オレンジの片割れへ 2


 酢谷が稲垣に惚れた瞬間、きっとあの場にいた全員、彼の感情の機微に気付いただろう。


 稲垣莉央という女は、入学前からちょっとした有名人だった。地元のアイドルグループに所属していた過去を持ち、今もモデルをしているらしい。ちょっとした雑誌に載っていたり、SNSの広告の片隅にいたりすることもしばしばらしく、そういった噂話に興味のない夏生の耳にも届く程度には、稲垣莉央の話題は大きく、騒がしかった。

 そんな噂を、人の目を気にしてやまない酢谷が聞き逃すはずもなく。「どんな子なんだろうな、稲垣莉央ちゃん。友だちになりてぇなぁ。」高校入学前の春休み、二人きりのカラオケでメロンソーダを啜りながら、酢谷は呟いた。

「なんだそれ。有名人とお近付きになりてぇとか、ミーハーかよ。」この頃には既に、稲垣莉央への嫉妬心が芽生えていたのか。あてもなくデンモクを操作しながら、吐き捨てるように夏生の口は動いた。

「は? ちげぇよ。」呼応するように、酢谷の口調も荒くなる。普段は口が悪いとは真反対にいるような酢谷だったが、たまに、突風がふきぬけるみたいに口調に角が立つことがあった。

 そして酢谷がそんな棘を垣間見せるたび、夏生は酢谷の感情を確認するように酢谷の顔を見る。でも、いくら刺々しい言葉を使おうとも、酢谷の口角はゆるやかに上がっており、彼の感情はなおも柔和であることは明らかで。そんな酢谷の感情に胸を撫で下ろし、夏生の視線は再びデンモクへと戻った。

 当の本人である酢谷は、夏生が酢谷の感情を毛羽立たせたのではないかと一抹の不安を覚えたことなど露も知らぬまま、もうほぼ氷だけになったメロンソーダを、音を立てて啜り続けていた。「そうじゃなくて、楽しいじゃん? 自分の知らない世界を生きてきた人って、それだけで尊敬だし。おれの知らない世界もいっぱい見てきたんだろうし、そんな人と仲良くなれるかもって思ったら、すげぇわくわくする! 」

 テンションが上がったのか、にぱっと笑いながら酢谷は空のコップを持って勢いよく立ち上がった。「あ、ドリンクバー行くなら俺のも取ってきてよ。」あえてデンモクから目を離さず、片手で掴んだコップを差し出せば、「ちげぇよ! 」すかさず否定の声が飛んでくる。テンションが上がったから立ち上がっただけで、お代わりを取りに行こうとしたわけじゃあないんだろう。そんなことくらいわかっている。わかった上でからかったのだ。

 くくく、と喉の奥で笑うと、顔を上げ、まだ半分以上残ったコップにそのまま口をつける。「お前、だんだんキャラ変わってくんのな。」テンションも幾分か落ち着いたのか、夏生のコップが空になる頃には、酢谷の臀部はとうにソファへと収まっており、放心した顔で液晶画面に映るCMを眺めていた。

 そんな横顔に、夏生は思わず不躾な言葉を投げかける。「知らない人が好きとか、人を知りたいとか仲良くなりたいとか。昔のお前なら絶対言わない言葉じゃん。」んー? 聞こえているのかいないのか。ぼやけた声での相槌が返ってくる。

「そう? 」「そうだよ。」間髪入れずに答えたのは、酢谷が変わったのは無理をしているからだと思っていたからなのか。有象無象に興味を向けなくとも、全部全部俺があげるから。お前が見えない世界も、代わりに俺が見てきて教えてやるから、と。本心の奥底でそう思っていたからかもしれない。

 それでも、酢谷はすべてを見透かしたような目を向けるだけで、なおも空になったコップのストローを咥えるだけだった。「なんだよ。」酢谷のそういう目が、夏生はちょっとばかし苦手だった。なにも考えず、ただ夏生から与えられるものだけに感情を動かしてくれればいいのに、そんな夏生を支配しているかのような酢谷の表情は、なんだか負けているかのようにすら感じられたのだった。

