オレンジの片割れへ 4

 誤解のないように言っておくが、後にも先にも稲垣莉央に対して好意めいた感情を抱いたことは一度も無い。趣味が近しいことから、おすすめの映画を訊かれたり、観た映画の話題で盛り上がったりすることはあったが、それだけ。むしろ映画以外の話はお互いに避けていたのではないかと思えるほど、それ以外の話をしたことはほとんどなかった。

 恋愛映画が好きだと言いながら、自分の近くにある恋愛にはむしろ怪訝な表情を浮かべていることに気付いてはいたが、夏生にとってはそんなことよりも酢谷が毎日そんな稲垣を見ても愛の告白をし続けることの方が問題で。毎日毎日、飽きることなく稲垣の名前を呼び、満面の笑みで純粋すぎる好意をぶつける姿を、思春期真っ只中の学生たちが見逃すはずもなかった。

「おい稲垣ぃ、アイツあんなに毎日告ってくれてんだから、そろそろ付き合ってやれよ! 」「たしかに酢谷ってどっちかって言うとかわいい系だし身長も高くないけど、ああいうタイプは絶対一途で浮気しないと思うよ? 」苗字が近いせいで、席が前後なせいで、夏生はあの年の春、飽きるほどそんな声を背後に浴びた。

「そ、そうかもしれないけど……私今、恋愛とか興味なくて……。」その度に稲垣は喉になにか詰まったかのような返答をし、「なにそれ、芸能界で悪い男にでも引っかかったのかよ? 」「えぇ? やっぱり莉央ちゃんって芸能人だから、理想高いんじゃない? 」真意を読み取ろうともしない愚鈍なクラスメイトに、反論されていた。


 極たまに、その低俗な冷やかしの飛び火が飛んでくることもあった。「あっ、そっかぁ! 莉央ちゃんって、伊藤ともよく話してるもんね? 」「なるほどね! 伊藤の方がタイプなんだぁ? 」やや丸めた背中の外側からでも、声とともに視線がこちらに向いているのがわかった。

 それほどまでに奴らの声は下卑ていて、汚らわしかった。まぁただ残念なことに、幼馴染に恋愛感情を抱き続ける自分と比べるとどちらが汚らしいのか、決めかねてしまうが。

 そんなクラスメイトの声に、稲垣はいつだって「そんなんじゃないから」と、柔和な声で答えていた。誰も傷付けず、負の感情を与えることもない。必死に取り繕われたトタンのような声に、クラスメイトたちは騙され、残酷なことに、なぜか夏生だけがその機微に気付いてしまっていた。


 そういえば、稲垣に訊かれたことがある。なんでわかったの、と。気付かれたの初めてだったんだけど、と。そのときは明言を避けたが、あれはつまり、きっと。

 こちらからしたら、それはこっちの台詞だと返したいほどだったのだが、稲垣から言わせれば夏生の恋心は隠していると思えないほどわかりやすかったらしい。逆に、稲垣の『それ』は、夏生からしたらどうだっていいと思えるほどの内緒事だった。だからこそ見えてしまったのかもしれないと思えば、稲垣は言っていた。『あんたに見抜かれるようじゃ、私も俳優としてまだまだだね』。

 稲垣莉央という人間のことは嫌いだが、話していて居心地が良かった。映画の話はもちろん、異性であることを全く感じられない軽快な話し口調が、そう感じさせたのだろう。

 だがきっと、稲垣みたいなコミュニケーション能力に長けた人間は、誰からもそう思われるタイプだろう。だとしても、思春期と年齢にそぐわない大きくて醜い感情に疲れていた夏生からすれば、稲垣の存在は正直ありがたくすらあった。

 だからといって、酢谷の片想い相手であるという事実が揺らぐこともなかった。それはつまり、言葉にしてしまえば恋敵ということに他ならないのだが、客観的に見ても稲垣の方が圧倒的に酢谷とお似合いだと思えてしまい、高校一年生の夏生は何度も何度も手の甲に傷をつくっていた。


 ひと言で言ってしまえば、不安だった。そして不満でもあった。恋心を自覚し、脇目も振らずに稲垣へのアタックを続ける酢谷は、当然のように夏生への対応も変わらなかった。そりゃあそうだ、酢谷にとって自分は、恋心から一番遠い場所にいる幼なじみだったのだから。

