四章「叶える者と望む者——For you / Myself——」①

「んぐっ、おえっ、きっつ……」

「……カナエ、大丈夫ですか?」


腐敗した紅茶が、カナエのお腹にすぐさま当たった。

安楽椅子の前で膝をつき、俯いてもたれかかり悶絶している。

左右のゆきとレヴィが、カナエの背中をせっせとさすっていた。


「カナエさまっ!ここは下水施設も外部から独立しているようですよっ!トイレがあちらにありますっ!

付き添いますので、おええって口から全部吐き出してきましょうっ!」


――原型を失ったいちごのケーキ、トルコアイス、抹茶あんみつ

……ゆきやレヴィと一緒に食べた甘いものが、汚物として口から吐き出され、

大切な思い出が欠け落ちていくような――


「俺は吐かない!絶対に吐かないからな!

あの紅茶は俺が最後までちゃんと飲み切る!」


カナエは意地になっていた。

喉元に迫る嘔吐感を必死に堪え、胃の奥へと無理やりせり戻す。


「意味が分からないですよぉ!吐いたら楽になれるのにっ!」

「……私も、分からない。けれどもカナエが言うなら、それはきっと、大切なこと……」


カナエが悶えている間、ゆきとレヴィはつきっきりで看病する。

レヴィが台所から水を持ってきって飲ませたり、ゆきは生成した氷をカナエのおでこに当てて気を紛らす。

三〇分ほど経って山場を超え、カナエからは嘔吐感が消えていた。

しかし、代わりに――


「やっべ、今度はお腹緩くなってきた……」


床の上でもぞもぞと悶えるカナエに、レヴィはすっと細長い容器を差し出した。


「――吐くのはだめでも、出すのはいいんじゃないでしょうかっ」


「下剤……?なんでこんなところにあるんだよ……!」

「カナエさまのリュックのミニポケットに、わたしが入れていたんですっ……。

学校でノゾミさんに……そのっ……紅茶を振る舞った時の余り物ですっ!」


カナエは呆れたように苦笑して、コップの水に下剤を混ぜ込んだ。


「やっぱレヴィ……、お前は大きくなっても『便通を司る妖精』だよ……」


コップの水を飲み干すと、カナエはトイレに駆け込んだ。


+++++


数十分後、カナエが落ち着いた面持ちで部屋に戻ると、その光景に絶句した。

茶色のカーペット上のマッサージチェアにレヴィはだらりと座り込み、ゆきは羨ましそうに見下ろしている。


「ふにゃあ……!このさすりマッサージもみたたきコースはなかなか至福ですねぇ」

「レヴィ、代わってください。五分で交代すると、言ったはずです」

「あっはいどうぞ!見たところ、ゆきちゃんは今までずっと色んなところを歩き回っていたようですねっ。

お次は太もも・ふくらはぎもみほぐしコースなんていかがでしょうっ?」

「……あ……あっ……、……これ………いい……。とても……気持ちいいです……」

「これが一〇年前の型遅れだなんてとても信じられませんっ……人類の発明は偉大ですっ」

「――――おッまえらリラックスしすぎだろ!!」


壁にかかった時計を見やれば、今は午後一〇時半。

夕刻の一九七階層からの逃走劇と、一九五階層『ブナの森』での凄惨な交戦から、約四時間しか経っていないことになる。

カナエは茶色のカーペットにずかずかと上がりこもうとして、レヴィにとがめられる。


「カナエさまっ、この一〇年の間カーペット上には、靴の足跡が見られませんでしたよっ?」


要するに靴を脱げと言っているらしい。

ゆきとレヴィの靴の隣に、カナエも靴を置く。


「で、これからどうするんだ?……とりあえずみんな、腹減ってないか?」


ゆきとレヴィは揃って首をぶんぶんと縦に振る。


「まあ言わなくてもいいと思うけど、俺は食ったもの全部吐いちまった」

「私は『標準状態デフォルト』の姿になった時に、栄養がほぼ全て、消費されてしまいました」

「わたしもいきなり大きくなっちゃったので、今日食べた分じゃ全然足りませんっ……」

「レプルシオンがああなってしまった以上、ここに食べ物が残っているわけないし……」

「一応、食べ物はありましたよっ」


レヴィはカーペットの端に置いていた大きな缶を、こちらまで持ってきた。


「……乾パン?でもこれって……」


カナエが缶を開けると、横からゆきの手がすっと伸びてくる。

カナエも摘んでみた。


「……砂、みたい……」

「全く甘さがないな。てかむしろ苦っ」

「カナエさまの食料にはなりますがっ、わたしたち『現象妖精』の栄養素にはなりませんっ」

「俺でも、ここまで苦いとキツイわ。何か甘いものでもまぶして、味を上書き出来たら……」

「甘いもの、苦いもの……。……そういえば、サトウキビなら、ありますけど……」

「いやいや、そんなものがどこにあるんだよ」


ゆきはカナエのリュックの一番奥底から、すっとサトウキビを取り出した。


「カナエの玄関に、生えていたものです」

「いつの間に取って入れたんだよ!

……いやでも、これはイケるかも。問題は、どうやって砂糖作るかなんだけど」

「私はいつも、茎を齧っていました」

「茎から搾り取るのか?」

「私にお任せくださいっ!お砂糖のことについてはこっそりお勉強しているんですよっ。

茎の髄液ずいえきから精糖せいとうするための調理器具なら台所に揃っていますっ!

今からやってきますねっ」

「茎の髄液から精糖?……てかレヴィがするの!?」

「一人で料理は初めてですが、イメトレならバッチリですっ!一時間ほどお待ちくださいっ」

「いやいや、イメトレって……」


レヴィはサトウキビを受け取り台所へと直行した。


「カナエ、私は、何をすればいいのですか?」

「俺もゆきも、しばらくお役御免だとよ。

……ちょっと探検しようか」


メイド服姿のレヴィが台所で奮闘するのを他所に、カナエとゆきは『秘密基地ハイド・ラボ』を徘徊する。


本棚の合間を縫ったかと思えば、用途不明の実験器具に行き当たる。

ぐるりと回って機械群を抜けだすと、壁際の棚には木彫の仏像やマトリョーシカ人形、アステカのお面などの統一性の無いお土産がずらりと飾られている。

棚の続く果てには台所があり、レヴィの姿が目に映る。


「……この混沌っぷり、本当に学校の旧実験室と変わらいな」

「旧、実験室……?あの白衣の研究者たちが、沢山いる場所ですか?」


ゆきが怯えたような言動でカナエに尋ねる。

心無い研究者の残酷な実験に、散々付き合わされたのだろうか。


「沢山は居ないけど、白衣の女性は一人居る。

……それに、ゆきが思うような悪い人じゃないから」

「悪くない、研究者ですか?」

「うん、良い人。ノゾミ先生って言うんだけど、物理学の講師で、『現象妖精』の声が聴こえるっていう俺の言葉を、唯一笑わないでいてくれた人。


……俺にとって、一番信用できる人だよ」


「それはカナエの、いわゆる、好きな人ですか?」

「ぶふっ!飛躍しすぎ!

