者だったとしても、特に興味があるわけではない。何が目的かわからない点は気掛かりだが、だからといってヒロインと積極的に接触しようとは思わない。僕は破滅を防げればそれでいいのだから。そのためには攻略対象と良好な関係を構築する必要がある。ヒロインの存在はさほど重要ではない。

「来週から学院生活が再開されますね。僕は合格できましたか?」

「試用期間は延長してもいいかもしれないな」

「じゃあ合格ですね」

「及第点だ」

 ジークハイドはまだ僕のことを認めていないようだが、多少なりとも進展したようだ。希望を持つくらいなら許されるだろう。この調子で良好な関係に近付いていきたい。生徒会入りするのも、ひとつの手としてあり得るかもしれない。

 王立魔道学院での生活も楽しみだ。本格的に魔法を学べるのだから。ヒロインが何を狙っているかで警戒する必要もあるだろうけど、学院生活を楽しみたいという思いのほうが強い。充実した学生生活にしたいと思っている。せっかく前世とはまったく違う世界に転生したのだから、楽しまなければ損だ。ラゼルが悪役令息でなくなったことがどんな影響を及ぼすかはわからないが、とにかく、今世を思う存分に謳歌しようと思う。そうしなければ勿体無いというものだ。





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