黒い犬
とみき ウィズ
第1話
黒い犬
とみき ウィズ
ここ一週間に私の身の回りで起きたいささか不思議な体験について書こうと思う。
そして、今年の夏に私が何故急遽中野から小平市に引っ越したのかその理由についてもこのお話を読めば判ると思う。
先週、8月の下旬のことだが、1年と3ヶ月振りに埼玉にある実家に顔を出した。
ささやかな手土産を持って実家に行き、亡き実母の仏壇に線香をあげて、決して仲が良いとは言えない父親とその後妻と何のことはない近況と世間話をした。
最近やっと電話で普通に話せるようになったといっても、実家で父と後妻と顔を突き合わせて過ごすのはやはり少々居心地が悪かったが、お盆に母親の墓に墓参りをしなかったので気分が落ち着かず実家の仏壇に線香でも上げようかと思い立ったのだ。
上機嫌の父親にこのままでは夕食につき合わされそうな雰囲気だったのでまだ日が高いうちに早々と実家を出た。
最近気が弱くなったのか昔はあれほど私の生き方に辛らつな嫌味を言う父親が、また近くに来たら寄るようにと言って、玄関先で私の手にそっと1万円札を2枚握らせた。
48にもなってお小遣いもないだろうと苦笑を浮かべてお金を返そうとしたが、父は邪魔になるものではないから受け取れといって再び私の手に札を握らせた。
父方の家系の悲劇というか、父親の親、私から見ると祖父の代に急に金回りが良くなった、言わば成金の家系にありがちな、金を握らせて人の気を引く、そしてその人を支配した気分になり、影で小ばかにした言い方をする悪癖を父も受け継いでいる。
きっと私が玄関を出た後すぐに私が貧乏なので小遣いをくれてやったと後妻に話すのだろう。
そんなやり方を子供の頃から見ていた私は父からお金を貰うのは心苦しく、少しだけ気分がささくれてしまうのだ。
私は仕方がなく小声でお礼を言って金を受け取りポケットに入れて、まだ日が高い埼玉の田舎道に出た。
8月の下旬に入ったばかりで、まだまだ蒸し暑かった。
一時間に5本ほどのペースで運行しているバスに乗り、小一時間ほどしてJR川口の駅に着き、都会、と言っても地方都市の都会の風景を見て私はほっとした。
私は実家の近くのところどころ雑木林がある中途半端な田舎の風景がなぜか好きになれないのだ。
閉塞感というか、開発途中で見捨てられたというか、時間が途中で止まったままというか、妙に生活感を感じない夢の中の風景のように見えるのだ。
駅前の喧騒の世界に戻ってきて、やっと普段の自分に戻ったような気分で落ち着きを取り戻した私は、むしむしする空気を掻き分けて電車に乗った。
私が住んでいるところは池袋で私鉄に乗り換えて二駅で降りるのだが、ふっと思い立ち一駅手前で電車を降りた。
まだまだ暑いがたまには馴染みのない町を歩きたい。
私の悪い癖がまた出たようだ。
記憶にない、見覚えがない町を歩くのが私は好きだ。
夕暮れの住宅地や商店街を一人歩く。
見知らぬ道行く人々とすれ違いながら、このまま家に帰れないのではないかと心の隅に不安を抱えて歩く。
だんだんと日が落ちてきてますます方向感覚がなくなってゆく。
そんな心細い気持ちで歩き、それでいて見知った道に出ると小さな冒険が終わった様で少しがっかりする。
そんなたわいもない遊びを実家を出てから覚えたのだ。
そういう訳で私は池袋から一駅の椎名町の駅で降り、狭苦しい街中を気の向くままに歩き始めた。
駅前の数店の商店が並ぶ場所を通り抜けると、もう人気がない住宅地に出た。
特にこれといった特徴がない住宅が立ち並ぶ通りを歩いているとたちまちに自分のいる場所の見当が無くなった。
厳しい日差しは徐々に活気さを無くし、空が薄ら寂しい紫に染まり始めた。
ときおり、昼間の暑さのお詫びのような涼しい風が通り抜けた。
角の小さなタバコ屋の灰皿でタバコを吸おうとポケットに手を入れると、先ほど実家で父親が手に握らせた1万円札が出てきた。
(これでどこかの飲み屋で暑気払いと行こうかな?)
