一章 束縛

 砂漠の国の一件から数日後、ツレーフはアジアのある国にやってきていた。

 アースオの国とは違い、都会的な──悪く言えば無機質な街並みの首都だ。いわゆる受験戦争が苛烈なこの国では、塾産業も活発である。受験日が集中する月まで三ヶ月を切った現在、その熱気はピークに達していた。

 ツレーフが潜んでいるのは有名進学塾──その天井裏だった。真下にある教室の様子を小さく開けた穴から伺っている。

(塾、か。俺には理解できねぇ世界だな。ましてや十二歳なんてガキがよ)

 ツレーフの年齢は二十歳ということになっている。詐称という話ではなく、単に正確な年齢がわからないからだ。

 その生い立ちから学校に通ったこともないツレーフにとって、眼下の光景はとても奇異に映った。

 縦に長い教室に詰め込まれているのは、思春期もまだ訪れていない子供たち。その全員が机に配られた問題用紙へ一心不乱に向かっている。真剣な顔もあれば、絶望的な顔もある。頭をかきむしって、うめき声を上げる子すらいる。

(まともな子供のあり方を語れるクチじゃねぇ、か。俺もガキのときは師匠に鍛えられている真っ最中だった)

 ふっと懐かしい記憶を思い出すが、その記憶の行き着く先に待ち受けるものに気づき、すぐに仕事に集中する。

 ちなみにツレーフの武器にして生ける糸――十二糸は、念のため人の形から分解してある。なぜかこの数ヶ月、必要のないときに突然しゃべり出すことがあったからだ。それまでは危機を告げる場合やこちらから問うたときなどに限られていたのに、だ。

(天井から声が漏れたら騒ぎになる。ターゲットに余計な不安を与えて“アレ”になられたら面倒だ)

 今回のターゲットは子供だった。先ほどの頭をかきむしり、うめき声を上げていた生徒だ。

 事前に塾に忍び込んで得た情報によると、生徒の名はカン・ジンスク。名門学校への入学を希望しており、この塾の進学コースを選んでいる。しかし、塾内テスト程度に苦しむ様子でわかるとおり、成績は芳しくない。合格の可能性の判定でも最低のE評価であった。

(それでこの能力ってわけか。……大した意味はないようだが)

 ジンスクは今まさにI/Fを発動していた。極めて限定された条件の下で時を操る力。アースオは時間を巻き戻していたが、ジンスクのそれは違っていた。

 今回行われているのは算数のテストである。計算問題が非常に多く、必死に手を動かさなければ間に合わぬ分量だ。

 当然ジンスクも必死で筆算をするのだが、その手の動きは明らかに不自然。まるで早送りを見ているかのように、すさまじい速度で書いているのだ。

(他のやつと比べると──二倍から三倍速か。こんなのは俺でも見ればわかる。さしずめテスト中だけ自分の時間を加速させるってとこか)

 ツレーフの目測が正しいならば、ジンスクには倍以上のテスト時間があることになる。これは圧倒的に有利だろう。──余剰時間を生かせるだけの実力があれば。

(時間がいくらあろうと問題自体の難易度が下がるわけじゃねぇんだろ。解けねぇならそれこそ──時間の無駄だ)

 大人ならばまだ生かす方法も考えられただろう。だが十二歳の子供が理外の異能を与えられたところで急に使いこなせるわけもない。ジンスクのように頭の出来に劣る子供ならなおのことだ。

 チャイムの音が虚しく終わりを告げる。ジンスクは鳴り終わるその瞬間までをも費やしたが、回答欄の三割は空白のままだった。

 力尽きたように机に顔を伏せる少年の姿は天井裏からでもはっきりとわかった。


 1


 世界的なバーガーチェーンからテイクアウトしたハンバーガーにかじりつきながら、ツレーフはゴミ箱の並ぶ路地裏で壁に寄っかかって天を仰いでいた。

 ものを食べるには不向きの悪臭漂う場所だが、今のツレーフにそれを気にする余裕はなかった。

「しかし、参ったな。受験合格なんてどう叶えろってんだ。ったく情報屋のやつ、厄介な虚飾者を探してきやがって……」

 ヴァニティは虚飾者と融合状態にある。幽霊に憑りつかれた状態と言ってもいい。物理的に体内に埋め込まれているわけではなく、存在が同一化しているため手術では取り出せず、ヴァニティが剥離した瞬間に、拾弐神法・蚕起食桑で抜き取るしかない。

