初めての海

 塩瀆県を降伏させた曹昂軍は北上しようとしたが、其処で進軍の足を止めた。


 徐州に入ってからは強行軍であったので、数日程休ませるべきだと于禁が進言した。


 曹昂は少し考えたが、側近の劉巴も兵が疲労しているので休ませるべきだと進言したので、数日程休ませる事にした。


 軍は休ませるが、情報収集を怠る事はせず、間者を放って陶謙の動きを探らせた。


 軍を休ませている間、曹昂は特にする事が無かった。


 補給の事は劉巴が任せてくれと言うので、曹昂は暇であった。


 何かする事ないかなと思っていると、孫策が海を見に行こうと誘って来た。


「やる事ないんだったら、一緒に海でも見に行くか?」


「ああ、それは良いね」


 曹昂は董白と孫策と護衛数名を連れて、海へと向かった。


 


「これが海」


「……何か風がしょっぱいな。これが潮風って奴か?」


 生まれて初めて見る海に曹昂は感動し、董白は普段とは違う風の匂いに関心を抱いていた。


 浜から海水がせり上がったと思えば引くのを繰り返すのを見て、孫策は面白そうに見ていた。


「これ、何もしてないのに引いたり上がって来たりするんだろうな?」


 孫策の疑問に、護衛を含めて答える者はいなかった。


「あたしが知る訳がないだろう。内陸育ちなんだから」


 董白は涼州出身なので海など見た事が無い。なので、どうして海の水が動いているのかさえ分からなかった。


(潮の満ち引きって、確か引力が関係しているって聞いた事があるけど、流石に誰にでも分かるように説明できないからな。此処は分からないフリをしよう)


 そう思い、曹昂も分からないという風に首を横に振った。


「何だ。曹昂も分からないのか。という事は学者にでも聞かないと分からねえかもな」


「そうだろうな。そう言えば、海の水ってしょっぱいって聞くけど、本当なのか?」


「俺も知らね。ちょっと飲んでみるか」


「二人共、止めた方が」


 曹昂が止めようとしたが、二人は馬から降りて足を浸からせながら、海の水を手で掬い口に含むと二人は直ぐに噴き出した。


「ぶっ、しょっぱ」


「べ、べべ、なんだよ。このみず、しょっぱすぎるだろう……」


 初めて飲む海の水のしょっぱさに、面食らう孫策達。


「それはそうだよ。この海の水を煮詰めると塩が出来るんだから、しょっぱいに決まっているよ」


「えっ? 塩ってそういう風に作るのか? あたしは湖の水を煮詰めたらとか、山に行って掘ったらあるって聞いたけどな」


「山に行って掘ったら出て来る? そんな事があるのか?」


 孫策は湖の中には塩辛い水の湖があるので、その水を煮詰めると塩になると聞いた事はあったが、山に塩があるなど聞いた事が無いので驚いていた。


「ああ、それは聞いた事がある。何でも、その山があった所は大昔は海だったんだけど、其処が陸地になった事で、海の水が土の中に残って塩の塊になる事があるって、何かの本で読んだよ」


「へぇ~、そうなんだ」


 曹昂の話は初めて聞くので、孫策は関心を持った。


 連れて来た護衛達も、初耳なのか感心していた。


 その後、曹昂達は浜辺を歩いていた。


(海か。前世でも行った事が無かったな)


