二章「溶かされて、想い咲く——Frailly fragment——」①

二〇二階層居住区画郊外にて。

カナエとゆきはぜえぜえと息を切らしながら落下防止安全柵にもたれかかっていた。

唯一元気そうなレヴィは、カナエの横に浮かんでいる。

普段なら悠々ゆうゆうとカナエの肩にでも載っているところだが、疲れきったカナエに甘えることは出来なかった。


ゆきが身に纏う西欧の花嫁装束にも似た白のショートドレスは、左半身に血をたっぷりと染み込ませていた。

傷口は凍結によって止血させているが、血塗れの衣装やその容姿、そして人間にはありえない青い雪の結晶クリスタルブルーを宿す瞳はどう考えても目立つ。

誰の印象にも残ってしまう。


……ゆきを自宅にかくまう為には、今のゆきの姿は誰にも見られてはいけなかった。


「ゆき!そろそろアレ出来るか?テレ何たら、時間止めるやつ!」

「もう一度だけ、いけます」

「一度だけなのか!?」

「カナエさまっ!一般人がこちらに来ちゃいますっ!――少しお待ちをっ!」


レヴィは柵の外側に乗り出し下をのぞき込んだ。

街の外側を縦横無尽に入り乱れる『接続ポール』の全景を、幾つもの星を湛えた両の瞳に映しこんだ。


「一九七階層に通じる『接続ポール』はこちらですっ!」

「よし分かった。これで最後の滑り棒だ。頼むぞゆき!」


カナエは精一杯息を吸い込み肺を満たす。それと同時にゆきの言葉が脳内に響いた。


――地球圏に『星空を満たすものエーテル』を再充填します

――全『現象妖精』との連絡回路を確立

――最上位要請インペリアルオーダー絶対空間テレスティアル・グローブ』を起動します

――何回もごめんなさい、じっとしてて――


その瞬間、地球圏に存在する『現象妖精』が機能停止フリーズした。


(――行くぞ!)


時間が停止した空間のなか、カナエ、ゆき、レヴィが動き出す。

レヴィが『接続ポール』を的確に見分けた後に、ゆきが時間を止めて、その都度カナエの息が続く限り『接続ポール』を伝って滑り降りる。

これが誰にもゆきの姿を見せないで済む逃走手段であり、考えうる最短逃走経路だった。

カナエは左腕が使えないゆきを背中に抱えて柵を乗り出し、しかるべき『接続ポール』を握りこんだ。


カナエはゆきとの契約後、『絶対空間テレスティアル・グローブ』によって時間停止した空間で動けるようになった。

何の因果か、元々カナエと契約していたレヴィにまでその作用は及んだ。

これらの作用は機能停止フリーズさせる『現象妖精』を選別するプログラム『除外フィルタ』によるものだ。

カナエたちの空間座標に対して『除外フィルタ』の有効範囲を自動追尾させることで、静止空間であっても通常空間通りの振る舞いを可能とさせる。

『除外フィルタ』の対象には光子も含まれており、時間停止の――最中でも景色が見えた。


しかし、この『除外フィルタ』には決定的な欠陥があった。

それは“時間停止中に呼吸が出来ない”というものだった。


(ごめんなさい。カナエにだけ、息苦しい思いをさせてしまって……)

(もう気にするな。仕方ねーだろ)


糖分を含んだ甘いものでしか栄養を摂取出来ないように、『現象妖精』の仕組みは人間と異なっている。

『現象妖精』は元来、生命維持に呼吸を必要としない存在だった。


カナエは地表から足を離し、落下を開始する。

ゆきはぞっとするほど軽かったが、それでも二人分を支える負担は甚大じんだいだ。

繊維が溶けかけた制服を軍手代わりにして、『接続ポール』を強化ゴム靴で挟み込んで過剰な速度を殺す。

摩擦熱が皮膚を焼く痛みで今すぐにでも手を離したくなるが、アズガルド製の強靭な日常製品が破損することはない。

幸運なことに、滑り棒そのものに恐怖は無かった。

カナエは『接続ポール』の上手な滑り方をその身で学んだのだから。

今朝敢行かんこうした地獄の耐久滑り棒によって……。


(人生何が役に立つか分かんねえよなあ……)


十秒ほどの滑落を経て、四階層分を滑りきる。目的地である一九七階層に到達した。


(ゆき!氷で足場を作ってくれ!)