「べつに? 」答えながらにまにまと、氷が薄まった液体を飲む酢谷の姿は、腹立たしいほどに妖艶で幼く愛らしかった。


 あれ以上に苦手な表情を浮かべる酢谷なんて、知らなかった。知りたくもなかった。

 同じ高校に入学し、初めて同じクラスになり、喜びながら同じ教室に入った。苗字が離れているから当然席は離れていたが、いつか隣になれたらいいな、なんて浮ついた台詞を吐く酢谷に対してにやける顔を隠しきれなかった。

 酢谷は自分の机の上に鞄を置くやいなや、すぐに夏生の席の傍に来て、廊下側の壁に背中を預けて他愛のないおしゃべりを始めた。数分くらいはそうやって日常を過ごしていたのに、なにもかもをあの女が奪い去っていった。


 あの女が教室に入って来た途端、ざらりという音がした気がした。春風に髪が靡き、艶やかな黒髪が雄弁な視線を演出したようで、腹立たしかった。そして呼応するように、扉のすぐ横にいた酢谷の言動のすべてが止まるのがわかった。

 女の目に、髪に釘付けになった酢谷と、女の視線が交わるのは自然の摂理。「おはよう。」完璧な笑顔で酢谷に挨拶をすると、女は夏生の後ろの席に腰かけた。

 その間、酢谷の口はずっと止まっていた。ぽかん、と開いたまま、ただただ視線だけが女を追い、まばたきすら忘れていたようだった。女の一挙手一投足すべてを見逃してなるものかと視線を走らせ、「酢谷? 」夏生の声になんの反応も示さず、夏生の背後に神経のすべてを奪われていた。

 頬は紅潮し、まばたきしていないのに目は潤んでおり、ようやく口を閉じたと思った途端、ごくりとわかりやすい音で生唾を飲んだ。そうこうしている間に背後が騒がしくなり、クラスメイトの数人が女に群がっていることがわかった。そしてこのときようやく、夏生は今入ってきた女が稲垣莉央なのだと、理解したのだ。

 だが夏生にとって、後ろに座った女が稲垣莉央だという事実よりも、嫣然とした表情を浮かべる酢谷への衝撃の方が遥かに大きかった。脳の容量はとっくにキャパオーバーを起こしており、稲垣に釘付けとなっている酢谷に、夏生は釘付けになっていた。

 そんな表情見たことない、なんでそんな表情を浮かべているんだ? なんで、どうして俺の知らない表情をこんなモブに向けているんだ? そう訊きたかった。訊けばよかった。この瞬間に腕を掴んで、無理にでもこちらを向かせて、怒鳴りつけてでも意識を戻せばよかった。

 そうすれば、始まろうとしている酢谷の初恋を止められたかもしれないのに。


 でも、できなかった。なにもかもが遅かった。

 稲垣がクラスメイトに群がられているにも関わらず、酢谷の口は残酷な一節を紡いだ。「……すき。」それは、夏生がずっと待ち望んでいた言葉。

 最初は空気に溶けるほど小さな声だったが、夏生の耳だけはその声を言葉として捉えていた。だが二言目は、教室中に鳴り響いてしまった。「すきッ! 」

 反射的に止めようと、自分の腕が酢谷の方に伸びたのがわかった。が、それよりも速く、酢谷の身体は稲垣の方へと動いた。「おれ、あなたがすきですッ! 」振り返ってようやく見えた酢谷の顔は、さっきまでの紅潮した艶やかなものとは違い、興奮と高揚で輝かしく眩しくなってしまっていた。

 それを見た稲垣の表情なんて、これっぽっちも覚えちゃいない。ただ、酢谷の晴れやかな表情は横顔でしか視界に映ってくれず、今こいつが見ている世界に自分はいないのだ、酢谷の世界から排除されたのだという重い現実だけが首の裏にのしかかった。

 何も掴めなかった手は、意味もなく虚を掴み、そのまま握りこぶしになった。そう長くないはずの爪が手のひらを傷付けたらしく、数分後に手を開けば赤い痕が残っていた。


 そんな壮絶な体験が、夏生の高校生活に黒い影を落とさないはずもなく。

「伊藤です。」苗字のせいで自己紹介のトップバッターを命じられた夏生は、自身の苗字を恨みながら起立すると、ひと言だけ発してすぐに腰を下ろした。役は終えたと机に突っ伏すと、周囲から雑音が沸く。