……確かに好きっちゃ好きだけど、そういう好きじゃないんだ」

「では、どういう好きなのですか?」

「……感謝してるって感じかな。ノゾミ先生が俺を変えてくれたんだ。

ノゾミ先生が居なかったらずっと塞ぎこんだままだったろうし、レヴィを助けようとも思わなかった。

こうやって、ゆきとも出会えなかった」

「私もノゾミさんという方に、会ってみたいです」

「……俺たちはアズガルドに追われてる身だし、きっともう、ノゾミ先生には会えないよ」


カナエにとってノゾミは唯一信頼出来る大人だ。

本当は、置かれた境遇を全て打ち明けたかった。助けて欲しかった。


――そんな心を押し殺す。


受けた恩を、仇で返したくはないからだ。


「そうですか……。いつかその、カナエの大切な人と、話がしてみたいですね」


カナエとゆきはその後も飽きることなく『秘密基地ハイド・ラボ』を探索した。

部屋の隅に置かれていた未使用の黒い革張りソファを発見。

特に理由は無いが、何となくカーペットの前まで移動させる。

突き出したデスクを機材群へと移動させ、カーペットの周囲をリビングらしく整えた。


「カナエ、何をしているのですか?」

「……生活空間の確保?」

「――ゆきちゃん、これを少しだけ冷やしてもらえませんかっ?」


レヴィはミトンの手袋を両手に嵌めて、底で液体の煮えた高温の鍋を保持している。


「はい」


ゆきはすっと右手をかざす。

鍋は一瞬で冷却され、煮えた液体はペースト状に固まった。


「これを粉末状に細かく砕けばお砂糖の出来上がりですよっ」

「俺もやるよ」

「私も、手伝いたいです」


カナエとゆき、レヴィは仲良くペースト状の砂糖を砕いてゆく。

レヴィは勿論のこと、能力を使わないゆきの腕力も年頃の女の子相当でしかない。

少しばかしの見せ場に浮かれてしまう。

結果、カナエは力を込めすぎて肩を痛めた。

洗った大皿の上に乾パンをよそって、ほんの少し茶色がかった砂糖をまぶす。


「あ、ちょっと待ってて」


カナエは小さな皿に甘くした乾パンを取り分けて、デスク上にぽんと置いた。


「何をしているのですか?」

「レプルシオンへのお供え物。

……死んだやつのことを、こうやって覚えておくんだよ」

「忘れないように、ですか……」


黒いソファの真ん中に、大皿を携えカナエは座った。

左右にゆきとレヴィが座る。

カナエのいただきますに遅れて、ゆきとレヴィも合掌する。

そうして、乾パンを手に取った。


「あ、これ割りといける!」

「甘くてなんだか、生き返る気分です」

「空きっ腹にガツンと来る甘さですっ」


ばくばくもぐもぐと乾パンを食してゆく。

あっという間に一缶分平らげると、レヴィが追加の乾パンを運んできた。

二缶めの半分辺りで、カナエたちの手が止まる。お腹いっぱいだった。


「カナエさまぁ……。いっぱい食べると、今度は眠くなってきましたっ……」

「もう深夜〇時を過ぎてるな。いつものレヴィならとっくに寝てる時間だよ

――って、おい!」


――ぐーすかー……すぴー、すぴー……。


レヴィは一瞬のうちに眠り込み、ソファにだらんと背を預けていた。


「ほんと寝付き良すぎだろ……」


カナエはソファから立つと、事前に見つけた一式のベットシーツをカーペットの上に敷いた。

レヴィの体を抱きかかえて布団まで運び、上から毛布をそっと被せる。


「大きくなっても、軽いままだな……。ゆきも、ここでレヴィと一緒に寝ろよ」

「カナエも一緒に、寝ないのですか?」

「一緒には寝ない!……ていうかそんなことしたら寝れねーよ。

ベッドシーツはそれしか無かったから。俺はこのソファで寝とくよ。

それに、寝相の悪いレヴィがソファで寝ると落っこちる」

「分かりました……」


ゆきはおそるおそるゆっくりと、爆睡するレヴィの布団に入り込む。

カナエは電気を消した。


「おやすみ」

「はい、おやすみなさい……カナエ」


+++++


「……さすがに、もうゆきも寝たよな……?」


午前一時過ぎ。

予め探索をしていた時に書架に並ぶ本をざっくりと確認したが、専門用語がずらりと並んでまるで理解できなかった。

手に取っても仕方のないものだから、書架はスルー。

ライトを頼りにして、カーペットから離れた場所に移動させたデスクを漁る。

レプルシオンと過ごしたほんの僅かな時間、カナエは“研究に没頭している”振りをした。

その時ちらりと読んだファイルを――少なくともゆきには見つからないように――後で確かめる必要があった。


……暗闇でカナエはページを探る最中、背後の存在に気づけなかった。


「――ゆき!?……何で起きてるんだ。今日はもう疲れただろ……?」


カナエは資料を慌てて隠して振り向いた。

後ろ手のゆきがカナエを見下ろしている。


「……眠れません……。今日は、色々なことがありすぎて……。

全く、嫌な気分ではありません。逆に、嬉しくて。

……でも、そんな気持ちを抱くことが、とても嫌で、許せなくて……」


ゆきはぼつりぼつりと言葉を漏らす。


「……カナエも、眠らないのですか?」


カナエは眠気を我慢してでもやるべきことがあった。


「しばらく寝る気はないよ」

「……ではカナエ、お願いがあります……」


ゆきは後ろに回した手をカナエに突き出す。

銀色に光るものが握りこまれていた。


「カナエが居ない時、部屋でレヴィが、見つけたものです。……散髪用のハサミだと、言っていたので……。


……私の髪を、またあの時のように、カナエの手で、切ってもらえませんか?」


今のゆきの姿は、白のショートドレスに腰まで掛かるロングストレートの銀髪だ。

『現象妖精』としての規定された『標準状態デフォルト』。

それがゆき——『エルウェシイ』の正式な姿である。


「……もう、髪を切る意味は無いんだぞ?何をしても全部、アズガルドにバレてるからな……。

ゆきが変装しようが、もうこの神戸で日常を送ることなんて出来ないんだよ」

「……変装したいのでは、ありません。ただ、変わりたいのです。

カナエは、きっかけをくれました。その手で、私を変えてくれました。

……無かったことには、したくありません……」

「ゆきがそう言うなら、別にいいけど。

……しかし、うーん、部屋の電気は明るいからレヴィ起こしそうだしな。

——じゃあ、あれを開けるか」


カナエは閉めきっている空の扉を指差すと、すっと立ち上がった。

壁際へと移動する道中、ぐっすりと眠っているレヴィの布団を厚めに重ね掛けした。

カナエは室内から認証ゾーンに手のひらをかざす。


——Identified.