私は適当な食べ物屋で腹ごしらえをしてからスナックにでも入ろうと思った。
私は居酒屋よりもスナックのほうが落ち着くタイプだ。
見知らぬ町を歩くのが好きなように、見知らぬスナックに入るのも好きだ。
私のこの癖を見て、見知らぬ町を歩いたり店に入るのが好きなのは結局心から落ち着く場所にいまだ出会っていないからだと指摘した友人がいたが、案外とそうなのかも知れない。
実際に私は48にもなって本当に腰を落ち着ける町も、何十年も通う常連の店も持っていない。
要するに私は根無し草なのだと、ふらりと入った蕎麦屋で蕎麦をすすりながら苦笑した。
蕎麦屋を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
私は左右を見回してから駅の方角だと思われるほうに歩いていった。
山手通りのガードをくぐってしばらく歩くと3件ほどの飲み屋があったがあいにくとこの不景気で店を閉めてしまったのか営業している様子はなかった。
そして、ふと上を見るとその店の後ろの小高い塀の先に卒塔婆が顔を覗かせていた。
その3件の店の裏側は一面の墓場だった。
(これじゃあ客は気味悪くて飲みに来れないな・・・最も俺だったら面白そうで何度も来るかも知れないけれど・・・)
SNSでホラー小説を書いたりしている私はこの手の薄気味悪い場所が結構好きなのだ。
店が閉まっていて少し損をした気分をしつつ、もと来た道を戻ってきたら、来る時には気がつかなかった商店街のはずれの角にスナックを見つけた。
しかし、ルージュと看板に書いてあるその店も何ヶ月も前に閉店してしまったようで店に明かりはなく、テント地の看板は所々破れ汚れ日に焼けてすさんだ印象を与えていた。
しかし、ルージュの横の小さなスナックの置き看板には電気がついていた。
Rという、まるでお化け屋敷のような空き店舗の横のちっぽけなスナックに入ることに決めた私はドアを開けた。
カウンターが5~6席と4人がけのボックスがひとつの小さなスナックの店内では、ママが1人タバコを吸いながらテレビを見ていた。
振り返って私を見たママは年のころは50を過ぎているだろうか、いささか生活に疲れたようなやつれた表情をした陰気な女だった。
ママはおざなりの笑顔を浮かべ、それまでバラエティ番組を流していたテレビをカラオケの画面に切り替えていそいそとカウンターに入った。
「いらっしゃ~い。
お客さん、初めてよね」
「うん、初めて」
「飲み物何にします?」
「とりあえずビール」
「キリン?サッポロ?」
「キリンにして」
私はママがビールを出してグラスに注ぎ、お通しを出すためにカウンターの奥に入った時にあらためて店内を眺めた。
カウンターの棚には焼酎、ジンロやトライアングルが並び小さ目のホワイトボードに今日のお勧めのつまみが書いてある。
くすんだ赤を基調とした内装。
典型的な庶民的スナックだ。
これならば父が渡した2万円で充分にお釣りが来るだろう。
病院夜間受付の仕事の薄給で生活している私には有難い事だった。
「ママも一杯飲む?」
お通しを出したママに私が言ってビール瓶を持つとママが先ほどのおざなりの笑顔と違い、心からの笑顔を浮かべてグラスを差し出した。
「まぁ、ありがとうございます」
私はママのグラスにビールを注いで乾杯をした。
「焼酎…ボトル入れると幾ら?」
「ジンロかトライアングルになるけど…どっちも3500円よ」
「じゃあ、トライアングル入れて」
「あら、ありがとうございます!」
ママが棚から新しいトライアングルの瓶を出し、ホワイトマーカーを差し出した。
「お客さん、お名前教えて。
あと、ウーロン割とお湯割り、水割りどれにする?」
「とみきって言うんだ…水割りにしてくれる?」
「とみきさんね。私はマリって言います。
どうぞよろしくね」
私は瓶の首にかける名札にひらがなでとみきと書き込んだ。
「それにしても・・・隣の店は少し怖いね。
ルージュ、あそこ閉店したの?」
私が尋ねると氷を入れたピッチャーとミネラルやグラスを用意していたママが渋い顔をした。
「そうなのよ~!
このご時勢でスナック閉める人多いんですよ。
ルージュのママもかなり長い間頑張っていたんだけどね~!
かれこれ20年はやっていたかしら」
「ママはここは長いの?」
「ううん、まだ2年目それに…とみきさん、怖い話し大丈夫?」
ママが水割りを作りながら、なにやらいわくがありそうな笑顔を浮かべた。
「外から見るとルージュ、怖いけど…いわくがあるのはこの店のほうなのよね~」
「なに?いわくって…」
「怖い話だけど大丈夫?」
ママが急に声をひそめて尋ねたのを聞いて私は心の中でふふんと鼻を鳴らした。
普段病院の夜間受付の仕事をしていて深夜の霊安室や解剖室などを一人で巡回するし、今まで不可思議な経験などざらにあるのだ。
多少のお化け話幽霊話などでビビルほど細い神経をしていない。
「怖い話?
