第19話祖父の容体悪化。そして他界

 その文化祭が終わるころ、祖父の容体が次第に悪化し、私も心配で、祖父が寝ている部屋に顔を出しては、祖父に学校であったことなどを話していた。祖父も私の話を楽しみにしていたようで、私が風邪をひいてしばらく寝込んで、体調が戻って顔を出すと、自分の体よりも、私の体のことを心配していた。家の中で介護するには限界があったため、介護士の方に来ていただいて、下の世話や、寝間着の交換や布団の交換などを行っていた。

「水が欲しい」

と言えば水をコップに汲んで用意したり、背中が痒い言えば背中をやさしくかいたり、私にできる範囲で手伝いをしていた。

 12月を迎えてクリスマスシーズンに入ると、毎年小学校区の子供会主催のクリスマス会が小学校の体育館を使って行われる。このクリスマス会では全員参加のミニゲームをしたり、お互いに持ち寄ったクリスマスプレゼントの交換が行われたりしていた。このクリスマスプレゼント交換は男女別に分かれて、自分が持ってきたクリスマスプレゼントを制限時間の間、隣の子に次々手渡していくゲーム形式で、何が当たるのかは全く分からないというものであった。

 そのクリスマス会が終わって、クリスマス前の日曜日、弘姉ちゃんたちが遊びに来た。皆で我が家でも楽しいクリスマス会をしようということで集まってきたのである。

 皆でケーキを食べたり、弘姉ちゃんや、やよ姉ちゃんからちょっとしたプレゼントをもらい、喜んでいた私たちである。

 そのクリスマスも終わって正月を迎え、再び親戚一同が集まってきた。このころになると祖父の容体がよくないということで、叔母や留兄ちゃんもよく顔を出しに家に来ていた。祖父は寝ていることが多かったため、床ずれができており、症状の悪化を防ぐため、体位の交換をしようとすると、認知機能にも問題があったため、悲鳴にも近い声を出していた。そしてだんだんとモノを食べることが出来なくなっていって、入院を両親は勧めていたが、こればっかりは頑なに拒否していたので、自宅での介護が続くことになったのであるが、症状は子供の私が見ても、著しく悪化しているのは明白であった。

 そして春休みを間近に控えた昭和56年3月初め、私たちがまだ寝ていたところ、祖父の様子を見に行った母の声で目が覚めた

「お父さん、お爺さんが亡くなってる」

その声に私を含む家族全員が祖父の寝ている部屋に行ってみると、祖父の目の瞳孔が開いており、刺激に対して何の反応も示さなくなった祖父の姿があった。祖父の死が、私が初めて経験する身内の死であった。

 私はゴンのことが気になったので、ゴンの様子を見に行ったら、ゴンも

「何かいつもと違う」

ということを感じ取っていたのであろうか、いつになくおとなしいゴンがそわそわして落ち着かない様子であった。

 祖父が亡くなったことを親せきや親交のあった人たちに連絡を済ませた後、病院の先生に来てもらって、死亡の確認をしてもらい、葬儀の手続きなどが行われ、親戚や祖父の友人、近所の人たちが集まってきて、その夜にお通夜が行われた。棺の中におさめられた祖父の顔は安らかであった。

 私に数字を教えてくれたり、昔話を教えてくれたりした祖父。子供なりに覚悟はしていたが、やはりつらく悲しい出来事であった。

 そして翌日、葬儀が市内の斎場で執り行われた。これでもう最後なんだなと思うと涙が出た。享年72歳。今ならまだ早すぎる死であった。皆がそれぞれ焼香を済ませ、和尚様の読経が流れる中、出棺の時を迎えた。火葬されて骨だけになった祖父の体は本当に小さくなっていた。私たちは遺骨を拾い上げ、骨壺におさめて集まってくれた皆にお礼を言って家に帰った。祖父がいなくなった部屋は、祖父が今までそこで暮らしていたことを物語る遺品が残されていた。その遺品を見ながら祖父との想い出を振り返っていた私である。

 この時はゴンの散歩どころではなかったので、お通夜・葬儀・告別式が終わって、散歩に連れていくと、やはり散歩に連れて行ってもらえなかったために、ストレスがたまっていたのであろうか、この日はなかなか帰るとは言わなかった。

 祖父の葬儀や初七日が終わって、やがて春休みを迎えた私たち。学校が休みになったため、近所の子供たちと遊ぶことが増えるわけで、私と同級生のしんちゃんという男の子が住んでいるアパートに行ってみた。しんちゃんの家には重度の脳性麻痺を抱えたくみちゃんという女の子がいて、よく一緒に遊んでいた。くみちゃんは手足を思うように動かすことが出来ず、私たちがふだんするような激しい運動を伴う遊びは不可能であったが、私たちは子供なりにどうしたらくみちゃんも楽しく遊べるか、いろいろ工夫をしていた。その中で私たちがよく遊んだのがビー玉遊び。カラフルなビー玉が転がっていくのを楽しそうに見ていたくみちゃん。くみちゃんは言葉を話すことはできなくても、表情から喜んでいるのが私たちにはわかっていた。私たちが遊ぶときは、私が小さいころからいるくみちゃんとどうやって楽しく遊ぶかということが重要なテーマとなっており、くみちゃんという重い脳性麻痺を抱えた人がいるということは当たり前として受け止めていた。この当時は障碍者差別が色濃く残っていた時代であり、くみちゃんのような重い障碍を抱えた子供がいる家族は偏見の目にさらされていたそうである。しかしくみちゃんのご両親は、偏見に立ち向かい、くみちゃんも普通の子供と一緒に遊ばせたいという思いから、積極的に外に出して、私たちと同じ時間が過ごせるようにしていたのである。私は子供のころから障害を抱えた同年代の子供と接することも多かった。その人たちのかかわりについては追々詳しく書いていこうと思う。

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