ノスタルジック;メトリー 帯付く村

臂りき

あの頃のままで

 

 要石の窪みにそっと牡丹雪が落ちる。


 落ちてはふと消えていく様をもう何度見ただろうか。

 参道から外れたここは巨木の立ち並ぶ鎮守の森。ましてや上空では絶えず海風が吹いている。

 地面から慎ましく顔を覗かせた直径三〇センチ程度の皿の上に配される雪は極めて少ない。

「寒いね」

 彼此一時間はじっとそこに立ち、何をするでもなく只々立ち尽くす彼女のことを思うと気が気ではなくなる。

 当然「寒いね」と返す僕の声は彼女に届くことはなく、要石を囲った柵を背にしたまま、僕の視線も所在なく枝葉を越えた白く遠い空へと注がれる。

「もう一〇分遅刻だよ。ゆうくん」

 吐息に少しだけ眼鏡を曇らせた彼女は微笑み、うっすらと紅潮させた頬に一滴の涙を零した。

 そんな彼女を前に僕は胸が張り裂けそうになる。今すぐその華奢な体を抱きしめて濡れた頬を拭ってあげたい。「お待たせ」と「大好き」を包み隠さず伝えたい。


 丸二年。「好き」を言葉にすることさえ躊躇われた以前の僕はすでに無く、兎にも角にも彼女への止まない愛だけが今ここにある。むしろそれしかない。


 ――多嬉たきちゃん、大好きだ! 


         *


 ありていに言って、僕は死んだ。

 二年前の同じ日に、彼女木滝多嬉きたきたきちゃんに思いの丈を伝えるはずだった僕根三田悠ねさんだゆうは、約束の場所であるこの要石の前に辿り着くことはなく、殺された。


 高校三年生の冬、受験シーズンも一段落しようかという頃合い。

 彼女が最終試験を終えたタイミングを見計らい「申し入れ」をしたところ、彼女はにべもなく「結果が出るまで待ってほしい」と言った

――さすが多嬉ちゃん、クールだぜ。


 もっともだと大いに納得した僕は更に時を待ち、すでに卒業後の春休みとなった平日の時間を彼女へ贈る称賛の言葉と恋心の伝え方について考える至高にして思考の時間に当てた。


 言うまでもなく多嬉ちゃんはすごく頭がいい。都内の某難関大学も何てことはない。

 故に先ずは「おめでとう!」だ、などと思いを巡らせている内に多嬉ちゃんの方から発表時間直後に合格の連絡を受けた。

 出鼻をくじかれた僕だが、「おめでとう」と翌日の約束を取り付けることを忘れなかった。


『明日七時半、登校前に要石の前で会おう』


 卒業後ではあるが、お世話になった先生方に合格の知らせと礼をするため彼女は登校することになる。だから「登校前」というのはごく自然な流れだった。

 しかし今にして思えば、朝に待ち合わせる必要などなかった。少しでも人目を憚ろうとする下心と緊張からくる焦りが僕にそうさせたのだ。


 そして、それこそが僕自身を死に追いやる大きな要因となった。


 日頃から一時間前行動を旨とする僕は当然のように約束の五時間前、つまり未明の内から家を抜け出し神宮へと続く鎮守の森へと足を向けた。


 もう三月にもなる時分に雪が降り出した夜の道を外灯を頼りにゆっくりと歩を進めた。曇っているせいか星明りもなくしんと静まり返った冬の夜の街はどこか神秘的で、そこはかとなく不気味だった。


 寒さも相まってぞくりと体を震わせたが、逸る気持ちが勝り次第に歩調は速くなった。


 森の入口がぼんやり見えてくると、ちょうどその辺りを照らす外灯の下を何かが動いているのが分かった。思わず息を飲んで立ち止まったものの、結局そのまま森へと進むことを決めた。

 得体の知れないものに対する恐怖よりも、好奇心が体を衝き動かしたのだ。


 普段ならベッドで惰眠を貪っている時間帯であるため、どことなく夢見心地だったのかもしれない。幸いなことに約束まで有り余るほどに時間もあった。


 そこには確かに灰色の人型が立っていた。


 遠目で動いているように見えていたのは、それが纏った靄のようなものがゆらゆらと形を変えたものだった。目を凝らしてみたが不鮮明な灰色を映すばかりで、一メートル四〇センチくらいの子供のような人型が時折外灯に揺れた。


 釘付けになったかと思われた僕の足は自然と人型の近くまで歩み寄っていた。

 すでにこちらに気付いていたらしい人型は何か意味の分からない言葉を発した。


 呆気に取られた僕のことをじっと「見た」人型は不意にどこかへ消えてしまった。体感では何時間にも感じられたそれとの接触は実際にはさほど経っていなかったのだろう。

 倒れ伏し、朦朧となった意識の中で見た外の景色は依然暗いままだった。


 気付けばあの人型よろしく外灯の下に立っていた僕は肉体を失っており、その後『失踪事件』として扱われ今に至るというわけだ。


 だから本当は「死んだ」と言うより「消えた」と言う方が正しい。死んだ覚えはないけれど、明らかに肉体はない。だから「消えた」。


 しかし二年経った今でも僕の捜索を続行する家族のためにも、ここはどちらかはっきりとした方がいいだろう


――僕は確かにここに「存在している」。


 父さん、母さん、ごめんよ、こんな不甲斐ない息子で。

 泣くな、妹よ。別れも告げずに去ってしまったやくざな兄を許しておくれ。


 実際のところ、家族の内で僕のことを本気で心配している者はいない。

 豪放磊落な父源之助げんのすけは僕がどこぞでのうのうと生きていると高を括っているし、永遠の天然不思議少女の母累美るみは家に僕がいないことすら忘れることがある。妹の美意みいに至っては僕がいないことを快く思っている節すら見せている。


