郯県の戦い

 郯県城内の謁見の間。


 其処では劉備が一枚の手紙を読んでいた。


「……これが曹操殿の返事か」


 張飛を使者にし、劉備は自分で書いた手紙を曹操に渡すように言伝して城の外に布陣している曹操軍に送った。


 手紙の内容は不幸な行き違いで御尊父と一族の方は亡くなったが、それは私事である。今は国が乱れている時、国を救うのが先だ。直ちに和睦するべきであろう。及ばずながら、この劉備が和睦の仲介をする所存と書いてあった。


 暫くして張飛は、返書を持って帰って来た。


『陶謙は一族の仇である。その仇を討たねば、死んだ父と一族の者達の御霊を慰める事は出来ん。だが、君とは知らぬ仲ではない。陶謙を討つまで、暫しの時間を与える。その間にじっくりと考えるが良い。   曹操』


 返書として、渡された手紙にはそう書かれていた。


 それを横から、見た曹豹は唸った。


「これはどういう意味でしょうか? 降伏しろという事でしょうか? それとも、我が殿を討った後にこの城を攻めるという事でしょうか?」


 手紙の内容はどういう風にも取れるので曹豹を含めたその場に居る者達は唸った。


「……張飛。お前は曹操殿と会ったのか?」


 手紙だけでは、情報が足りないと思い劉備は使者として出向いた張飛に訊ねた。


「いや、兄者。陣に入る時も、返書を貰う時も一度も会っていないぜ」


「う~む。曹操殿に会っていないのでは、何をするのか分からんな」


 劉備は張飛が曹操に会っていないと聞いて、どうするべきか考え出した。


「兄者。如何なさいますか?」


「……とりあえず、今は守りを固めよう。曹豹殿もそれでよろしいですね?」


「異論はござらん」


 曹豹も反対意見は無いので、その日は城の守りを固めるだけに留めた。




 翌日。




 城内にある一室。


 其処は、劉備が寝室に使っている部屋であった。


 結局、昨日は曹操軍は攻撃をする事も無く、一夜が明けた。


 劉備は寝台から身体を起こし、朝食を取ろうと人を呼ぼうとしたら。


「兄者。大変だ!」


 其処に張飛が血相を変えて飛び込んで来た。


「どうしたのだ。張飛。こんな朝早くに」


城の外・・・に布陣・・・していた・・・・曹操軍・・・が姿を・・・消して・・・るんだ・・・!」


「何だとっ⁉」


 張飛の口から出た言葉に、劉備は目を見開き驚いていた。


 そして、劉備は着替えもそこそこに張飛を伴い、部屋を出て城壁へと向かった。


 劉備達が向かった先には、既に関羽と曹豹の二人が居た。


「おお、玄徳殿」


「起きられましたか。兄者」


 二人は劉備を見るなり、一礼した。


 劉備は返礼をしないで、城壁の周りを見た。


 其処には昨日まで、布陣していた曹操軍の姿が影も形も無かった。


 陣地の跡として柵は立てられたままで、篝火を焚いていた跡だけがあった。


「こ、これは一体、どういう事だ……?」


 劉備は突然の事で、訳が分からない顔をしていた。


「城壁を守っていた兵に寄りますと、夜中に曹操軍の陣地の篝火が倍に増えたと言っていました。恐らく、その時に移動したのだと思います」


 呆けている劉備に、関羽が兵から聞いた話を報告する。


 篝火を増やしたのは、敵の目を誤魔化す為に焚いた様であった。


「陣をそのままにし篝火を焚き、居ると思わせておきながら、移動するとは流石は曹操と言うべきでしょうか」


 曹豹は、曹操の智謀を称賛していた。


「敵を褒めて如何する‼ 兄者。これからどうするんだ?」


 張飛は、劉備に問い掛けた。


 呆けていた劉備も話を聞いている間に、気を取り直し考えた。


「……斥候は放ったのか?」


「既に四方に放ちました」


