ベルちゃん失踪事件
「は〜い、お待たせしました〜」
そいつは事前に予告された通り、やって来た。
本当に、来てしまった。
ペットショップの店員さんの腕に抱かれて、とうとう私達家族の所にやって来た。
こちらにのっそりと歩いてくる店員さんの腕に、小さな茶色(厳密にはブロンドと言うらしい)の毛玉の塊がしがみついている。モゾモゾと身体を動かしているのが、ここからでもはっきりと分かる。……だが、私が座っている位置からでは、HPに載っていたあの愛くるしい顔を視界に捉える事が出来ない。どうやら、店員さんの脇に顔を埋めているようだ。
どんどん距離が近くなって、気づけばそいつは私のすぐ側に。
私の隣に座っていた母の腕の中で、ちょこんと座っていた。
「ねぇ〇〇、このコ、ちょっと抱っこしてみる?」
私の母は、自身が出来る事なら人類皆実行可能と思い込んでいる節がある。明らかに素人には無理がある料理とかの家事だってそうだ。これまで料理の経験がまったくなかった私に、「将来の為に」と平気で難しい料理をリクエストしてくる事もある。おかげで「あたしが出来るなら〜出来るでしょ。」の構文を、私は一週間に一回は聞くハメになってしまった。
そんな訳ない。やった事もない事を、人はやる気さえ出せば突然出来るようになるワケではないのだ。何かを為すにはそれなりの鍛錬が必要である。そちらの勝手な思い込みを押し付けるのは止めてほしい。
……だが、この時の私は、そんな真っ当な言い訳(屁理屈)さえも口に出せない程疲弊していた。
約一時間ほどの長きに渡る、数多の契約や保険の明細説明。ペットショップの犬猫売り場特有の熱気。それから、今日、この瞬間から、新しい家族を迎え入れるという事実。全てが私の上にのしかかり、正常な思考を妨げていた。
普段なら、今しがた運ばれてきたプルプル震えているそいつの安全性の方を重要視して、母の提案を即刻拒否していたであろう。しかし、まともな判断さえも危うかったこの時の私は、ついつい首を縦に振ってしまった。
心の何処かでは、丸っこくて可愛らしいそいつを抱いてみたい、と願っていた愚かな自分がいたに違いない。そのせいで、私は魔が差してしまったのだろう。
両腕と膝上に、そいつの毛の感触と柔みを感じる。「ずっしり」とも「ふんわり」とも違う、だが確かに、体温という名の熱がこもった茶色い毛むくじゃらが、私の身体にぴったり密着して「生」を伝えている。
「と〜っても、おとなしいメスの子なんですよ。他の子達がいっぱい鳴いているのにも釣られずに、一晩中静かにしていたぐらいで。飼いやすい子を選べて良かったですね。」
成る程、その言葉通り、こいつは確かにさっきからうんともすんとも何も口に出そうとしない。緊張しているにしても、もう少し吠えるとか喚くとかリアクションがあるものだと思っていたのだが。こいつは自身の想定より、遥かにおとなしめの気質の女の子だったようだ。
……と、勝手に一人で思い込もうとして、止めた。
この子の今の振る舞いが、現在進行中で臆病な誰かさんとそっくりそのまま被っていたから。
自分が余りおとなしい気質でなく、寧ろ感情の発露が激しい人間であることは、自分が一番良く理解していた。
(そうか、こいつは今の私と同じなんだな。……まぁ、気性の激しい子では絶対にないだろうけど。)
石像のように固まりきって、指さえも満足に動かせない私と同様に、そいつはただ、私の腕の中で縮こまって、不安気に目の前の空虚を見つめていた。
「ウウゥゥゥゥ……ワン!!ワンワン!!」
隣の部屋から凄まじい叫声が聞こえる。どうやらまた、彼女はやらかしてしまったらしい。
そう思った刹那、私の横の扉が開かれ、母がリビングに入りこんできた。これも私の予測通りである。もうかれこれ二週間以上、丁度この時間帯に、母は何度もこのリビングに飛び込んでくるのだ。
机に向かっていた私は、数分前と同じように、体勢を変える事無く再び母に声をかけた。
「あー、ダメだった?」
「ダメね。全然治らないわ。ベルちゃんの中では数分ごとに記憶がリセットされているのかしら。」
隣の部屋から、物悲しげで甲高い鳴き声が、私達の耳を突き刺す。その声の主は子犬のもの。およそ三ヶ月前から我が家の一員となった、ゴールデンドゥードル(ゴールデン・レトリーバーとプードルのミックス種)の”ベル”のものだ。現在生後五ヶ月である。
