一日外出券

 「さ、イルカが貴方達を待ってるわ」


 イルカと触れ合い、体験コーナー。イルカの頭に触れたり、果てにはショウの指示を調教師さんになり切って代わりに出せるのだという。なんとも素敵な夏っぽいイベントに、僕とエコロはお呼ばれした。目の前の女性館長の一言は、そのイベントの合図であり、本来であればテンションは上がって然りのタイミングであるのだけれど、僕とエコロは、そんなわけにもいかなかった。

 

 何がいかんって、館長、感情が表に出過ぎて、挙動不審すぎるんだもの。

 

 もみあげを刈り上げたベリーショートの髪型なのに、すかり、すかり、もみあげをいじるような動作をする。引き攣った笑みを浮かべて、『お客様の声』が一面に貼られた、バックヤードとして無駄遣いされている水槽を背中に隠す。水槽に貼られた『お客様の声』の隙間から、大量の紙束が積まれているのが見える。館長は、それを背に隠す。こんなの、そこに何かありますって言っているようなものだ。

 

 僕は隣に座るエコロと視線を交わす。麦わら帽子を揺らして、エコロは頷いた。


 どうにか、あの水槽の中を覗かなければならない。

 僕たちが呼ばれた理由が、そこにある。



────



 「先輩がチケット余ったって言うから、お前にやる」


 僕を上から見下ろして、いつかの焼き増しのように唐突なプレゼント、《イルカマシマシてんこ盛りセット》と書かれたチケットを二枚突き付けてくる姉、香澄は、イルカの調教師だ。水族館『ドルフィン・オーシャン』でイルカショーを担当している。この水族館がテレビで特集されたこともあって、(水族館の経営難をイルカ一本に絞ったことで切り抜けたという破天荒な内容だった)姉は近所じゃちょっとした有名人。


 まあ現役調教師でありながら館長も務める《水野律》さん、姉曰く『りっちゃん』がメインの番組だったので、姉はその話をしたがらないのだけど、と、そこは良くて。


 見下ろしてくる姉のことを見上げると、京子さんより鋭い視線と目が合う。姉のことは、昔から苦手だった。僕より高い身長、僕より広い肩幅、黒髪ロングのオールバック。身体的特徴を並べ立てもはや逆恨みでしかないが、あの引っ越しの日に独り残って全てをこなした、恐怖心なんてないかのようにずんずん自分の人生を進める、僕と真逆な彼女の存在は、多感な中学生ごろからストレスになっていた。


 たぶん、姉も同じことを考えていたのだと思う。弱いままで現状に甘える僕を、姉は理解できず、嫌悪しているのだと思う。どっちが先だったかは分からないが、必然的に会話は最小限になった。でも、今回は黙っているわけにもいかない。


 「どういう風の吹き回しですか。絶対に来るなって口酸っぱく言っていたじゃないですか。というか余ったからって二枚渡されても困るんですけど」

 「エコロちゃんと来い」

 

 (……はい?)

 

 エコロの名前が姉から出るとは思わず(というかちゃん付けなんだ)、放心していると、苛立った様子で、彼女は後頭部を掻いた。一分一秒でも早く会話を切り上げたい、とでも言いたげだ。


 「……礼はちゃんと言ったのかよ。ゾウから逃げられたのはソイツのおかげなんだろ」

 「なんでそれを。話した覚えがないのですけれど「うるせえ」」

 

 我慢ならぬと強引に会話を切り上げて、彼女は僕に背を向け、部屋から出て行く。部屋の隅に置いてある、こないだ彼氏と使ったらしいゲーム機は、コントローラからコードまで、綺麗に整頓されている。

 

 「とにかく、きっちり誘えよ。待ち合わせはプログラムの30分前だ、いいな」



────



 「確かに変だね。インチョーのお姉さんと会ったことはないよ。もちろん、動物を操る声のことも、インチョーが話していないなら、知っているはずがないのに」

 

 先週の京子さんの幻聴事件が金曜日で、そこから土日を挟んだ、月曜日。半袖の水色ワイシャツから伸びた手は人差し指を立て頬をぶすりと刺している。考え中、と言った感じ。

 

 普段はエコロが僕の席に来て話すのだけれど、今日は僕が、エコロの席へ会いに行った。理由は単純で、真後ろの石山くんがめっちゃ気まずそうだから。ただでさえ小さな体躯をさらに縮めて、プリントを回すたび露骨に目を逸らすし、物を落として拾ってあげても、蚊の鳴くような声で「ありがとう」だったり、まあ、その、怯えている。

 

 流石にここにエコロまで来たら可哀想なので、僕の方から会いに来たのだ。石山君には逆に無視されたりとかを想定して、憂鬱な気分になっていたので、この状況はちょっと予想外だった。

 

 「というか動物を操る声、お姉さんも信じたんだ。インチョーから聞いてる話だとだいぶ現実主義で疑り深そうな印象があったから、なんか意外」

 「『も』って何ですか」

 「インチョーはもうすっかり信じたでしょって」

 「まあ、京子さんの件の犯人捜しは、貴女が主張する通り超音波が聞こえないと不可能でしたから、そこは信じますよ。動物を操る云々は半信半疑ですけど……なんですかニヤニヤして」

 「信じて貰えて嬉しいなーって」


 そう言うと、差し出したチケットをひったくって、「大丈夫だよ」


 「お姉さん、あそこの調教師なんでしょ。それで先輩がいる。心当たりがあるから、大丈夫。今週の日曜日、忘れないでね」

 

 自分に自信が無さそうで、根っこが似ていそうな同情を感じさせるのに。時折、自分の魅力を自覚した行動をしてみせる。パーマのかかった茶髪を揺らして首を傾けて、器用で完璧なウインクに、僕は言葉を返せなかった。

 しばらくエコロはそのポーズで固まったあと、気まずそうに顔を赤らめて、身を縮める。

 

 「……その、『なに気取ってんねん』的なツッコミが欲しいんだけど」

 「なに気取ってんねん」

 

 後ろから黒髪ぱっつん、低い位置から繰り出される京子さんのチョップ。結構強めに入ったみたいで、エコロはぐお、と呻いて、机の上で上半身だけ蹲る。

 僕はというと、無意識に姿勢を正していた。京子さんに会ったら、まず最初に言うべきことがあったから。僕は机に伏して横顔で見上げてくるエコロと目を見合わせ、口にする。

 「幻聴の原因は、分かりませんでした。力になれずすみません」

 

 京子さんは、すぐには答えを返さなかった。ただ、石山君の席を見つめて、少しして。

 

 「黙ってりゃいいのにね。アイツ、インチョーくんにバレたってゲロったよ。そのうえで、謝ってきた。背丈と親と、生まれ持ったどうにもならない現実が、ストレスだったって。聞いた?」

 

 僕とエコロは、再び視線を交わす。僕は蹴られたことを秘密にしてね、とメッセージ。エコロは渋々頷いた。


 「詳しくは聞いてません。断片的に、そんなようなことは言ってましたが」

 「詳しい話はいいよ。興味ないし。京子ちゃんが許したなら、どうでもいい」

 

 「そう」と京子さんは石山君から僕たちに視線を戻して、苦笑い。

 

 「アタシの親はガサツだから、背が低いことを愚痴っても、『じゃあ違うスポーツにしろよ』って言うくらい。そのうちアタシも、自分の背が低いことなんて気にしなくなった。けど、アイツはそうじゃなかった。過剰な心配を受けた時の気持ちが、なんとなく分かるから。今回だけは許してやることにしたの」

 

 そう言って、気持ちの整理が済んだと、大きく伸びをする。

 「一応アンタらからひとこと、『謝れ』でも何でもいいから、声かけてやって。それで多分、謝ると思うから……で、そんなことより」

 

