第8話
エピローグ
どうやって家に帰ったか良く覚えていない。
枕元にタクシーの領収書があったので椎名町でタクシーを拾ったのだろう。
時計を見ると、もう午前10時を回っていた。
二日酔いと言うほどでもないがけだるい酔いの名残が体に残っていた。
夕方からの病院の勤務に備えてシャワーを浴びようと立ち上がると、どこからかピーピーと警告音が鳴った。
はて?
部屋の中を見回すと私のナップザックの中から音が出ている。
ナップザックを開けたら、セルゲイエフ・センサーが入っていた。
一昔前の携帯電話のようなセンサーは赤いライトを点滅させてクルニコフ放射が300を超えていることを知らせていた。
故障かな?と思って手にとってセンサーを眺めた。
一度電源を切って自己診断プログラムを走らせるとセンサーは異常が無いことを示して沈黙した。
おそらく昨日の夜にぐでんぐでんに酔いつぶれた大倉山が忘れていったものを私のバッグに放り込んだのであろう。
私はタオルを肩にかけてシャワーを浴びに行った。
すっきりして部屋に帰ってきた私をクルニコフ放射を感知して警告音を鳴らしているセルゲイエフ・センサーが出迎えた。
背筋を氷で撫でられたような感触がしたが、私の額からはじっとりとした汗がにじみ出てきた。
セルゲイエフ・センサーの表示する放射値はやはり300を示していた。
(クルニコフ放射が100以上なんていつ何らかの超常現象が起きても不思議じゃない…ばかな!)
私はセンサーを手にとって部屋を出た。
ゲストハウスのあちこちで100以上、場所によっては400を越える場所があった。
私はセンサーを片手に外に出た。
近所のタバコ屋に行く途中3回も警告音が鳴り、100以上の放射値を表示した。
(なんなんだ…何なんだよこの町は…)
タバコを買った私はゲストハウスに帰る気になれず、歩いて数分のところにある小高い山の頂に病院と看護師専門学校がある比較的大きな公園に行った。
よく晴れた、やっと夏の暑さが薄らぎはじめたさわやかな景色だが、私の心の中はちっともさわやかではなかった。
公園のあちこちでも場所に寄っては最大で500を超える放射値を感知した。
もともと地元では夜になると幽霊らしきものが出ると噂されている場所だが、それでも高すぎる。
ましてやそんな場所が家から歩いて数分のところに、それを言えば自分が住んでいる家自体が300を超える放射値…そして家の近所にはあちこちに普通では考えられない高い数字が。
私はタバコに火をつけて一息吸った。
日本だけじゃなくて世界中でクルニコフ放射値が高い場所が見つかっているのよ。
…見つかっていると言うよりは…増えていると言った方が良いかもね。
それに地震とか台風とか洪水とか津波とかの天変地異が最近の多いでしょ?
この星全体が異世界からの浸透と融合に見舞われているのかもね…カレーやシチューを作るとき鍋をオタマでかき回すでしょ?
よく混ざるようにね…今、この世界は溶けて混ざり合うことが頻繁に起きているし、人類も口では分裂住み分けみたいなこと言ってるけど、やってることはどろどろに溶けて混ざり合うことを進めているわ…私達はひとつの大きな鍋に放り込まれてぐつぐつと煮られてかき回されている…いつか…そんなに遠くない未来、世界のあちこちでそれこそごく普通にこの店で起きた事や佐伯邸で起きたことが起こるかもね…
私は昨日の夜、飲んでいる最中に桜田が言った不吉極まりない言葉を思い出した。
「パパー!見てみて!変な虫がいるよ!」
興奮した子供の声で私は我に帰った。
公園の小道の端の草むらにしゃがみこんだ子供が草の根元を指差しながら父親を呼んでいる。
「どれどれ?
うわ!気持ち悪い!
ジュン君触っちゃ駄目だよ!
あっち行こう!」
若い父親が草の根元を見た途端に子供を脇に抱えて歩き去った。
私はなんだろうか?と子供が指差した場所に近付いてみた。
子供を抱えた父親とすれ違った若い男も子供と父親とのやり取りを見ていたのか、私よりも一足先に草の根元を見ながらしゃがみこんだ。
「なんだこれ?」
若い男は近くにあった親指ほどの太さで40センチほどの長さの棒切れを拾い、草の根元を突いた。
しゃがんだ男から5メートル程に近付いた私はなにやら毒々しい色合いの細長いものが男が持った棒切れを虫にしては速いスピードで駆け上がるのを見た。
虫?は男の手首に到達して尻尾と言うか、後方の先端を男の腕に突き立てた。
「うわぁ!」
男は刺された腕を摑んでのけぞり倒れた。
男の腕から離れたそれは、一度空中で丸まり、地面に落ちて何回かバウンドしてから体を解いて私の足元めがけて物凄いスピードで這い進んで来た。
細長い毛虫のようなムカデのような毒々しい赤と緑のダンダラ模様のそれを見た途端に私は身を翻して逃げようと思った。
だが、追いつかれると本気で走っても絶対に追いつかれると心の何処かから警報が出た私は必死に踏みとどまり、直ぐそこまで近付いてきたそれの頭めがけて思い切り踏みつけた。
それは私の靴に頭を踏まれ、狂った様に体をのたくらせた。
それの尻尾、先の方から2本の毒針が突き出た恐ろしい尻尾が私の足を刺そうと靴の表面に何度も突き立てた。
非常に幸いな事に病院勤務用の頑丈な靴を履いていたので毒針は靴の表面を空しく引っ掻いただけだった。