 登下校を一緒にし、タイミングが合えば昼食も共にし、体育でペアを組むときは身長差や運動神経の差も考えず真っ先に夏生のもとへの駆け寄ってきた。その口から零れる話題は、九割が稲垣への純粋無垢な想いで、あと一割が日常の他愛ない会話と、夏生の家に対する心配だった。

 今日の弁当なに? またコンビニのおにぎり? かおの母ちゃん、まだ体調治らないん? 父ちゃんは? あんまり帰ってこないの? あの、夜ご飯とか、うちに来たら母ちゃん用意してくれるって言ってるし、また気軽に来てよ。なぁ、カラオケとかファミレスもいいけどさ、おれらそんなにお金持ってるわけじゃねぇじゃん。

 そんな一割の言葉にすがりつくためか、夏生の私生活はどんどん自暴自棄になっていた。お金なら、小遣いなら貰いすぎてるくらい貰ってるから奢るよ、だから気にしないで一緒に飯食いに行こう。いくらそう言っても、酢谷の垂れた眉はもとに戻らなかった。

 そういう問題じゃねぇよ。拗ねるように否定されると、こちらも後に引けなくなって、夏生も拗ねてみせる。じゃあいいよ。

 そう言うと、酢谷はいつも慌てて夏生の袖を引いた。かおひとりだったら、飯食べないだろ? おれも着いてくから、ちゃんと飯食えよ!


 母は夏生の高校入学を気に、本格的に精神を病み、家事の一切をしなくなって、ずっと寝室に篭っていた。当然弁当を作ってくれるはずもなく、朝食や夕食も食卓に並ばず、ただ毎日帰宅すると千円札が一枚、リビングの机の上に置かれていた。一応心配だったから塾も辞めたが、寝室のドアは一度もノックできていない。

 酢谷には弱みなんて一分足りとも見せたくなかったから、そんな現状を口にした覚えはないが、どうやら父が酢谷の家に話したらしい。家も隣で、今でも母親同士も仲がいいと思い込んでいる父は、もうこの頃には映画のDVDを持って来ることすらしなくなり、夏生の記憶からは父の姿がだんだんと薄れてきていた。

 メールだけは一週間に一度ほど来ており、その中で『酢谷さんにも母さんことを話したから、なにかあったら頼りなさい』とだけ書かれていたのだ。

 家庭を顧みないくせに、心配だけはしてくる父親を夏生が嫌っていたことを、酢谷は知っていたのだろうか。嘘のひとつもつけないくせに、隠しごとだけは一丁前にしてみせるこの幼なじみに、なんでそんなに俺の家のこと気にしてくるの、と訊いてみれば、毎回あからさまに目を泳がせながら、かおが心配だからじゃん、と口を尖らせていた。


 それでもなお、酢谷の家に行かず、ファミレスやカラオケで酢谷と時間を潰したのは、父の思い通りになるのが嫌で、とか、酢谷の家にお邪魔したら酢谷の家族と話さなきゃいけないだろ、とか、色々理由はあったけれど。一番はやっぱり、酢谷の家に行きたくなかったからだ。

 幼い頃から酢谷の家に足を踏み入れることに対し、母はいい顔をしなかった。それを後ろめたく感じなかったとしても、好きな人の自宅でくつろげるはずもないと自覚していた。だからと言って、思春期の恋にふさわしいように、好きな人の自宅で垣間見える彼の日常に胸を高鳴らせることもできないとわかっていた。そんな普通の恋心に対し、罪悪感しか覚えられない場所まで来てしまった。そんなことは、自分がだれよりも一番よくわかっていた。


 ただ、不安で不満だったこの春を、平静を装い続けながら過ごせたのは、酢谷とのこの時間のお陰でもあっただろう。甘えるように酢谷の放課後を独占し、稲垣の話をしながらも夏生を心配する酢谷の困り眉は、ただひたすらに夏生の傷付いた恋心を補完し続けた。

 とは言っても、それはまるで血が止まらない切り傷に、何度も何度も絆創膏をべたべたと貼り続けるだけの行為でしかなかったのだ。その証拠に、結局夏生が酢谷に想いを告げようなんて思うことは、ただの一度も無かったのだから。