「そうか。では、その報告を待ってから行動しても良いな」


 劉備は斥候が帰って来るのを待ちながら、一応戦の準備を整え、謁見の間で斥候が帰って来るのを待った。


 暫くすると、放たれた斥候が戻って来た。


 東と南に放たれた斥候は曹操軍を見つける事が出来なかったが、西に放った斥候が戻って来るなり驚く報告を齎した。


「報告‼ この城から西に数里ほど進んだ所に曹操軍を見つけました‼」


 斥候の報告を聞いて、劉備は直ぐに徐州の地図を広げた。


「西に数里ほど行った所と言うと、この辺りか」


 劉備は地図で曹操軍が居る所を指差した。


「曹操の野郎。俺達を無視して陶謙殿を狙うつもりかっ」 


 地図を見た張飛が、そう言うのも無理は無かった。


 曹操軍が、この先も西に進むと言うのであれば、陶謙が居る彭城がある。


 其処を狙っていると言っても良いと考えられた。


「敵は九万。殿の軍は二万近く。これでは攻められたら落城は必死。守ったところで話にならんな」


 曹豹は戦力差を感じ、どうにもならないと思い首を振った。


「…………」


 劉備は何も言わず、ただ地図を睨んでいた。


「兄者。如何なさいましたか?」


 関羽が何か考え込んでいる劉備を見て、名案でも思い付いたのかと思い訊ねた。


「……曹操軍が陶謙殿が居る彭城に向けて進軍していると言うのであれば、背後は疎かであろう。其処を奇襲すれば、曹操軍に大打撃を与える事が出来るかも知れん」


 地図を見ていた劉備は、進軍している曹操軍の背後を取れるのではと思い提案した。


「おお、確かに」


「やろう。兄者」


 関羽と張飛は劉備の案に賛成した。


「お待ち下さい! それはあまりに無謀ではありませんかっ」


 曹豹は劉備の案に反対した。


 城の兵力は一万二千しか居ない。それだけの数で奇襲しても曹操軍に大打撃を与えられるとは思えないからだ。


「確かにそうかも知れません。この城の兵を動員しても一万そこそこです。ですが、敵に大打撃を与えるとしたら、この機会しかございません」


「確かに、そうかも知れません。上手くいけば、曹操を討ち取る事も出来るかも知れません。しかし、あくまでも、出来るかもという程度です。此処は当初の予定通り、掎角の勢を持って曹操軍を牽制すべきですっ」


 曹豹は当初の作戦通りにすべきだと進言したが、張飛が怒鳴った。


「戦ってのは、時と場合によって変わるんだ。何時までも最初の作戦通りに行く訳が無いだろうっ」


「だからと言って、そんな一か八かの策に乗る事など出来ません。軽挙妄動は慎むべきです」


「敵の数に怖気づいたのか‼ この臆病者‼」


 張飛の発言に、曹豹は聞き捨てならないとばかりに怒った。


「何だと、貴様‼ この何処の馬の骨とも知らぬならず者め。自分達の名を売る為に援軍に来ただけであろうがっ」


「てめえっ、もう一遍言ってみろっ⁉」


 曹豹の言葉に頭に血が上ったのか、張飛は今にも飛び掛かりそうな位な怒気を発した。


「抑えろ。馬鹿者っ!」


「兄貴、何故止めるっ‼」


 怒る張飛を関羽が宥めたが、張飛は怒りが収まらないのか関羽に食って掛かった。


「義弟が無礼な事を言いました。どうか、私に免じてお許しを」


 このままでは不味いと思い、劉備は張飛に変わって曹豹に頭を下げた。


 曹豹も自分も怒りに任せたとは言え、失礼な事を言った自覚はあった様で、劉備が謝ると曹豹は押し黙った。


「ですが、これは好機なのは確かなのです。どうか、出陣の許可をっ」


「……この城の大将は貴殿と私だ。貴殿が出陣したいと言うのであれば、好きになされませ。だが、私は出陣は致しません。そして、この城を守る為にも兵が必要な事は承知されよ」