Class:Administrator.


空の扉を開け放った。

風の凪いだ、涼しく静かな夜だった。


「……重力で大気構造が他とは違うとレヴィが言っていたけど、流石に深夜だと少し冷えるな」


高度二〇キロメートル上空の、反転した夜空の絶景。

真下には吸い込まれそうなほどに大きな満月があり、星空は見渡す限りどこまでも眼下に広がる。

明るすぎず、暗すぎずの夜空の光。


「ちょっと待ってろよ。用意してくる」


カナエは皿洗いの時に見つけた霧吹きスプレーに、浄水を入れて中身を満たす。

リュックの中からタオルを取り出すと、機材群の奥にあったパイプ椅子を持ち、空の扉へと戻った。

ゆきは空の扉の縁に座り、足を外に投げ出していた。

両手を太ももの上に置いてうつむいている。


「椅子持ってきけど、そっちに座るのか?散髪中に寝たら

……今度はゆきが空に落ちるぞ」

「大丈夫です、私は寝ません。

……なぜならカナエに、お話したいことが、ありますので……」

「…………そうか」


代わりにカナエが、ゆきの背後でパイプ椅子に座る。

ちょうどいい高さにゆきの頭があった。

ゆきの細首にタオルを巻き、ミストスプレーで銀髪を湿らせる。

そうして髪を指でほぐしつつ切り口を探るが、ブレて定まらない。

というのも、ゆきの肩がずっと揺れていたからだ。

ゆきは息を吸っては吐いてを繰り返し、決心して声を出そうとしているのだ。


——『現象妖精』に呼吸は必要無い。


しかし人間でも、呼吸という機能は生命維持のためだけのものではない。

カナエは今、そんなゆきに“人間”を見た。

今目の前にいるのは、人間の女の子だ。

ゆきの呼吸が早まる。

過呼吸と似たような症状になる前に、先んじてカナエが口を開いた。


「ゆきが話をしてくれる前に、先に謝らないといけないことがあるんだ。

……俺から聞けなくて、ごめんな。家で無理やり聞こうとした時は、怖がるゆきを見て、レヴィが俺を止めてくれた。あの時はあれで良かったんだ。日常が続くものだと思っていたから。


