目が遠ざかれば心からも……? 3

 なにもかもが思い通りにいかない日というものは、ある。夏生にとって『それ』は一年に一度ほどの頻度で訪れるものであり、『それ』はいつもやり過ごし方を忘れた頃にやってきた。まぁ、『それ』をやり過ごすための対応なんてものは結局、時間が早く過ぎるように心を完全に殺す以外ないのだが。

「差し出がましいとは思ってる。でも、ちゃんと見合った報酬も渡すし、これを機に正当な評価を受けられるようになるかもしれない。」だから、お願い。

 向かい側の席に座る稲垣の声は、いつも通り真っ直ぐで、一片の震えもなくて、腹立つくらい凛としていた。

 稲垣の隣には、いじけたときの癖でストローを噛みながらジュースを飲む酢谷がいるのに、稲垣はまったくもっていつも通り。それどころか、会ったばかりの頃よりも武装が強くなっている気がする。

 振り向かないんじゃあなかったのかよ。恋愛感情を抱く予定はなかったんじゃあないのかよ。それもこれも、屁理屈で言い訳して、自分は悪くないって毅然とした態度で言い放つのか?

「ねぇ、聴いてる? 」数え切れないほど陥った思考の渦で溺れかけていた夏生を呼び覚ましたのは、相も変わらず芯の通った女声。「お願い、私のことも撮って。」



 酢谷と何度も訪れた、雑踏とした平日夕方のファミレスに入ってから、稲垣は何度もこの願いを口にしていた。「あの作品を観て、思ったの。他でもない、伊藤に撮ってほしい。それで、見返してやろうよ。あれは偏見や揶揄に塗れて埋もれていい作品じゃない。私が保証する。」

「なんで。」素直で真摯な褒め言葉も、その横に当然のように居座る男のせいで、聞く耳を持つことすらできなかった。「なんで、酢谷がいるんだよ。」

 視線をコーヒーカップから上げ、じとりと酢谷を見れば、酢谷も同じような目でこちらを見た。酢谷はストローから口を離さないまますぐに視線を逸らし、もう氷しか残っていないジュースをずここ、と音を立てて啜り続けた。

「……あんたにこの話をしたいって言ったら、酢谷が同席したいって。」反して稲垣は、ほとんど口をつけられないまま、結露だけが張り付いた氷の入っていないアイスティーをようやく手に取り、一瞬だけ喉を潤す。


「あの映画、最高だった。もちろん初めて撮った作品だから所々粗はあるけど、大衆作品にはないこだわりに溢れていたし、媚びもなくて、目を離せないくらい魅力的だった。現に、何万人もの人があれを観て、拡散している。それだけの影響力があるんだよ。」すぐに置かれたグラスは机に吸収されたみたく、ぞっとするほど静かに沈んだ。

「それこそ、他人がやいやい言いたくなるくらい、あんたは酢谷を魅力的に撮って、映画という芸術にした。それはあんたの実力だよ。だから私は俳優として、伊藤という映画監督に依頼したい。」稲垣の言葉を聞きながらも、夏生の視線は未だに酢谷を掴んで離さない。

「断る。」欲しかったはずの稲垣の素直な賞賛が、顔のすぐ横を通り過ぎていくようだった。短い拒否を口にすると、酢谷の薄い唇がストローから離れた。「……少なくともしばらくは、映画を撮るつもりは無い。」

 離れた酢谷の唇は水滴を呼び、夜露のような淫靡さがあった。こんな何気ない偶然の所作で生唾を飲んでしまう自分には、ほとほと愛想が尽きる。

「だから言ったじゃん。」桜色の薄い唇が、言葉をなぞる。「かおは、おれだから撮れたんだよ。」酢谷には似つかわしくない、自信に満ち満ちた言葉だった。思わず視線の角度が上がる。酢谷の手は掬い上げるようにしてコップを持ち、もうほぼ空になった中身をストローでぐるぐるとかき混ぜていた。

「だって、かおが惚れてるのは、おれだけでしょ。」落ちたのは、コーヒーカップだった。その音に驚いたらしい酢谷は、はっと目を覚ましたように手を止め、顔を上げた。


「……あ、」酢谷の目が震える。「ちがう、えっと、今のなし……おれ、」気付いてないよ。

 下手な嘘は人を傷付けるという当たり前のことを、この地獄は知らない。どんなに下手な嘘をも信じ、微笑をもって肯定してくれる『誰か』がずっと近くに居たから。


「ッ、伊藤! 」いつの間にか、夏生は自分を呼ぶ声を、耳ではなく背中で聞いていた。「待って、伊藤、待って! 」視界の外でごろごろと転がるボールが、心底不快だった。

「……まっ、てッ! 」ボールはどうやら人の形をしていたようで、人の形をしたボールは器用にも腕を掴んだ。「待って、伊藤……聴いて。酢谷は、酢谷はそんなつもりじゃなかった。私なんかとはちがう、あいつはあんたの気持ちを弄んでいたわけじゃない。酢谷の話も聴いたげて、お願い……! 」「お前が言ったの? 」