 彼女の視線は、僕とエコロの手の中にある、『ドルフィン・オーシャン』のチケットへ。言ってはなんだが、少し下世話な表情だ。

 「そういうこと?」

 「……どういうことでしょう」

 「友達と遊びに行くんだよ。ね、インチョー」

 

 惚けた僕と、太陽のような、カラッとした笑顔を見せるエコロ。でも僕はもう、それを見て、『育ちが良い』とか、『さぞ良い環境で』とは、とてもじゃないが言えなくなってしまった。

 

 ──『ヒナ姉、死んじゃったんだ。あの日から3日後に、交通事故で』

 

 身近な人が亡くなった経験は、僕にはない。エコロは、僕にはない経験をして、これまでを生きてきた。

 そして僕もきっと、エコロがしたことのない経験をして、生きてきた。


 不躾で、不謹慎な話だけれど。

 もっと、彼女のことを知りたいと思っている。

 

 

────

 

 

 7月の上旬、もうすぐ梅雨も明ける、真夏日の連続する毎日だ。日差しを警戒して、待ち合わせは水族館の中にした。集合場所は、お土産コーナー。駅から徒歩10分程度の好立地まで歩いて、イルカショウで大盛況の屋外プールを尻目に、館内に足を踏み入れたのが15分前。屋外プールと対照的に、館内は空いている。お土産を物色するのに飽きて、当たりつきの自販機を眺めていたら、「インチョー」と後ろから声が聞こえる。

 

 振り向くと、いつもと違うエコロがいた。

 襟とスカートがモスグリーンで、シャツがミルク色のシャツワンピースに、両手で持った麦わら帽子。足元は、学校指定の黒のローファーではなく、動きやすそうな白のスニーカー。これまで見た姿は、学校でもプライベートでも、紺を基調にしたものだったから、新鮮な感覚だった。

 当人もちょっと気恥ずかしいのか、麦わら帽子で口元を隠している。そういうのやめてほしい。正直言って、ドキドキする。

 

 「男の子と出かけるって言ったら、妹に着せ替え人形にされちゃってさー。濡れてもいい恰好の方が良いって言ったのに、『可愛い服を濡らすからときめくんでしょうが』ってさ。おっさんくさいよね。電車の時間も調べろ調べろって逐一うるさくて……で、どう、時間をかけた甲斐はあるかな。似合ってる?」

 「当たりが出たらもう一本、って言いますけど、パチンコにしても自販機にしてもなんで当たりって777なんでしょうね。あ、何か飲みます?」

 「7がラッキーな数だから。ちなみにその由来は、シカゴ・ホワイトストッキングスの優勝が懸かった野球の試合の第7回に、フライが風に飛ばされてホームランになったから。飲み物は買ってあるから大丈夫。で、似合ってる?」

 「……はい。とても」

 「初めから素直に質問に答えなねー」

 

 上機嫌にくすくす笑って、エコロはふらふらとお土産コーナーを回る。濡れても良いと言っていたワンピースが風でなびいて、なんとも言えない気分になった。

 ボストンバッグからチケットを取り出し見直す。姉から貰った《イルカマシマシてんこ盛りセット》はイルカのヘッドタッチ体験、イルカショーの指示出し体験、イルカショーの最前列優先席がセットになったチケットである。最初のヘッドタッチの受付開始は30分後で、もうしばらく話す時間がある。

 ふらふら歩くエコロについてゆくと、彼女は回転式のラックにかかったキーホルダーを手に取っていた。透明なイルカのキーホルダーには、『4月生まれ ダイヤモンド』と書かれていて、彼女が握っているのは、『4月15日の貴方へ』のもの。僕の誕生日だ。なんか気恥ずかしい。

 

 「こういう誕生石を模したストラップってお土産屋によくあるよね。実際模してるのは色だけで、石ですら無いんだけど」

 「生まれたては白紙と言いますけれど、誕生日と親から受け継いだ遺伝子は既に情報としてあるものですから。ある意味全人類をターゲットにしたお土産です……ところで誕生日いつでしたっけ。7月7日?」

 「9月のついたち。ひょっとして、緊張してる?」

 「いえ別にぜんぜんまったく」

 

 嘘である。大いに緊張している。何の変哲もないタイルマットが敷き詰められた床が、泥沼に思えてくる。一歩が重い。足が沈む。改めて何を話せば──


 「あーもう、初々しいー!!」


 真後ろから甲高い声が聞こえて、びっくりして跳び上がりながら振り返る。背後からけらけらとエコロの笑い声が聞こえて、体温が上がる。またビビリなとこを見せてしまった。

 ちょっと恨みがましい瞳で前を見て、目に入ったのは、女性特有の声の高さからは予想できない、もみあげすら刈り上げるベリーショートの髪型、姉と競るほどの高身長。湿ったウェットスーツを覆うようにして、上からジャージを着てる。その姿には、見覚えがある。

 僕は唖然として、恨みがましい気持ちを忘れてしまった。その人が、テレビでしか見たことの無い水族館の館長である《水野 律》、姉曰く『りっちゃん』が、両手を頬に当てて、イナバウアーもびっくりの角度で反っていたから。


 (……こんなキャラなんだ)


 僕は水野さんのことをテレビでしか見たことがない。当然、彼女は僕のことを知らないはずなのだけれど、そんなことお構いなしのハイテンションで僕ら2人の視線を集める位置に移動し、ずいずい顔を近づけて。

 

 「ごめんなさい邪魔して。あ、それで何の話だっけ、誕生日ね誕生日。誕生日は覚えておいた方が良いわよお互い。そんで心の籠ったプレゼントをする人に、貰ったプレゼントを大事にする人になりなさいね。フリマアプリに転売とかする大人になっちゃだめよ絶対」

 

 人種が違うことを一瞬で理解する。マシンガントークとはこのこと、こっちのことなどおかまいなしだ。「はい」とか「どうも」とか言って、適当にやり過ごそうとしたところで、エコロが一歩前に出る。その輪を描いた指の形は、どう見てもデコピン発射体勢。

 

 「水野さんうるさい」

 「わたしの友達なんて毎年創意工夫溢れる謎アイテムをくれたもんよ。無駄に充電が必要な虹色に発光するネックレスとか──って今貴女私の名前あ痛ぁー!?」

 

 

 

  ──『心当たりがあるよ』

 

 「実は水野さんとは顔見知りなのです」

 エコロは得意げな顔で僕を見て、舌を出す。

 「姉さんがここで働いてたんだ。幼稚園くらいの頃かな、日曜日にここの託児室に預けられてて。たまーに世話をしてもらってた。そんなワケでボクの力のことも知ってるから、インチョーのお姉さんはこの人から話を聞いたんじゃないかな」

 お互いの姉が同じ場所で働いているとは、世間が狭いというか、それともここが人気の就職先だったりするんだろうか。「そうだよね、秘密をバラしたおしゃべり水野さん」と冷たく表情を一変させてチクリと刺すと、水野さんは額を押さえて焦った顔で、「弁明させて」と手を挙げる。「こないだ動物園のゾウの脱走あったでしょ、そこの有山くんが巻き込まれたやつ」

 「……僕、会ったこと無いですよね」

 「香澄ちゃんに無理やり写真見せてもらってね、勝手に存じております、今思い出しました、よろしく」

 手を差し出されて、反射で握手する。エコロが不機嫌そうに「で?」と続きを促すと、水野さんは手を離して。

 「ニュースの生放送見てた香澄が心臓吐きそうな顔しててさ。気休めのつもりで言ったのよ。『私の知ってる子が動物園に今行ってて、その子がゾウを操れるから大丈夫』って。当然香澄は信じてなかったんだけど──」