 曹豹は出陣しても良いが、全軍を連れていくなと暗に言うと劉備は心得たとばかりに一礼する。


「承知しました。では、私共はこれにて」


 劉備は曹豹に一礼すると部屋の外へと出て行った。


 関羽も礼儀として一礼し劉備の後に付いて行った。張飛だけは鼻を鳴らしただけで、何もしないで部屋を出て行った。


 曹豹はその場に残り、兵に訊ねた。


「北に放った者はどうした?」


「まだ、戻っておりません」


「そうか。まぁ、もう少しすれば戻って来るだろう」


 北に放った斥候が戻っていなかったが、曹豹も報告した者も特に気に留めなかった。


 だが、何時になってもその斥候は戻って来る事は無かったが、劉備が出陣し、多くの兵が付き従った事で、曹豹は城の守りを固めねばならないと思い、防備に専念する事に頭が一杯となり、その事が頭から抜け落ちてしまった。


 


 劉備はすぐさま出陣の準備を整えた。


 率いるは自分が連れて来た兵五千。陶謙から与えられた丹陽兵四千。城を守る兵千。合計一万の兵を動員した。


「これより、我らは陶謙殿が居る彭城へ進軍する曹操の背後を攻撃する。続け!」


 劉備が腰に差している剣を抜いて天に掲げると、兵達は歓声を上げた。


 城の西門は開かれ、其処から劉備率いる一万の兵が出陣した。




 劉備が城から出陣したのを岩陰から、そっと覗き見る兵が居た。


 その兵は劉備軍が出陣するのを見るなり、側に居る馬に跨り何処かへと走らせた。


 その走らせた先には『孫』の字が書かれた旗を掲げた軍勢が控えていた。


 馬を走らせた兵は馬から降りると、そのまま軍勢の奥に控えている者達の元へと走った。


 その者達の元に着くと、兵士は跪いた。


「申し上げます。郯県城より『劉』の旗を掲げた軍勢が出陣いたしました。その数、約一万」


 兵士の報告を聞くなり、其処に居る者達の一人が掌を拳で叩いた。


「おっし、こっちの狙い通りだっ‼」


「うぅむ。自らを囮にして、城から誘き出すとは。見事としか言えませんな」


「確かにな。俺も話を聞いた時は、こんなに上手くいくかなと思ったけど、本当に上手くいったな」


「これぞ、軍略の妙というものですな。では、孫策様。ご指示を」


 その場にいる者達の一人である程普が、孫策に声を掛けた。


「おう」


 孫策は機嫌良さそうに答えると、深く息を吸った。


「これより郯県の攻略に掛かる。此処までお膳立てされたんだ。これで城を落とす事が出来なかったら、天下の笑い者になると思えっ!」


「「「おおおおおおおおっっっ‼」」」


 孫策の檄に周りに居る者達は、歓声を上げて応えた。


 孫策軍一万は、電光石火の如く郯県城へと進軍した。




 孫策が郯県へ進軍している頃。




 曹昂が八万の軍勢と共に、悠然と西進していた。


 馬に乗り軍と進む曹昂。その隣に従弟の曹休が馬を近付ける。


「従兄様。本当に劉備は城から出て来るのでしょうか?」


 曹休は今回の戦に従軍すると言うので、曹昂は父と相談して小姓として連れて行く事にした。


 初めての戦という事で戦の駆け引きなど分からない曹休に、曹昂は無言で劉備が出て来る理由の一つである旗を指差した。


 その旗は父曹操から借りた『帥』の字が書かれた牙旗《大将旗》であった。


「あの旗は何か分かる?」


「はい。大将旗ですよね」