 まだ経験も浅そうな若い教師が、薄いせせら笑いを浮かべて困っている様子も伝わってはいたが、そんなことはどうだってよかった。酢谷以外の人間がどんな負の感情に襲われたって知ったことじゃあなかったし、むしろあの瞬間だけは酢谷さえもどうだってよかった。

 今まで必死に守ってきた矜恃とも言える主軸たる感情が、ばらばらと音を立てて崩れていく感覚なんて、一生涯知りたくもない痛みだった。


「稲垣莉央です。一応事務所入ってて、モデルとか色々やってます。隠し撮りはだめだけど、一緒に撮るのは大歓迎です! 」教室中に、明るくよく通る声が響く。

 溌剌とした声に続き、柔らかい笑い声が上がった。なるほど、発声と空気の掴み方は、凡人とは呼びがたい。夏生は机に突っ伏したまま、無言で感心していた。なんというか、ほぼ査定の感覚だった。自分がずっと恋い焦がれてきた相手の初恋を奪ったのは、どんなやつなんだ、と。夏生は机に突っ伏したまま、聴覚に全神経を集中させ、そのよく通る声を査定し続けた。

「あと……。あ、映画が好きです! 数年後には絶対映画俳優になってるので、サインをもらうなら今のうちだよ。」なんだ、所詮軽い女か。机との間の闇の中で、夏生はかたく目を閉じた。

 こんなにも性根の軽い女なら、酢谷の目もすぐに覚めるだろう。恋愛なんて所詮勘違いだ。コミュニケーション能力を身につけた今の酢谷なら、何度かこの女と言葉を交わしでもすれば、二言三言で幻滅するだろう。

 一方で、夏生は酢谷とは離れた部分の感想も、女に対して抱いていた。長い学生生活で初めて映画鑑賞を趣味とする人間と出会ったが、どうせこんな女とは趣味も合わないだろう。そう感じたはずなのに、夏生のまぶたはかたく閉じた力をゆるめ、ややリラックスしていた。

「特に、恋愛映画が大好きです! 映画好きな人いたら語ろうね! 」だがそんな変化も、背後からのそんな言葉で無に帰した。夏生の身体は起き上がり、強い反動で振り返った。それは理性とはかけ離れた衝動であり、酢谷からもたらされるもの以外で行動を起こすのは、随分と久しぶりのことのようにも感じていた。

 だからと言って嬉しさなんてものは一分たりとも存在しなかったが。「……は? 」口から這い出たのは、自分でも驚くほど地を這う低音。夏生の自己紹介とは一変し、浮き足立っていたクラスの雰囲気はなりを潜め、再び重く静かな騒音へと姿を戻した。

 全員が全員、夏生の言動を気にかけているのがわかる。だが振り上げた拳を、なにもせずに下ろすことはできない。「……恋愛映画? 」薄い涙袋が上がり、両方の眉頭が身を寄せ、中心に皺を作る。それはわかりやすい軽蔑の表情だった。

「恋愛映画なんて、安っぽい感動的な音楽とキスシーンを織り交ぜただけの、女優の顔面と胸だけを撮ったご都合主義動画だろ。あんな映画とも呼べない代物の、どこに魅力を感じてんだ。」独善的で人目を気にしない夏生でも、空気が張り詰めるのがわかった。と同時に、稲垣の貼り付けたような完璧な笑顔が、真っ暗な真顔へと豹変する。

「は? 」眉目秀麗な顔立ちに似合わない、静謐な声だった。「なにそれ。教室の空気ぶち壊しておいて、クソみたいな自論垂れるために起きたの? 」本当にこの整った顔立ちから出た言葉なのか、にわかには信じがたい言葉遣いに、周囲から息を呑む音が聞こえる。

 それを感じ取ったのか、稲垣は深呼吸するように唇を舐めると、小さな手で顔を覆い、「……なんて、ね。」完璧な表情で微笑んでみせたのだった。

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