喫茶去 序盤で「誰が」をなるはやで伝えてほしい

 文字が全ての情報(大袈裟に言えば世界)における小説において、序盤で「誰が」がわからないことはとても不幸である。大抵そういう作品は、作者自身にはすごくイメージがあって書きたい事だらけな一方、読者は「誰が」それを語っているのかわからないままとりあえず透明人間をイメージして、作者の熱い想いをただバッファリングしていくしかないものが多い。話の開始早々、作者と読者のキャッチボールが怪しくなっているのである。


 特に一人称の作品の場合には、序盤の語りが誰の声であるのか不明のまま進められるのは、(わたしは)すごく困惑する。わたしは一人称の作品を読む場合には「憑依型」で読もうとするからだ。

 一人称の作品の読み方として、読者(つまりわたし)が主人公になりきって読み進んでいく「憑依型」と、あくまでも一人称語りというを客観的に見ている「観劇型」に大別できると思う。どちらで読むのかは個人の自由であるが、わたしは他人の作品を読むときには、できるだけ主人公になりきって喜怒哀楽を共有したい人間なので、憑依することにしている。


 ということは、まずは「誰が」というのを明示してくれなければ、憑依ができないということになる。そもそも「誰が」がないと、最初の「語り」が一人称の主人公なのか三人称の語り手なのかも判別できない。第一ブロック(大きな意味での最初の段落)までは文字として我慢して読むことができるが、心の中では「誰が」を知りたい自分がいて、一刻も早く主人公に憑依したくてウズウズしている。ついでに言えば、年齢性別もはっきりしてほしいと願っている。それによってわたしの憑依するスタンスが違うからだ。


 本当に最初の最初で「オッス! オラ犀川! 四十代で、料理がとても苦手な専業主婦だ!」みたいな登場をしてくれとまでとは思っていない。序盤というのは読者を作品に引き込むために一番大事な箇所であるし、作者自身が一番語りたい箇所でもある。ただ、それが長すぎるのは、読者にとって嬉しい事ではないというわけだ。


 わたしも作品を通して、主人公としてではなく、作者自身、つまり自分として語ってしまうことがある。正直に言えば、ある程度「酔った」作品には必要だとも思っている。

 しかしながら、「人に読ませる前提」の小説に一番大事なことは、「読者が簡単に読める」ことである。読者置いてきぼりの難解な作品もあって構わないのであるが、それでも「誰が」がわからないのはマズイと思う。読者全員に「何を基軸に話を読んでいけばいいのか」取っ掛かりもないまま読んでくれるだけの辛抱強さがあるわけでもない。わたしを含む大抵の読者は、「誰が」をで明示してくれないと、すぐに作品についていけなくなってしまうのだ。


 公募においては、序盤で「誰が」がないと、その時点でアウトになりかねない。よく「序盤で語りが入ると終了」「いきなり会話文はダメ」と言われるが、やはり「誰が」という主語は、できるだけ早めに出すべきなのだと思うのである。

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