第13話 時計店

 季節は初夏、五月に入った。

 この日澪は、昴を連れ出し、馬車に揺られていた。二人きりだ。絵山と久水には留守番を命じた。というのは、昴と兄弟なのだからもっと親交を深めておこうと思った結果である。二人きりの思い出というものを作ろうという考えだ。アルバムを見せておくよりは、ずっと印象に残るだろうと判断した。


 今回は、陰惨な事件のせいで前回は行き損ねた、時計店へと向かっていた。

 丁度その時、時計店から少し離れた場所に、馬車が停止した。

 時計店の前は路が入り組んでいるので、少々歩くことになる。


「行こう、兄上」

「ああ」


 こうして二人で馬車を降りて、時計店まで歩く。

 扉を開けると、中には様々な種類の時計があった。丸時計、柱時計、鳩時計。腕時計に懐中時計――と、視線を這わせていき、懐中時計が展示されている方を見た時だった。


「伊織!」


 不意に昴が声を上げた。澪が顔を向けると、懐中時計の商品棚のところにいる青年へと、昴が笑顔を向け、足早に歩みよっていく。そこに立っていた伊織と呼ばれた青年は、昴と同じ年頃で、黒い祭服姿だった。薄茶色の髪をしていて、少し垂れ目だ。手には金色の懐中時計を持っていて、蓋には兎の模様が彫られているのが澪の位置からは見えた。澪は昴を追いかけつつ、様子を見ながらゆっくりと進む。


「昴じゃん! 最近見かけなかったから、どうしてるのかと思ってたんだよ」


 伊織は昴を見ると、ぱぁっと明るい表情に変わった。


「うん……ちょっとな」

「祭服じゃないのも珍しいね。着物、よく似合ってるよ」

「あ、ありがとう……伊織、元気だったか?」


 昴は伊織の正面に立つと、自分より少し背の低い彼の顔を覗き込んだ。それから澪を見る。


「澪。隣の聖フルール・エトワール大教会の牧師の伊織だ。伊織、こちらは……その、おと……澪だ」


 弟と言いかけたが、昴が口ごもって名前を呼ぶ。

 澪は気にせず上辺の作り笑いで礼をしてから、何気なく伊織が手に持つ懐中時計を見た。どうやら不思議の國のアリスがモティーフの時計のようで、白兎――時計兎が刻まれている。


 昴と伊織が再会を喜んでいるそばで、澪は時計の蓋を見て考えていた。

 それから、ふと伊織を見て、首を傾げそうになる。


 何故なのか、人間であるのに伊織からは、血の匂いがほとんどしない。その上、微かに香ってくる匂いは、生臭い。まるでこの前遭遇した陰惨な事件の時にいた加害者、『ジャック』のような悪臭が混じっている。


 『ジャック』と同一人物とは思えない香りの強度ではあるが、なにか関係はあるのかもしれない。

 しかし、だとしてもどうでもいい。


 人間の殺人鬼を捕まえることなど、己の仕事ではない。人間の事件はせいぜい人間が解決すればいい。そのために警察だっている。吸血鬼には、事件など無関係だ。人間同士の些末な出来事に、首を突っ込む気が起きない。


 それよりも問題は、『アリス』の方だ。澪は腕を組む。

 視界には昴と伊織を捉えたままで、脳裏で不思議の國のアリスのストーリーを回想する。

 手紙の差出人の白兎がまず存在する。そしてもし己がチェシャ猫だというのならば、主人公のアリスもどこかにいるのだろうかと思案した。また、手紙にはマッドティーパーティと記載されていたが、だとするとお茶会のメンバーである帽子屋や三月兎、ヤマネなども存在するのかと考えてしまう。まだ何も、分からないままだ。


「じゃあね、昴。僕は行くね。また話そうね!」


 その時、元気で明るい伊織の声が響いた。


「うん。またな」


 麗しい顔で笑った昴が、片手を持ち上げて振っている。澪も一礼し、昴と二人で入り口の方へと視線を向ける。ドアから伊織は出ていった。


「楽しそうだったな。親しいのか?」

「ああ。一番の友達だよ」


 そう言って笑う昴は、心から嬉しそうだった。まだあまりこの部類の笑顔を見た事が無いので、自分は親しまれていないようだと澪は感じる。だからこそ親睦を深めに来たのだったと思い直す。


「では時計を見るか」

「え、あ……うん。ありがとう、澪」

「俺は腕時計がいいと思うんだが、兄上は?」

「任せる」


 そんなやりとりをして、二人で腕時計の商品棚へと向かう。そこであれやこれやと話し合い、昴は紺色の文字盤の銀色の腕時計を選んだ。値段を見て、狼狽えていた昴だが、気に入っていたのは明らかなので、澪はそれを購入した。最初の呉服店の時とは違い、相談できたのは進歩だろう。


「ありがとうございました」


 その後店主に見送られて、二人は時計店を後にした。




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