ブドウはお互いを見ながら熟す

ブドウはお互いを見ながら熟す 1

「恋ってなんなの。」どこか遠くで、稲垣の声がした。「誰かひとりに感情を預けて、その人の一挙一動に翻弄されて。それだけで済めばいいけど、結局自分で勝手に始めた物語に他人を巻き込んでいるだけじゃん。」

 振り返りその視線を辿れば、ぶつぶつと呟きながら稲垣が見ていたのは、夏生が今消している黒板の文字たちだった。「そりゃあ恋愛は綺麗で、胸を高鳴らせる素敵なものだけど、それはフィクションだからでしょ? リアルで、自分が巻き込まれるなんて、迷惑この上ないじゃない。」

「迷惑なの? 」手からこぼれ落ちるように落ちた黒板消しは、決して意図的ではない。たとえ、想像以上に酢谷の初恋が長引いていて、その相手が中々失恋の決定打を打たないからといって、そんなことで腹を立てるわけがない。

「迷惑だよ。」稲垣の声は、揺れなかった。「散々態度に表してるじゃん。それなのに、とうとう文化祭で、なんてさ。」落ちた黒板消しを拾い、置いて稲垣の方へ身体ごと振り向くと、稲垣は目を伏せるようにして文字が消えた黒板を睨んでいた。

「お前がとっとと振っておかないからだろ。」自業自得じゃあねぇか。そう吐き捨てるように言えば、何度目かの聞き慣れた反論が返ってくる。「そんなことして、もし酢谷の反感を買ったらどうするの。売れた頃にあることないことSNSに書かれるかもしれないなんて、考えたくもない。」

 稲垣の眼光が、一際強くなる。「私は俳優になるの。日本人の女が何言ってんだって笑われるだろうけど、オスカーだって狙ってる。輝かしい未来のために、ほんの少しでも足枷になるような過去はつくりたくない。」「足枷って。」真面目に紡がれる稲垣の声に反比例し、口から出た声は冷笑だった。

「酢谷がそんなことすると思うか? 恋愛的に好きになれなかったとしても、お前だってあいつの素直さは理解しているだろ。」反論に反論を返しながら、稲垣の座る席の前へ戻る。でも稲垣の方を向くことはせず、そちらには背中を向け、背もたれに体重を預けた。


「……酢谷が、」細い声に、後頭部の伸びた髪がわずかに揺れる。「酢谷が良いやつだってことくらい、わかってるよ。でも、だからこそ、そんな良いやつがする恋愛は、正しいものとして扱われるじゃん。」

 稲垣の言葉に、思わず目を細くする。純愛だけが賞賛される世界など願い下げだが、純愛が美しいこともよくわかっている。

 素直で、明るくて、人間らしく輝かしいあいつが、毎日毎日飽きることなく純愛に頬を赤らめ、顔を綻ばせれば、それが正解になるのだ。たとえ相手がそれを受け入れたくなくとも、純愛を汚すような重い愛を向けられていようとも。そしてそう考えると、夏生の『これ』はいくら選択という言い訳を重ねようとも、不正解になり下がるのだろう。


「……それでいいじゃん。」歯の間からすり抜けた言葉は、言いたくもない台詞だった。稲垣の表情が、驚きとともに曇る。「『あいつが正しいと思いたくない』なんて話、俺にするなよ。俺はあいつの行動全部を肯定するために、生きているんだから。」

 宣言に対し、返ってきたのはため息だった。「わかってるよ。」言いながら、稲垣は全てを諦めた目で手を組む。

「……ははっ、やっぱり私に恋愛はできないやぁ! 」かと思えば、放出されるかのように両手を広げ、空を仰ぐ。「理解できないもん。酢谷の存在を肯定するために、恋愛感情すら受け入れる。酢谷の安心で居続けるために、自分の想いを告白しない。」

「全員が全員、そうとは思わないけどな。」困り眉ながらに晴れやかに笑う姿からは、感情が読み取れなかった。「俺の酢谷への恋愛感情は、この世で一番汚いから。……お前は参考にするって言ったけど、参考にもならないだろ。」「んー、そんなことはないけどね。」