 言葉の途中で、水野さんはジャージのポケットからスマホを取り出して、ニュース番組のスクリーンショットを僕らに見せる。うげ、とエコロの声が聞こえた。そこには、《無事に避難を終えた人々》と題して、人混みに紛れて、マサバさんの車椅子を押すエコロと、その隣で話す僕がいる。

 僕たちは顔を見合わせる。お互い、ピーマンを一気食いした子供みたいな顔をしていたと思う。よくクラスメイトにバレなかったなこれ。バレた時を思うと果てしなく面倒だぞこれ。

 「……とまあ、このニュースを見ていた香澄の前で反応してしまった結果、瓢箪から駒、心ちゃんがいたことと、心ちゃんの能力が香澄にバレてしまったのです。メンゴ☆」

 そう言って、舌を出して目の近くでピースを作ってウインクする。エコロはため息をついて、氷点下まで下がった冷たい視線で、水野さんに手招きする。それから、人差し指を地面に向ける。『しゃがめ』。ポーズを維持したまましゃがんだ水野さんの額に、二発目のデコピンが突き刺さる。水野さんは大げさにもんどりうった。

 「秘密をばらしたのはこれでチャラね。インチョーのお姉さんを安心させられたんなら、差し引きプラスだと思うし……で、ニュース番組には気付いたのに、目の前のボクにすぐ気づかなかったことについては」

 三発目が装填される。水野さんはぷるぷる首を横に振る。

 「私たちが最後に会ったのって心ちゃんが小6くらいの時よ。私の中じゃ心ちゃんはまだ子供なの。それが彼氏連れておめかししてくるとは思わないわよ。……第一メルアド一つ持ってない心ちゃんに合わせて手紙送ってんのに返事も寄こさずシカトしてるのが悪いと思いまーす!」

 「彼氏じゃない。手紙ってなに、初耳なんだけど」

 

 ずいぶん気安い仲らしい。たまに流れ弾が飛んできて精神にダメージを負ったり回復したりしつつも、僕は置いてけぼりで横から見ていた。姉さんが僕のことを心配していたとか正直信じがたい寝耳に水な情報はさておいて、エコロの横顔を眺め、新鮮な気持ちでいた。しっかり者で、負の感情を表に出すことがあまり無い(と勝手に僕は思っている)エコロがムッとした顔で感情を露わにしている。よほど、水野さんに心を許しているのだと思う。


 そんな水野さんは、『手紙ってなに』という質問に、豆鉄砲食ったみたいな顔になって。


 「……何しに来たの?」

 「遊びにだけど」

 

 僕たちは、《イルカマシマシてんこ盛りセット》と書かれたチケットを取り出し見せる。それを覗いた水野さんの表情を見て、僕たちは顔を見合わせる。エコロのテレパシーが届く。僕も、同じことを考えていた。


 ((ピーマン一気食いした子供みたいな顔))


 要するに、果てしなく面倒そうな顔だった。


────


 「その辺ちょっと濡れてるから、足元気をつけてね。有山くんがエスコートしたって。ほら手繋いで先導してほら」

 「この人の言うこと真に受けなくていいからねインチョー」

 

 すっかり再起動した水野さんの笑顔とエコロの真顔に挟まれて、僕は気の利いた返しが出来ず苦笑いする。『この先触れ合い用屋内プール 関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉の前は、水野さんの言うようにわずかに濡れている。その扉を横目で見て通り過ぎ、先導する水野さんについて行く。さきほど苦虫を?み潰したようになった水野さんは、再起動して開口一番。

 

 ──「香澄はふだん、『他人の仕事を奪っちゃいけない』って言って、お客様の声コーナーの仕事はやりたがらないんだけど、昨日は珍しくせかせか作業してたのよ。多分お二人さんに見てもらいたくて用意してたんだと思うんだけど……どう、時間ある?」

 

 というワケで、20分後のイルカヘッドタッチに間に合うならと、水野さんについて行って、お客様の声コーナーとやらにいる。視界の端に意識を向ければ、両サイドに水が入っていない水槽があり、そこ一面に『お客様の声』が貼られている。貼られた紙の隙間から、大量の紙束がや文房具が山積みになっているのが見える。水槽ではなく、もはや透明な物置だ。これらの物置、もとい水槽は、数年前まで、普通に水を入れて魚を展示するために使われていた。

 これが今のようにイルカ専門施設となると、イルカショウ用の屋外プール、触れ合い用の屋内プール、イルカ展示用の水槽以外は使わなくなった。そこで、魚たちを他の水族館へと移し、使わなくなった水槽を、このような、まあ言ってしまえば勿体ないバックヤードとして使うようになったのだと、テレビで言っていた。

 

 歩きながら、思い返す。

 

 水野さんの言う通り、姉さんは確かに、この施策があまり好きではないと言っていた。言葉少なながら話すことになる年末年始に、『余裕の無さが垣間見えて嫌だ』と言っていたのを覚えている。それが最近になって、水野さんがそうした心情を察するほど露骨に立場を翻している。

 そもそも、ここに僕たちを呼んだ時点で異常事態なのだ。就職が決まったとき、僕だけではなく母さんにも父さんにも、絶対に来るなと口酸っぱく繰り返していた姉さんが、なぜか『何があっても来い』と立場を翻している。

 

 胃が痛くなってきた。しかめっ面にならないよう笑顔に気を付けて、前方の水野さんに声をかける。外のイルカショウとは対照的に、お客様の声コーナーの人は疎らで、そこまでの声量は必要なかった。

 

 「その、もしかしてお渡ししたチケットって姉さんの手書きだったりとかします。水族館の予約システムを通さず勝手に書いて僕らに渡したもので、実際は予約されてなかったりとか」

 「有山くんの香澄像ヤバすぎでしょ……まあ香澄も香澄か。『チケット余った』って中学校の学芸会じゃないんだからんなワケないじゃんねえ。あの子姉弟のコミュニケーションそうっとうサボってるんだなあ」

 「……偉そうに言ってるけど、水野さんがチケット見てひっどい顔したから予定にないことなんじゃないかって心配したんだからねインチョーは」

 「それはさっき謝って説明したじゃんか。冗談交じりの姉弟トークで場を温めようっていう彼の気遣いが分からんのか心ちゃんは」

 

 確かに、説明をしてくれた。水野さんが苦虫を?み潰したような顔をしたのは、『これから仕事があること』より、『手紙がエコロに届いていないこと』を面倒に思ったのだということ。手紙の内容は、僕がいる場所では話せないものであるということ。僕が今いったん席を外して話してもらうには長い内容であること。それゆえに、僕らが遊び終えたあとで、エコロと話をしたいのだということ。

 そう言いながら水野さんは、不満がありそうな顔でちらちらと僕を見ている。僕は居心地の悪さを覚えた。水野さんは、悪気なく感情が表に出るタイプだ。だからこそエコロが心を許しているのもあるのだろう。それにしたって、後で話すと決めたのなら、割り切って仕事に徹して欲しいものだと思う。そんな考えが顔に出ていたのか、水野さんは気まずそうに顎を掻いてから、僕らを振り返り。

 「そういえば有山くんの誕生日は4月15日だっけか、心ちゃんから何かプレゼントは貰った?」

 僕は肩に掛けた黒のボストンバッグについた、直方体の布に包まれたお守りを見せる。

 「動物園に一緒に行った時に貰いました。エミューの羽根だそうです」

 「『だそうです』?」

 「……おまじないだかなんだかで、開けるなと言われています」

 それを聞いた水野さんは目を輝かせ口笛を吹いて、エコロの背中をバシバシ叩く。エコロはただただ鬱陶しそうにして、なんなら余計なコトを言ってくれるなとこっちを恨みがましそうに見ている。うん、予想はついたけど布袋に入っている理由を他にどう言えって話じゃんか許しておくれよ。