——でも、今は違う」


たった半日足らずで、カナエの日常は崩壊した。

今日だけで、カナエは何度も死にかけた。

今生き延びていることそのものが奇跡と言っていい。

しかし、その奇跡がこれからも続くとは思えない。

アズガルドに、かさねとタツミ。

双方の苛烈なる敵を抱えて、無事なままでいれるはずがない。


そしてゆきと因縁を持つ敵は、その二つに留まらないとカナエは予測している。

敵の全貌が分からない状況で、当の守るべきゆきのことすら何も知ろうとしない。

その怠慢は自殺行為に等しい。


……故に、知る必要があった。

『エルウェシイ』と呼ばれた少女の、その真相を。


「だから無理やりにでも、ゆきのことを聞くべきだったんだ。

……なのにこの『秘密基地ハイド・ラボ』に来てからも、一切その話題は避けていた。ゆきが自分から言い出さないと、俺はこれからも絶対聞けなかったと思う。

ゆきが怖がるから、聞けなかったんじゃない。


……俺が、怖かったんだ。


ゆきの本当のことを知って、俺がゆきのことを怖いと思ってしまいそうで、それが怖かったんだ」


ゆきの呼吸が静まってゆく。

震える肩が落ち着いてゆく。


「ほら、そのままじっとしとけよ。ぶるぶるしてると散髪できないからな」


夜空の明かりを輝り返す銀の長髪に、カナエは切り口の目星を付けた。

髪に手を伸ばす。


「……カナエ。私も、同じです。怖かったのです。

カナエに本当のことを言って、カナエに怖がられて、見捨てられるのが、怖かったのです。

そんな私の考えは、とてつもなく自己中心的でした。

そして、私が話そうと思えたきっかけも、……このうえなく自分勝手です。


——怖くなったのです。


殺された者は、永遠と、恨みを抱いて彷徨う幽霊になると、そう聞きました……」


カナエは髪を挟んだ指の内側に、ハサミを沿わせて重ねる。

ハサミをゆっくりと閉じた。


「七年前、私は罪を犯しました。

一五〇〇万もの人間を、

この手で一度に、


——殺しました」


じゃきり、と音がした。

銀の一房が、空の扉から夜空の底へと落ちてゆく。


「カナエと出会ってから、幽霊の話を聞かされるまで、自分の罪を忘れようとしていました。

……けれどもずっと、記憶はこびり付いたままで、カナエの話を聞いて、怖くなったのです……」


カナエはイメージしてしまった。

ゆきの足元から、一五〇〇万の幽霊の手が伸びて、ゆきの体へと絡みつき、怨念を持って地獄へと引きずり込もうとするような——圧倒的な゛死“の情景。


「白衣の誰かに、言われた言葉を、今でも覚えています。

……“お前は大量虐殺者だ”、と……」


カナエは無言で散髪する。

髪を左の指で挟み込み、重ねたハサミで切り取り、払い落とした。


+++++


二〇三五年一一月一九日、日本時間午後九時四三分。

満月の綺麗な夜だった。

高度六三四メートルを誇る『東京スカイツリー』。

その尖塔の頂に、少女が舞い降りる。

少女は西欧の花嫁装束にも似た白のショートドレスをその身に纏い、腰まで届く白絹の如き銀髪を風に流す。

青い雪の結晶クリスタルブルーの瞳で眼下の夜の街を見下ろした。


少女は右手を突き出し、「マスターキー」と一言唱える。

雪待花の髪飾りが、淡い水色の燐光を灯す。

空間から抽出された窒素氷晶が、一振りの長剣を形作った。

瞳と同じ、雪の結晶の紋様が稠密に刻み込まれた、流麗りゅうれいなロングソードだった。

少女はロングソードを軽々と右手一本で空に振りかぶる。

少女には突き動かされる何かがあった。

使命感ではなく、焦燥感。

そうしなければならないと、誰に言われるでもなく、少女は理解していた。


――この氷剣を振るうべきなのだと。


上空に絶対零度の冷気が生まれた。

冷気はあっという間に半径一五キロ圏内に拡散する。

東京上空から円状の冷気が降下する寸前、少女が氷剣を振り下ろす。



――そして東京は凍り付いた。



+++++


東京で生まれたゆきの、その後の七年間の説明は淡白だった。

「あまり、覚えていません」と。

長らく未契約だったゆきは、その強大な力を持て余し、『現象妖精』由来の自然修復力を制御出来なかった。

つまりは肉体だけでなく、精神すらも『標準状態デフォルト』へとリセットされるのだ。

結果としてゆきに残ったものは、生まれた時の記憶と、脳裏に深く刻まれた数多もの苦痛。


「今日は、カナエのことを忘れなくて、良かったです。……これで、以上です」


空の扉に腰掛けるゆきの髪を、後ろのパイプ椅子に腰掛けたカナエが切る。

じゃきりじゃきりと音がする。

その都度ゆきの銀髪は長さを失い、夜空の底へと落ちてゆく。


「……ゆきが本当はどういう存在なのか、何となく予想はしていたよ」

「驚かないのですか……?」


カナエはゆきの髪を切り詰めながら、何でもないように「うん」と言った。

研究区画の下水道で聞こえた単語と、かさねが交戦直前に言い放った台詞とは似通っていた。


――『七大災害』には、自衛以外の行動を阻害するプロテクトが掛かっている——


――そこの三つの白い花弁を咲かせる雪待花エルウェシイと同じ存在で――


かさねはレプルシオンを「あたしたちのお姉ちゃん」と称した。

レプルシオンが消えた直後、ゆきは微かに「お姉ちゃん」と言葉を漏らした。

それにより、曖昧だった線が繋がったのだ。


ゆきとかさねの双方は灰谷義淵に生み出され、共に等しく『七大災害』という存在である。


「……一五〇〇万人を殺した私が、怖いですか?」

「……うん」


カナエは肯定しつつも、ハサミを動かす手を止めない。


「ではカナエ、明日かさねさんに、私を引き渡してください。私が死ねば、カナエとレヴィは助けると、あの方たちは言っています。

きっと、嘘ではないでしょう」

「このばかやろう」


カナエは棒読みで、ハサミを持ってない手でゆきの頭をはたいた。


「ひゃうん……!」


涙目になったゆきが、カナエに振り返る。

カナエは超然とした態度でゆきに臨んだ。


「すまん、つい手が滑った。髪切れないから、姿勢戻してくれると助かる」


しぶしぶゆきは前を向く。

カナエは散髪しつつ、途切れた会話を再開させる。


「私が死ぬから、俺とレヴィは生きてくれ、だって……?なんでそんなことを言うんだ?

ゆきの死を、俺とレヴィが望んでるわけないだろ。何回言われても、俺は拒否したはずだぞ」

「でもカナエは……私のことが怖いと……!

私はもう、カナエに嫌われたから……!」


「——嫌ってない」


「……私のことが、怖いのに、ですか……?」

「そうだ。ゆきのことは怖いかもしれないけど、だけど嫌いなんかじゃ絶対ない。

……だってさ、ゆきだってそうだろ?

俺に秘密を言えずにいたゆきは、俺のことを考えて、俺にどう思われるかを考えて、俺を怖がっていた。

――でもゆきは、俺が嫌いだったか?」

「それは違います……!私はカナエのことが、好きです……!

むしろカナエが好きだから、だから、カナエが怖かったのです……!」


「同じなんだよ。


俺はゆきのことが怖いと思った。でもこれは、俺がゆきのことを……その……好き、だと思ってるから怖いんだ。

ゆきの真実を知って、ゆきのことを嫌いになってしまったらどうしようと俺は思う。

ゆきは真実を知られて相手にどう思われるか、俺は真実を知って相手をどう思うか。

お互い相手のことが怖くて、きっと、そうやってすれ違っていた」

「……カナエも、私と同じなのですか?好きで、怖いのですか?」

「……ああ。だから怒ったんだよ。俺が“怖い”の言葉の続きを言う前に、勝手に自己犠牲しやがって。

あれは俺に嫌われてると思い込んで、勝手に自暴自棄になって吐いた言葉だろ」

「本心です……!私はカナエとレヴィを、巻き込んでしまいました……!

私が殺されることで、カナエたちが助かるのなら、責任を取りたいのです……!」

「……百歩譲って本心だとする。

でもその選択は、きっと消極的な判断だと思う。それ以外の選択肢は無いと思っての、仕方なしの妥協案だ。


——本当は、どうしたいんだ?」


「本心ではなく、本当……?」

「俺たちを助けたいのは、ゆきの本心。そう思ってしまうのは、敵がゆきにそう迫るからだ。

……でもゆきはきっと、俺たちのことを考えて、自分の心を押し殺しているんだと思う。そんなしがらみを抜きにして、ゆきの本当を知りたい。


ゆきの本当の気持ちを、教えてくれ」


契約直後のゆきがカナエに向けた言葉は、きっと偽りのない感情だったはずだ。


――はい、カナエ……!ふつつかものですが、これからもよろしくお願いします……!


ゆきは声を震わせながら、


「………………です……。


…………たい、です……!



――生き、たいです!」



じゃきり。

最後に音がして、散髪を終えた。

ゆきの頭に残った髪の切れ端を、カナエは撫でるような手つきで夜空の底へと払い落とす。


「教えてくれて、ありがとう。俺もレヴィも死なないし、ゆきを殺させはしない。

どちらかを犠牲になんて出来ないし、そんなことは許せない。


——戦って、逃げて、三人で生きよう」


「……でもカナエ、私が殺されるべきだと思った理由は、もう一つあります。


どうやって償えばいいのでしょうか……?