 初雪らしいのに、外は随分雪が積もっていた。さすが雪国と言うだけあるなぁ。あぁでも、その後に降った雨のせいでべしゃべしゃと薄汚れている。

「……は? 」「お前が、俺があいつのこと好きだって、そういう目で見てるって、あいつに言ったんだろ? 」「そ、……んなわけ……! 」外を歩く人の汚れ潰れた足音が、店内からでもよく聞こえた。「じゃないとあいつが、気付くわけがない。」

「……あんたそれ、本気で言ってんの? 」そう言えば、今朝見たニュースアプリが、明日も雪が降るとかなんとか言っていたっけ。「酢谷が、思考能力のない、あんたに愛されるためだけに生まれてきた人形だとでも思ってんの? 」雪はあまり好きじゃあない。積もれば足を取られるし、雨水と混ざれば撥ねて靴を汚す。

「あんたの想いに、これだけ長い時間一緒に過ごしてきた酢谷が、気付かないわけないじゃん。あんただって本当は気付いていたんでしょ? 気付いた上で、認めたらケジメをつけなきゃならないから、関係が変わっちゃうから、見て見ぬふりしてきたんじゃないの。」あぁでも、寝癖がついたまま、朝陽を浴びた足跡の少ない雪道を歩くあいつの後ろ姿は、好きだったな、なんて。

「酢谷、言ってた。あんたと話がしたいのに、いつも肯定するばっかりで自分の意見を言ってくれないって。ねぇ、なんでそんなに臆病なの? 」手が外れる。季節外れの煩わしい羽虫のようで、鬱陶しかった。

「人が大事にしてきたモンに土足で踏み込んできて、責任転嫁してんじゃねぇよ。」雪は、人間が踏み入れるから汚れる。その幻想的とも言える情景は、人間が立ち入った途端、どう足掻いたって汚らしい日常へと成り下がる。

「お前がいなければ、あいつはなにも知らないまま俺の隣に居続けてくれた。いつか、いつか全部諦めて、俺の手を取ってくれる……って。」そう思っていた。そんな曖昧な未来だけを信じて生きてきた。


「かおッ! 」色素が奪われた視界に入り込んだのは、同じくモノクロの光。全てがスローモーションに見えて、映画みたいだった。

 スローモーションだった画面が、停止する。音も消え、起きた物事のシリアスさを物々しく演出していた。あぁ、映画によくある手法だな、これ。

 映画の中の男は、右手で女の肩を後ろから抱き寄せていた。咄嗟のことだったらしく、女はバランスを崩す。当然の物理から、女は男の胸もとへと背中を預けた。男は平素から低身長だなんだと卑下していたが、こうして見ると、女との身長差は理想のものであるとすら思えた。

 画面の右上の端に、邪魔な影が映り込む。どうやら第三者の手らしい。リアルを追い求める監督なのだろうか、こんな影消して、綺麗な画面にした方が美しい映画になるだろうに。

「な、殴ることないだろ……!? 」男の声は震え、潤んだ目は明確な拒絶を示していた。「え、待って、酢谷、違う! 殴られてない、伊藤はそんなやつじゃない! 」女は慌てて振り返り、男の言い分を否定する。

「そんなの、酢谷が一番よくわかってるでしょ……? やめてよ、そんな……。」なんでこうなるの。女の台詞が、音響にも拾われないほど小さな声で再生される。

 女が男の腕から逃れるのと、画面から余計な影が消えるのは同じくらいのタイミングだった。「私が余計なこと言ったから、ちょっと取り乱しただけだよ。前だって、似たようなことあったし。」「二回目なの? 」

 男の声が、女の声に覆い被さる。字幕が付けにくい口論が始まったらしい。「違う! 前は、私が手を上げそうになったの! 」「男と女じゃ、違うでしょ。」「男とか女じゃなくて、伊藤とはただの喧嘩だから! 喧嘩なら手を上げるくらいあるでしょ、そういう……」「おれは一度も無い。」

 女がようやく口を噤んだ。「おれは、かおを殴りそうになったことも、かおに殴られそうになったことも無い。」台詞を淡々と言い終えた男の目が、カメラを捉える。欺瞞と疑いと憐憫と。何種類もの色が無秩序に混ざった目だった。


 そこまで撮り終えたカメラは、突然勢いよく画角を変えた。「伊藤! 」さっきまでの時間は随分と遅く進んでいたらしく、汚い雪道を歩く足の速度はかなり速いように感じられた。

『なんかさ、新しい雪の上を歩くときの音って、冬が笑ってるみたいだよねぇ。』大昔に、鼻や頬を真っ赤にして笑っていた幼なじみを思い出す。今まで記憶の端にもなかった思い出だろうに、なぜ今顔を出したのだろう。

 雨で汚れた雪道を踏みしめる感覚は、吐瀉物の上を歩いているようだった。

  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る