 いつか、いつか。ずっと呪詛のように自分に言い聞かせながら夢見ていた、酢谷が全部諦めて夏生の隣を選んでもらうといつ「未来」を、自分は一体「いつ」だと思っていたのだろう。「今だ」と確信したことは一度も無かったし、明日だと思ったことも無かった。

 ぬるま湯のような時間にある程度満足していたし、だからと言って自ら稲垣の話をにこやかに聞いてやれるほど友人らしくもいられなかった。ただ、早く諦めればいいのに、とは、ずっと思っていた。

 誰がどう見ても、稲垣は酢谷に対して好意を持っちゃいない。むしろ毎日飽きもせずに大声で愛の告白を繰り返す酢谷を、煙たくすら思っていることは明白だった。それなのに、酢谷はいつまで経ってもそれに気付かず、稲垣も稲垣で、唯一稲垣の思いに気付いているくせになにも言わない夏生に、辟易としているらしかった。



 それが確信に変わったのは、稲垣の呟きのせいだった。

 酢谷は毎朝、登校したら鞄だけを自席に置いてトイレへと駆け込む。小学生の頃、トイレに行くことすら恥ずかしがってお漏らししてしまったことが、高校生になっても軽くトラウマになっていたらしく、それは酢谷の日課だった。酢谷がトイレから戻ってくるくらいのタイミングでは、稲垣ももう登校していることが多く、いつも酢谷は夏生に一瞥もくれず、一目散に稲垣のもとまで行き、満面の笑みで愛の告白をする。

 チャイムが鳴れば、手を振りながら自分の席へせかせかと戻って行き、堪え切れない喜びを口角に捧げているのだった。そんな酢谷に、夏生としては居心地の悪い思いを抱えながらも、初恋という温かい感情に春のような安らぎを覚えている姿を、愛らしいとすら思っていた。

 だが、後ろを振り返ったついでに視界の端に入った稲垣は、ため息を吐き出すついでに毒を洩らした。「……ばかみたい。」いつもなら、いや、それを洩らしたのが稲垣ですらなければ、夏生はなにもなかったかのように前を向けただろう。

 だが、どうも稲垣が吐いた毒の行き先が、自分だけでなく酢谷にも向いているような気がして、それだけは看過できなかったのだ。酢谷に愛されておきながら同じ感情を返さないのは別にどうだっていいが、明確な悪意を向けているなんてことは、例え自分の中に浮かんだ疑念だったとしてもゆるせなかった。

 おかしな話だ。酢谷が失恋すればいいと思うのに、稲垣が酢谷の感情をぞんざいに扱うことは耐えられない。あいつの中で生まれた尊い感情のすべては、今まで夏生が一人で必死に育むように肯定してきたのに、夏生が唯一触れられない初恋という感情を、他者から粗雑にされるなんてことは、どうしても捨て置けない事象であった。

 稲垣は吐き出した後、しまった、とでも言うように口を開いては、何事もなかったかのように振る舞おうとしたが、時すでに遅し。酢谷へ向けていた湿度の高い視線を、稲垣に向かって鋭く刺すものへと変えていた夏生の顔を見て、稲垣はわかりやすく項垂れた。

「バカ、ってなんだよ。」強調するように、夏生は言った。結局すぐに朝礼が始まったが、終わってからも夏生がこの違和感や憤慨を逃すはずもなく。短い休み時間が始まった途端、夏生はまたぐるりと振り返り、そしていつもとは違い、酢谷ではなく稲垣を見た。

「別に、深い意味はないよ。」口を尖らせ、稲垣は言った。同じような表情をしても相手が違うとこんなにも感情が揺れ動かないものなのか。そんなふうにぼんやりと思いながら、夏生は両の手を組んで背もたれに乗せた。「ただ、羨ましいなぁって。」「嘘吐くな。」

 別に豪語でもなんでもなく、夏生にだけわかってしまうようなわずかな強張りが、稲垣の表情筋に走った。ずっと『こいつは案外わかりやすいやつなんだ』だとか『こいつの酢谷への嫌悪感は、割とわかりやすい』と思っていたものは、実のところ自分しか気付けていないものなのだとも、気付いた。わかりたくもなかったそのわずかな変化に思わず零れた否定に、稲垣は強張りを眉間と頬に、今度こそ、誰の目から見てもわかりやすく表出した。