名前の由来はひどく単純だ。まず、母がメスの犬の名前をネットで調べあげ、1位から5位までの人気の名前を全て洗い出した(サイトによって人気の名前は異なるため)。その後、無料の自動姓名判断サイトに、私達の名字とそれらの名前を順に入力し、片っ端から相性を診断していったのである。
そして「大大吉」として見事選ばれたのが、どのサイトでも三位以内に人気をキープしていた「ベル」であった。
「
だが、これは人間社会の間でもよくある話だが、何も外見が優れているからといって、中身もそれに伴うものかどうかは分からない。ベルの場合、顔立ちは素晴らしく整っていたが、中身の性格までは整っていなかった。
激しい。
とにかく、激しすぎるのだ。
彼女がこの家に来てからはや二ヶ月。彼女が破壊してきた物品は以下の通り。
・床に敷き詰めるタイプの三十センチ四方のマット ✕13
・ローハイドチューイングボーン ✕2
・おもちゃ ✕4
・ペットサークルのパネル ✕2
・父のベルト ✕1
・3Lサイズのプラスチック袋 ✕大体20
(私調べ)
ペットサークルを使った事のある人なら分かると思うが、あれは数枚のパネルを緩いジョイントで留め、柵状に囲っただけのものだ。壊した、といっても、単にそのジョイントを軽い弾みで外してしまっただけだと考える人もいるだろう。
それは違う。彼女は文字通り「破壊」したのである。家族がよく集まるリビングの方角に向かって突撃を繰り返した結果、パネルの枠のプラスチックをぐにゃりと捻じ曲げてしまったのだ。予備パネルが数枚あったから良かったのだが……。
元気がありすぎるだけならまだいい。元気があるのは子犬の状態としては大変喜ばしいことだ。その若さゆえの元気についていけない我々家族が悪い。だが、彼女は、それだけでは済ませられない非常に厄介な”クセ”を抱えている。
『噛み癖』である。
これも子犬には良くあることだし、それが健全な発育の証拠であるというのは重々承知している。しかし、ベルの場合はそれが全く治らないどころか、指を噛む力が日に日に増していきているのだ。
二週間、いや、三週間以上、我々は世に溢れる様々なサイトを参照し、幾度となく彼女の矯正を試みてきた。噛まれるや否やわざとらしく悲鳴を上げるか無視を決め込み、クレート(犬用のケージ)送りにしてそのまま退室する。その繰り返し。だがその数分後に再び彼女と相まみえると、たちまち元気になってガブガブと手足に噛みついてくる。
これが相当痛い。ゴールデンドゥードルという犬種は、調べていただければ分かると思うのだが図体がかなりデカく、その分パワーも強い。本人、もとい本犬にとっては甘噛みのつもりなのだろうが、こちらは洒落にならないダメージを追ってしまう。流血沙汰に発展したのも一度や二度ではない。(ちなみに私は通算三敗)
噛まれたら積極的に犬のマネをして吠えていくスタイル(序盤のアレ)も全く通用しない。現在犬のしつけ教室に通ってしつけ中ではあるが、この分では改善するかどうか怪しい。詰まる所、八方塞がりの状態であるのだ。
「じゃあ僕いくわ。」
「うん、頼んだわよ。」
先程の会話から10分ほど、ようやく勉強が終わったので、その時の私は母に代わりベルの世話を引き受けた。
噛まれるのは厄介だしめちゃくちゃ痛いが……、仕方がない。母の顔を見るに、相当しんどそうなのが見て取れる。さっきドッタンバッタン部屋から音がしていたのを鑑みるに、かなり厳しい戦いを強いられていたのだろう。
……よし、行こう。
決心し、私はドアノブに手をかけた。
――普段、ベルは自重で凹んでしまったペットサークルのフチに手をかけ、こちらをじっと見つめている事が多い。
どこか憎めない、あの可愛らしい笑顔が見れるものと、そう思い込んでいた。
そこに、ベルの姿は無かった。
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久々の物語風形式です。
後編の展開をまったく考えていないので、恐らく更新遅れます。
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