(はい……!)


静止空間の最中であっても、ゆきは物理現象を自在に操ることが出来た。

存在そのものが『現象妖精』であるため、操作する物理現象もゆきの一部であると定義され、等しく『除外フィルタ』が適応されるのだ。


時間の止まった空間で、カナエは両手両足で『接続ポール』を抑えこんでブレーキを図った。

落下速度が削ぎ落とされたカナエとゆきのすぐ下に、ガラス細工の蜘蛛の巣――氷の網が展開された。


氷の網は、何の支えもなく空間に浮遊していた。

複雑な構造の氷を生成し、尚且つ氷を空間に固定するといった芸当は、以前の能力調整の効かないゆきでは出来なかったものだ。


そしてカナエとゆきは冷たさを感じさせない氷のあみに転がり落ちた。

カナエはゆきの下敷きになる形で落下したため、衝撃で貴重な酸素を吐き出した。

予期せずして制限時間タイムリミットが迫る。

カナエは両頬を叩き冷静さを取り戻すと、眼下の居住区画を見下ろした。


この氷の網は一九七階層地表から三〇メートルの高さにある。

天井の存在から由来する建築高度制限によって、障害物なく見渡せた。

人々と建築物が街のミニチュアのように固定されている。

目を凝らすと、真下から伸びる直線道路の道沿いに、見覚えのある一階建ての赤い屋根が鎮座していた。


(でかしたレヴィ!)


カナエはただ『接続ポール』を伝い降りていた訳ではない。

縦横無尽に入り乱れる『接続ポール』の中から、あみだくじのように北北西NNW三四五度へと通じるルートを選んでいたのだ。

今朝、自宅から道をまっすぐ走ってここへと来たのだ。

だから、その逆だって――


(あとは、どうするのですか?)

(ここから直接家に帰る)

(ふえ!?カナエさまっ、それはどういう……)

(もう時間も止めれないし俺も息がやばい。でも今時間が止まっているうちに家に着かないとゲームオーバー。

だから滑り台を使う!ゆき!俺の思い描く通りに氷を作ってくれ!)


カナエはイメージする。

三〇メートルもの高低差を利用して、この場所から八〇〇メートル先の地表に向かって一直線に下る最短ルートを――そらに掛かる氷の滑り台を。

カナエの思い描いた荒唐無稽な設計図を認識したゆきが、心細げに呟いた。


(……カナエ……、こんなもの、私には出来ない……!)

(俺と契約して、ゆきは能力がコントロール出来るようになった。だから、きっと出来るよ)


カナエを見つめる瞳の青い雪の結晶クリスタルブルーは心細げに揺らいでいた。

カナエが優しく微笑むと、ゆきは決心したように両手を足場に付けて、眼を閉じた。


――駆け抜けるような速度で青白い氷がカナエの足元から伸びていく。

氷は途中で折れることなく、目的地へと真っ直ぐ突き進む。


(出来ました……!)


数秒のうちに、街の外側から斜め下のカナエの自宅へと一直線に繋がる氷の滑り台が完成していた。

半円形状に表面を深くり貫かれた構造は、滑り台として申し分ないものだ。


(これどちらかと言えばジェットコースターだよな……)

(ごめんなさい。もう、私は動けません……)

(ゆき、よく頑張ったな。もう動く必要は無いぞ)


そう言ってカナエはゆきの肩と太ももに手を伸ばすと、正面から軽々と抱き上げた。


(ああーっ!ゆきちゃんだけお姫様抱っこズルいですっ!)

(んなこと言ってる場合か!ほらレヴィもこっちに来い!)


カナエはレヴィを呼び込み右手とゆきで挟み込むと、氷の網を後ろに逆走して距離を取る。

次の瞬間には全速力で駈け出して、飛び込むように氷の道に尻からダイブした。


(ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!)


ジェットコースターもかくやというスピードで、カナエたちは街の上空を斜めに滑り落ちていた。

摩擦係数が限りなくゼロに等しい氷の素材が、滑走するスピードを相乗的に加速させる。


(わあ!景色がとっても綺麗ですっ!)

(これが、上から見た街……。みんな、生きてる……)

(お前ら平気かよおおお!俺もう呼吸以前に心臓止まりそうなんだけどおおお!)