「あんな、完全に嘲るみたいな言い方しておいて。『羨ましい』はねぇだろ。」稲垣の強ばった表情は、すぐに穏やかなものへと変わり、俯いて次の授業の準備を始め出した。だからといって会話を終わらせるつもりはなかったが、口から憤りの言葉が出てこなかったのは、稲垣も心のどこかでこれに関しての話をしっかりしたいと思っているらしいことを、察していたからだろうか。



 残酷なことに、誰よりも自分を理解している相手が、自分に好意を持っているとは限らない。深く理解し、欲しい言葉をあげられるからと言って、人間として相性がいいとは言い切れない。そこは決して演繹ではない。

 似ているから理解できるわけでもないし、理解できたとしても同族嫌悪という言葉も存在する。好いていたり、好かれたいと思っていたりする相手が、運命の人だったとしても、阿吽の呼吸を持っているというわけではないのだ。

 憎らしいほどに恋い焦がれている相手でも、自分の感情から一番遠い場所で笑って手を振っていることもある。夏生にとって酢谷はまさしくそれで、同時に稲垣は嫌いながらも理解できてしまう相手であった。

 それに、夏生にとっては初めてのことでもあった。元々そんなことを気にする性質ではないが、「こいつに嫌われるかもしれない」という不安を一抹も抱かない相手というものが、この世に存在するのだと。稲垣莉央に出会って初めて知ったのだ。

 さすがに出会って数ヶ月も満たないこの頃にそれを自覚できているほど、他人に対して興味もなかったが、恐らく稲垣も同じように感じていた。だからこそ、彼女も覚悟を決めたように重い口を開いたのだろう。


 その日の放課後、ふたりは指し示したかのように教室に残った。部活動やらなんやらで教室を後にするクラスメイトを尻目に、夏生は寝たふりをして時間をやり過ごした。酢谷が肩を揺らして起こしてくるのにも気付いてはいたが、気付かないふりをした。あのとき初めて、酢谷海里という絶対的優先順位を後ろに回した。

 周囲の喧騒が止んでようやく、不規則なリズムの酢谷らしい足音が遠のいていくのを前頭部の端で感じながら、夏生は重い頭をゆっくりと上げた。時計の針より遅い速度で後ろを振り向くと、仮面を剥がして無表情になっていた稲垣がいた。目の焦点は合わず、その目が夏生ではない遠くを眺めているのは明らかであった。

 稲垣は意味もなくスマホを持っていたが、画面は真っ暗だった。どうした、と訊くほどの仲でもない夏生は、ただ静かに時間を待った。背もたれに肘をのせ、稲垣のずっと後ろの空になった酢谷の席を眺めていた。


 どれくらい時間が経ったかはわからないが、稲垣は訥々と、まるで細く呼吸をするみたいに話し始めた。いつものように通る声を意識したような発声は完全になりを潜め、頬や口角もほぼほぼ動かしていないようだった。

 話の内容自体に興味はなかったが、夏生の耳はやけに真剣にその声を追っていた。だが視線だけは相も変わらず、夕焼けに包まれつつある空の座席を見つめていた。

「どうやって好きになったの。」稲垣は無機質に問うた。「なんで」や、「いつ」でもなく、「どうやって」。「なにそれ。」疑問を返せば、視界の隅で稲垣の口が固く結ばれる。その目の表情まで追うほどの集中力は向けられず、持ち前の三白眼はなおも座る人のいない席を眺めていた。

 嘲笑とも言えない渇いた笑いが、意識もせず口唇の隙間をすり抜ける。「お前さ、好きな食べものってあるだろ。」別に、稲垣の好きな食べものに興味があるわけではない。「それを初めて食べたときのこととか、覚えてねぇだろ。まぁ最近初めて食ったものとかだったら、覚えてるだろうけど。」

 酢谷以外の相手に、こんなにも長い会話文を投げられるのだと、どこか遠くでぼんやりと思いながら、忙しなく口唇を動かした。視線をわざとらしく窓の外へ向け、横顔への視線を感じながら、心の曲線をなぞるように会話文を諳んじ続ける。「それとおなじ。時期もきっかけも覚えてねぇのに、方法なんて知ってるはずねぇだろ。」