私は靴底の裏からでも判るねっとりした液体が入った硬いチューブのようなそれの頭を踏む靴に力を込めた。
外骨格を破って粘膜がはじけ飛ぶ薄気味悪い感覚に耐えながらしばらく踏みしめていると、それの尻尾は動く勢いが失せて、地面にクッタリと伸び、動かなくなった。
私はその異様な虫を踏み潰した足をゆっくりと上げた。
そのムカデに似た、いや、ムカデの醜悪なパロディの様な生き物は私の靴に頭を踏み潰されて死んでいた。
10センチ程の長さのそれは奇形などと生易しい言い方では説明がつかない、異様な正に異世界からやって来たような、いや、薬物中毒者の悪夢から這い出てきた様な異様な、暫く見つめていると猛烈な吐き気に襲われそうな姿だった。
事実私は喉の奥から酸っぱい物が込み上げてくるのを抑えるのに非常な苦労をして、それを観察した。
頭はハエ。
胴体はムカデ。
だが、体節の太さが不規則に違い、ムカデの足に混じってゴキブリの足の様な長さがまちまちの足が所々デタラメに生えていてゆっくりと曲げ伸ばしをしていた。
更に頭部を踏み潰されて絶命しているはずなのに、尻尾の先から二本の赤やオレンジや青色の毒々しい針が、何か手近な物を突き刺してやろうと、針の先端からネトネトした液体を滴らせながら、ゆっくり出たり入ったりしていた。
だが、最大の違和感を感じるのは三対のハエかトンボの様な半透明の羽根が付いている事だ。
(こいつ………飛べるのか?)
この虫が宙を飛んで人に襲いかかる光景を想像して私はぞっとした。
どちらにしろ、この虫は悪い、非常に悪い邪悪な存在だと直感した。
腕を刺されて唸り声を上げている男はヨロヨロと立ち上がり、遠くに見える病院に向かって歩いていった。
その腕は紫色に変色し、倍ほどにも膨れ上がり、皮膚のところどころが水に濡れたトイレットペーパーの様に腐蝕して破れ、出血していた。
男が立ち上がった辺りに何かが落ちていた。
それは毒の影響によるものなのか…男の指の爪が根本から抜け落ち、血と膿にまみれていた。
私があの男だったら。
私だったら、私がこの悪夢の様な虫に刺されたら、毒が全身に回らない内にその腕を躊躇無く切り落とすだろう。
私は男と反対の方向に歩き始めた。
潰れた虫が完全に死んだことを確認してそのままにした。
一瞬携帯で写メを撮るか、大倉山に連絡を取り、回収してもらうか考えたが止めた。
刺された男を助けようかとも思ったがそれも止めた。
大して助けにはなれないし、もう、係わり合いになりたくなかった。
こんな異常な出来事の関係者になりたくなかった。
足早に公園を立ち去る時、あの黒い犬が少し離れたところからじっと私を見ていた。
私は足を止めて黒い犬を見つめた。
(おまえ…ルシファーなのか?)
黒い犬は、ワン!と野太く一声吼えて姿を消した。
その吼え声は、ここから早く立ち去れ、安全なところを探してそこに移れと、私には聞こえた。
私は会社に電話をかけ、強引にその日の病院勤務を休み、ネットカフェに行き、安くて完全な個室があるゲストハウスを何件か検索し、その場所に行きセルゲイエフ・センサーでクルニコフ放射値がどれくらいか調べた。
非常にぞっとしたのは新宿、渋谷など繁華街があるところ、世田谷など過去に凶悪犯罪があるところなどで異常にクルニコフ放射値が高い場所があるということだった。
文字通り背筋が凍りついた。
そしてついにクルニコフ放射値が低く、周りにも放射値が高い場所が無い小平市のあるゲストハウスを見つけ、冬が始まる前に引っ越した。
風の噂によると私が前にいたゲストハウスはいかれた人間が多数入居してとんでもない状況だと言う。
やはり異世界との裂け目には人を狂わせる何かが、おかしくなった人間を惹きつける何かがあるのだろうか?
私はこれからも時々研究所からセルゲイエフ・センサーを借りて定期的に身の回りのクルニコフ放射値を測定するつもりだ。
放射値が上がれば直ぐに、より安全なところに引っ越そう
さて、話は変わるが私には娘がいた。
父親の私が言うには非常にバカみたいだが、美しく聡明でとても人格が良い、私なんかよりも数段魂が上等な娘だった。
数年前に事故で若くして亡くなったが、今はそれが唯一の慰めになっている。
もし、全面的な異世界との浸透融合現象が起きてあの悪夢の中から這い出てきたような虫が跋扈する世界、いや、あの虫なんか取るに足らないほどの恐ろしい化け物がうろうろする世界に娘が生きていたら私はどうやって彼女を守ればよいのか?
幸いな事に天国が存在するならば娘はそこにいるはずだ。
私は安心して自分の身を守りきることに専念できる。
近いうちに出現するかもしれないあの地獄のような世界。
もしそうなった場合、私は自分の安全の事だけを考え、自分を守りきることだけ専念すればよいのだ。
私がどんなに惨い目に遭ってもどんなに酷い苦痛を感じても私の命を投げ出しても守らなければならない存在は娘だけ、私の一人娘だけだからだ。
守るべき娘を失った私は、近い将来来るかも知れないあの地獄のような世界で己の身の安全だけを考えればよいのだ。
だが、ほかの人たちは?
終わり
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