「そう。つまり、敵からしたら此処には大将、即ち僕の父上が居る事を示す証という訳さ」


 実際には曹操は濮陽に居るのだが、そんな事を知らない劉備達からしたら大将旗があるという事は其処に曹操が居るという事になる。


「はい。そうですね」


「だから、劉備からしたら大将を討ち取る事が出来たら、この戦は勝ちになる。これが劉備が城を出る理由の一つ」


「成程っ」


「それにもう一つ。このまま西進すれば陶謙が居る彭城に向かうだろう。このまま彭城に向かわせたら、援軍に来た意味が無くなる。要するに面目が潰れるという事さ」


「おお、流石です。従兄様っ」


 曹休は、曹昂の分析力を称賛していた。


(まぁ、劉備が慎重で城から出ない場合もあるから、その時は孫策に彭城を陥落させるまで城を包囲してと伝えていたから、彭城を攻略している時に後背を突かれる心配は無いだろう)


 その為に孫策には一万の兵を持たせたので、大丈夫だと思う曹昂。


 そう思っていると、曹昂の耳元に羽ばたく音が聞こえて来た。同時に肩に乗った。


「お帰り。重明」


 曹昂は肩に乗った愛鳥の重明の腹を撫でながら、無事に帰って来た事を労った。


 重明は撫でられるのが気持ち良いのか、目を細めていた。


「それで、敵の動きは?」


 曹昂は、懐から巻物を出して広げた。


 重明は身を乗り出して、巻物を嘴で貫かない様にしながら突いた。


 て、き、し、ろ、を、で、る。


「良し。お手柄だよ」


 曹昂は御褒美とばかりに巻物を懐に仕舞いつつ、懐に入れている革袋を出し、中に入っている重明専用の干し肉を与える。


「……全軍に停止の命令を伝達!」


「はっ」


 重明に干し肉を与えながら、曹昂は近くに居る兵にそう命じて足を止めた。


 命じられた兵達は、直ぐに命令を伝える為に馬を走らせた。


 走らせながら「全軍停止! 停止!」と声を大にして叫んだ。


 その声が聞こえたのか、兵達は足を止めだした。


 やがて、全軍が足を止めると命令の伝達に走った兵達が戻って来た。


「全軍停止しましたっ」


「良し。于禁将軍、朱霊将軍に伝令。これより全軍を反転させて劉備軍を迎え撃つ。右翼は于禁将軍。左翼は朱霊将軍が務める様に。前衛は徐州兵。後衛に我が軍を配備。我が軍の隊列は事前に申し渡していた通りにせよと伝えよ」


「「はっ」」


 命令を聞いた兵達は、返事をするなり于禁と朱霊の元に走った。


「中央も陣形を変える。徐州兵を先鋒に立てよ。その後衛は我が軍の弓兵、その後ろに歩兵。最後に騎兵の順で隊列を変えよっ」


「はっ」


 曹昂がそう命ずると、兵がその命を伝えに走った。


 伝令に走った兵を見送ると曹休は話を聞いていて分からないのか訊ねた。


「従兄様。どうして、徐州兵の後に弓兵なのですか? 普通は歩兵では?」


 敵が徐州兵を突破した場合、歩兵で足を止めるべきだと思う曹休。なのに、弓兵を徐州兵の後ろに控えさせる理由が分からなかった。


「……今に分かるさ」


 曹昂はその理由を言わず、陣形を整えた。


 程なく徐州兵を先鋒にし、後衛を曹昂軍にした横陣に変わり劉備軍が来るのを待ち構えた。




 数刻後。




 郯県を出陣した劉備軍は、休む事無く進軍を続けた。


(このまま進めば、曹操軍の背後を突ける。上手くいけば、如何に大軍であっても奇襲を受ければ敗れるだろう)