 「エミューの羽根って二枚で一対のハート型なのよ。そうなったらもうおまじないなんてもうもうそういうことでしょう。いやはや最高の気分だわー。心ちゃんにもそんな相手がねえ。おばさん感激だわー。四年分若返った気がするー」

 「水野さんだってヒナ姉にクリオネのストラップあげてたでしょ。クリオネだってハート型、でも姉さんに対してその、そういう意図なんてなかったでしょ。普通のプレゼントだよ。特別な意味なんてないの。分かった!?」

 「顔真っ赤」

 「うるさい」

 エコロが唸って水野さんを威嚇すると同時に、彼女の持つトランシーバーから呼び出し音が鳴る。一言二言受け答えして、「休憩長すぎって怒られちったから行ってくる。香澄が作業してた水槽はそこね」と、右前の水槽を指さして、先程通り過ぎた『この先触れ合い用屋内プール 関係者以外立ち入り禁止』の扉の奥に消えてゆく。

 僕らは件の水槽を眺め、顔を見合わせ、頷き近づく。水槽の壁一面に、『お客様の声』が貼られている。姉さんが作業していたという割に、先程までのものとあまり違いは見られない。エコロは顔の赤さを誤魔化すように、軽く咳払いして。

 「こほん。どう思う?」

 「そんなに恥ずかしがらなくたって分かってますよう。友達同士、ふつうのプレゼントですよう──ふざけましたごめんなさい。姉さんが僕らに見せたくて準備していたものが何かって話ですよね」

 極寒の視線に晒されて、僕は両手を上に挙げて降伏を示す。エコロは視線を水槽に戻して、『お客様の声』を上から下まで眺めて、「それもあるけど、その前に、水野さんがボクに送ったっていう手紙はどこ行ったんだろうと思って。水野さん、ボクの住所は知ってるんだよ。食べ物とかしばらく送ってくれてたし」

 「……姉さんが横取りしたとか?」

 「職場で手作りチケット作って手紙泥棒して、ボクの中でインチョーのお姉さんがどんどん化け物になっていくんだけど」

 「実際行動力は化け物ですよあの人。僕らくらいの頃から実家は窮屈だって言って独り暮らししてるんです」

 

 ほえー、と生返事なエコロを視界の隅に置いて、顎に手を当てる。真面目な話、水野さんの手紙が届かなかった理由は、3つ考えられる。


 1. 水野さんが手紙の投函を忘れていた。

 2. 手紙が投函から家に届くまでの間で紛失、盗難の憂き目に会った。

 3. 手紙は家に届きはしたものの、エコロや彼女の家族が間違って捨てた。

 

 僕は、2の盗難が、もっと言えば姉が一番怪しいと思っている。姉さんが奪ったものだと、割と本気で思っている。もちろん、単なる嫌がらせ目的でそんなことをする人じゃない。破天荒に見えても、ゲームのコード然り借りた物はきっちり整頓して返すし、どうでもいいことで文句をつけられないようにしっかりするタイプの人だ。

 でも、あの人は、『ルールを破ることが正しいと思ったなら、他人の声なんて気にしない』タイプの人でもある。そう考えたとき、今回僕に渡されたチケットの目的が、未だ不明瞭であることが、不気味に思えてくるのだ。

 

 (姉さんがエコロの能力を知っている理由は分かった。エコロに対して、恩を感じていることも分かった。けれどチケットがお礼目的なら、『誘って二人で来い』と言う必要は無い。彼女単体を呼ぶように、『チケットを渡せ』で良いはずだ)

 

 僕がいることが、姉の目的に繋がるのだと思う。けれど、それが分からない。姉が用意したという一面の『お客様の声』を眺めていると、「あ」と隣から声が聞こえた。エコロが僕の袖を引いて、お客様の声の一枚を指さしている。


 「たぶんお姉さんが用意してくれたのってこれだよ。ボクが幼稚園児くらいのころのだ」


 彼女が指さす先には、幼児特有の、輪郭線なんぞ認識していないかのような勢い任せのクレヨン絵がある。動物が1匹、人間が3人。人間は背の高さと髪型で描き分けされていて、一番背の低いロングヘアがエコロだろう。その両隣を、2人のポニーテールの女性が囲んでいる。一人は金髪、もう一人が黒髪だ。金髪は、記憶からして、エコロの姉の陽菜子さんだろう。黒髪の方は母親だろうか。

 順に話題を広げるつもりで真ん中の動物を指して「サメですね」と笑いかけたら、「イルカ」と頬を膨らませる。絵の動物、リアス海岸みたいなギザギザの歯?き出しだけど。「正面から見たらこんな感じなんだから」なんて言うけど、限度ってもんが──


 (……ん?)


 エコロの絵を見ていたら、貼られた紙と紙の間から見える空間、段ボールの中に、明らかに異質な紙があった。締め切りに苛立つ漫画家の書き損じのように、握力でぐちゃぐちゃに潰されている。折り目のついた端っこに、『お客様の声』の印刷が見える。よく目を凝らすと、荒々しい筆跡で数字が書かれている。折り目の上から書かれていて、握りつぶした後で数字を書いたのだと分かる。


 『1121 1915 199 145』


 僕はエコロの肩を叩いて、「あそこ、見えます」と促す。エコロは同じように水槽を覗いて、数字の羅列を確認して、眉を顰める。

 「言いたいことは分かったけど……お姉さんって、そういうこと言うタイプ?」

 「人は選びますけど、恥ずかしながら」


 ──『テメー昔、暗号開発してたよな。アタシにも教えろよ……やーちょっと、誰にもバレないように呪詛を書きたくてな』


 

 記憶を整理し、改めて書かれた数字を見る。

 他に意味のある並びには思えない。昨日ここで作業をしていたという話からしても、あの数字の羅列は昔エコロに渡した『数字―アルファベット変換暗号』であり、書いたのは姉だ。そして、訳すと小学生もびっくりの呪詛になる。『11』→『K』、『21』→『U』、『19』→『S』、『15』→『O』、『9』→『I』、『14』→『N』、『5』→『E』で、『クソ死ね』。共感性羞恥で僕が死にそうだ。何やってんだあの人。

 

 エコロは、手のひらを支えにして頬杖をつく。

 「……これさ、ちょうどボクが昔描いた絵の位置から覗かないと、暗号は見えないよね。そして、ボクが暗号を知ってることを、インチョーのお姉さんは知ってる」

 「これが貴女に向けた姉さんのメッセージだとしたらグーでぶん殴りに行きますよ僕」

 

 身内の暴言に憤慨して、出来もしないことを言う。エコロは小さく「大丈夫」と笑って。


 「インチョーのお姉さんはそんなことする人じゃない。たぶん、この暗号自体がメッセージではなくて、これを通してボクに、《水野さんに内緒で》伝えたいことがあるんだと思う」

 「……水野さんには内緒で?」

 「インチョーのお姉さんは、ボクに弟を救ってもらったお礼をしたくてチケットをくれたって話だったでしょう。でも本当にそうなら、水野さんを経由した方が早いじゃない。水野さんとボクが知り合いだって知っているんだから、わざわざ姉弟仲が良くないインチョーを頼る必要が無いよね」

 「姉さんは水野さんには言えないことがあって、それをエコロに伝えたいがために僕にチケットを贈らせたということですか……でも、この絵を見つけて暗号にたどり着けるかどうかは運任せですよね。今回は水野さんにたまたま案内してもらえましたけど──」

 

 途中で思い当たって、言葉を呑み込む。

 「……もしかして、最初から水野さんに案内させるつもりでいたんですかね」

 エコロはチケットを取り出し、指先で玩びながら、そうかもね、と呟いた。

 「前日にインチョーのお姉さんは、水野さんの前でわざわざ見えるように作業してる。プログラムの予約時刻を決めたのも、インチョーのお姉さん。水野さんの休憩時間とボクたちの到着をバッティングさせて、案内させることはできるね」