 自分から仕向けたくせに、夏生の首は稲垣の視線から逃れるようにして、膝の上でぷちぷちと指の皮をむしる自分の手へと視線を向けるために動かされ、項垂れた。口からは、今度こそたしかな嘲笑が生まれる。「大体、方法なんて知ってたら、全力で回避してたに決まってんだろ。」

 自分の名前を漢字で書けるようになるよりも、パジャマをひとりで着られるようになるよりも、もっともっと早かった、逃れられない感情であり、本能的に選択した地獄。それでも、この感情に出会わない方法を知っていたとしたら、『本能で』避けていただろう。

 いくつになってもその方法を知らないからこそ、こうやっていつまでも捕らわれているのだ。


「……そっか。」稲垣との会話の中で、わざわざ酢谷の名前を出すことはなかった。訊かれたわけでも、言ったわけでもないが、共通認識として当たり前のように横たわっている自分の恋心が、初めて心地よいと感じていた。話題にあげて持ち上げられて肯定や否定にカテゴライズされるくらいなら、呼吸と同じように揺蕩う風に混ぜられる方が、圧倒的にマシだった。

「じゃあ、あんたに質問しても意味ないか。」稲垣の呟きは、夕陽の色に混ざって溶けた。「あんたみたいに盲目的な恋をしてる人から教えてもらえれば、私も恋できると思ったんだけどなぁ。」稲垣の軽やかな嘲笑が、鼓膜にくっつく。その粘り気が、稲垣の喉を抜けた嘲笑はあくまで自嘲であるという主張を帯びていたからか、夏生の喉はなにか言葉を発して反論することはなかった。


 数十秒かの沈黙が流れた後、稲垣が重い口を開いた。諦めたような明るさが、にわかな鼻声と共に教室を乾燥させたのを覚えている。「……私ね、だれかを好きになったことが、……ないんだ。」

 覚悟を決めたような告白だったが、当時の夏生の意識はまたしても空になった席に向いていた。同時に心臓の端で、やっぱりそうだったかと納得していた。全員が気付いていると思っていた稲垣の酢谷への嫌悪も、稲垣の恋愛への性質も、夏生の中で漂っていた疑惑は、この瞬間確信へと姿を変えた。

 薄い反応しか表出させない夏生に対して、稲垣はなにも言わず、訥々と告白を続けた。「は、俳優にはなりたいし、恋愛映画は好きだし、そういう作品に出て演じたいとも思う。思うけど、……経験もないのに、完璧に演じられるとも、思えない。」

 稲垣の声は可哀想なほどに震えていた。だが夏生の胸に浮かんだその可哀想は、同情に近いものであった。「こんな話しても、運命の人に出会ってないからまだわからないだけとか、辛い恋をしてきたんだねとか、勝手な妄想で勝手に理由付けされるけど、それももう、なんていうか……。ふざけんなよ、って感じで。」

 稲垣の視線は、忙しなく動く自身の五指に向いており、夏生の視線と絡むことはまずなかった。そもそも夏生の視線も相変わらずただの汚れた机に向けられており、でも稲垣より大きくて節くれだった手は似た動きで自分の皮膚を傷付け続けていた。

「でも、でも恋愛映画は好きなの。キラキラしていて、素敵だなって思う。だけどそれを体験したいとは思わないし、性愛的な好意を向けられるだけでぞっとする。お芝居の中ならしっかり役になり切ってときめくこともできるのに、実際の自分に向けられると鳥肌が立つし、吐き気がする。」一世一代の告白を聴きながら、夏生は最低なことばかりを思っていた。

 それを稲垣も感じ取っていたのだろう。突如、渇いた笑いが空気を劈く。「ははっ……、私、あんたになに言ってんだろうね。こんなこと言ったって、理解されるはずないのに。」今の今まで空気と同化していただけの稲垣の声が、急に脳髄を刺激した。


 視線はぐるりと音を立てて稲垣の方へ向き直り、その眼光の強さに稲垣の肩が揺れたのがわかった。夏生はそんな稲垣の感情の揺らぎを視認しながらも、ひと呼吸も置かずに最低な想いを隠すことなく吐露した。「それで? 理解されない自分は特別だって? 」稲垣の眉が歪む。さっきまでの震えた表情よりも、よほど気分が良かった。

