おねーちゃんが好き

ヤケ酒あずき

プロローグ

瑞木由花 20歳 夏1

 アパートの床に座り込み、ホテルで一泊するだけの荷物をもう一度バッグに詰め直す。最後に、ライブのチケットを入れたクリアファイルを、折れないように隙間に差し込む。


 朝からもう四回目。自分に嫌気がさしてくる。


 わたしはまだ迷っている。ずっと前から悩み続けてて、もう明日なのに。でもまだ決められない。本当に行くつもりなのか。行って、どうするつもりなのか。


 いや、どうにもならないのは、最初からわかってるんだ。だからわたしは諦めなくちゃいけなくて、でもあの約束が、わたしの背中を押そうとする。


 覚えているのは、わたしだけかもしれないのに。


 顔を上げる。エリカのポスター。エリカのCD。エリカの写真。エリカだらけ。アパートを彩るエリカの姿。部屋の隅っこに吊られた古いボクシンググローブが浮いている。


 ポスターの中で歌うエリカは、長いこと貼り続けているせいで日焼けしていて、でも、全然美しさを失ってない。長くて艶やかな黒髪も、ハッとするような容姿も、抜群のプロポーションも、日焼け程度じゃ問題にならない。見ているうち、胸が高鳴る。ちょっとだけ甘くて、あとはもう、とにかく苦いだけ。


 この高鳴りが、甘くて切なくて、ちょっぴりほろ苦い時があった。あれから二年。一年浪人し、大学一年生になったわたしは、山口大学の傍のアパートで一人暮らしをしている。


 ――由花。


 最後にエリカにそう呼ばれたのは、いつだっただろう。


 エリカの声が聞きたくなって、CDをかける。特典欲しさに買い集めたから、同じものが何枚も本棚に並んでいた。目をつむっても思い出せるほど聞き込んだ歌が流れ出す。男性でも女性でもあり、そのどちらでもない、性別を超越したエリカだけの歌声。天使の歌声。世界で最も豊かな色彩の歌声。何度だって聞き惚れる。


 でも、やっぱり本物にはかないやしない。


 もう一度だけ、本物のエリカの歌を聞きたい。


 もう一度だけ、エリカに会いたい。


 ああ、これがわたしの本心だ。昔の約束を口実に、エリカのデビュー五周年記念ライブに行きたいだけ。何てワガママ。自己中女。二年前から何も変わってない。


 でも、でもね。


 わたしはあなたとの約束を破ることだけは、絶対にしたくないのも、本当なんだよ。


 だって、わたしはあなたのことが好きだから。


 愛してるから。


 誰になんて言われようが、それだけは絶対に変わらないから。


 わかってるよ。おかしいのはわたし。狂ってるのはわたし。病気なのはわたし。本気にされなくても、嫌われても仕方がない。でもね、この想いを嘘にすることだけはできないんだ。


 あなたを守りたくて始めたボクシングは、もうできなくなってしまったけど。


 神様にだって負けやしないと思っていた私は、もういないけど。


 たとえ、わたしがどんなに変わっても、この気持ちだけは、絶対に変わらないんだよ。


 胸を締め付ける高音のビブラート共に、メロディーが途切れる。次の曲が流れ出す。


 スマホが鳴る。高速バスが出発するまであと一時間。まだ迷いは消えないけれど、それでもタイムリミットに背中を押されるように、化粧をしなきゃと鏡の前へ向かう。


 ……本当に行くの?


 鏡の向こうから、エリカの面影があるわたしの顔が、無言で問いかけてくる。

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