 

 ──『待ち合わせはプログラムの30分前にしろよ』

 

 口うるさい姉の忠言を思い出し、頷く。なるほど確かに、可能性としてはありうる話だ。水野さんに案内してもらったところで、書かれているのは暗号だから、水野さん自身はメッセージを受け取ることは出来ない。エコロの言う通り姉さんは、《水野さんに内緒のメッセージ》をエコロに伝えたかったのかもしれない。

 

 「……『クソ死ね』の暗号そのままに意味が無いとするなら、ボクへのメッセージはあのクシャクシャになった紙の中身とかかもね。どうにかして読めないかな」

 

 真剣な顔のエコロに、僕は正直複雑な気持ちだった。同じ物事に額を突き合わせ悩むことは楽しく、僕にとって今の展開は望ましいものだ。けれど、エコロ自身は遊ぶつもりで誘いに乗ってくれたはずだ。姉さんの面倒な思惑に従うためじゃない。いったん忘れて、普通に遊ぼう。そう言うつもりで、思考に耽るエコロの肩に軽く触れようとして。

 

 「ただいま。香澄のプレゼントはなんだった──なんかごめん。次からは分かるようにでっかい足音立てるね」

 また盛大に飛び跳ねた僕を見て、帰ってくるなり気まずそうな顔の水野さんの前にエコロは躍り出る。「昔ボクが描いた絵があったよ」と、さっきまで水野さんに秘密の暗号について話していたことなどおくびにも出さず、にこやかに笑う。そのまま後ろ手で指を動かす。指文字暗号──『任せて』。

 

 「ところでさっきまで、水野さんが出したっていう手紙について考えてたんだけどさ、ひょっとしたら、あの中に置き去りになってるんじゃない。似たような紙がいっぱいあるし」

 「ないないないわよ。私、ちゃんと探して見つけてポストに入れた。そこまで耄碌してないわ」

 「……え、一旦はそこにあったんだ。じゃあ盗まれたりとかしたんじゃないの。僕らを心配してこっそり現金とか挟んでてさ、魔が差したお客さんがこう忍び込んでガって」

 「現金書留封筒は流石にこんなとこ置かないわ」


 げんきんかきとめ、とオウム返しのエコロを尻目に。


 「この水槽に入るには、二階の水槽管理室からハシゴを伝って降りるしかないわけだけど。従業員に配ってるICカードが無いと、管理室には入れないようになってるの。だからお客さんが盗んだってのは有り得ないのよ。入りたくても入れてあげないわよ。心ちゃんが子供のころは忍び込んでも大目に見てあげてたけど、今や大人のレディなんですから、はしたない」


 狙いは見抜かれていた。水野さんは劇でしか見たことないような説教を大げさなイントネーションで言って、腰に手を当て、水槽を隠すように立ちはだかる。

 

 「さ、イルカが貴女たちを待ってるわ。ヘッドタッチの受付にさっさといってらっしゃい」

 僕たちは顔を見合わせる。そうは言われても──

 


 

 「──集中できるわけないよなあ」


 ついさっき顔にすぐ出る水野さんを非難したばかりだけど、なるほど僕たちは同じ穴のムジナだった。ヘッドタッチも指示出し体験も2人して上の空で、飼育員さんに言われるがまま、気づけば終わり。あっという間に時は過ぎて、今日の日程はイルカショウを残すのみとなった。今はトイレに行ったエコロを待っているところだ。赤と青で塗られた人型ピクトグラムの前で、やることもなくぼうっと遠くを見る。窓の外に、扉より背の高い男の人が見えて、バレー部の石山くんのことを思い出した。

 仮に石山くんの背が、外にいる彼くらい高かったなら、どんな性格になっていたんだろうか。少なくとも、両親の心配を疎ましく思うことは無かったんじゃないだろうか、なんて思ってしまう。生まれも過去も変えられるわけじゃないのに、もし変えられるならって。今感じている苦しみが、無くなってくれるんじゃないかって。

 

 「……チョー、インチョー!」

 

 そんなことを考えていたから、エコロがトイレから出てきていたことに気づかなかった。考えごとをしていたと、微笑んで誤魔化そうとして。彼女はそんな、穏やかな気分ではないのだということに気づく。「インチョーのお姉さんってこんな人だよね、こう、オールバックで、目がキリッとして」と、髪を後ろに回し、瞼を引っ張って吊り上げる。訳もわからぬまま頷くと、彼女はワタワタと手を動かしながら唸る。そこでばったり、とか、紙を持ってて、とか、ボク悪いことしてないよ信じて、とか、インチョーの横通ったと思うんだけどお互い気付かなかったの、とか。

 埒があかない。頷きながらも表情で「よくわからない」と伝えると、彼女はおずおずと、ポケットから紙屑を差し出してくる。外側にマジックで『1121 1915 199 145』と書かれていてってこれ──


 「……水槽管理室のICカードスったんですか?」

 「違うの。これはその、さっき男子トイレのゴミ箱で見つけて」

 「……男子トイレ??」

 「足半分だけ入っただけで男の人が目的じゃなくてというかインチョーのお姉さんが入って行くのを見てついていって入ってから気づいたというかあのその」

 

 パニック状態の彼女の言い分を纏めると、次の通り。

 トイレに入ろうとしたところで姉さんっぽい人を見かけた。こっそりついて行って様子を見ると、姉さんはゴミ箱に紙を投げ入れただけで用を足さずに出て行った。姉さんが捨てたのが件の暗号つきの紙だと勘付き回収したところで、男子トイレだと気がついた。慌てて出てきた。今ここ。

 涙目のエコロを他所に、僕は開いた紙屑の中身を見てから、もとあった形に折り曲げる。暗号が見えるように戻して、野球ボールみたいに握り込んだ。

 「これ、中身を読みましたか」

 「……ううん、まだ。やっぱりメッセージがあったの?」

 ようやく落ち着いたエコロに、僕は頷く。外側にあった暗号とは異なり、誰にでも分かる日本語で記されていた。そしてこれが、姉さんが僕たちを読んだ理由であるのだと、合点が行った。紙をエコロに下手で投げて、屋外プールへと歩き出す。エコロは歩きながら紙を開いて中のメッセージを読むと、「これって」と僕を見上げる。しかめっ面で頷いた。


 姉さんが、これを僕らに見せる理由は分からない。

 これから見る光景に、答えがあるのだろうか。




 イルカショウが行われる屋外プールの観客席に、僕らはいる。日よけの屋根はあるものの、夕方の横から差す日差しも相まって、かなりの気温だ。そんな中で、僕たちはチケットによって予約された最前列の席にいた。プールサイドを歩く水野さんが他のお客さんにバレないように手を振りながら近づいてくるけど、「最前列は特にお水がかかることがございますのでご了承くださーい」と、あくまで事務的な調子を崩さない。

 

 「奥の人がお姉さんだよね」

 

 エコロが屋外プールの奥で準備体操をする、オールバックの長身女性を指して囁く。僕は頷いた。メッセージを送ったのだろう彼女は、僕たちを一度だけじろりと睨みつけると、視界に入れないようにか他所を向く。「お時間になりましたので、ただいまよりイルカショウを開始いたしまーす!」と、水野さんがマイクを握って観客に手を振る。2人のショウにおける役割は、まさに対照的だ。


 水飛沫が顔にかかって、思い返す。

 テレビで姉が、真面目な顔を作って言っていたこと。

 ──『あたしが調教師になったのは、りっちゃ……じゃない、館長に憧れたからです』

 ──『子供のころに、彼女のロケットジャンプを見ました。イルカと協力して投げ上げてもらって、空を飛ぶんです。自分よりずっと強い動物と、信頼関係を結ぶんです』

 

 『さあ、本日の目玉のロケットジャンプです! 上手く飛べたら、拍手をお願いします!』

 