 虚飾者の強い欲望を叶えればヴァニティは次の宿主を探すために宿主から離れていくが、逆に言えば、その欲望が叶わない限り取り出せないのだ。

 カン・ジンスクの願望は言うまでもなく志望校への合格である。だが、合否発表は遅くとも四ヶ月先だ。何をどうしようが、今すぐジンスクを合格になどできるわけもない。

 イライラをごまかすための煙草の吸い殻が足下に落ちては、汚水の水たまりに浸されていく。黒く染まっていく吸い殻が、まるで己の体内の状態を表しているようで、ツレーフは顔をしかめる。喫煙が健康に悪いという自覚はある。まだ若いとはいえ、身ひとつで戦う代行者にあるまじき態度。そのこともわかっていながら、やめられない――否、やめたくない理由があった。

「フン、俺のような悪党が言うのは筋違いか。有り難いだろうよ、この苦さってのは」

 バーガーの包みを握りつぶすと、自嘲するように笑う。

 うつむき加減に路地裏を去るツレーフ。その手が大儀そうに動くと虹色の糸がうねり、吸い殻を地面からすくい上げ、近くのゴミ箱に放り込んだ。


 2


 実のところ、ジンスクに残された時間は少ない。

 それは勉強時間不足という意味もあったが、より深刻な問題があった。

 限定的ながら時間を操る能力。それが何のリスクもなく使い放題とはならない。

 まずひとつに、能力を使うたびに虚飾者は体調不良に見舞われる。現実との時間のズレによるものだろう。倦怠感や眠気など時差ぼけに似た症状、あるいは吐き気や目まいのような乗り物酔いじみた症状が起きる。 

 もっとも、これだけであれば大したリスクではない。ツレーフが恐れているのはもうひとつのリスクだ。

「存在の楔が外れる……“アレ“になるのも時間の問題だろうよ」

 砂漠の国のアースオは勘で気づいていたが、時間という世界の理を弄くる行為は必然、世界を歪める。

「代行者様におかれましては、ぜひとも虚飾者による混沌の拡散を止めて頂きたく存じます。I/Fが繰り返し行使されれば周囲の全てが混沌に還ります。それだけはどうかお忘れなきようお願いいたします」

 十二糸が手を前に組み、丁寧にお辞儀をする。ツレーフは乱雑な手つきで煙草に火をつけると、不味そうに吸った。わざわざ言われなくても忘れるわけがない。

 代行者の使命は世界を混沌から守ることだ。

 混沌――何もかもが意味を持てない空間。位置もなければ時間軸もない。生命など生まれようがなく、物質すら存在しない。何かはあるが、何にも成ることのない停滞した世界。

 具材が溶け切ったドロドロのスープのようなものだ。何かの断片が入っているが、どんな具材かはわからず、ただ何かのスープとしか言えない。具材はスープと溶け合い、スープそのものになり、元が何だったか誰も気にしなくなる。

 I/Fを使い続けた先にあるのはそれだ。存在していた事実ごとその存在が失われ、この世界から認識されなくなる。初めからなかったことになるのだ。今は拮抗状態にあるが、放置すればいずれこの宇宙ごと消えてなくなってしまうだろう。