 ただし勘違いしないでいただきたいのは、決して僕の家族が薄情というわけではないということだ。

 家族には『旅に出る』といった趣旨の書き置きを残した。故に、大学の内定を蹴って親にも告げずに蒸発したこと以外は概ね許されている。

 恐らく、許されているのだ。


 肉体を失った僕だが、意図的に物に触れることはできる。だから家族の元に書き置きを残すことができた。ペンを握る感覚や書く動作も以前と何ら遜色ない。


 ここで重要なのは「意図的に」物に触れられるという点である。僕が触れようと思わない限り、誰かとぶつかることも、飛んできたボールに当たることも有り得ないということだ。

 多嬉ちゃん風に言えば「幽体」の状態にある僕はこの「死後の世界」におけるルールをいくつか覚えた。


 ここではそのルールの内、あと一つだけ重要なことを記したいと思う。


 幽体は肉体を持った者に対しどの幽体が干渉したかを特定される行為をしてはならない。

 行為自体はすることができる。しかし、三回目の「忠告」を受けた時点で『干渉された肉体のいる世界から切り離され、互いの記憶が抹消された上で干渉した幽体のみ別の世界に送られる』というペナルティが科せられる。


 僕は一度だけ忠告を受けた。家族に書き置きを残したことがバレたときだ。これは手痛いミスだったが、お陰で僕にとって最も重要なルールを知ることができたので良しとしている。


 ではいったい誰にバレるのか。誰が忠告するというのか。

 。恐らく幽体の行動を逐一チェックしているであろう君に対してあてつけのように書いたこの『多嬉ちゃんと僕の愛の記録』及び僕のための『覚え書メモ』すら淡々と読みこなす君が、である。


 残念ながら僕は未だに君のことをほとんど知らない。だから忠告のためにわざわざ僕のいる次元にまで足を運んでくれた美しい君のことを僕は『時空お姉さん』と呼ぶことにしている。


 僕を刺すようにして見た切れ長の目、風に揺れる豊かな緑の黒髪、タイトスカートから伸びる低デニールに包まれたしなやかな脚。

 忘れるわけがない。髪の長さを除けばどこか多嬉ちゃんに似たその容姿を目にしたとき、僕は思わず唾を飲み込んだ。


 なんてエッ、いや、理知的な女性なんだろう、と。


 だからと言って僕の心は変わらない。変わらず多嬉ちゃんだけを愛している。残り二回の使い方を考えながら、僕は一生彼女を見守って行くと決めているのだ。


 君に監視されているからと言って卑屈になることもない。何故なら僕の行動原理は多嬉ちゃんであり、行動指針も多嬉ちゃんだからである。全てにおいて多嬉ちゃんを愛でること。何を恥ずべきことがあろうものか。


 冷ややかな目で見られるもまた良し。むしろ望むところだ。淡々とその双眸に映され、事務的に処理されたし

――ありがとうございますっ!


 さて置き、本題を忘れてはならない。こんな状態の僕でもやるべきことが大きく二つある。


 先ず第一に多嬉ちゃんを絶えず見守ること。場合によっては残りの干渉回数を使い、全力で彼女のことを護る。

 もう一つは僕を元の状態に戻すこと。肉体を失った原因を突き止め、できることなら元に戻す。ただし、こちらの優先度は極めて低い。何故なら僕の存在意義はすでに多嬉ちゃんありきのものであり、彼女を常に見守るためには今の状態が最適だからである。


 何故か僕が戻ることについて前向きな君には申し訳ないが、僕は幽体であることに何ら不便は感じていないし、むしろ以前にも増して気に入っている。

 手助けもしばらくは遠慮させていただきたい。


        *


「そろそろ行くね」

 制服のスカートを翻した彼女は要石の辺りに向かってそう告げた。


 ――よし、行こうか!


 律儀な彼女は僕がちゃんと分かるようにあの頃の姿で参道へと続く道を歩き始める。後に続く僕の視線は、あの頃より少しだけ窮屈になった臀部に注がれる。


 不意に彼女が立ち止まる。


 慌てた僕のことを見透かしたかのように振り向くと、満面の笑みで

「バイバイ!」と言った。


 会心の一撃を食らった僕はその場に崩れ、無い目頭をじんと熱くさせる。


 ――多嬉ちゃん、大好きだ!!


 すでに参道へと折れていった彼女の背に向けて僕は力一杯に叫んだ。




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