 水野さんの掛け声と共に、姉さんが空を飛ぶ。

 彼女の顔には、欠片の緊張も無い。何度も何度も繰り返した動きで、出来て当然。そんな確信が、表情に垣間見える。自分自身のことについては、姉さんはそんな感じだ。自分を信じていて、緊張や恐怖とは無縁の存在だ。着水して、無事を示すように浮き上がり、両手を挙げる。エコロが興奮して手を叩き、僕もそれに倣って拍手する。彼女の内心を思うと、穏やかではいられないけど。

 

 エコロの手中にある、『クソ死ね』の紙屑を視界の端に入れる。先程ゴミ箱から発掘されたこの紙屑の正体は、水槽の壁面に貼られていたものと同じ『お客様の声』だった。名前は書かれていない、匿名の要望だ。その内容は、以下の通り。

 ──『館長さんは新人の調教師さんと比べても技量が低く、館長さんが担当の回は損した気分になります。お金を払って同じショウを見に来ているにもかかわらず、回によってクオリティが変わるのはおかしな話です。引退し、経営に専念された方が良いかと存じます』


 「姉さんは、貴女が昔描いた絵で視線を誘導し、水槽内にあるこの『お客様の声』を、水野さんには気づかれずに僕たちに見つけさせました。そして、僕たちが『クソ死ね』の暗号の意図に気付いたと見るや、その紙を男子トイレのゴミ箱に捨て、水槽管理室の鍵が無くとも内容を読めるようにしました」

 

 演目が終わると、周りの客は引き上げてゆく。それを見計らって、隣に座るエコロに声をかけた。現状までに起きたことを確認すると、彼女は物憂げに、控えめに頷く。「……結局お姉さんは、ボクに何を伝えたかったのかな」

 

 僕は少し、押し黙った。姉への同情と、苛立ちを持って。

 姉さんは自分のことについては完璧だ。けれどその完璧な理想を、他人に押し付けるきらいがある。

 「……おそらく姉さんは、貴女の動物を操る力を借りて、水野さんをショウに復帰させようとしています。《水野さんに気付かれる事無く》、貴女が自発的に気付いて協力するようにと、僕らを誘い、回りくどい暗号を仕掛けたのではないでしょうか」

 姉さんにとって、水野さんは憧れの対象だった。そんな彼女が年齢と共に衰えてゆく姿を見たくなくなり、どうにか本人にはそうと知られないまま再び花開かせようとした、という筋書きだ。当然ながらこの主張には穴がある。エコロは浮かない顔のまま、人差し指を立てる。

 「もしそうなら、それを確かな命令として明言すべきだと思う。水野さんが一度別れた時点で、秘密にするために引き離す目標は達成してるんだ。あとはトイレで会った時点で、紙の中身を見せて、助けてくれって明言すればいい。そうせずに、これまでの情報だけで僕らが察するのに賭けるのは、非合理的だと思うな」

 

 その通りだ。想定通りの反論に頷き、先に考えた可能性を提示する。

 「その頼み事が、『後で知らされること』あるいは、『すでに知らされていること』だと姉さんが考えていたとしたら、どうでしょうか」

 エコロは少し言葉の意味を考えて、得心したのか、口をへの字にする。

 「……ボクに届かなかった水野さんの手紙の内容がその頼み事で、インチョーのお姉さんはたまたま手紙を盗み見ていて、その内容を知っていたってこと?」

 

 僕は頷く。結局これも妄想の域を出ないが、不可解な姉の行動になにか理由をつけるとするなら、最もらしいものであると思う。姉さんは、エコロに泣きつく手紙を盗み見てしまった。憧れの水野さんがそうした子供に泣きつく行動を起こしたことに耐えきれず、手紙を握りつぶしてしまったため、エコロは手紙を読むことができていない。

 いずれはバレることと思い直した姉さんは、せめてもの償いと一連の仕込みを行い、水野さんの頼み事が成就する確率を高めようとした。あくまでも、己の差し金であるとは気づかれないように、僕やエコロに自発的な口止めを促しながら。


 「今日一日、ほんの少しだけ喋っただけですけど」と枕詞をつけて。「水野さんは、貴女の助力を願うときに、この『お客様の声』を使うことはしない人だと思うんです。でも僕たちは、こうした『お客様の声』のような部外者の心無い声に怒りを覚えてしまうタイプの人間で、こういう現状があると知っているのといないのとでは、頼み事を引き受けるハードルに大きな差が生じるとも思います。姉さんは、ハードルを引き下げる役割をお節介にも引き受けたのだと思います」

 一息で喋り切り、自販機で買った水を飲む。エコロは、「手紙の内容についてはさておき、頼み事の大筋は合ってるんじゃないかってボクも思う」と、浮かない顔のままで呟く。「繋がりの薄いボクにインチョーのお姉さんがメッセージを送るとしたら、特異な能力を使っての頼み事しかないと思うから。でも、参ったな」

 「参ったな、とおっしゃいますと」

 「ボクは、この変な力を、あまり他の人に見せたくない。動物園の時に、隠れて使っていたでしょう。テレパシーは京子ちゃん、動物を操る力は水野さん。両方知ってる友達は、インチョーだけ。それ以上に、広めたくない」

 ときおり彼女は、反応に困ることを言う。喜んでしまいそうになる表情筋を抑えて真面目な顔を作って。

 「メッセージを受けたからといって手伝う義理は特にないでしょう。仮に推理が当たっていたとしても、頼み事を受けるか受けないか最後に決めるのは貴女です。嫌なら断ってしまえば良いのです。気まずいなら、姉さんには僕が言っておきますよ」

 「そしたら、インチョーとお姉さんの関係が悪くなる」

 「別にどうだっていいじゃないですか。他人のきょうだいの関係なんて」


 エコロは何か言いかけて、肩を怒らせた。けれど、飲み込んだ。飲み込んだ言葉を排出する方法を求めて、麦わら帽子の下の表情が目まぐるしく変わる。


 ──『ヒナ姉、死んじゃったんだ。2年前に、交通事故で』

 言ってしまってから、思い当たる。

 きょうだい仲が悪くなるというのは、最近になって姉が亡くなった人には、重大な問題だったのかもしれない。


 「……きょうだい仲が悪いっていうのは、苦しいことだよ。それって、本人同士の問題だけには収まらないの。お姉さんと仲が良い、インチョーには、分からないかもしれないけど」

 推理の時には「姉弟仲が良くない」と言っていたのに、と水を差すほど、僕は彼女のことが嫌いではなかった。嫌われたくないから、揚げ足を取りそうになる気持ちを抑えて、黙って聞いている。そうした気付かれない気遣いが、いつの日かストレスに変わるのだろうと思う。

 

 「例えば、いま。インチョーとお姉さんの仲が悪かったら、水野さんもインチョーのこと、嫌うかもしれないじゃない。インチョーのお父さんやお母さんは、きっと2人の扱いに困るよ。だから、きょうだいは、仲良くした方が良いの」


 他人に遠慮した関係性に、なんの意味があるだろうと思う。誰かに迷惑をかけるからとか、友達の友達だからといって、うわべだけ仲良くして内心で舌を出すのは、不誠実な行いではないかと思う。

 分かっている。子供じみた駄々だ。「……それに」と、エコロは不機嫌になっているだろう僕の顔をまっすぐ見つめて。

 

 「インチョーは、他人じゃないよ。かけがえのない、友達。インチョーにとってのボクはそうじゃないの? ボクはただの他人なの」


 返答に詰まった。不機嫌と上機嫌が入り混じって、脳味噌が歪んでしまいそうだった。そんな快と不快の狭間でも、視線にはきちんと答えたくて、揺れる足場に耐えてまっすぐ前を向くと、ぬっと横から現れるまばらに濡れたベリーショートの人影。