カナエたちの最大到達速度は実に時速六〇キロを超えていた。

計算にして四五秒で滑り台を完走する。

ぎりぎりカナエの呼吸が持つかどうかだった。

自宅が街の端っこに近いという偶然の立地条件が功をそうしていた。

ただ一つ、問題があるとすれば……


(――カナエさまっ、これどうやって止まるんですかっ?)

(ごめん!ちょっと荒っぽいことをする!)

(とっても今更ですよぉ!)

(カナエ、どうするの……?)

(滑り台の先に“薄い氷の壁”を沢山作ってくれ!俺が踏み抜いて速度を落とす!)


ゆきは歯を食いしばって正面を見据え、右手を伸ばす。

平面四角形の薄氷を進行ルート上に幾つも生成する。

カナエは震えるゆきの右手をきつく握りしめる。

数多の氷の生成や今しがたの氷の滑り台、『絶対空間テレスティアル・グローブ』による時間停止を連続行使したゆきの力は限界に達していた。


……ゆきを助けると啖呵を切ったくせに、今だってゆきに負担を強いなければ何も出来ない。

レヴィがいなければここまで来ることが出来なかった。

だから、無力なカナエでも出来ることは躊躇ためらいなく実行する。

しかしカナエに出来ることは、二人の代わりに体を張るぐらいで――


カナエは体を丸めつつ、両手を広げてゆきとレヴィを覆い隠す。

両足に衝撃が走り、じんとして感覚が麻痺する。

踏み抜いた氷の破片が飛散して、カナエの頬や手足を切り裂いた。

酸素不足によってカナエの意識がぼやけていく。

今すぐにでも時間停止を解除して呼吸したかった。

カナエたちの滑走速度は確実に、徐々に落ちていった。

カナエは来たる最後の衝撃に備えて、滑りながらで体を器用に捻って、ゆきとの位置と交換した。

進行方向に背中を向けた形となる。


そして氷の滑り台は自宅手前で途切れ――カナエたちは玄関に投げ出された。

氷の壁を踏み砕いて尚未だに残る勢いは、カナエを容赦なく玄関に叩きつけた。


(…………。……お前ら大丈夫か……?怪我とかしてない……?)

(私は大丈夫……でもカナエが、大丈夫じゃない……)

(カナエさまこそ大変ですっ!)


玄関で肉体を弛緩させたカナエを、ゆきとレヴィが泣きそうな顔で心配していた。

痛みを堪えて顔を上げたカナエは、彼女らの無事を確認するとだらしのない苦笑いを浮かべた。

カナエの顔面は酸欠によって、赤色を通り越して青ざめていた。


(大丈夫そうだな……。ゆき、最後の大仕事だ。あの氷全部、なかったことにしてくれ)


ゆきは上空に築かれた氷のオブジェクト群を、強い意思と共にきっとひと睨みすると――氷の組成粒子を『分子運動操作』で剥離させることにより――ゆきの生成した氷全てが溶けるように空間へと霧散して、大気へと還元された。