ぜひ聞いてみたいね」
私はお通しに箸を付け口に運びながら言った。
ママが何故か店内をちらりと見回し、ビールをぐいっと空けてから私に顔を近づけ、声を潜めて話し出した。
「実はルージュが閉まっちゃったの…この店のせいなの…」
「Rの?」
ママが顔の前で手を振って顔をしかめた。
「ちがうちがう~!
私が始める前の店よ…その時の店のママがねえ~ここで死んじゃったのよ
~!」
「ここって…この店で?」
私は床を指差して言った。
「そうなのよ…」
ママがビールの残りを自分のグラスに注いだ。
私は焼酎の水割りを一口飲んだ。
「Rになる前、もちろんここもスナックしていたのね。
ママをしていた人って…ここで死んでいたの…」
「…」
「なんかお店閉める頃辺りに意識を失ったらしくてね、その晩と翌日、誰もそれに気がつかなかったのよね。
それでママが倒れてから丸々2日間位そのままだったの…結局ルージュのお客さんがはしごしようとしてここに入ったらカウンターとフロアーの間で倒れていたママを見つけたってわけ…」
「それって…そのママは死んじゃってたってこと?」
「うん…びっくりしたお客さんが警察に通報したけど、結局はっきりした死因が判らなくて、売上金とかそのままで事件性も無かったから、変死扱いで片付いちゃったのよ」
「…へぇ~それでそこをまたママが借りてスナックを始めたんだ?
度胸あるね、焼酎飲む?」
「あら、ありがとう。
それじゃいただきます。
だってここの店すごく安かったんだもの~!
居抜きで礼金なしで家賃も相場の半分なのよ~!」
ママがいそいそと焼酎の水割りを作った。
「だからここ安いからね~!
ちょくちょく遊びに来てくださいね」
「そうだね~安い店が好きなんだなこれが…それでどうしてルージュが閉まっちゃったの?」
ママが焼酎のグラスを持ち上げて私に乾杯のしぐさをした、私もグラスを持ってママのグラスにカチンと当てた。
「いただきますね~!
ふぅ、おいしい…それがねぇ出るようになっちゃったのよ」
「出るって…これ?」
私が両手をだしてぶらぶらさせた世間一般の幽霊を表す仕草をした。
「そうなのよ~!」
そこまで言うとママがカウンターの下から一枚のパウチされた新聞記事の切抜きを出した。
「ねえねえ、嘘じゃないわよ。
ほら、ここの住所でしょ?」
古びた新聞記事には『スナックのママ変死』と見出しがついていて、この店の前にブルーシートが張り巡らされている写真と確かにママが言った通りの状況が書かれていた。
「こんなちっぽけな商店街じゃ大変な騒ぎになったらしいわね。
それから数日ほどしたら、ルージュの常連客が死んだはずのママを見たって言い出してね、だんだんルージュのお客さんが…きゃ!」
いきなり店内の電気が消えた。
「もうやだな~!
この話するとブレーカーが落ちたりする時あるのよね~!」
ママがカウンターの下から懐中電灯を出してスイッチを入れた。
真っ暗な店内で懐中電灯の光が左右に動いた。
「もっとも調理場の大きい冷蔵庫がかなり古くていきなり電気をドバー!って使うからじゃないかって電気工事やってるお客さんが言ってたけど…すぐ電気点くからちょっと待っててね…」
ママがそう言いながら慣れた様子でカウンター奥の調理場に入った途端にカラオケの機械にだけ電気が入った。
そして勝手に岩崎弘美の万華鏡を演奏し始めた。
私はかなり手の込んだ趣向だなと面白く思いながらカラオケ画面の明かりでに照らされた焼酎のグラスを持って一口飲んだ。
「ママ、なにこれ?心霊スナック?」
私は笑いを浮かべて奥のママに言った。
「違うのよ~!
そういうんじゃないけど、このカラオケ、時々どこかの電波が混信してるって言うんだけどね~!
私も良く判んないのよ」
店内の電気が点き、ママがデンモクを持って演奏停止ボタンを押したが曲は止まらず、画面に出ている女の顔がまるで磁石を画面に押し付けたかのように歪み、耳障りなハウリングの音が店内に響いた。
ママが何回もボタンを押すと曲が止まり画面は待機状態になった。
「時々、まぁ、ほんの時々こういうことが起きるのよね~!」
ママがうんざりした調子で言った。
「あたしも普通にスナックしたいんだけどね~ともかくここに店を開いてからは前のママさんのことやルージュのことばかり聞く人だったんで自然と初めの人には説明するのよ~!」
その時、閉店して無人のはずのルージュとの壁がルージュ側からどんどん!と叩く音がした。
私はビクッ!として壁が鳴った方を見たが、そこには誰もいなかった。
「あら…ほほほ!気にしないでね!