 「うんうん、一時の仲違いも青春だねえ。ところでおふたりさん、当事者を忘れて推理ショーとは頂けないなあ。他人の気持ちなんて、当人に聞かんことには分かるはずも無いでしょうに」


 水野さんはくしゃくしゃになった『お客様の声』をエコロの手から拾い上げると、僕の背中に声をかけた。

 「これは何かな、香澄ちゃん?」


 「ボケが!!」

 背中にドロップキックが飛んできた。そう錯覚するほどの勢いで観客席を駆け降りてきた姉さんは、僕の真横を通り過ぎ、水野さんから紙を奪いにかかる。水野さんの超人的な手捌きに全て躱され、肩で息をした姉さんは、恨みがましくこちらを睨む。


 「わざわざゴミ箱漁るかよフツー。しかもあろうことかそれりっちゃんの前に持ってきやがって。嫌がらせの天才だよテメークソッたれ」

 「……僕たちに中身を見せるために水槽から移動して男子トイレのゴミ箱に捨てたのでは。水野さんのイルカショーの出来を良くするために、エコロが動くだろうことを見越して」

 「なわけあるか。ソイツが何を出来るってんだよ」

 僕たちは顔を見合わせる。もしかしてこれ、知らない?

 「……動物の声を聴いて、自在に動かせます」

 あ、姉さんすっごい馬鹿にした顔になった。

 「外出ねえならせめて勉強しろこのアホ。イルカの超音波は人間の可聴域超えてっから『超』音波って言うんだよ。同級生の前でアホ丸出しで恥ずかしくねーのかってかもうアタシが恥ずかしいわもう死ねよアホ。せっかく汚名返上できるようにしてやったってのによ」

 汚名返上。それはつまり、チケットを渡した目的は、エコロへのお礼のみならず、僕への親切も兼ねていたということ。確かにそうであるなら、僕にもチケットを渡した理由になるけど、今度は『お客様の声』に暗号を書いて捨てた理由が不可解になる。


 「なるほどねえ。ショウの本番前に急にいなくなったと思ったら、証拠隠滅に走ってたんだあ」

 水野さんのわざとらしく間延びした声に、姉さんの背中が跳ねる。「似てる」と僕を見てエコロ。多分それあの人にとっては最大級の侮辱。でも、それに反応できないほど姉さんは、図星を突かれ追い詰められているようで。

 「心ちゃんの絵を探すために古い『お客様の声』を漁ってるうち、自分の黒歴史に気付いてラクガキで八つ当たりして。すっかり満足して、捨てるの忘れて。あろうことか、一番見せたくない相手に黒歴史御開帳だものねえ。あー可愛い可愛い。撫で撫でしてあげましょっか──おっと」

 頭に伸ばされた手を振り払い、姉さんは走ってその場を後にする。僕ならプールサイドで走るとか怖くてできない、と、今はそうじゃない。エコロは水野さんに首を傾げる。

 「黒歴史?」

 「日付はよく見た方が良いわよ」

 そう言って、水野さんは再び『お客様の声』を広げる。彼女が指さす日付にエコロは目を丸めた。「これ、7年前のだ」

 「そ。しかも無記名だけど、中学2年生の香澄が書いたやつよ。だから黒歴史」

 指を立てて、水野さんは続ける。

 「香澄、テレビで私のロケットジャンプを見て憧れたって言ってたでしょ。実際、中学2年生のあの子が直接見に来たことがあったんだけど。諸事情あって、その時にはもう私、跳べなくなってたのよ。がっかりしちゃったみたいで、これ送って来たってわけ。今日の奇行は、その証拠隠滅で──」

 僕たちの頭にポンと手を乗せて、水野さんは微笑む。

 「キミたちに渡したチケット自体は、贖罪のプレゼントだったんだと思うわ。確か、ゾウの脱走の時に動物園のチケット、手配したのは香澄だって話じゃない?」

 「……罪悪感で、ということですか。ゾウの脱走なんて予見できるものではないですし、そんなこと気に病まなくたって」

 「経緯を頭で理解できても、結果が良くないと気になっちゃうものなのよ。今の貴方たちにしたって、誤解が解けた今でも、ちょっと気まずいでしょう?」

 

 僕とエコロは、再び顔を見合わせる。視線が微妙に合わない。言われた通り、少しの気まずさがある。

 様々な誤解が解けて、きょうだい仲を修復する必要は、とくに無くなった。

 けれど、口論の結果、意見の相違が浮き彫りになった。

 

 「キミたちは何というか、お互いに依存し過ぎだな」

 水野さんは、柔らかく微笑む。

 「私の知らない心ちゃんの秘密を、有山くんは知ってるんだと思う。そのことに、心ちゃんは安心して、甘えてる。酷いことを言ってくる他の人に知られなくても、有山くんが知ってるからいいや、って思ってる。有山くんも、甘えてくる人がいることに安心してる──でも、困ったときに頼る代打がひとりもいないっていうのは、お互い息苦しいと思うわよ。嫌われたくないって気持ちが前面に出るから、無下にしにくい。そういう息苦しさが、いつのまにか嫌いに変わる」

 そう言って、くるっと回転して、

 「もちろん、心を許せる人がひとりいるのは良いことよ……ただ、その人のことを想うなら、ふたりめを作るべきだって話。たとえばそう、私とか?」

 自分を親指で指してポーズを決める。エコロは白けた顔でそれを眺めて。

 「翻訳すると、デートの途中で悪いけど、改めてボクのこと借りて良いか、ってさ。手紙について、話したいことがあるって」

 「……あのね、こっちにも体裁ってものが」

 「無いでしょ。説教を利用して憎まれ役を上手く回避しようって魂胆の、目ぇ泳がせてる大人にさ」

 「なんか切れ味鋭くない!?」

 「べっつにー」

 両目を瞑ってそっぽを向く。片目を開けて、ちらと僕を見る。わざとらしくておかしくて、軽く微笑んで手を振った。

 「僕のことならお気になさらず。手紙の件もそうですけど、久しぶりの再会でしょうし、水入らずでゆっくり話してくださいな」

 

 そう言ってあとは水野さんに任せようと背中を向けると、「インチョー」と小さな声が聞こえた。顔だけで振り返ると、彼女は苦笑いを浮かべていた。笑っていいものか、と笑顔を抑えるというよりかは、仏頂面の上に無理に笑顔を作ったような、そんな表情だった。


 「──ごめんね」


────


 ……それが、少し前の話。後ろ髪を引かれるような別れではあったものの、直前の出来事を引きずっているのだと勝手に納得して、それ以上の追及はしなかった。ひとりで夕食を食べて帰ろうと思い、水族館に併設されているレストランに移動して、ハンバーグを注文した。そこまでは、予定通りの行動、だけれど。

 

 「初めまして有山君。私は井上正幸、井上心の父親です」

 

 二人掛けのテーブル席、身長190センチほどの美丈夫が対面に座っているのは、予定にない状況だ。しかもエコロの父親とか言ってるし。

 不躾にも、彼の頭のてっぺんからからつま先まで視線を巡らせる。黒のツナギを着て、黒のサングラスで、背中まで伸びた長髪を縛って、後ろで一つに纏めている。サングラスをおでこに掛けて、目尻が下がった柔和そうな顔つきで、にこにこと僕を見つめている。一方の僕は心穏やかではいられない。一度見たら忘れない、個性的な出で立ちだ。一回会ってる。

 

 (……トイレでエコロ待ってる時に窓の外にいた人)

 

 不信感が顔に出ていたのだと思う。彼は苦笑いして、「父親である証明が必要かな」と頬を掻く。正直、警戒の度合いはかなり高い。かといって、いつまでも無視しているわけにもいかない。出来るものなら、と内心に留め頷くと、「今度会ったら、彼女に聞いてみると良い」と、親指と小指を除いた三本指を立てる。