――ゆきの操る氷の正体は、固体化した窒素氷晶ちっそひょうしょうだ。

大気中の七八パーセントを占める窒素気体を、分子運動操作によって固体へと相転移させて自在に操る。

氷の固定や射出などの単純な座標指定動作をも分子運動操作によって制御を可能とする。

そして、凝固点マイナス二一〇度の窒素氷晶にカナエたちが直に接することが出来たのは、窒素氷晶表面の“冷たさ”をも内部へと押し込めていたからだ。


冷却に際して等価交換的に発生する排熱はいねつは、ゆきの能力では生まれない。

高速分子あつさに関与せずに、低速分子つめたさのみの自在制御を可能とする。

『現象妖精』としてのゆきは、熱力学第二エントロピーの法則を突破する思考実験の果ての空想上の怪物、『永久機関マックスウェルの悪魔』をも超える存在だった。


『接続ポール』に展開された氷の網、宙に掛かる八〇〇メートルもの氷の滑り台が、ゆきの分子運動操作によって組成粒子ごと剥離される。

分子間結合を解かれた窒素氷晶は固体から気体へと逆戻りし、空気中に溶け込んで消えていった。

同時に『絶対空間テレスティアル・グローブ』の効果は終わりを告げ、止まっていた時間は再び動き出す――


「――ぜえ……はあ……ぜえ……はあ……ぜえ……はあ……」


玄関にもたれかかりながら、カナエの肉体は呼吸を欲することを止めなかった。

一時的な過呼吸症候群に陥っていた。

瞳には涙を溢れさせ、唇の端からは涎が垂れ落ちている。

それでも、言わないと。


「……ただいま……」


+++++


カナエたちの衣服はボロボロになっていた。

特に血で汚れたゆきの純白のショートドレスや、カナエの制服は先に着替えさせたほうがいいだろう。

しかし、カナエにそんな余裕は無かった。


「俺は、ゆきのことを何も知らない。だから色々と聞きたいんだけど……」


閉め切ったリビングにて、二人掛けの小さなテーブル越しにカナエとゆきは相対していた。

テーブルの上には透明なポットと二つのカップ、レヴィが使うドールハウス用カップ。

それらの中には紫色の液体が注がれている。


「これは……?」

「ラベンダーのハーブティーですっ!美味しいついでに鎮痛効果があるんですよっ」

「レヴィはその左腕を心配してんだよ」


ゆきの左手二の腕部分は、血のにじむ包帯で巻かれていた。

ゆきを病院に連れて行くことは出来ない。

ただ幸いなことに、契約状態の『現象妖精』は損傷バグの修復が著しく早かった。


「俺は心配する以前に怒ってるからな。二度とそんなことするなよ」

「カナエ、レヴィ、ごめんなさい……」

「謝る相手が違う。ゆきを傷つけたゆき自身に対して謝るべきだと思うぞ。

誰も傷つけたくないからって、自分なら幾ら傷ついてもいいだなんていうのは、もう止めにしような……」

「……はい……。私、ごめんなさい」


ゆきはカップの中に映る自分に謝った。

そしてハーブティーに口を付ける。

その温かさに目を丸くしつつも、僅かにカップを傾けてはほんの少しだけ口に含んでゆく。


「……で、質問なんだけどさ、なんでゆきは『時間を止める』ことが出来るの?」


逃走中は必死で考える余裕がなかったが、やはりどう考えてもおかしい。

ゆきの存在は、『現象妖精』としての範疇を超えている。

「分子運動操作――氷を操る能力と、『絶対空間テレスティアル・グローブ』による時間停止は別物です。

前者が、『現象妖精』としての物理現象です。

後者は、他の『現象妖精』に干渉する権限です」

「……干渉する権限?『現象妖精』が同じ『現象妖精』に対して命令出来るっていうのか?」

「その通りです。地球圏に展開した『星空を満たすものエーテル』を介して、『現象妖精』に干渉することが出来ます。

それによって発せられる特定の命令は、『最上位要請インペリアルオーダー』と呼ばれるものです」

「なんだ、そのエーテルってのは?」

「媒体……領域を不可視の流体で満たし、入力した情報を揺らぎとして、彼方かなたまで届けるもの」

「もうちょっと日本語で喋ってくれよ」

「私もレヴィも、日本語、喋れません……」

「ああ、お前らが日本語喋ってるんじゃなくて、俺が勝手に『ストレンジコード』を聞き分けてるだけだったな。

……さっきのそれ、要は水面に小石投げつけたら波が広がっていく的な?」

「いんぺりあるおーだーはなんでしょう?」

「なんかインペリアルって響きすごい偉そうだな。……偉いやつの命令?」


カナエはしかめっ面を浮かべながら、ゆきの情報を頭のなかで練り合わせていた。

『現象妖精』に干渉する『現象妖精』。

そんな話は聞いたことがないが、そもそも『現象妖精』が生まれてから一〇年が経った今でも一向に研究が進んでいない。

何もかもが手付かずで未知のままだ。故に、カナエが知らないというだけでは、その話を否定することは出来なかった。


「……要するにゆき、お前は凄く偉いやつなのか?

ゆきは『現象妖精』の中でも特別で、ゆきの持つ『時間を止める』すごい能力を目当てに、あの黒ずくめの集団が追ってきてたのか?」


そうであれば、カナエたちが時間を止めて逃げてきたことも既に把握されていることになる。


「……私専用の『最上位要請インペリアルオーダー』の固有権限を、彼らは知りませんでした。

私ですら、今日初めて緊急起動して、その内容を知りましたので……」

「なんだ、なら良かった――って、ちょっと待って」


一瞬安堵したカナエは、断片的な単語の意味するところに理解が及び、目眩めまいを覚えた。


「黒ずくめどもは時間停止の力を知らない――ってことは、他にもゆきが追われる理由があるのか?」

「…………」

「ゆきが逃げ出した『エーゲンフリート・ラボ』はアズガルド直属の施設だ。

この神戸もアズガルドが作った街なんだけど、ゆきはあのアズガルドに追われてるのか?