……私が殺した、一五〇〇万の人間に。

永遠に恨みを抱く幽霊の、その未練が“私に殺されたこと”ならば……。

レプルシオンさんのように、……私の、お姉ちゃんのように、成仏させるためには……」


ゆきを生み出した灰谷義淵こそが原因で、ゆきは何も悪くない。

そんなことを言った所で、罪を自覚したゆきに慰めの言葉は何の意味を持たない。

だからカナエは——残酷なことを言う。


「……ゆきは、それでも生きたいんだろ?だったら生きようよ」

「しかし私が殺されないと、一五〇〇万もの幽霊が、報われません。

罪を、償えません……!」

「生きて罪を償う方法だって、きっとあるはずだ。諦めちゃいけない。

それでも罪を償えないとしても、俺はゆきに、罪を背負ってでも生きて欲しい。

これは、マスターとしての命令だ。


――たとえ恨まれ続けたとしても、ゆきは生きてくれ」


じっくりと無言の時間を置いて、ゆきは小さな声で、それでいてはっきりと返事した。


「……はい、カナエ」


+++++


ゆきが寝入るのを見届けてから、カナエは再び例のファイルを読み込んだ。

ほとんどが外国語の崩れた筆記体で記述されており、カナエには全く理解できなかった。

しかしメモ書きのように挟まっていた白紙には、少し乱雑な体裁の日本語で走り書きがしてあった。


【……七つの少女によって、私は世界の真理へと辿り着く。

七番目の少女『ラウルス』には、重力を司る力を設定している。

一番目の『エルウェシイ』には『マスターキー』の役割を与えているが、『ラウルス』には『マスターキー』に対する『スタビライザー』を生成してもらう。

『スタビライザー』は仮想粒子『斥力子レプルシオン』でプログラミングする。

斥力子レプルシオン』の使用方法は簡単だ。


巻きつけるだけでいい。


最初に生み出したレプという試作も相まって、実験は比較的スムーズに進んでいる。

『ラウルス』の完成は近いだろう】


「重力……?こいつがかさねのことか?でもスタビライザーってどういう意味だ?」


カナエには理解不能だった。

外国語の記述を何ページも飛ばして、次のメモ書きに辿り着く。


【私は早期に計画を遂行する予定ではある。

しかし、もし仮に何らかのアクシデントで計画が遂行出来ず、七つの存在が解き放たれた場合は、


速やかにその内、六つの少女を殺害せねばならない。


なぜなら強大な力を持つ七つの少女は、それぞれが世界の『損傷バグ』そのものであるからだ。

私が概算がいさんした所、この世界が許容出来る『損傷バグ』は一人分の余地しかない。

七つの存在が解き放たれた時、世界の『損傷バグ』は広がり始める。


早くて七年後には、その予兆が現れるだろう】


「もう既に七年経ってるぞ……!?

これが、かさねがゆきを殺そうとする理由なのか……!?」



――あたしたちは本来、この世界に居てはいけないイレギュラーよ。



+++++


夜が明ける前に、『秘密基地ハイド・ラボ』を出る予定だった。

部屋で見つけた目覚まし時計が鳴り響く。


「……ふわあ……おはよ…………って

――もう夕方じゃねーか!?」


どうやら午前と午後の設定を間違えていたらしかった。

先日の、土曜日でのめまぐるしいほどの出来事の数々にカナエは疲れきっていたのだ。

一五時間ぶっ続けで寝ていた計算になる。

慌てて飛び起きたカナエの目の前に、ゆきがちょこんと立って、カナエを見下ろしていた。


「……カナエ、おはよう?それとも、こんばんは?」

「……何してたの?」

「起きてからは、マッサージチェアというものに座っていました。

一時間ほどで飽きたので、やることも無いので、その後はカナエとレヴィを眺めていました。

……九時間ぐらいです」


ゆきの睡眠時間は五時間。

肉体を『標準状態』へとリセットしたゆきに疲れはないのだった。

レヴィを見れば寝相の悪さからベッドシーツから飛び出して、服をはだけさせて、すぴー、すぴーと静かな寝息を立てて爆睡していた。

レヴィは疲れていなくても元来こんな感じだった。


「じゃあ、外が暗くなるまでとりあえず待機だな。レヴィも後で起こそう。

……これ食う?」


カナエは前日にレヴィが抽出した砂糖を乾パンにまぶして、ゆきに差し出した。


+++++


太陽が再び落ちた夜八時過ぎ。

積層都市外周に隣接する氷の階段を、カナエたちが昇っていた。

カナエの衣服は昨日と変わらず、薄手のブラウン・パーカーに黒のカーゴパンツ。

レヴィはゆきのサイズで購入した白黒のエプロンドレス。

そして今のゆきは白のショートドレスを着ておらず、購入した骸骨模様のタンクトップに、ダメージ加工済みの紺のホットパンツ姿だった。


「カナエさまっ、本当にあの場所を出てよかったのでしょうか……?」

「食料が無いからな。この後どうするにしろ、食べ物は買い溜めしとかないと。

――もう着くぞ」


カナエは落下防止用安全柵から乗り出し、先が何も見えない暗闇の一階層へと侵入した。


廃棄区画として久しく放置された一階層では、光源装置は機能していない。


「……だれも、いないのですか?」

「ううっ、真っ暗で怖いですっ!」

「いやでもレヴィならこの暗闇でもちゃんと目が見えるんだろ?頼りにしてるよ」

「はいっ!無事に上の階層へと向かう『エレベータ』に案内してみせますっ!」


二六機あるエレベータのうち、稼働しているものは一機だけなのだ。

暗がりの中、方向を指し示すものが何にもないこの階層では、カナエにはその区別が付かないのだった。


「あれみたいですねっ!あと二時間ほど歩きますっ!」


レヴィが先頭を行く。

カナエが足元をライトで照らし、ゆきと一緒に瓦礫片を避けて歩く。


「腹減ったな……。上行ったら何食いたい?」

「黒蜜がけ抹茶あんみつ……」

「それたぶん一九七階層の限定品な」

「カナエさまっ!少し食べて、帰ってからケーキを作りませんかっ?」

「私たちが、ケーキを作って食べる……?」

「その、帰ってっていうのは、……あの場所にか?」

「はいっ!わたしが周囲に気を張っている限り、敵に見つかる前にわたしがその敵を発見出来ますっ!

つまり、誰にも見つかる恐れはありませんっ!」



――そうかしら?もうバレバレだけど。



遠くから声がした。

カナエたちの他の物音が存在しない夜に、その声ははっきりと響いた。


「かさねッ!?」

「なんでですかっ!私からは見えませんっ!」


――重力は空間を歪ませる力よ。あたしは、物体から放たれる空間の歪みを認識できるの。

でも、おかしいわね。カナエに、メイドちゃんに、『エルウェシイ』。

……メイドちゃん、もしかしてあなた……太った?