 曹昂の前世は生まれつき身体が弱かった事で、遠出をする事が出来なかった。


 なので、海というのは映像や話に聞いて、どんな存在かは知っていたが、初めて見るのであった。


 潮風を浴びながら歩いていると、小さな漁村を見つけた。


 丁度、漁から帰って来たところなのか、船が船着き場に繋がれて獲って来た魚を下ろしているところであった。


「魚か。兵糧に使える魚はあるかな?」


「行って見ないと分からねえぞ」


「確かに」


 曹昂達は漁師が荷下ろし、している所へ向かった。




 網に掛かった魚は魚籠に入れられ、其処から箱に移されて行った。


「駄目だな。今日は殆どがこれ・・だぞ」


「不味いな。これじゃあ、城に持って行っても売れないぞ」


「どうする?」


 箱に上げられている魚を見て、漁師達は頭を抱えていた。


 其処に、馬から降りた曹昂達が顔を覗かせた。


「どうかしたのですか?」


 曹昂が声を掛けると、漁師達は驚きながら、声が聞こえた方に顔を向ける。


「うおっ、何だ。お前?」


「見ねえ顔だな」


 自分達が着ている粗末な服とは違い、仕立ての良い服を着ている子供三人。その後ろには、腰に剣を差している男達が数人いた。


 漁師達は曹昂達を見て、何処かの富豪の子供とその護衛だと判断した。


「いや、取れた魚が食べると、面倒な魚で困っていた所なんだよ」


 漁師の一人が言っても、問題ないだろうと思い教えた。


「そうなんだ。ところで、今は曹操軍に攻められているのに、よく漁が出来ますね?」


 曹昂の疑問に、漁師達は顔を見合わせ笑った。


「この村を襲うんだったら、近くの塩瀆県が先だろう」


「そうだな。もし、其処が攻められたら、そこから逃げ出す奴等が此処を通るだろう。この村は小さいけど、北の海西県と塩瀆県の間にあるからな。だから、北上したい人は、この村によく寄るぜ」


「その時に海に逃げても遅くない。流石の曹操軍も海まで追い駆けて来ないだろうしな」


 それで、逃げる様子が無いんだと理解する曹昂。


「ところで、取れた魚はどんなのですか?」


 曹昂は箱の中を見た。


 箱の中に入っていたのは背中の部分は黒く、お腹の部分は白い体色で胸ビレ後方上方に白く縁取られた黒色斑がある。臀ビレは白かったり赤みを帯びていたりしていた。


 まだ生きているのか、ビチビチと元気良く跳ねながら体を丸く膨張させている。


「フグ?」


 曹昂が口に出すと、漁師は意外そうな顔をしていた。


「お前さん、この魚を知っているのかい? 市でもあまり出回らない筈だが」


「ええ、本で読みました。海とこの大きさから見て、トラフグかな?」


 曹昂はジッと見ながら呟く。


「ふぐ? アレって河に居る奴だろう」


 孫策は、自分が知っているフグの事を思い浮かべながら言う。


「じゃあ、何で此処にいるんだ?」


 董白の疑問に、孫策は首を捻った。


「フグは河にも海にも居るんだよ。まぁ、大抵は河で取れたのを食べるんだよ」 


 董白の疑問に、曹昂が答えた。


「へぇ~。そうなのか」


「そう。ちなみに豚みたいな鳴き声をあげるから、河豚と書くんだよ」


 曹昂の話に孫策達だけでは無く、漁師達も感心していた。


「じゃあ、これも知っているか? フグは食べたら死んじまうって」


 漁師がそう言うと、孫策は驚いていた。


「えっ、マジで⁉ 俺、何回か食べた事があるんだけど!」


「そいつは運が良かったな。まぁ、今度からは止めときな」


 悄然としている孫策に曹昂は訊ねる。


「好きなの?」


「ああ、膾にして酢につけて食べると美味くてな。結構好きだったんだけどな」


「フグは、別に食べても問題ない所があるんだよ」


 曹昂がそう言うと、孫策だけではなく漁師達も目を剥いた。


「本当か!」


「うん。このフグはね。肝臓と卵巣は毒があるけど、身と精巣と皮には毒が無いって、本で読んだ事があるよ」


「本当か、それっ」


 漁師も詰め寄って来た。


 上手くいけば、大量に取れたフグを食料にする事が出来ると思ったからだ。


「え、ええ、まぁ」


 漁師達に詰め寄られて、曹昂は落ち着かせようと手を振る。


 控えている護衛達は主の身の危険を感じたのか、柄に手を掛けていた。


「と、とりあえず、捌き方は教えるので。試しに食べてみれば良いと思います」


 曹昂は背後から殺気を感じたので、漁師達を落ち着かせる事にした。




 漁師達に半ば強制的にフグの何処が食べれるのか、捌き方などを教えた。


(何故か実業家の父さんがフグの調理免許を持っていたからな。それで何処をどう捌くのか教えてくれたな)


 前世の父の顔は、もう朧気にしか思い出せないが、それでも良い父であった事は覚えている曹昂。


 そんな事を思い出しながら教える事は全て教えた。漁師達から少し離れた所で、フグの捌きぶりを見ていた。


 初めて、フグを捌くからか漁師達は最初は失敗続きであったが、途中から食べるのに問題無いように捌いていった。


 失敗も山の様に積まれているが、それでもフグは山の様にあった。どうして、こんなに取れるのだろうと曹昂は不思議に思ったが、直ぐに、もう春だからかと思い納得した。


(フグの旬は、秋の彼岸から春の彼岸までと言われているからな。丁度時期か)