下水道で通信してたゲス男が『灰谷義淵』とか『七大災害』って言ってたよな?

その言葉とゆきはどういう繋がりがあるんだ?

ゆきはいったいどれだけの理由で狙われてるんだ?

躊躇いなく人を殺すようなヤバイ敵が、黒ずくめの他にも沢山いるのか?」

「――カナエさまっ!落ち着いてくださいっ!」


思わず立ち上がったカナエを、宙に浮いたレヴィが引き止めた。

精一杯両手を広げるレヴィは、悲しげな表情を浮かべていた。


「……ゆきちゃんが、怯えています。

こんなに強引なの、カナエさまらしくありませんっ……」


頭のうつむき加減によって、煌めく銀髪が両の瞳を覆い隠す。

ゆきは、小さく震えていた。


「あ……すまん……」


再び椅子に掛け直して、ラベンダーティーをすする。

ゆきと同じように、俯いて視線を逸らす。


レヴィに諭されて、カナエは自身の暴走を猛烈に恥じた。

カナエは完全に冷静さを欠いていた。


「あのさ……その……えっと……」


カナエは取り繕うようにゆきに言葉を掛けるが、情けないことに続きが一向に出てこない。

多くを語らないゆきでも、これまでの境遇は何となく察しがつく。

色々な人間に、これ以上無いくらいに傷つけられてきたのだろう。


……そんなゆきを一緒になって傷つけてどうするんだ。

敵ばかりしかいなかったゆきの、味方になるんじゃなかったのか。


「――カナエさまは、ゆきちゃんのことをもっと知りたいんです。もちろんわたしも知りたいですっ。

でも、それはきっと、ゆきちゃんにとって辛かったことや悲しかったことばかりだと思います。

だから、今すぐじゃなくていいんですっ。落ち着いてから、また今度聞かせてくださいっ。

……ゆきちゃんとは、これからずっと一緒なんですからっ……ねっ?カナエさまっ」

「ああ、そうだな……。ありがとう、レヴィ」


“これからずっと一緒”というレヴィの言葉に、カナエは強く肯定することが出来なかった。

ついには会話が途切れた。

無言のままであると、カナエは良くないことばかり考えてしまう。


先ほどゆきに浴びせた質問たちが、今度はカナエの頭のなかでグルグルと駆け巡っていた。

『アズガルド』、『灰谷義淵』、『七大災害』、『ゆきが追われる沢山の理由』、『ゆきを追う沢山の敵』。

それらの単語一つ一つが、個人では手に負えない規模のものだった。


そもそも、カナエはレヴィのような一般的なサイズの『現象妖精』を匿うつもりでいた。

ゆきの前でこそ自信を見せつけるが、この先も神戸で過ごしていける根拠はどこにもなかった。

どうしたものかとカナエは悩む。

せめてこの暗い空気だけでも変えたいと思っていたところ、


――ぐーぎゅるるるるる。


カナエは音のする方に目をやると、俯いたままお腹を抑えているゆきがいた。


+++++


「カナエさまぁ、甘いもの、なんにもありませんっ!ケーキも今朝食べたので最後ですっ!」

「まじかよ……。確かに今まで、レヴィの分だけあればいいって考えだったからなあ……」


ゆきのような人間サイズの『現象妖精』に、提供できる食べ物は何もなかった。


「カナエ、玄関にサトウキビ生えてた」

「ダメに決まってんだろ!」


ゆきを置いて買い出しに行くのは不安だ。

かといって、レヴィに買い出しなんて頼めない。


「デリバリー頼むか」


スマートフォンで一九七階層のケーキ屋を検索して、片っ端から電話していった。


『お昼までに全部売り切れちゃいまして』

『うち今バイト足りないんで配達受け付けてないんすよねー』

『シェフとオーナーが喧嘩しててそれどころじゃないんです』

『ケーキ屋やめてラーメン屋始めたんだ。一杯どうよ?』

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』


「クソ!」


カナエは携帯をベッドに投げつけた。

どうやら詰んだらしい。

そこか虚ろな表情でお腹をさするゆきを見かねたのか、レヴィは一つの提案をした。


「――ゆきちゃんを連れて、一緒に食べに行けばいいんじゃないでしょうかっ?」

「いやごめん、流石にそれは……」


このままずっと、ゆきを家に閉じ込めておこうとは考えていない。

機を見て外に連れ出してはやりたい。ただ、それが今日なのはマズイだろうと、楽観的なカナエでも言わざるを得ない。


「大丈夫ですっ。下水道は真っ暗だったのでカナエさまの顔は見られていません。

それにあの黒ずくめの人たちのゴーグルから、映像の電波は送信されていませんよっ。

送受信されている電波は音声だけでしたのでっ。そのゴーグルは全部壊しちゃったので、ひとまず安心ですっ!」

「いや電波って。なんでそんなことが分かるんだよ。

レヴィの眼がいいのと関係なくない?」

「あれっ?――電波って見えません?」

「はあ!?」


おおよその電波は人間には視認出来ない電磁放射である。

そして視認可能な特定の電波を光と呼ぶ。


「目を凝らすと薄い色がいっぱい見えるんですっ。色の種類で、どんな電波か分かりますよっ」

「いや普通人間は電波とか見えないんだけど!というかなんで言ってくれなかったんだ!?」

「ええっ!?当たり前だと思っていたのでっ……」

「レヴィ、私にも電波なんて見えない」


人間だけではなく、『現象妖精』であるゆきにとっても電波は不可視であった。


「……レヴィは『現象妖精』として物理現象を引き起こせないだけで、ちゃんと何らかの物理現象を司ってるんじゃないか?