 伸びをしてリラックス状態になったのか、稲垣は背もたれに深く背をつけ、目を瞑った。稲垣の口から零れる言葉は、あくびに音がついたみたくナチュラルだった。

「そりゃあ、純愛は美しいしキラキラしているけど、それを知ってるだけじゃあ役者として十分とは言えないし。……ただでさえ、私は経験という意味ではゼロから進めないんだし、あんたの恋愛を責める気はないよ。」稲垣の視線は、相も変わらず夏生には向いていない。お互いに包み隠さず話をできるからか、ふたりはたまにこうやって溜まった鬱憤を吐き出すように会話しているが、別にまともな反応が欲しくて対面しているわけではなかった。

 わざわざ予定を空けて話すわけでもないし、相手の反応が欲しいわけでもない。この日だって、酢谷の行動に稲垣の中で閉じていた蓋が開き、夏生の感情に爪痕が立てられたから、稲垣はHRが終わっても帰宅しなかっただけ。夏生は日直の仕事が終わっても、帰り支度をしていないだけだった。


「……それで? 参考にはなってんの。」不躾な質問も、絶対酢谷に対してはしない温度である。「ん? 」「言ってただろ、なんか、漫画がどうとか。」夏生の視線も、別に稲垣を見ちゃいない。稲垣の方を振り返るときの夏生の視線はいつだって、意識せずとも斜め後ろの空になった席へと注がれている。

「あぁ、『ガラスの仮面』ね? 」あんた本当に漫画読まないんだね。そう呟きながら、稲垣は肘をつき、手のひらに顎を載せた。


『恋を知らなかった姫川亜弓は、恋に落ちた表情をするために、自分に好意を持った相手に対して好意的に振る舞い、恋に落とした。その表情を間近で見ることによって、彼女は恋の演技を身につけた』。稲垣にそう語られたのは、昨年の秋口だったか。『だから私の参考材料にさせて。経験できないなら、あんたと酢谷のリアルな恋を見て学ぶから』。


「そんな見てるだけで身に付くもんかね。」過去を思い出しながら空席からも目を逸らし、夏生の視線は傾きつつある外の太陽へと向く。

「なに言ってんの。演技なんてほとんど、視覚情報から学ぶものだよ。」稲垣は、夏生の視線の先になにがあるのか確認するように、外を見ることはしない。酢谷とは違うその行動は、なぜか夏生に安寧の時間を与え、それがまた苦痛でもあった。

「そういう意味で、私はラッキーだもん。自分に向けられた恋愛感情と、その相手に向けられた恋愛感情の二パターンを学ぶことができる。」ちらりと視界の端で捉えた稲垣の目は、爛々と学びへの意欲に輝いていた。

 だが、そこにはほんとちょっとですらも、恋愛に対するときめきや高揚なんてものは存在していないようで。そんな表情に、全くもって憐憫の情を持たない自分には、とことん嫌気がさす。

「ありがたいことに、ふたつともまったくパターンが違うしねぇ。」「はっ、ラブコメ好きなお前には、俺の感情なんてヘドロみたいなもんだろ。」もはや慣れきった自己嫌悪に眉をひそませながら前に向き直ると、稲垣も同じような表情をしていた。

「そんなことない。むしろ、むしろ私は、平気であんなことできる酢谷の方が理解できなくて怖いよ。」稲垣は嫌悪と罪悪感を滲ませたまま、文字の消された黒板へちらりと視線を送った。


 その黒板には、さっきまで文字が書かれていた。幼なじみじゃなくともわかる、あれは酢谷の書いた文字ではない。でもだからといって、そんなことは大した問題ではなかった。

 酢谷と稲垣の名前で描かれた、下卑た相合傘の文字は、跡形もなく消し切ったはずなのに、まだ眼球の裏にこびりついていた。


 ことの初めは、文化祭の演し物をなににしようかという話だった。その一例として挙げられたものが、酢谷をボーカルに据えたバンド。ラブソングを歌えば、酢谷が想いを寄せている稲垣も、酢谷の想いに応えてくれるのではないか。挙手をしてその提案を口にしたのは、酢谷ではなかったが、むしろ酢谷でなかったことが、より一層クラスの士気を上げてしまった。