「使命は果たすさ。そうでなければあのときの俺は――」

 その先の言葉は吐いた煙に混ぜた。


 日の落ちる頃、塾からの家路に就いていたカン・ジンスクに背の高い陰気な青年が話しかけてきた。

「少し時間をもらうぞ。話したいことがあるんでな」

「え、誰ですか? 僕帰って塾の宿題が……」

「テストでズルしてるよな? 俺は虚飾者を見逃さねぇ」

 その言葉にぎくりと硬直するジンスク。

「ど、どうして……」

 青年――ツレーフは返事の代わりに細いあごで方向を指す。そこには小さな公園があった。

 塗装のはげたベンチに二人が並んで座ると、気が気でない表情のジンスクが早口でまくしたてる。

「何が望みなんですか……。お、お金なら払います。だからこのことは誰にも……!」

「人を見かけで判断すんなっていうのは塾で教わらなかったのか? こすい強請り屋と勘違いしやがって」

 ツレーフは心外だという風に口をとがらせるが、ラフな格好をした目つきの悪い男が足を組んだまま怯えた表情の少年に話しかける様は、誰が見ても不良が絡んでいる図だった。

「忠告するだけだ。そのI/F――テスト中限定の時間加速は危険だから今すぐ止めろ。自分でもヤバい代物とはわかってんだろ?」

 その言葉でジンスクはテスト後に机に突っ伏していた間のことを思い出す。それはテストの出来が悪かったからだけではない。

「…………はい。これをやるとテストが終わるたびにすごく気持ち悪くなって、目まいもひどくて……、で、でも使わないとダメなんです! 頭の悪い僕はこうでもしないと」

「死ぬぞ、テメエ」

 その次に吐かれる言葉を言わせまいとジンスクの口を手で遮るツレーフ。ドスの効いた直接的な言葉にジンスクが息を飲む。

「いや、ただ死ぬよりタチが悪い。このまま使い続けりゃテメエの存在はこの世から消える。誰の記憶にも残らなくなる。もちろん親でもだ。それが混沌に手を出したやつの……末路だ」

 混沌に還る──人間であれば肉体が消え、たとえジンスクの写真を見ても人の形をした何かとしか認識できなくなる。生きていた証を完全に削除されてしまうのだ。

「何言ってるかわからないよ! 脅されたって無理だ! 僕にはこの力を使うしかない……使わなかったら絶対合格できない。受験に落ちでもしたら……僕の人生は終わりだ……!」

 頭を抱え、涙声で話すジンスク。最後につぶやくように言った言葉をツレーフは聞き咎める。それは最もツレーフの神経を逆なでする言葉だった。余裕ぶっていた表情が壊れ、険しい顔に変じる。

「人生の終わりぃ? ハッ、こいつは笑えるな! 受験に落ちたぐらいじゃあ何も起きねぇよ。親がいて、家があって、命がある。なのに、今にも死にそうなツラしやがって……ふざけるなよクソガキが」

 世界中を回らないといけない代行者は主要な国の言語を一通り話せる。意思疎通は十分にできていた。

 しかし、言葉が通じるからといってコミュニケーションが円滑に行くわけではない。

「なんだよそれ……、なんなんだよ! 僕は、僕が必死になってやってるんだよ! 事情も知らないやつにわかるかよ!」

 ジンスクは興奮して立ち上がるとそのまま走り去った。

 ツレーフも追いかけようと腰を浮かせたが、諦めてベンチにどっかりと座り直す。煙草をくわえると、火はつけずに首を空に向ける。

 木陰に身を隠させていた十二糸がツレーフの正面に立つ。

「虚飾者が離れていきますが、これも虚飾者の願いを叶える計画のうちでございましょうか」

「…………つい熱くなった。学校なんざ行かなくてもよかったからな、俺は。師匠が、生きる術を──いや、今はどうでもいい。もう終わったことだ。俺が終わらせたことだ」

 いやな記憶を振り払うように頭を正面に戻したツレーフは、ふと違和感に気づく。

「あ? なんかテメエ、格好いつもと違くないか?」

「いいえ。全く同じにございます。どのような地域でも目立たぬよう、この無個性な姿形を取るよう決められておりますゆえ」

 ツレーフの武器──十二糸は使わないとき人型になっている。百二十メートル分の糸を持ち歩くのは邪魔だからだ。その姿形は形状記憶合金のように元の形を記憶しており、服装は地域に合わせて都度編み上げるが、人型のときの顔や体型は常に同じになるはずだった。

 身長は百六十センチメートルで成人の男女両方をカバーしている。体型は痩せているわけでも太っているわけでもない、つまり中肉だ。十二糸に備わった迷彩機能で肌や髪の色も国に応じて変えられる。今の肌は黄色人種で髪の色は黒だった。