「太ってませんっ!大きくなったんですっ!あなたよりもボインボインですよっ!」


何も見えない暗闇に向かってレヴィが吠えた。


「んなこと言ってる場合か!」


――空に落下してからどこで過ごしていたのかは分からないけれど、今はもう、完全に捕捉したわ。

私の観測を振り切らない限り、どこに行ってもバレバレよ。


「……カナエ、レヴィ、私の後ろに居てください」

「ゆき、無茶はするなよ。いざとなったら、アレを使って逃げるんだ」


かさねと交戦した時は、力の枯渇こかつでゆきは『絶対空間テレスティアル・グローブ』を使えなかったが、今は違う。


ゆきを先頭にして、カナエは声の聴こえる方へとじりじりと歩み寄る。

かつては工場らしかった廃墟を横切ると、僅かな明かりが漏れていた。

そこに、カナエたちはかさねの姿を捉えた。

カナエは、かさねが今にも襲い掛かってくると思っていた。


「……突っ立って、何してるんだ?」


昨日と変わらない改造制服の姿だった。

しかし昨日と違うのは、片手に数珠を嵌めていた所だ。

かさねは、祈るように両手を合わせていた。

かさねの周囲の地面には、カラフルでいながら淡く優しい光源が何十個も立ち並んでいる。

赤、青、緑、黄など。

似たような色はあれど、何一つとして同じ色は存在しない。

近づいて、光源の正体は障子紙で張り詰めた灯籠とうろうだと分かる。


「……とむらっているのよ」


かさねは祈りの片手間に視線を横に流し、黒の瞳をカナエに投げかけて言う。

かさねに戦意が無い意味も、色とりどりの灯籠の光景も、カナエには理解出来なかった。

……ただレヴィだけが、灯籠を見て悲しそうな表情を浮かべた。

それ以降、レヴィは無言になる。

かさねは大きさくなったレヴィを見て眉を潜めたが、すぐに得心したような表情を浮かべる。


「メイドちゃんは『エルウェシイ』の力を共有したのね。

……カナエが『ストレンジコード』を脳で解する多重契約者でないと、こんなことは絶対に起こりえないわ。流石はイレギュラー」


今のカナエに、かさねの会話に答える余裕は無かった。

無視して尋ねる。


「……マスターは、タツミはどうした?隠れているのか?」


かさねは合掌していた両手を解き、数珠をミニスカートのポケットにしまう。


「ここにはいないわ。タツミはもう寝てる


……今日は赤い日だから、仕事も戦いもお休みよ」


「……赤い日?」

「カレンダーを見たら分かるでしょ?赤い日は、休日のことよ」

「はあ!?休日は何もしないって、昨日思いっきり戦いふっかけてきたじゃねえかよ!?」

「土曜日は青い日だから、休日ではないの。だからカレンダーを見なさいって。

それくらい常識よ?」


タツミとかさねは、殺し合いと休日を両立できるマイペースさを持ち合わせているらしい。


「どんな時だって人間は休めるわ。

……一九一四年、苛烈を極めた第一次世界大戦の最中においても、ドイツ、イギリス、フランス軍がクリスマスに休戦協定を結んで、お互いに交流を深めたという記録が残っているの。

パーティを開き、七面鳥を並べて三軍共に宴席えんせきに座る。秘蔵のブランデーを開けて飲み明かし、酔った調子でサッカーの試合までしたって言うじゃない」

「なんだか、物知りなんだな」

「読書は人間にしか出来ないたしなみよ。あたしが物知りなのは当然のこと」

「……じゃあ俺たちはもう、戦わなくていいのか?」

「その話には続きがあるの。

休戦協定は現地駐留軍の独断によるもので、三軍の上層部からは厳重注意が下されて、以後そのような休戦協定が結ばれることは無かったわ。

むしろ、より戦いが激化して、クリスマスを共にした人間たちはお互いを残酷に殺しあったの。

ただ赤い日は休む、それだけよ。

それにタツミにとっては、今日何もしなくても全てが思惑通りなのよ」

「……どういう意味なんだ?」

「少なくとも、タツミの判断は理に適ってるわよ。あたしたちの目的は『エルウェシイ』の殺害。

対してアズガルドは、『エルウェシイ』を捕獲すること。そして捕獲に際して、カナエを積極的に殺そうとする。

しかしカナエを殺せば、連動して『エルウェシイ』をも殺してしまうことをアズガルドは知らない。

……話しても、きっと信じてもらえないでしょうね。

そして、空に浮かぶ『逆さまの街』に逃げ場はない。

つまるところ、放っておいても、タツミの思い通りに事は進むのよ」


タツミは『エルウェシイ』さえ殺すことが出来れば、カナエがどうなってもいいらしい。


「あのさ、こんなことを言うのはおかしいけれど、二人とも昨日、俺を殺さなかったじゃないか。

……なのにかさねの話を聞くと、タツミが俺のことをどう思っているのか分からない」

「カナエを殺したくない、ひいてはマスターを殺したくないというのはあたしの意思よ。タツミはその意思を尊重してくれていたの。

でも、もうタツミは手段を選ばないわ。

……カナエは、しぶと過ぎたのよ。

タツミはカナエの揺らぎない決意を見て、カナエを事件に巻き込まれた保護すべき一般市民ではなく、戦うべき敵として認識したわ。

だからあたしは、警告と勧告を兼ねてここでカナエを待っていたの。


――最後のお願いよ。『エルウェシイ』を引き渡しなさい」


「何回でも言う。俺はゆきを殺させはしない。

……ゆき、構えなくていい。マスターと居合わせないかさねは、自衛目的以外に能力を使えないはずだ。

それにかさねは、さっき赤い日は休むって言っていた。俺はその言葉を信じる」

「……よく分かっているのね。でも覚えておいて。

自衛という言葉は、便利なものなのよ?」


ゆきがかさねの方へと、足取りを確かに歩いて行った。


「――待て、ゆき!