 文化祭委員の片方は意気揚々とその意見を黒板に書き、もう片方の司会進行をしていた文化祭委員は口角を上げてクラス全員を煽った。教室の一番後ろで傍観を決め込んでいたらしい酢谷の表情筋は硬直し、同時にひどく紅潮した。その反応を周囲は喜び、次に大衆は稲垣を見た。

 稲垣は、作り慣れた微笑みのまま、酢谷と同じように硬直していた。ただこちらはやはり、腐っても女優と言うべきか。酢谷とは違い、「みんなが参加できる演目の方がいいんじゃない? 」など、提案という形での台詞を口にしていたが。

 それでも、周囲の喧騒が止むことはなかった。夏生は場違いにも、頭の片隅にスティーブン・キングの『ミスト』の宗教ババアを思い出し、大衆に紛れて酢谷の表情を今一度確認した。酢谷の口は、魚が息をするようにはくはくと淡い開閉を繰り返しており、瞳孔はかぱりと開いていた。

 胡乱に宙を浮かぶぬるい空気の隙間をなぞる、渇いた目は、そのまましばらく迷子のように漂っていた。が、こちらの視線に気付いたのか、ぽてぽてと覚束無い足取りの子どもみたく、その黒い瞳に昏い恋慕を映し込んだ。

 視線が重なった瞬間、酢谷の表情は絡まった糸が解けたように、ほろりと緩む。かぱりと開いたまま水分を得ていなかった目は、深呼吸するみたくゆっくりと瞼を下ろし、口角がやんわりと上がった。

 それらの柔い動きは、きっとずっと酢谷を見ている夏生でなければ気付かない程度の、小さな機微だっただろう。視線が合うだけで綻ぶ表情は、確かにこれまでの自分が築いてきた信頼の証であり、この瞬間抱くに相応しい感情は、安心であるはずだった。だのに、夏生はその綻んだ表情に、僅かながらも嫌悪感を覚えてしまっていた。


 違う。浮かんだ嫌悪感を必死に否定するため、夏生は前へと身体を翻した。酢谷の顔を見たくないと思ったのは、あいつが初恋に落ちた瞬間から二度目だった。

 あいつはこれまでの時間で、理解しているのだ。『かおなら、おれの中の感情の全てを肯定してくれる』と。好きな相手が困っていることと、大衆のつくる空気を壊したくないというふたつのせめぎ合う、どうしようもなく弱い感情も、夏生なら肯定して全部救ってくれると。

 ずっと、まるで虎視眈々と獲物を狙う獣かのように練ってきた作戦が、快調に成功へと向かっているというのに、なぜか心は晴れなかった。それどころか、一点の滲みのように生まれた小さくて濃い諦観が、くすんだ色のまま全身を侵食し始めていた。


 別にいいじゃあないか。耳のすぐ後ろから、嫌な囁きが聞こえる。別に家族でも、恋人でもない。それどころか愛の告白すらしていないだろう? 絶対守るだとか、絶対愛し抜くだとか、言葉にして誓ってすらいないのだから、自分で蒔いた種すら収集できないあいつを、助けてやる義理なんかないだろう?

 違う、そんなつもりじゃない。喉の奥で、否定が燻る。

 こういう事態に陥ったとき、責任を取らなくて済むように、なんて。そんな小狡い考えで想いを伝えてこなかったわけじゃあない。ただ俺は、俺なりの、考えがあって。

「よわむし。」今度聞こえた声は、実態を持っているようだった。文字の意味を理解するより前に、夏生の身体は振り返り、声が聞こえた方を確認した。が、女性特有の高めの声を発した主であろうそいつは、既に椅子を引いて立ち上がっており、その眼中に狼狽える哀れな男の姿はほんの少しでさえも存在していなかった。



「どういう意味だったんだよ。」今更、まるで今さっき思い出したかのような素振りで、夏生の口は疑問を呈した。

 その右手ではスマホの画面を操作しており、傍から見れば一連の言動はさも自然的で違和感のないものであっただろう。だが稲垣は、そんな小芝居に騙されるほど、馬鹿な女ではなかった。「ま、結局無難なものに落ち着いてよかったけどさ。」馬鹿ではない女は、夏生の声を聞こえなかったふりをし、目を伏せて微笑むように息を吐いた。