 劉備は駒を駆けさせながら、そう考えた。


 そして、進み続けた先に見えたのは、曹操軍が万全な態勢で待ち構えているという悪夢の様な光景であった。


「なにっ、曹操軍だとっ」


「どういう事だ?」


 喚声をあげる曹操軍。


 声が聞こえるので、それは幻でも何でもないという証拠であった。


 劉備は曹操軍が待ち構えていると思っていなかったので、胸が信じられない気持ちで一杯であった。


「信じられん。曹操は我等が背後を突くと知っていたのか?」


 劉備はあまりに有り得ない状況に、どう対処するか考えた。


「兄者。此処は一戦交えるしかないぜっ」


 張飛がそう叫んだ。


「張飛の言う通りです。兄者。ご決断をっ」


「……やむを得ん。張飛、お前は右翼を。関羽は左翼を指揮せよ。中央は私が指揮する」


 関羽が戦うしかないと言うと、劉備も仕方がないとばかりに陣ぶれを命じた。


 此処で撤退すれば、今度は自分達が後背を突かれる。それが分かっている劉備は此処は一戦して相手を崩さねば撤退できないと思い、一戦する事を決めた。


「おうっ、任せろ」


「お任せを」


 関羽達が命じられると、直ぐにそれぞれの持ち場に向かった。


 右翼と左翼三千。中央を四千に振り分けて劉備達は持ち場に着くと、慌てて陣形を整えていたが、曹昂は待つ事はしなかった。


 曹昂が手を掲げると、鉦が叩かれた。


 その音を聞き、先鋒の徐州兵が進軍を開始した。


 右翼、左翼、中央に三分され配備された五千の兵が劉備軍に襲い掛かった。


 喚声を上げつつ突撃する徐州兵。劉備軍の先鋒とぶつかった。


 だが、劉備軍の兵の中には徐州の兵も混じっていた。その為、曹昂軍の先鋒の徐州兵の中には顔見知りがいたのか、武器を振るうのを躊躇している者が多かった。


 その動揺が先鋒の徐州兵に広まったのか、士気が下がった。


「おりゃあああっ‼」


「せええいっ‼」


 其処に張飛と関羽が前線に立ち得物を振るった。


 二人の武名は天下に轟いていた。その為、曹昂軍の先鋒の徐州兵達は怖気づきだした。


「はははは、これが、曹操軍の先鋒か⁉ 脆すぎるぜっ」


 張飛は矛を振り回しながら、哄笑した。


「このまま進軍して曹操の首を上げてやるぜっ」


 張飛は麾下の兵を率いて突撃した。


 右翼の張飛軍が突撃したのを見た左翼の関羽は、その動きに合わせて突撃した。


「申し上げます。右翼、左翼、共に曹操軍へ突撃いたしました」


「うむ。そうか。良し、この勢いのまま中央も続くぞっ」


 張飛と関羽が突撃したと聞いて劉備も、その後に続くように進軍を開始した。


 曹昂は先鋒の徐州兵が浮足立っているのを見ても、平然としていた。


「まぁ、仕方が無いな。同じ故郷の者達と戦っているんだ。怖気づくのも無理ないな」


 曹昂は仕方がないのか首を振る。


 それを見て劉巴は叫んだ。


「殿、何を呑気な事を。このままでは先鋒は瓦解するかも知れないのですよっ‼」


「分かっているよ。ちょっと早いけど、仕方がない。董白」


「ああ、分かっているよ」


 曹昂が董白に声を掛ける。


 董白は矢を番えていた。その番えている矢の鏃の根元は円筒状の形をしていた。


 董白はその矢を上空へ向けて弓を引き絞った。


 限界まで引くと、矢を上空へと放った。


 放たれた途端、鳥の鳴き声の様な音が周囲に響かせた。


 その音を聞いて、右翼は于禁。左翼は朱霊。曹昂に変わって中央を指揮している刑螂が直ぐに弓兵に矢を構える様に命じた。


「続けて、矢を連続二射」