「お前さ、女優志望ならもっと本読めよ。無性愛者なんて、そう珍しいもんじゃあねぇよ。」「む、せい……? 」聞いたこともないであろう単語に、稲垣はわかりやすく動揺していた。「無性愛者、アセクシャル。他人に恋愛感情を抱かない人間の、セクシュアリティだよ。」

 薄らぼんやりとそんなことを思いながら、夏生は溜め息を大きく吐き、立ち上がって黒板まで歩き、チョークを手にした。まさかこんなところで授業をする羽目になろうとは思っちゃいなかったが。黒板に白い文字を連ねながら、夏生は背中に視線を向けるただひとりの相手に、授業を続けた。「日本語で言うなら、まぁ、性的指向? どういう相手に、恋愛感情を抱きやすいかってこと。俺はあいつ以外の人間を好きになったことなんかないけど、あいつも俺も男である限り、俺の性的指向は『ゲイ』に区分される。」

 勝手なラベリングは腹立つけどな。それを認めたこともないけれど。喉に不満を溜めながら、頼まれてもいない授業のためになおもチョークを走らせた。「女性が女性を好きになるのは『レズビアン』、同性も異性も好きになるのは『バイセクシャル』、性別が関係ないのは『パンセクシャル』。まぁもっと細かく分類もできるけど……」「バカにしてんの? 」稲垣の低い声が、からりと通る。

「そんなことくらい、私だって知ってる。パ、パン?は知らなかったけど、恋愛の幅が広がってることも、そのために苦労してきた人たちがいることだだって。伊達に映画観てないから。」稲垣の象徴的な憤慨は、想像以上に逆鱗へ触れてしまったことを俺に気付かせた。

「でも、じゃあ恋愛しない人は? できない人は? そんな人存在しない、恋愛感情を持ったことがないなんておかしいって、人間じゃないみたいな目を向けられることが、どんなに恐ろしいかわからないくせに、勝手に説教垂れないでよ。」それはお前だろ。浮かんだ言葉は、口から出たんだったか、出なかったんだか。何年も経った今では、もう記憶も確かじゃあない。

 ただ驚いた顔をよそに、下から睨みつけ、大きく息を吐いた。「お前が産まれてくるまでの間に、どれだけの人間が生きてきたと思ってんだよ。散々悩んで散々苦しんで、それでもそれぞれの幸福のために必死こいて生きて死んだんだよ。」いつしかチョークは止まり、夏生の身体は教卓の方へと翻っていた。

「その無数の悩みの中に、自分と似た悩みがないわけがない。絶対ある。自分の悩みは過去に誰かが悩んだ苦しみだ。……本を読めばそれがわかる。」それは夏生が自分自身に、ずっとずっと言い聞かせてきた言葉だった。


 全幅の信頼を向けられている幼なじみに恋愛感情を抱くことも、同性に恋慕を向けることも、全部全部。大したことじゃあないとまでは思えなくとも、過去にあったことだと思えたならば。同じ場所にはいなくとも、どこか遠くで同じように苦しんでいる人がいると、知れたならば。

 あぁ、自分はそこまで異質ではないのだ。変だと嘲る奴らが、ただひたすらに無知なだけなのだと。そんな曖昧で空虚な言い訳で、なんとか自分を奮い立たせてきたのだ。

 そんな行為は感情への迷いじゃないのか? 選択した正当な感情ならば、そんな迷いは生まれないんじゃあないか? 迷っていないと思っているのは自分だけで、本当は、なんて。そんな声も耳の奥では聞こえるが、聞こえないふりをしながら、『勝手なラベリング』に救われてきた自分は、確かにいるのだ。名前のあるものは、未知ではない。


「恋ができない、人もいたの。」ぶっきらぼうな稲垣の声は、どこか幼かった。「じゃなけりゃ、無性愛者なんて言葉、生まれてねぇだろ。」

 正論は人を救わず、思いやりが人を救う。どこかで聞いた言葉だったが、夏生は胸中で勝手にその言葉の続きを綴った。思いやりがなくとも、知識は救いになり得る。

 どの知識を得、どの知識を自らの矜恃とするか。取捨選択と淘汰を繰り返し、アイデンティティの確立に繋げる。人間である限り得た知識すべてを人格形成に繋げる必要はないが、同時に、知識を得られる機会を前に、すべて閉ざし切ってしまうのはあまりにももったいない。