 そう思い空を見上げていると、董白が声を掛けて来た。


「おおい。こんな感じで良いのかって、漁師の奴等が聞いているぞっ」


「ああ、今行くよ」


 曹昂は漁師達の側に行った。


 漁師達の俎板には皮は剥がされ、血も洗われ三枚に下ろされたフグの身。骨。皮。精巣が乗っていた。肝臓と卵巣は食べられないので捨てさせた。


(頭も食べれると聞いた事があるけど、どう捌くのか知らないし、卵巣は確か塩水と何かに数年漬け込んだら食べれるって聞いたけど。何に漬けるか忘れたからな。捨てて良いな)


「こんな感じで良いですか。坊ちゃん」


 漁師の一人がそう訊ねるので、曹昂は俎板をジッと見る。


「ええ、これで問題ありませんよ」


 曹昂が問題ないというので漁師達は喜んだ。


「あの、これで毒は無いんですよね?」


「はい。ただ、今獲ったフグは精巣は食べられますが、他のフグは身も食べられないのも有るので、其処は注意を。これだけは絶対に言えるのは、卵と肝は毒なので食べられないという事です」


「はぁ、成程。ところで、このフグは干しても食べられますか?」


「今している様に捌いた状態なら出来ますよ」


 干し魚に出来ると、漁師達は喜んだ。


「じゃあ、教えたので貰いますね」


「ああ、好きなだけ持って行ってくれ」


 漁師が好きなだけ持って行って良いというので、曹昂は身と皮と骨を数十匹分、精巣は数匹分貰って行った。


 余談だが、フグの捌き方を教えて貰った事で、この村では干したフグが名産品となった。




 漁村を後にした曹昂達は、直ぐに塩瀆県城へと戻って行った。


 直ぐに厨房に向かい、フグの調理に掛かった。


 その夜。曹昂達は側近と将軍達を招いた晩餐をする事となった。


「それで、これがフグの料理か」


 孫策は自分の席に置かれている膳を見た。


 平べったい皿には薄く切られた身が乗っていた。あまりに薄いので皿が見えそうであった。その皿には細く切られた黒い部分と白い部分が並べられた物も乗っていた。


 鉢には白いぶつ切りにされた物が乗っており、細く切られた葱の青い部分が掛けられていた


 椀には半透明色の汁に白い身が浮かんでいた。


「皿に乗っているのはフグの膾だな。これは何か付けるのか?」


 孫策が上座に座っている曹昂に訊ねた。丁度、曹昂はフグの膾を食べているところであった。


「傍にある小皿があるだろう。其処に酢と豆醤の上澄み液を入れているから、それにつけて食べて」


 曹昂に言われて小皿を見ると、言う通りに小皿に黒みがかった液体が入っていた。


 孫策はフグの膾を一切れ取り、小皿に入っている液体に付けて口に運んだ。


「……おっ、昔食べた頃に比べるとかなり食べやすいな。と言うか、こっちの方が美味いと感じるけど、何でだ?」


 孫策は同じフグの膾なのに、どうしてだと首を傾げる。


「……フグの身は固いんだよ。だから出来るだけ薄く切った方が美味しく感じるのさ」


「成程な。しかし、こうしてまたフグを食べられるのは良いな」


 そう言えば昔食べた時は、今食べている切り身よりも厚く切っていたなと思い出しながら孫策はフグの味を噛み締めていた。


「ほぅ、これは」


「美味いな」


 于禁と朱霊の二人も、フグの膾に舌鼓を打っていた。


 最初、出された料理がフグと聞いて箸を付けるのを躊躇していたが、出された以上は食べねば失礼に当たると思い意を決して口の中に入れたら、思いのほか美味しいので驚いていた。