というかやっぱ、『現象妖精』の時点で物理現象だろ。

実はレヴィ、ポンコツなんかじゃなくて、本当はすごいやつなんじゃ……」

「レヴィ、すごい」

「ふえええええええええええええ!?わたしがっ、ポンコツじゃないっ!?」


レヴィは興奮してリビングを飛び回る。

瞳の中の星々が、過去最大級に輝いていた。


「ノゾミ先生に今度レヴィを調べてもらわないとな」


これまで学校の旧実験室では、カナエばかりが研究材料になっていたのだ。


「そういえばカナエさまっ、学校はどうするんですかっ?」

「この土日で考えようか。まあ、そんなことは後回しで――」


カナエは今更レヴィの言うことを疑う気はない。

逃走に際して、レヴィはカナエよりも遥かに活躍していた。

その眼の良さが、何か特殊な能力に由来するものだという納得感すらあった。


「――美味しいもの食べに行くぞ。研究区画からここまで、一〇〇階層以上離れてるしな」

「やったぁー!」

「あの、カナエ……、私が外に行っても、いいのでしょうか?」


ゆきはおずおずとカナエを見上げる。

上を向いた際に銀髪が左右に流れ、青い雪の結晶クリスタルブルーが垣間見えた。

その瞳の揺らめきには、不安な感情と同時に、どこか期待感のようなものがあった。


「いいに決まってるだろ。ただ、その格好どうにかしないとな。

……変装でもするか」


+++++


「きゃーこれカナエさまのぱんつでしゅ!」


扉越しにカナエはレヴィの悲鳴を聞いた。


「俺が都合よく女子用のパンツ持ってると思うか!?小学生の時のブリーフで我慢してくれ」

「感触が気になります……穿かないと、駄目ですか?」

「いいから穿け!ノーパンとか俺も気になるから!」

「ゆきちゃん!足を広げてこれを上に持ち上げるんですよっ!」


――ゆきは服の着方を知らなかった。


『現象妖精』はこの世界に関する知識をたずさえて“抽出”される。

しかし、その知識を応用出来るかどうかはまた別の話である。

そしてこれまでのゆきは、花嫁装束にも似た純白のショートドレス一着で生きてきたのだ。


『現象妖精』は現実世界に顕現する際、肉体と一緒に衣服をも構成することが出来る。

この初期状態は『標準状態デフォルト』と呼ばれるものである。

本来ならばゆきが身に纏う衣服の損傷バグも自動修復されるはずだが、極度の疲労困憊のなかで注がれる僅かな修復リソースは、左腕の刺し傷を優先していた。


「カナエさまっ!ブラジャーは!?」

「だからねえよ!てか、ゆきの胸にそれ必要ないだろ」

「何をおっしゃいますか!ちゃんとふっくらしてますよっ?わたしほどではないですが」

「マジで!?……んなこと言われても無いものは無いから」

「もー!わたしはちゃんとおっぱいありますっ!」

「おめーのことじゃねーよ!……ゆき、パンツと一緒に後で買うから、今はナシで頼む……」

「というわけでゆきちゃんはノーブラですよっ!両手をバンザイしてくださいっ!」

「バンザイ……?こうでしょうか?」

「ゆきちゃんの髪の毛長すぎてTシャツが入りません!頭の上に掻き上げてくださいっ!」


ゆきとレヴィの声は、はたから聞いてるとまるで仲の良い姉妹のようだった。

もっとも、下水道で出会った時の印象とは逆転して、今の状況ではレヴィが姉で、ゆきが妹であるが。


「ゆきちゃんの銀髪すっごくもふもふですっ!今からTシャツ下ろしますねっ!」

「あっ……痛っ……。カナエ、胸のところが擦れて、とてもひりひりします……」

「絆創膏でも貼ってやれ!」