こっちからしか戦いを仕掛けない限り、今は戦わなくていいんだぞ!」

「なによ。……髪、また短くなってるわね。気持ち悪い」

「はい……。その、かさねさん……カナエを殺さないでいてくれて、ありがとうございます」

「馬鹿ね。あなたに情けは掛けないわ。何度も傷めつけたし、その殺意は今も揺るがないわよ?」

「苦痛はありました。けれども、カナエを殺さないでいてくれた、その感謝の方が上回ります」

「……そこまでマスターのことを思うなら、大人しく殺されなさいよ。タツミが『アズガルド』からカナエを匿うと言った条件は、まだ有効よ。

カナエの生はあたしが保証するわ」

「いいえ、私は殺されません。死にません。

……生きたいです。生きてカナエを、守ります」

「あっそ。でも知りなさい。

——カナエを死に向かわせる全ての原因は、あなたにあるのよ」


かさねはそっけなく言い放ち、そっぽを向いた。

話はそれっきりだった。


「……あのさ、俺たちは今から上の階層に行くんだけど、ここ通してもらえるのか?」


昨日戦った相手に、ひどく間抜けなことを言っているなとカナエは思った。


「赤い日はお休みだと言ったでしょう。どうぞご自由に」


+++++


「――好きにしたらとは言ったけど、なぜここに戻ってきているの……?

この階層を去った段階で、あたしの質量観測の捕捉を振りきったのよ。

なのにまた捕捉されに来て、全く意味が分からないわ。

せっかく見逃してあげたのに……あなたたち、馬鹿じゃない?」


午後一一時半。

買い物袋をそれぞれ分担して持つカナエとゆき、レヴィは再び一階層へと戻ってきていた。

かさねはここを去る以前と同じ場所に、相も変わらず佇んでいた。

淡く色とりどりの障子張りの灯籠に囲まれて、地面に散らばる瓦礫片の一つに腰を下ろしている。


「あと三〇分で、今日が終わるわ。

その意味が分かっているのかしら?」

「そういえば、聞いてなかったんだ。かさねは、この廃棄区域で何を弔っていたんだ?」

「白々しく聞くのね。あなたたちのその顔付き、大方そこのメイドちゃんから入れ知恵してもらったんでしょう?

ここに来た時、確かにメイドちゃんは悲しそうな顔をしていたもの」


かさねは立ち上がると、地面にあった薄い青色の灯籠を両手に持ち、カナエに突きつけた。


「覗いてみなさい。


——この世界の、負の側面よ」


中には小さなお盆があった。

お盆には油が満たされて、燃え続ける輪状の縄と、紺碧こんぺきの輝きを放つ小さな球体が油に沈んでいた。

燃える縄の火の光が、球体を通して青色へと変換される。


「――『現象妖精』の眼球は採光性が極めて高いの。

そして本体から取り出してしばらく経てば、硬化してある程度の不変性が付与されるわ。

……それはつまり、宝石としての価値があるのよ」


買い物に行った上の階層で、先刻レヴィが見たものの正体をカナエは話した。

カナエはこの世界の、そんな側面を知っていた。

ただ、ゆきやレヴィにそんなことを教えたくはなかった。

今ゆきは表情を凍りつかせて俯いて、レヴィは涙を流して嗚咽を漏らしている。


「——『原産地の証明キンバリー・プロセス』。

かつてアフリカの紛争ダイヤモンドを規制するその条約は形を変えた。

より安易で抽出しやすい、『現象妖精』産の汚れた宝石を規制する法律へとシフトしたわ。

……この違法宝石は、かつてここに居た『現象妖精』のものよ」


一階層は、区画用空調機フロア・ラギングなどの『現象妖精』を取り込んだ階層維持設備の実験運用区画だった。

実験運用の安定化とともに、諸設備は『現象妖精』ごと廃棄処理されたとなっている。


「じゃあ、昔一階層に放置された『現象妖精』は……餓死したのではなく、殺されたのか……?」

「『現象妖精』って、飢えていても案外しぶといものなのよ。

違法業者が手をつけるにしろ、手を付けなかったにしろ、どっちにしてもその最後は悲惨なものだったでしょうね」

「……でも、なんでかさねが持ってるんだ?」

「それは秘密よ。あたしはたまたまそれらを持っていて、ここにいた彼女たちの元に返すべきだと思ったまでよ。

ある程度の不変性と言っても、朝までには燃え尽きて無くなるでしょうね」


静かに会話を見守っていたゆきとレヴィが、おずおずと前に進み出る。


「かさね、ちゃん?ひとまず今は、何もしませんっ。

わたしも、弔いますっ」

「……かさねさん。

私にも、弔わせてください」

「メイドちゃんの好意は歓迎するわ。

……でも『エルウェシイ』、あなたのその場限りの誠意は、自分を慰めるためだけの唾棄だきすべき行いよ。

あなたには罪を償うべき人たちが一五〇〇万人もいるでしょ。

『東京アブソルートゼロ』を引き起こした『七大災害』……っ!



――この大量虐殺者が!」



かさねが敵意をむき出しにしてゆきを睨みつけた。

レヴィにだけは話してなかったが、レヴィは一切動じていなかった。

空で大きくなった時、レヴィはゆきを見て、全てを知っていた。


「あたしがあなたを気に喰わないのは、その無責任さよ。

七年間ずっと逃げてばかりで、あなたは自分の罪と向きあおうとしなかった。

あたしだって、『七大災害』だわ。罪を犯した。


——『神戸グラビティバウンド』を引き起こし、一三六人を殺した。


だからあたしが目覚めてからこれまでの間、そしてこれからも、罪を償おうとしているの。今、具体的には言えないけれど、

……というよりも言ってしまえば、それが償いでなくなるような気がして言いたくないけれど、あたしが償うべき一三六人とその遺族のリストには……カナエも含まれているわ」

「……『ストレンジコード』の聴こえる俺が、『現象妖精』を恨むことなんてしないよ」

「言うと思ったわ。だから尚更、カナエが殺されるわけにはいかない。

……あたしは罪を償いたい。でもこの罪は、どう償っても消えないものよ。

だからこれからも、ずっとずっと償い続ける。


――そして願わくば、あたしが生きることを、どうか許してほしいの……」


「世界の損傷バグってやつがあるから、だからかさねは、ゆきを殺そうとするのか?」

「どこでその言葉を知ったのかしら……?『専用エフティ』にしか、その情報は記述されてないはずなのだけれど。

しかし、ええ、その通りよ。

『エルウェシイ』が目覚めたお陰で、滞っていたこの世界の損傷バグがゆっくりと広がり始めている。これは純然とした観測結果、事実なの」


かさねは黙り続けるゆきに向き直って、ありったけの殺意を込めて言う。


「——椅子取りゲームをしましょ?