「了解。ったく、人使いが荒いな」


 董白は文句を言いつつ、先程放った矢と同じ形をした矢を番えて放ち、続けて同じ矢を放った。


 先程放った矢と、同じ様に鳥の鳴き声の様な音が続けて聞こえた。


「「「放て!」」」


 于禁達は、弓兵に矢を放つように命じた。


 放たれた矢は、曹昂軍の徐州兵へと向かって行った。


 狙いは付けていなかったからか、殆どの矢は徐州兵に当たる前に地面に当たったが何十本は徐州兵に当たった。


 その当たった何本かの内、当たりどころが悪かったようで数人程死んだ。


「へっ?」


 その死んだ徐州兵の側に居た仲間が、間抜けな声を上げて死んだ者を見た。


 死んだ者は、即死だったのか目を開けたまま倒れ動かなくなった。


「……うわあああああっ」


 仲間が死んだと分かり、恐怖する徐州兵。


「「「逃げれば撃つ。死にたくなければ敵を殺せ! 殺せ!」」」


 後衛に控えている曹昂軍が、大声を挙げてそう叫んだ。


 自分達が浮き足立っているのを見て、曹昂軍の者達が脅迫しだした。


 矢を放ったのは、そういう意味だと察する徐州兵。


 このままでは、劉備軍と曹昂軍に挟まれて磨り潰されると分かった徐州兵達。


「「「……うわああああああっっっ‼‼‼」」」


 自分達よりも多くの兵が控えているので反乱しても踏み潰される事が分かっている徐州兵達は喚声を挙げて、劉備軍に突撃した。


 遮二無二に突撃する徐州兵。


 その鬼気迫る表情に今度は劉備軍が動揺した。


 快調に進撃していたと思っていた矢先に、敵の勢いに押し潰された劉備軍。


「報告っ‼ 右翼張飛軍、敵の勢いにより戦線の維持が出来ないので援軍を乞うとの事」


「報告‼ 中央の先鋒が突破されました。このまま本陣まで向かって来ますっ」


 最初は優勢であった自分達の軍が次第に押されて行くのを見て劉備が愕然とした。


「信じられん。先程までは優勢であったというのに」


「兄者‼」


 驚いている劉備の元に、関羽が馬に乗ってやってきた。


「関羽。お前、左翼の指揮はどうした?」


「左翼はもう保ちません。兄者、最早挽回は無理です。此処は城に撤退しましょう」


「……止むを得ない。引き鉦を鳴らせ」


「はっ」


 劉備が撤退を命じると、兵士が鉦を鳴らした。


 その音を聞いて劉備軍は、背を向けて撤退を始めた。


「兄者。殿は私にお任せを」


「分かった。死ぬなよ。関羽」


 劉備はそう言って、撤退を始めた。


「我らは殿だ。殿が引くまで、此処を死守するぞっ」


 関羽が得物の薙刀を天に掲げながら叫ぶと、周りに居る兵達も歓声で応じた。


 


 劉備軍が、撤退し始めたのを見た曹昂はニヤリと笑った。


「良し。追撃だ! 徐州兵を下げよ。後衛の騎兵を先頭に追撃を開始せよっ」


 曹昂は将軍達に命令を伝える伝令を走らせた。


 命令は直ぐに伝わり、前衛と後衛が入れ替わり今まで控えていた騎兵が猛然と馬を走らせた。


「「「おおおおおおっっっ」」」


 喊声を上げながら、馬を進ませる曹昂軍の騎兵。


 土埃を立てて劉備軍の殿を指揮する関羽へと襲い掛かるが、それは一部の部隊だけで、殆どの騎兵は殿の脇を通り抜けて逃げる劉備軍を追い駆けた。


 流石の関羽も、全ての騎兵を引き受ける事は出来ず向かって来る騎兵を相手にするだけで精一杯であった。


 張飛も劉備の護衛についたので、攻撃を防ぐ指揮をする将が居なかった。


 曹昂軍に追いつかれた劉備軍の兵達は、背中から斬られ大地に倒れて行った。


 