 髪型は基本的にショートヘアであり、表情を隠すことはない。しかし今見てみると左目に若干髪がかかっている。また、身長も十センチほど低いようだ。

「何千年も稼働してるせいでガタが来てるんじゃねぇか? やめてくれよ、肝心なところで使い物にならねぇなんてのは」

「わたくしめはただの糸でありますれば。代行者様の御心のままに動くのみでございます」

「それはたった今やらかした俺への当てつけか?」

 どんなに外見が変わろうとその無表情には変わりがなく、その無礼とも呼ぶべき慇懃さにも変わりがない。

 ツレーフは舌打ちすると勢いよく立ち上がり、公園を後にした。


 3


 説得に失敗した後、ツレーフはジンスクへの接触を止めた。ただでさえ不安定な精神をこれ以上追い込みたくなかったのだ。

「フン、ガキにゃあ無理難題だろうが、どこまで自我が保つか見物だぜ」

 I/F──時間を歪める能力。そんな大それた力の副作用が、たかだか時差ぼけや乗り物酔い程度で済むはずがない。

 塾の天井裏から監視するツレーフは、言葉こそ余裕に満ちているものの、緊張した面持ちだった。――すでに事態は終わりに近づいていた。

 不正の証拠が見つかっていないだけで、ジンスクはとっくに疑われていた。なにしろ生徒の動きが不自然に加速しているのだ。監督者の塾講師が違和感を持たないはずがない。

 だから、この末路は約束されていた。

「では、テスト始め」

 講師が合図をするとテストが始まった。今回は志望校への合格率を測るための模擬試験だ。通常のテストとは重要度が全く違う。監督者は授業を普段担当していない者が行い、不正を防止するために筆記用具すら塾が準備していた。生徒の誰もが一心不乱に問題に向かっており、鬼気迫る表情であった。

 ジンスクの表情も同じだったが、その理由は少し異なっていた。最大の禁忌に手を染めようとしていたからだ。

 すなわち、カンニング。

 時間を加速した擬似的な高速移動ができるので、ほんの一瞬だけ隣の解答を盗み見る程度ならバレる可能性は低い。

 だとしても不正を行うことに違いはない。もし見つかれば退場どころか退塾は必至。ジンスクのように心の余裕のない人間が、そんな行為を落ち着いて実行できるとはツレーフには思えなかった。

 ジンスクはそれでもカンニングを実行する。してしまう。時間の加速を常時発動し続ければI/Fの副作用で試験どころではないので、盗み見る瞬間だけ加速し、文字通り目にもとまらぬ早さで隣の解答を確認する。

 途中まではうまくいっていた。だが、試験終盤ついに綻びが出る。

「あっ止せ……! 粘るな……っ」

 天井裏のツレーフが小声で叫ぶ。

 最後の方の問題になると、回答欄の位置は下の方へ下がっていく。当然、回答者の手元で隠される形になるために、チラ見では確認できない。

 だからジンスクはつい必死になってほんの数秒ながら、体を傾け、首を伸ばした。加速していようが、同じ姿勢で数秒固まればそれは像を結ぶ。カンニングしている姿を現認されてしまう。

 それを前々から警戒していた塾側が見逃すわけがなかった。走る寸前のような速度で近づき、ペンを握るジンスクの腕をつかむ。

「カン・ジンスク。ちょっと外へ」

 周りに配慮して最大限抑えた、しかし冷え冷えとした声はツレーフの耳にも届く。こいつはもう時間切れだ。そう呟いて十二糸を握りしめる。

 ジンスクは血の気が完全に引いていた。元々I/Fの副作用で体調は最悪。そこへカンニングが露見し、ひいては退塾までもが約束されたショックが加われば、そのストレスは極限まで高まる。

 すると、どうなるか。

 ――自我が崩壊する。

「あ、ああ、ああああああああ……! 終わりだ、おわ、終わりだ。ははっ、僕は、僕の人生はっ、ひっ、ひぃ、終わりだあああぁ!!」

 能力を使ったのだろう。凄まじい速度で立ち上がり叫ぶジンスク。椅子と机が派手な音を立てて倒れる。周囲の生徒たちもさすがに解答用紙から目を離して振り向く。そして目にする。混沌へ還る瞬間を。