 

 「動物を操る声、テレパシー、声帯模写。これが、彼女の持っている能力」

 なるほど、仲の良い人間しか知らない秘密を以って、父親の証明をするのだと、僕は頷き、警戒のレベルを一段階下げようとした。けれど彼は、続けて小指をも立てた。

 

 「──それに加えて、彼女は第4の能力を持っている」

 

 「……第4の能力」と僕はオウム返しして、彼の目を見つめる。『第4の能力』という思わせぶりなわりに具体性に欠ける言い方で、視線で詳細を求めたつもりでいたのだけれど、彼は僕の目を見つめ返して、ニヤリと笑う。

 「分かっているよ。キミが聞きたいのは、こんなナイスガイなお父さんがなんで娘のデート先にこっそりとついて行くような真似をしたんだってことだよね。最高にカワイイ娘が心配とはいえ、いくらなんでも過保護なんじゃないって思ってるんだろう?」

 急にキャラクターが変わって、僕は白けた視線になっていると思う。物を買ってくれる時のお爺ちゃんってこんな感じだ。年下と自然に接せないから、『なんか余裕がありそうな年上』という漠然としたキャラクターを作りがちなのだ。

 「まあ、ハイ。それ『も』気になりますね」

 第4の能力ってなんだよという意味を込めた返答もどこ吹く風、彼はテーブルに備え付けられたナプキンを取り出して、

 「ついて行った理由は勿論、心配だったからさ」と、マジックペンで数字を書き込んでゆく。3文字、ハイフン、3文字、ハイフン、4文字。電話番号だ。おそらく自分の電話番号を書いたのだろうナプキンを彼は、僕に差し出してくる。


 「……あの、何を?」

 「言ったろ、心配だからついて来たんだ──君のことが」

 

 言っている意味が分からず、首を傾げる。彼は微笑んだ。「そういう能天気な性格の子だから、娘と仲良くやれているのかもしれないね。それは、有り難いことだ」と呟いて、「でもね、冷静になって考えてごらん」とまた指を立てる。

 

 「動物を操る力って、例えばゾウを操れるのなら、踏みつぶさせれば、それで他人を殺せてしまうよね」

 オブラートって言葉を知らないずけずけとした物言い。口を挟む間もなく、

 「テレパシーだって、そうと気付かれないように悪口を送りつづければ精神を病みそうなものだし、声帯模写だって、他人になりすまして悪事をこなせば社会的抹殺だ──もちろん、ふつうの人だって手段を選ばなければ同じようなことはできるけれど、心の場合は手段が特殊でバレないから、ふつうの人より殺人へのハードルが低い。今日は危なかったね。彼女の機嫌を損ねたら、いつ死につながるか分からない」

 

 そう言って、ナプキンを机の上に置く。

 「彼女と付き合ううちに、命の危険を感じたら連絡して欲しい。娘の不始末は親の不始末だ。他の何を犠牲にしても、必ず助けてみせ──」

 「お言葉ですけど」


 自分でも驚くほど不機嫌で、感情の籠った声だった。苛立ちを解消するのが主目的の声だった。一刻も早く黙らせたかった。それだけが目的で、これから話す内容の整理はできていなかった。少し悩んで、出てきた言葉は、ひどく無根拠で、幼稚なもの。

 

 「……エコロは、そんなことしません」

 

 目の前の彼は、そんな幼稚な言葉を、笑いはしなかった。

 「誰だって、最初はそうさ。自分が人を害するとは思わない。自分は利他的な人間だと思う。でも、人は自分が一番だ。傷つけられると、人は脆い。命の危機にあると体が判断すれば、『何をやってもいい』と思うものさ。なあ──」

 

 「──人魚を殺した、有山拓実くん」

 

 頭が、真っ白になっていた、らしいと気付いたのは、彼が僕の右手を指さしているのに、遅れて気付いたから。ハンバーグを切り分けるためのナイフを、力の限り握りしめていた。彼は刃先に躊躇いなく手を伸ばす。僕は慌てて引っ込める。彼の顔を覗くと、やはり、笑っている。

 「そういうことさ。自分の身が危ぶまれるような状況では、他人を傷つけることにためらいが無くなる。けれど、僕たちは踏みとどまれる。証拠が残るのを嫌うから」

 席を立ち、ひらひらと手を振って。

 「でも、娘は証拠を残さずに他人を殺せる。沸点が他人より低いんだ。危険な目に会ったら、躊躇わず連絡してくれたまえよ」

 

 僕は、返答が出来なかった。小さな声が漏れた。

 「……なんで」

 彼は、顔だけで振り返った。先程僕がやったように、曖昧な言葉の意味を考えてか、少し黙って間をおいてから、改めて口を開く。

 「キミの殺人を非難しないのは、ただただ他人事だからさ。キミにはキミの道理があって、他者を傷つける選択をした。許されないことではあるんだろうが、それでも他人事だ。わざわざ罰してやるほど、暇じゃない」

 

 

 

 電話番号が書かれたナプキンを目の前に、僕は彼が去っていった方向をぼんやり眺める。

 

 反論すべきことは様々あった。そもそも、こんなものは突き返してやるべきだった。けど実際は、喉に木の根が絡んで水分が取られたみたいに、まともな声を出すことが出来なかったし、恐慌状態に突き落とされた電話口の老人みたいに、差し出された連絡先をホイホイ受け取ってしまった。せめてもの抵抗の証に、ナプキンを指先で摘まんで鼻も摘まんで、ジップロックに放り込む。それをボストンバッグに放り込んで、ため息をついた。


 思い出す。

 グレーのジャケットにネイビーのパンツ、真っ赤に映えた蝶ネクタイに、ブラウンのローファー。引っ越した先で再会した彼女が、背後から僕に言ったこと。


 ──『八尾比丘尼伝説って知っているかね、少年。人魚の肉を食べると不老不死になる、という話なんだが』


 思い出す。

 人魚の住まう湖に、彼女が靴を揃えて飛び込んだこと。


 思い出せない。

 彼女の背中を、僕が背中を押したこと。


 頭を掻くと、血が出てくる。

 思い出せない、フリをしていた。




────


 ボクは、神妙な顔をした水野さんと、テーブルを挟んで向かい合っていた。

 テーブルの上にあるのは、直筆の手紙。その内容は、シンプルに一文。

 

 ──『井上陽菜子は、井上心に殺された』

 

 シンプルに、脅迫状だ。「有山くんに見せるわけにはいかなかったから」と、水野さんは頬に手を当て、ため息をつく。

 「こんな手紙が届いてさ、心ちゃん宛てで、内容が物騒だったから。大人として一緒に対処しなきゃって思って、現状を確認するために手紙を送ったんだけど、届いてなかったって話だし、いったい何がどうなっているやら」

 

 ボクは、曖昧に頷く。水野さんはボクの顔を見て、同情を滲ませる。ショックを受けていると思っているんだろう。正解だ。けど、ショックを受けているのは、脅迫状が来たってことより、その気になれば、ボクが友達をも売れる人間だって、気づいてしまったことに対して。

 

 インチョー、きょうだい仲って、大事なんだよ。

 姉からか、兄からか、どんなにひどい仕打ちを受けていたって、我慢して、仲良くしないと、こんな風に恨まれちゃう。

 

 「……そういえば、有山くん、帰り道にやたら大きい男の人に話しかけられてたけど、知り合いなのかしらね。外人さんかしら」

 「インチョー、顔が広いから。留学生の友達とかじゃない」

 

 もう嫌なんだ。償えない罪について責められるのは。

 人生を楽しみたいんだ。笑いたいんだ。前を向きたいんだ。


 だから、インチョー。お願いだから。

 ボクのために、身代わりになって。

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