 曹昂軍の追撃から逃れた劉備達は、泥と血で身体を汚しながら郯県城へと向かっていた。


 時刻は、夜になろうという時間であった。


 暗闇の中、松明の明かりを頼りに進軍する劉備軍。


 城を出陣した時は一万の兵を率いていたというのに、今劉備の側に居るのは二千騎だけであった。


「はぁ、はぁ、……我が軍の兵の数は?」


「……凡そ二千です」


 劉備は荒くを息をつきながら側に居る兵に訊ねると、兵は言いづらそうであったが答えた。


「くそっ‼ 最初は俺達が勝っていたってのにっ‼」 


 張飛は負けた事が受け入れられないのか悔しそうに叫んだ。


「張飛。勝敗は兵家の常だ。負けた事よりも生き残った事を喜ぼう」


「……兄者、関羽の兄貴は大丈夫だろうか?」


「分からん。だが、関羽の事だ。大丈夫だと思うが……っ!」


 話している最中に横から蹄の音が聞こえてきたので身構える劉備。


 暗がりの中であったので、誰なのか分からなかった。


 明かりを翳して見ると、其処に居たのは全身をボロボロにした関羽と兵達が居た。


「おお、兄者。よくぞ、御無事で」


「関羽っ。お前も無事であったか」


 劉備達は馬を寄せて、互いの無事を祝った。


「面目ござらん。曹操軍の追撃を防ぐ事が出来ず逃げる事となりました」


「いや、お主が無事で良かったぞ。とりあえず、今は城に戻り態勢を整えよう」


 関羽が役目を果たせなかった事を謝ると、そんな関羽を労う劉備。


 とりあえず、今は城に戻る事にした劉備であったが、前方から騎馬の一団がやってくるのが見えた。


「何者だ。我らは劉備玄徳軍なるぞっ」


 敵かも知れないが、とりあえず素性を言う劉備。


 もし、敵であれば応戦しようと思い、関羽と張飛と兵達も身構えた。


「おお、其処に居られるのは劉備殿であったかっ」


 夜なので顔が見えなかったが、話しぶりから敵では無いと判断する劉備。


 松明を翳すと、其処に居たのは曹豹達であった。


「曹豹殿。どうしてこちらに? 貴方は城を守っていたのでは?」


 劉備はまさか自分を出迎えに来たのかと思いながら訊ねると、曹豹は悔しそうな顔をしだした。


「…………口惜しや。郯県城は敵の手に落ちました」


「何ですって、郯県城が落ちた⁉」


 曹豹の口から出た言葉に、劉備は目を見開かせた。


 聞いていた関羽達も耳を疑った。


「どういう事なのです?」


「貴殿らが城を出陣してから、少しすると曹操軍の別動隊が城を攻撃したのだ。敵は一万の兵を率いてきたのだ。多勢に無勢で城を守る事が出来ず、恥ずかしい事に落ち延びてしまった次第だ」


「何と、別動隊が居たとはっ」


 劉備はその可能性など考えてもいなかったので、やられたという顔をした。


 曹豹は劉備達の姿を見ると、もしやと思い訊ねた。


「……劉備殿、その御姿は」


「はい。御察しの通りにございます。曹操軍の攻撃により敗れました」


「何とっ。ああ、やはり、私の言う通りにすべきであったのだ」


 詮無き事と言えど、口に出す曹豹。


「てめえ、自分が城を守れなかったのは、俺達の所為だと言いたいのかっ‼」


 負けて気分がむしゃくしゃしているところに自分達が悪い様な事を言われて、張飛は怒鳴り散らした。


「張飛。負けたからと言って、人に当たるな」


「でもよっ⁉」


「関羽の言う通りだ。私の判断が間違っていた事に変わりない」


「あにじゃ……」


 劉備が自分が間違っていたと言うので、曹豹もそれ以上は何も言えなかった。


「兎も角、此処に何時までも居ては危険です。陶謙殿が居る彭城へ向かいましょう」


 関羽が空気が重くなったので、これからの事を話した。


「そうですな。劉備殿。それで良いですな」


「ええ、それで構いません。これより、彭城へ向かうとしましょう」


 劉備達は、進路を彭城へと変えた。


 こうして『郯県の戦い』は曹昂軍の勝利に終わった。

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