時々こんな事も起きるけど慣れちゃった…でも、とみきさんすごいわねぇ!
初めて来た人でこんな短い時間で全部体験する人、いないわよ!
とみきさん初めてだから何か食べるものサービスするわよ!
何が良い?」
「え、良いの?
じゃあアタリメもらおうかな?」
「はい、喜んで!」
ママが再びカウンター奥に入りアタリメを焼き始めた。
「ママ」
「は~い?」
「この店で起きることは大体これくらい?」
「そうよ~!
だからあんまり気にしないでね~!」
ママがあんまりのんびりとした感じで言うので私も苦笑を浮かべ、肩の力を抜いて焼酎を一口飲んだ。
ちょっとしたアトラクションがあるスナックだと思えば大して気にならないだろう。
友人など連れてきて、たまたまこんなことが起きれば話の種にもなるしと思い、私はこの店に入って良かったと思った。
さて、誰を連れてきたら面白いかな?と私は頭の中で学生のときからの友人や病院で同じシフトを組んでいる看護師など色々と物色し、彼ら彼女らがこういう現象に遭遇したときの反応を想像して笑顔になった。
ママが焼きたてのアタリメを持ってきた。
「何かカラオケでも歌うかな?」
「いいよ~!歌って歌って!
ここは一曲100円だからね!」
「安いね!」
「家賃が半額だからね~」
ママが笑いながら言った時、またしてもルージュ側の壁がどんどんと鳴った。
「今ふと思ったんだけどさ…イギリスの幽霊屋敷とかで壁を叩く音とかと意思を疎通させるの知ってる?」
「え?なにそれ?」
「例えば、イエスなら1回ノーなら2回叩いてくださいって言ってこういう…何かと会話するんだよ」
「え~!それ、面白そう!
…だけどちょっと怖いわね~とみきさんやってみる?」
ママに言われて試してみようかな?と私はルージュ側の壁を見た。
「…やっぱりやめた」
私が言うとママが派手にずっこけたポーズをとった。
「いやだぁ~!少し期待したのに~!」
ママが不満を漏らすと私はテヘヘと頭を掻いた。
一瞬面白そうだと思っては見たものの、やはり少し怖かったのだ。
私は面白そうだと思っていらぬ事をして深みにはまることが多い。
ましてや今はお盆すぎ、実家に顔を出して母親に線香をあげたばかりなので今日はこの手の事は止めておこうと思ったのだ。
「ママ、次に来た時に気が向いたらやってみるよ。
さて、カラオケカラオケ…」
私は取り繕うように言うとデンモクを手に取り何を歌うか物色した。
ドアが開き、温厚そうな50代後半くらいの男が入ってきた。
「あら、タカサ~ン!こんばんわ~!」
どうやら常連らしいその男がママに挨拶しながら私の椅子ひとつ空けた横に座った。
「ママ、早い時間にお客さんとは珍しいね」
「そうなのよ~!今日は幸先良いわ~!
こちらとみきさん、とみきさん、こちらはさっき話していた電気工事の人でタカさんよ~」
タカさんと名乗る男は笑顔で私に会釈した。
「こんばんわはじめまして」
「あ、どうもこんばんわ」
「お兄さんも度胸が良いねここの店は…」
「もう説明済みです、ほほほほ」
ママがタカさんのボトルを出しながらそういうとタカさんがいささかがっかりした様子の顔をした。
「なんだ、もう話しちゃったのか」
「話したどころか一通り体験しちゃったわよ。
ねぇ~とみきさん?」
ママが妙なしなを作って笑顔で言った。
「ええ、電気が消えたりカラオケが変になったり壁がどんどんと叩かれるのも…」
「それでまだ飲んでるんじゃたいした度胸だなぁ~!」
タカさんが感嘆した様子で言い、ママが作った水割りのグラスを私に差し出した。
「まぁ、楽しく飲みましょう」
私もグラスを合わせながら頭を下げた。
その時にまた、ドンドン!と壁が鳴った。
「今日は元気だな…彼は気に入られたのかな?」
タカさんがそう言いながらグラスの酒をグィッと飲んだ。
「よしてくださいよ~!
とみきさんが連れてかれたら嫌じゃないですか~!
これから大事なお客さんになるんだから…」
私はママの言葉を聴いてぎくりとした。
連れてかれる?
俺が?
誰に?
どこに?
続く
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