「酢谷からの連絡でしょ? なに? かまって〜って? 」「そんなメンヘラじゃねぇよ。」稲垣が聞かなかったことにするというのなら、別にそれでもかまわない。稲垣の伏せた目から流れる視線は夏生の右手に注がれていたが、その画面の内容まで見る気はないらしかった。

 酢谷のこと、知ろうともしないくせに。無意味な意地から、小さく笑いながら反論したが、決して稲垣の茶化しが間違っているわけではなかった。

 手にすっぽりと収まるその小さな画面にあったのは、酢谷からのたったひとつのスタンプ。「おつかれ」とこちらに笑いかけるだけのこの猫を選ぶだけで、あいつはきっと、そこそこ長い時間画面とにらめっこをしたのだろう。

 そのスタンプを数秒ほど一瞥しただけで、夏生の手はポケットへスマホを戻す。初めから、この感情に見返りなどないと理解していたはずなのに、今はなぜだかその現実が億劫だった。

「私はさ、てっきりあそこで助け舟でも出すのかと思ってたんだけど。」頬杖をつきなおし、稲垣が話を続ける。「助け舟? 」「酢谷の感情の全てを肯定するんでしょ? あんたがあの流れで、酢谷の青春告白タイムを後押ししていたら、私の提案なんてみんな耳貸さなかったと思う。」

「買い被りすぎだろ。」冷笑が空気を震わせる。「俺にそんな影響力はねぇよ。」「んん、影響力はないけどさぁ。」稲垣は、なにやら言いにくそうに口ごもった。「……なに。」「……べつに? 」そのひらがなの発音をやめてほしい。夏生は平に思った。なんでもかんでもひらがなのような緩い形で発音されると、どうしても想い人のことを思い出してしまう。以前そんなことを稲垣に言ったら、当然のようこの感覚は伝わらなかったのだが。

「伊藤はさ、」稲垣は酢谷と違って、ゆるゆると取り留めのない会話を続けやしない。むしろこの女は、すぐに核心をつきたがる。「酢谷をどうしたいの? 酢谷の初恋を、成就させたいの? 」まるで冷水でも浴びせるみたく、堅苦しい形の発音で問うてきた。

「感情の全部を肯定して、酢谷の願いを全部叶える。まるで酢谷にとっての神様みたいなご立派な覚悟は、さ。恋というよりもう信仰じゃあないの? 」冷水のような痛みを皮膚に感じながらも、夏生の視線はもう暗くなったスマホに注がれたままであった。闇に隠されたはずなのに、今でも猫のスタンプがこちらの心の隙間を覗いているような気がしてならなかった。

「そんなんじゃねぇよ。」ただ否定だけが、脳より先に口をついて出た。「信仰なんて綺麗なもんでもなければ、独占欲一辺倒の恋愛でもない。ただあいつへの感情が、ひとつじゃないってだけだ。」言いながら、スマホの画面を点けようとして、やめた。それは視界に腕の傷が入ったからで、なぜかふと、この傷をこれ以上深くしたくないと思ったからだった。

「それって答えになってる? 」稲垣は尚も訊く。「私は伊藤に、酢谷の恋路の片棒を担ぐつもりなの? って訊きたいだけなんだけど。」「だからそんな簡単じゃねぇんだって。」苛立ちを隠さない稲垣の詰問に、夏生も思わず語気が上がる。だが稲垣としてもそれが狙いだったらしく、稲垣はなにも言わずに上がった肩を下ろし、まっすぐにこちらを見据えた。

 あえて質問に答えるとするならば、夏生の立ち位置はわかりやすく傍観であった。酢谷の初恋を後押しできるほど恋心を押し殺せるわけでもなければ、自身の想いを言葉にして告白できるほど、酢谷への親愛をなかったことにできるわけでもなかった。