この世界にはね、『七大災害』が座れる椅子は一つしかないの。

でないと、いずれ世界は崩壊する。


だから『エルウェシイ』——まずはあなたの椅子から奪う」


ずっと無言だったゆきが、口を開く。

かさねを真っ直ぐと見つめ、強固な意思を示した。


「……かさねさんの言うことは、その通りです。私には、覚悟が足りませんでした。

罪を償ったところで、罪は消えない。そのことを、失念していました。

そして私には、犯した罪の償い方が、分かりません。

だから探します。

……そのためにも、殺されるわけにはいきません」

「あら、そう?でも殺すわ。

あなたの罪は、あなたを殺したあたしが引き継ぐから」

「『東京アブソルートゼロ』は、私の罪です。


――かさねさんに、私の罪は奪わせない」


「奪わせない、ですって?」

「はい。そして貴方の罪をも、私は奪いたくありません。

……共存の道を、模索したいのです」

「それはつまり、椅子取りゲームを放棄すると言っているのかしら?」

「……ゆきの言っていることは、口から出任せじゃない。

俺たちは、ヒントを見つけたかもしれないんだ。そしてヒントは、まだこの世界に残されているはずだ。

だからもしかしたら、『七大災害』同士で殺し合うか、さもなくば損傷バグによって世界が崩壊するなんていう、どっちに転んでもバッドエンドにしかならない結末を、

俺たちは変えれるかもしれないんだよ……!」

「イレギュラーであるカナエの言うことなら、もしかしたら信じられるかもしれないわね。

――でも関係ないわ。

カナエが今後も殺し合いに巻き込まれないために、『エルウェシイ』は殺す」

「……俺は、望んでゆきのマスターになった……!俺は巻き込まれた一般市民なんかじゃない!

とっくに覚悟は決まっている!俺たちは、戦わないために戦うんだ!」


かさねはカナエの言葉にきょとんとした。

カナエは言葉を続ける。


「約束する。

明日の朝、この一階層の九〇度にて俺たちは待つ。

そして、かさねと戦う。だから、かさねも約束してくれ。

俺たちが勝ったら、殺し合いはもうしないと約束してくれ……!」

「勝つつもりなのに、約束させる……?

カナエはもしかして、相手を殺さずに勝てるとでも思っているの?

ありえない、不可能よ。手加減なんてしないし、手加減なんてさせないわ」


かさねは拒絶の意を示す。

それ以降のかさねに取り付く島は無かった。


カナエたちは各々灯籠に祈りを捧げた。

お供え物として、買ったお菓子を添えてゆく。


「〇時になる前に、あたしの視界からいなくなってちょうだい」

「……かさねちゃん、あのっ……お菓子食べますかっ?」


急にかさねが、甲高い声でレヴィに噛み付いた。


「餌付けのつもり!?甘いものなんて要らないの!

——どうせならそっちをもらうわ!」

「ひゃあぁあぁ!ごめんなさいっ!」


かさねはカナエの買い物袋からビーフジャーキーを抜き出すと、その場で剝いて口に入れた。


「おいおい!?『現象妖精』が甘いもの以外を食えるのか!?」


かさねは瞬時に頬を上気させ、涙目になる。

けれども口はビーフジャーキーを噛み続ける。

かさねはスカートポケットからシュガーレスの清涼飲料水を取り出し、腹の中に流しこむ。


「えっと……かさねさん、無理してませんか……?」

「……馬鹿にしないで、ちょうだ、い……!あたしは、人間のように生きたいだけ、よ……。

甘いものしか食べれない人間なんて、どこにもいないわ……!さっさと、どこかに消えて!」


かさねの剣幕に押されて、カナエたちは何も言えずにその場から退散した。


+++++


「――砂糖を大さじ一杯……これで」

「お玉じゃなくてスプーンで測れ!」

「そんなにたくさんのお砂糖『現象妖精』にも甘すぎますよぉ!」

秘密基地ハイド・ラボ』の中で、カナエたちはケーキを作っていた。

「――カナエさまぁ!この掻き混ぜるのすっごく疲れますっ」

「よっしゃ任せとけ。こういう所で男の力を見せないとな!」

「レヴィ、こちらの生地を、冷やし終わりました」


ケーキに詳しいレヴィが、カナエとゆきの居るスペースを忙しなく移動して指導する。


「流石ゆきちゃん!本当はこれっ、専用機材で何時間も待たないといけないんですよねっ」

「次は、何をすればいいですか?」

「今度はこの果物たちを、繊維をダメにしないちょうどいい感じで凍らせてくださいっ!」

「徐々にゆっくり、温度を下げていくのですね?」

「はいっ!砕いて生地に混ぜ込んで、残ったものはムースにも使いますっ!」

「レヴィ出来たぞ!これめちゃくちゃドロドロに出来たっぽくない?」

「……ふむふむ……あっ、これ仕上がってます!完璧ですっぐれーとですっカナエさまっ!」

「――これでフルーツケーキ、といううものの、完成……ですか?」

「はいっ!さっそく出来たてを食べましょう!」

「あ、ちょっと待って!綺麗な夜空を見ながら食べたら、きっと、もっと美味しいぞ」


カナエは空の扉を開け放つ。

縁の真ん中にカナエが座り、その左右にゆきとレヴィがカナエに寄り添うようにして座る。

カナエは背後の床に、フルーツケーキの欠片を乗せた小皿をそっと置いた。

そしてそれぞれが皿を片手に、仲良く並んで夜空を臨む。

高度二〇キロの重力が反転したこの場所に、夜空を遮るものは何一つとして存在しない。

見渡す限りの深海のような黒の夜空に、散りばめられた星々が赤、青、緑、黄の様々な光を灯す。


「カラフルで、それでいて、優しい光……あの灯籠を、思い出します」

「わたしたちはっ、レプルシオンちゃんのことを、一階層の『現象妖精』たちを忘れませんっ!」

「私も、忘れません。死んだ人、残された人。一五〇〇万の命の時間を止めた、私の罪。全て、生きて償います。

無責任で、自分勝手で、どうしようもなくて、

それでも私は……生きたい」

「立ち止まってちゃダメなんだ。考えるんだ。探すんだ。

そしてみんなで、生きるんだ……!」


カナエ、ゆき、レヴィはいただきますと合掌して、少し遅めの晩御飯を取り始めた。

レヴィはフルーツケーキを切り分けることなくフォークで突き刺しガツガツと食べていた。


「……カナエ、食べさせてください。お願いします」

「この戦いが終わったら、ちゃんと一人で食えるようになれよ。ほら、口開けろ」

「んぐんぐ……。……ところで、本当にこれで、かさねさんに勝てるのですか?」

「ええ、勝てますよっ!」

「レヴィの言うことが確かなら——これこそが対かさね戦の秘策だ」

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