 だから結局、欲しい言葉をくれるのは自分だけなのだ。何度目かのため息に混ぜて、訥々と話を続ける。

「お前はもっと本を読め。自分には生きられなかった時代と環境を生き抜いた人間の知識を、沈思を、身につけろ。他者を生きることを生業にしたいなら、それくらいしろよ。」思春期ということも相まって、今以上に口が悪かったが、稲垣は他のやつらのように夏生の言葉を嘲笑したり止めたりすることはなかった。下手な相づちや感嘆などもなかったが。

 稲垣はただ、そう、それこそまるで映画でも観るかのように、瞳孔を開き、ただのワンカットでも見逃すものかという真剣な表情で、夏生の言葉を咀嚼しているらしかった。自分が映画を観ている姿なんか当然見たこともないが、自分もこんな顔をして映画を観ているんだろうなとすら思えた。

 視覚でも触覚でもなく、稲垣の喉が震えているのがわかった。言葉を喉の奥で反芻しているのだろう。それは映画を観るときの自分の癖で、夏生はそれをしている人を自分以外で初めて見た。


「……じゃあ、普通だって言いたいわけ? 」言葉を文字にして、何度か口の中で咀嚼した後、稲垣は不機嫌を隠さずに訊ねた。「ちげぇよ。」

 となれば、返す言葉も不機嫌が溢れる。「普通なんてない、って話だろ。」それはやっぱり、自分に向けて出てきた言葉だった。そして同時に、これを酢谷に言えるような関係性であったならば、もっと何か違ったのかもしれないとまで思った。

 なにかってなんだ。よくわからないうちに生まれた自分の中の虚像に、夏生は思わず顔を覆った。「……お前がそう、ってだけだろ。お前の『普通』が無性愛ってだけ。ただの事実に、いちいち奇を衒うな。そんなんを個性とは呼ばない。」息を吐いたついでに、音がついた。そんなような声だった。



 この日をきっかけに、稲垣との空気は変わった。距離も関係も変わっていないのに、空気だけが変わる。それはなんともちぐはぐな違和感を帯びており、それでいて気が楽だった。

 稲垣は言った。「だから、好きになることはないよ。」そんな言葉で安心感を覚えたわけではないが、少なくとも高校生になって初めて、心に凪が訪れた。と同時に、暗い感情が期待を支配したのである。

 後ろ向きにポジティブな思考は、歯車のようにごろごろと歪に嵌っていき、気付けば行動に移されていた。簡単な話、酢谷の失恋を見守ってやればいいという結論に至ったのだ。


 失恋につけ込む、と言えば聞こえは悪いが、そんなこと、恋をする人間ならだれでも考えることだろう。好きな人に好きな人がいて、それを受け入れて相手の願望を叶えたいと思うことができなければ、相手の失恋を待つしかない。待って、待って、弱った心に優しく入り込んで、酢谷の心を根幹ごと貰ってしまえばいいのだ。それがきっと、待ち続けていた『いつか』なんだろう。そう言い聞かせるようになった。

 どうせ、待つのは得意だ。今まで十何年間ずっと待ち続けてきたのだから、酢谷が失恋するまでの数ヶ月なんて、余裕で待っていられる。

 それに、元より酢谷の初恋が実る可能性はゼロなのだ。自ずと口角がゆるりと上がる。破れるとわかっている恋心に、いちいち嫉妬する必要もない。自分の感情には鈍感なくせに、他人の感情の機微にはやたら敏い酢谷なら、もしかしたら明日にでも失恋を自覚するかもしれない。

 そしてさめざめと人の目から隠れて泣くあいつを、自分だけが見つけて、全てを受け容れてやればいいのだ。今まで通り、なにも変わらず、ただ当たり前のように。

 なにも難しいことはない。そう自覚しているはずなのに、なぜか手の甲の傷は癒えず、むしろ日に日に傷口を深くなっていた。

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