 本来ならば、こうやって綯い交ぜになって蔓延ってしまった感情は、ひとつずつ丁寧に紐解いてそれぞれの部屋に押し込むべきなのだろう。その上で、どの感情が最も重視されるものなのか、精査と淘汰を繰り返し、負けた感情は蓋をしてなかったことにしなければならないのだ。

 それこそが、人間として上手い生き方なのだと、夏生とて理解はしている。それがわからないほど愚かではないが、そんな理性を全て覆って見えなくさせるのが、酢谷海里という名のついた己の感情なのである。


「まぁ、別にいいけどさ。」ため息混じりに声を漏らしながら、稲垣は机の横にかかっていた鞄を机上に置いた。帰宅の意思を表した稲垣に、夏生は思わず眉をひそめたが、その機微に潜んだ感情の名前を考えることはしない。

 夏生にとって、自身の感情とは全てが酢谷海里に司られるものに他ならない。酢谷以外の人間の言動によって動くものなど、自身の感情ではないとすら思っていた。


 ひとりの人間に感情の舵を明け渡してこそ、恋愛と呼べる深さが生まれるのだろう。夏生も酢谷も、他者に感情を振り回されて右往左往している。だがその渦に巻き込まれている、目の前に座るこの女だけは、自身の感情と意思にのみ動かされている。その不動の事実は、夏生にとって何よりも大きな安心であり、憎らしくすらあった。

 稲垣の目に、陶然とした色は残滓ほども無い。女は子宮でものを考えるだとか、ヒステリックで感情的だとかいうくだらない論説がまことしやかに囁かれたこともあるが、少なくとも稲垣莉央という人物を見ていればそれは間違いだということがよくわかる。

 先程も、酢谷は空気を壊さないようにするか、好きな相手を守るか、結局判断できないまま、下手くそな愛想笑いを貼り付けただけだった。それに対し、稲垣は綺麗な所作で立ち上がり、新しい提案という形でその場を収めた。

 そう、相も変わらず稲垣莉央という人間は、酢谷の曖昧で暴力を帯びた一途な愛情に対し、嫌悪感を抱いている。彼女のポリシーのせいで、嫌悪感を露わにして邪険に扱うことはしないが、その言動からは呆れが滲み出ている。

 だから、何も危惧することはない。夏生は自身の胸中で反芻していた。少し、ほんの少しだけ、自分が恋愛の良さをこいつに語ってやれば、こいつの中の恋愛のハードルが下がり、酢谷の好意を肯定してくれるんじゃないか、なんて。思わなくもないけれど。酢谷自身を喜ばせるためならそれが最適解なのかもしれない、と、思うこともあるけれど。

 いや、夏生がなにをしたって、この女が酢谷の一途な愛に振り向くことはないだろう。稲垣が鉄槌を下さずとも、酢谷の初恋は近い将来玉砕に終わる。この女なんか、物語の途中で一瞬出てきてそれっぽいことを言って、場をかき乱すだけの、モブに過ぎないのだ。

 胸中の声に夏生の口角はやんわりと上がり、自分も帰り支度を始めようと前に向き直った。


 だが、結局そうやって、無害だなんだと言い訳していただけなのかもしれない。

 夏生の身体の神経の端では、いつだって腕のずくずくとした痛みが悲鳴を上げていた。それをずっとずっと、見ないふりをしていただけなのだ。



 夏生が痛みに気付いたのは、夏という季節が、晩夏という名前とともに涼風に襲われた頃であった。

 恋の終わりを生命の終わりと同義と思い込んでいる愚かなる夏の亡霊たちがけたたましく最期の悲鳴をあげている中、図書館帰りの夏生の右手には幼なじみが好きだと言っていたアイスの棒が握られていた。一人で過ごす夏休みは初めてだったな、なんてくだらない回顧も、目の前の現実を前にしてはただの形なき陽炎に成り下がる。

 夏生は、頭の端っこで場違いに理解していた。もう自分の持っているアイスに、味なんてしないのだろう。ぽたぽたと手に滴るベタついた砂糖の液体が、より一層夏生を惨めたらしめた。

 酢谷と稲垣が、にこやかに笑い合いながら連れ添って歩いている。理由なんて夏生本人にもわかりゃしないが、なぜかその現実を夢幻だと疑う自分は、いなかった。

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