カナエは無心を保つために、意味もなくその場を歩き回る。


「――カナエさまっ!ばっちり終わりましたよっ!」

「まじかよ……クソ適当な服渡したはずなのに……」


あまりのゆきの似合いっぷりに、そのボーイッシュな美少女っぷりに、カナエは絶句した。


カナエが小学生の時に着ていた、白地の上から黒の骸骨が描かれたTシャツがひどく様になっていた。

またカナエは、ゆきの腰回りの細さに合わせて、これまた小学生時代に穿いていた紺色のハーフデニムパンツを差し出した。

使い古されたお陰で生地が所々剥げているが、ゆきが穿くとダメージ加工のホットパンツに変身してしまった。

Tシャツとデニムパンツも、ゆきのか細い肉付きに合わせると、どうにも丈の短さが際どいものになってしまう。

Tシャツはおへその上で見切れて、デニムパンツは太ももの付け根近くまでを大胆に露出する。

垣間見える繊細な胴回りのくびれに、すらりと伸びる手足。

雪原のような肌の白さが、カナエの網膜に焼き付いた。

そしてレヴィの言う通り小振りではあるが、それでもはっきりとした少女の胸の膨らみがTシャツの上から見て取れた。


「――カナエ、どうして固まっているのですか?」


ゆきはカナエを見つめて小首を傾げる。

腰までかかる銀髪が、はらりはらりとしなだれる。


「……いや、えっと……、その……。……そうだな!ちょうど今考えてたところなんだよ。

変装するなら、その長い銀髪はバッサリと切ったほうがいいかなって」

「カナエさまっ!それはあんまりです!髪は乙女の命なんですよっ!?」


珍しくレヴィがカナエに反論した。


「でも、レヴィの長かった金髪だってバッサリ切ったぞ?まあ今は元に戻ってきてるけど」


かつてうなじで切り揃えたレヴィの波打つ金髪は、半年を経て背中半ばまで伸びている。


「……だってあの時はっ、カナエさまが切ったほうがいいって言ってくれたのでっ!」

「あれはレヴィの寝相が悪くて、目覚ましのベルに何回も髪が絡まってて可哀想だったから」

「ううっ、そんな裏事情があったのですかぁ……でもっ、ゆきちゃんはどうなんですかっ?」

「カナエが言うなら、そうします。私は……カナエの言う通りに、したいから……」

「やっぱりゆきちゃんも、わたしと同じなんですねっ」

「何が同じなんだ?さっぱり分からんぞ」


謎の意気投合をするゆきとレヴィを尻目に、カナエはぶっきらぼうに言う。


「ともかく俺はゆきの髪を切るぞ。すまんが、その量の髪を隠しきれるほどの大きな帽子は家にない。

そこまで長くて綺麗な銀髪は、外国人が多い神戸の街でも目立ちすぎる」

「髪は長いと、綺麗なんでしょうか……?」

「いやいや、ゆきは別に長髪も短髪もどっちでもきれ……ああもう!ちょっと待ってろ!」


カナエは気恥ずかしさを隠すように、わざとらしく音を立てる足取りでクローゼットに向かった。

タンスの上から四段目の引き出しから、ステンレス製のハサミと空のスプレー容器、長めの白タオル、折り曲げ式のコンパクトミラーを取り出す。

今度は台所に行き、スプレー容器を軽くゆすいでから中を浄水で満たし、去り際に棚からポリ袋を引っ掴む。

テーブルとシングルベッドの相間の空間にポリ袋を敷き、重石のように上から椅子を乗せる。

最後に、椅子に座ったゆきが自分の顔を見えるようにと、コンパクトミラーの角度を調節してからテーブル上に配置した。


「じゃあゆき、そこに座ってくれ」


ゆきはちょこんと椅子に座る。

閉じた膝の上に両手を載せて、鏡の中のカナエを見やった。