 ジンスクの全身がスプレーを吹きかけられたかのように服ごと黒く染まっていく。

 異常はそれだけではない。

 まず、監督役の講師が頭を抱えるとふらついてその場に倒れる。

 続いてジンスクの周りの生徒が座っていた椅子が机とともに消失し、尻餅をつく。同時に筆記用具やテスト用紙も消え去った。

 現実離れした光景を見せられ呆気にとられる生徒たちは、天井をぶち抜いて降り立ったツレーフを見てもぽかんとしているままだった。

「フリークス・オブ・インディターミネイト──F・I。自我を失った怪物。とうとうなっちまったなァ、バカがよ。気分はどうだ、え、カンニング野郎?」

 言葉の強さとは裏腹に、その声には力がない。眉根を思い切り寄せ、口の片端をひどく歪めていた。

「アアアアアアア、終わりだ終わりだ終わりだああああああああ!!!」

 黒い人型がもがいていた。ツレーフの声はもはや聞こえていない。

「おらガキども! テストは中止だ、家に帰って勉強でもしてな!」

 その言葉で我に返った生徒たちが悲鳴を上げながら一斉に出口に殺到する。転びそうになった生徒は糸で体勢を立て直してやった。

「──テメエらにはまだ“次”があるんだからよ」

 それは目の前のカン・ジンスク以外に向けられた言葉だ。次はない。まさに人生は終わったのだと。

「自我が混濁した虚飾者がI/Fを使ったとき、虚飾者はF・Iと化し、やがて混沌に還ります。そして周囲一帯の存在の楔も外され、この世界から認識されなくなります」

 十二糸が淡々と情報を告げる。

 世界の守護者たる縫殻は混沌の中に概念的な楔を打ち込むことで物質や生命が存在できるようにした。だが混沌にとって形あるものは許しがたい異物であるため、意味を持たない何かに解体しようとする。そのためにヴァニティを送り込み、意志を持つもの――人間に寄生させたのだ。

 本来はこの世界に混沌は存在できない。縫殻が自動的に除去するからだ。しかしヴァニティとF・Iは別だ。これらはこの世界の物質でありながら、混沌でもある中間的存在。この状態では縫殻のオート除去は働かない。だからこそ代行者が混沌の除去をその名の通り代行しているのだ。

 そんなことはツレーフもよく知っている。

「うるせぇわかってる! F・Iが出るたび毎回毎回自動で流しやがって……もう手は動かしてんだよ」

 そばに倒れている塾講師を、ツレーフは糸で抱えて教室の外へ放り出しているところだった。そして誰も入って来れないよう教卓やら椅子やらで扉の前にバリケードを築く。

「虚飾者と同化したヴァニティは姿を消し、別の場所で新たな虚飾者を作り出します。虚飾者が完全に混沌に還る前に対象を破壊しなければなりません」

 続けて出力された自動音声にツレーフは何も言葉を返さなかった。否、返せなかったのだ。

 縫殻にとってF・Iは混沌と同じ危険物であり、世界から排除することは確定している。

 しかし、ツレーフにとってはそうではない。悲鳴を上げてのたうつ目の前の黒い塊は、今の今まで人間だった。ただ辛い勉強に苦悩するだけの子供だった。使命だとしてもそれを破壊するのは、すなわち殺害することに躊躇わない者はいない。

 ──ましてやこのツレーフ・サロゲートという人間であるならば。

 額にじわりと脂汗が浮かぶ。

「死んだ方がマシ、とよく言うがな。今がそのときってワケだ。完全に混沌に還ればこの世界から消える。写真を見ようが、出席簿を見ようが、お前の存在は頭の端にも上らない。感謝しろよ? テメエの生きた時間を世界に刻んでやるんだからよ」

 いつもより多い口数は自己暗示。覚悟を決めて糸を操る。奮い立たせるように大声を張り上げ、必殺の奥義を繰り出す。

「拾弐神法は三刻──寅ノ弐・草木萌動!」

 それは糸を対象の全体に巻き付け、思い切り引いてバラバラに切断する技。決まれば確実に命を奪う。しかし、ツレーフの指は動かない。金縛りにあったかのように硬直している。そのくせ呼吸は大きく乱れている。脳裏を過るのは──“同じ顔をした死体”の山。

「ァ……、あァ──」

 ジンスクはもはや人の形すら保てなくなっていく。残された時間はもうない。

 殺すことが理だ。後はその手を動かすだけでことは済む。そんなことは百も承知だ。

「違う、やめろ……思い出すんじゃねぇ……っ。俺は先代を殺して代行者の座を奪った人間だ! ガキの一匹や二匹たやすく殺せる悪党だ、そうでなければ、そうでなければ……く、ぅ…………!」

 ツレーフは苦しそうに目をつぶると、力なく膝をつく。絡みついた十二糸がほどけてゆく。それは代行者がその責を全うできなかったことを意味する。カン・ジンスクの存在は消え、ヴァニティは世界のどこかへ転移する──はずだった。