「この膾の側にある黒と白の部分が並べられている細いのも良いな」


「噛むとコリコリとしているな。それに膾を付けたのを同じ醤に付けるとサッパリとするな」


「曹昂殿。これは何ですかな?」


 孫策のお供として黄蓋、韓当もご相伴に与っていた。


 程普は黄蓋達が食べているのを箸で掴みジッと見て曹昂に訊ねた。


「フグの皮を湯に潜らせたものだよ」


「ほぅ、……うむ。良いですな」


 箸で掴んでいる物が、何なのか聞いて口の中に入れる程普。


 噛むと、コリコリとした食感が味わえるので良いなと思っていた。


「……この汁物も良いですな。フグの身も入っているところを見ると、フグを煮込んだのですか?」


 劉巴は椀に手を付けていた。


 椀に口を付けて、今まで味わった事が無い程の美味しさを味わう事が出来た。


「フグの骨を煮込んで美味しい出汁を出したのさ」


「ほぅ、これは良いですな。こんなに美味い魚の汁物は初めてです」


 刑螂も椀に口を付けて、その味を堪能していた。


「さて、次はこの鉢に乗っているのは精巣か?」


「そうだよ。湯に潜らせて、細く切った葱と塩を掛けたんだ」


「へぇ、どれ」


 孫策は箸で葱が掛けられた白子を掴み、口の中に入れた。


 他の者達もほぼ同じタイミングで白子を口の中に入れた。


「「「…………」」」


 皆、一斉に黙り込んだ。中には手で口を抑え身体を震わせる者も居た。


 曹昂の隣の席に居る董白は、まだ白子に手を付けていないのか、不思議そうに孫策達を見ていた。


「うん。美味しいな。これはいけるな」


 曹昂だけは、白子を食べても美味しそうに顔を緩ませるだけであった。


 柔らかく滑らかでまったりして甘い味。其処に塩味が合わさり絶妙な味わいを生み出していた。


 湯通ししているとは言え、まだ中は生なので噛むと、とろりとした感触が味わう事が出来た。


 こうして、また味わえるとは思わなかった曹昂はうっとりとしていた。


「おい。大丈夫か?」


「うん? ああ、大丈夫だけど」


「そうか。じゃあ、あいつらどうしたんだ?」


 董白は前を見ながら不思議そうに言うので、曹昂も前を見た。


「「「…………」」」


 孫策達は黙り込んでいたのだ。


 先程までは和気藹々と食事をしていたのだが、白子の湯引きを食べてから黙り込んでしまった。


「どうかしたの?」


 曹昂がそう訊ねると、孫策は無言で手だけ動かしていた。


 それで余計に何を言いたいのか分からなくなった。


「……はっ、もしかして精巣の味が気に入らなかった⁉」


 孫策達が精巣を食べてから無言になったので、曹昂はそう思い訊ねた。


 しかし、孫策達は違うのか首を横に振る。


「? じゃあ、どうしたの?」


 曹昂は訊ねると、劉巴が口を開いた。


「いえ、その、何と言いますか。この精巣の湯引きという料理は、とても美味しいので言葉を失っていました」


「劉巴は初めて食べるのかな?」


「ええ。更に言えば、この場に居る方々全員、初めて食べると思いますよ」


 劉巴の言葉に、同意する様に皆頷いた。


 刑螂に至っては、魂が抜けた様な顔をしていた。


「食べれば死ぬと言われたフグの精巣がこれほど美味しいとは」


「この柔らかく滑らかで、とろりとした食感。まったりとした甘い味。それを引き立てる様な塩味。あまりの美味しさに口を開くのも躊躇いました」


「口を開けば、味の余韻が逃げそうだぜ」


 程普と于禁が精巣の湯引きの味に感激していると、孫策は皆の心を代弁する様に言う。


 その言葉に同意見なのか、皆頷いた。


「そう。それは良かった」


 曹昂は笑みを浮かべた。


「噂で曹昂様は料理上手と聞いていたが、本当であったな」


 于禁は満足そうに頷いたが、朱霊は違った。


「して、曹昂様。これほど美味しい料理を、今出した理由を聞いても宜しいですか?」


 朱霊からしたら、この料理は文句なしに美味いが、まだ戦いは続く中で出す事はないと思った。


 徐州を取るか。陶謙の首を上げるかしてから食べても良いのではと思い曹昂に訊ねた。


「簡単な事だよ。これから先、激戦が続くだろうから縁起を担いだだけさ」


「フグでですか?」


「そう。食べると死ぬと言われたフグを食べて、何ともなかった。だから、ふく(福)をもたらしてくれるだろう」


 フグを調理してる時に思いついたので言ってみた曹昂。


「ふふふ、何とも面白い言葉遊びですな」


 朱霊は思わず笑い出した。


「はははは、そいつは良いな」


 孫策も笑い出した。


 その笑い声に釣られてか、皆も笑い出した。

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