「相変わらず、面白いヒトですねぇ」


 甘ったるい女声とともに、ジンスクの胸部が内部からはじけ飛ぶ。その中から五十二枚のカードが舞い上がった。

 強制的に、そして永遠に苦悩から解放されたジンスクはかろうじて存在の楔を保持された。

 ひらひらと落ちてくる五十二枚のカード──トランプを見て、ツレーフは状況を察し、苦り切った表情になる。最悪の気分になることが約束されていたからだ。気持ちを立て直すようにゆっくりと立ち上がる。

「…………イーマユーガ。情報屋ごときが余計な手を出しやがって」

 ツレーフの前に立っていたのは長身の女性。カジノディーラーが着るようなスーツがあまりに場違いだ。ショートヘアの金髪に、狐のような細目とV字の笑みを浮かべている。その口元から漏れ出るのは、小馬鹿にしたような笑い声。

「くふ、くふふふ。情けないほどの慌てっぷりがあまりに可笑しくて、つい手が出ちゃいました」

「性悪女狐が。言っとくがな、あれは演技だぜ? テメエが見ていることぐらいこっちはお見通しだ。ハッ、すっかり騙されたな」

 イーマユーガと呼ばれた女へ、ツレーフがまくし立てながら背を向ける。だが耳が真っ赤になっていることまでは隠せない。

「知っていますとも。──“先代殺し”の代行者、虫も殺せぬツレーフ・サロゲートさん」

 羞恥に燃えた体を一瞬で冷え切らせる言葉だった。間髪入れず、イーマユーガの首に糸が巻き付く。首に着けた黒のチョーカーを覆い隠すほどの糸。両手を軽く動かすだけで確実に首を胴から切り離せるだろう。

「振ったのはアナタの方なのに、ちょーっと理不尽じゃないですかぁ?」

 だがイーマユーガは笑みを崩さず、のんびりと言う。それはツレーフが殺害行為をできないと確信していることとは別の、圧倒的強者の余裕から出たものだ。

「……ちっ、テメエのような人でなしに理不尽と言われたらおしまいだな」

 屈辱に満ちた表情でツレーフがイーマユーガの首から糸を引き戻す。そしてその糸本来の役割を果たさせる。

 床材すら消失した剥き出しの地面に倒れ伏すジンスク。もはや少しも動かないその体を十二本の糸が包み込み、ドームを形成する。

「拾弐神法は十二刻──巳ノ初ニシテ終・蚕起食桑。死者は何も望まない。ヴァニティにゃ理解は適わんだろうよ。とっとと出て行け」

 国を取り返したいと思うのであれ、受験に合格したいと思うのであれ、それは命があってこそ持てる欲だ。I/Fを使わせるためにヴァニティは欲を持つ者に寄生しなければならない。その辺の石ころと同化したところでI/Fは永遠に発動しない。ゆえに、死者の中からは脱出しようとする。 殺せば回収できるというのはそういうことだった。

 黒光りする正三角錐のヴァニティは糸に絡め取られ消滅した。

「それで、何をしに来た。笑いにきたなら帰れ。ここから先は悲劇しかねぇ」

 ジンスクの亡骸を見やってツレーフがぼそりとつぶやく。ギリギリのところで存在の消滅を免れたとはいえ、混沌に還った体のあちこちが欠損していた。加えてイーマユーガによって心臓が吹き飛ばされている。無残な亡骸となった我が子を見て親がどう思うか想像に難くない。

「ええ、本日の演目はこれにておしまい。お次はわたくしの時間です。というわけで──」

 落ちたトランプがひとりでに舞い上がり、糸でも通してあるかのように一列になって黒い手袋をした手に重なっていく。格好こそカジノディーラーだが、その技巧は奇術師のそれに近い。ジンスクを屠った方法も同じなのだろう。

 だが、笑みすら浮かべて人を抹殺したその精神性は奇術師の冷静さとは次元が違う。

 ツレーフにとって有用な情報屋であることは確かであったが、その人間離れした感性を見せつけられるたびに、ツレーフの中でこいつは信用してはならないと警鐘が鳴っていた。

 そんな警戒感に気づいているのかいないのか、イーマユーガは弾けるような声で宣言する。

「くふふ、賭場の開帳と行きましょう。今回賭けるのはなんと! 虚飾者だらけの秘密結社――その所在、です!」

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