「カナエさまは髪を切るのがとってもお上手なんですよっ!料理だってちゃんと一人で作れます!

……でも、散髪屋じゃなくて、どうして自分で切るんでしょう?」

「……昔っから遊び相手もいないし、一人で出来ることは何でも暇つぶしにやってたんだよな。

……料理とかもそうだけど、こういう一人で極めれるものが俺の趣味なのかもしれん」

「つまりカナエは、一人ぼっち……」

「こらそこあわれむな!人のこと言えねーだろ、てめーもぼっちだったろうがー」

「ひゃっ……ごめんなさい……」


カナエはふざけるように言いながら、ゆきの絹糸のような手触りの銀髪をわしゃわしゃと漁る。

……少し、後悔した。

シャンプーなんて使われたことがないはずのゆきの髪は、それでも目を背けてしまいそうな濃厚な“女の子の匂い”を空間に漂わせたのだ。


『現象妖精』が『標準状態デフォルト』へと戻ろうとする修正力が、髪を常に清潔な状態に保っていたのだろう。

嗅覚が否応なく満たされると同時、何か固いものが手に触れた。

それはゆきの左側頭部に留められている、三つの白い花弁を咲かせる雪待花の髪飾り。


「ゆき、悪いけどこの髪飾りも幽体化でしまってくれるか?」

「……出来ません。私にとってこの髪飾りは、肉体の一部として規定されています」


下水道で、ゆきの血は髪飾りにも跳ねていた。

カナエが拭き取った覚えはないのに、白い花弁に赤色は見えない。

左腕の刺し傷と同じように、それは肉体の損傷バグとして修復されていた。


「わたしが見たところ、ゆきちゃんの髪飾り、構造的に外せないようになってますよっ」

「別に付けっぱでも髪切るのにそこまで困らないけど。ただ、後で隠したほうがいいかな」


そう言って、カナエは作業を開始した。

ゆきのほっそりとした首にタオルを巻いて、Tシャツの下に髪の毛が入り込まないようにする。

今度は浄水を霧状に噴射するミストスプレーで、銀髪をほぐすように湿らせた。

ゆきの髪は長いが、バッサリと切る予定なので、濡らす髪は肩から上のものだけでいい。

カナエは取っ手の穴が指一つ分しかないステンレスのハサミを右手に携え、鏡越しのゆきを見つめた。


「俺女の子の髪型とか分からんから、レヴィと同じ感じに切るぞ」

「カナエの好きに、してください」

「ゆきちゃん、わたしより短くなっちゃいますねっ!」


カナエは切り口を探るように、ゆきの銀髪を見つめる。

そしてワイングラスを逆手で持つように、うなじ半ばの一房ひとふさを、左手の指の間に挟み込んだ。

掲げてから手を離すと、水分を含んだ髪はさらりさらりと流れていく。

指の隙間から零れ落ちるそれは、まるで砂漠のひとすくい。


「……カナエ、何をしているのですか?」


半ば目的を忘れて銀髪のキャッチ&リリースを繰り返していたカナエは我に帰る。

じっと動かずされるがままのゆきが、鏡に映ったカナエを不思議そうに見つめていた。


「いやごめん、なんか、女の子の髪とか触ったことないから、触り心地すげーなこれ……」

「カナエさまぁ!わたしの存在をお忘れですかぁ!」


レヴィはカナエにジト目を効かせながら、小さい体を大きく張って抗議した。


「いや、レヴィ身長三〇センチだし、そもそも指で髪摘めないから感触が分からん」

「ううー、ちょっとゆきちゃんが羨ましいですっ。

わたしもゆきちゃんみたいに大きかったら、カナエさまにちゃんと散髪してもらえるのに。

……女の子だって、分かってもらえるのにっ」

「あーもー、悪かったって。人形みたいに小さくても、レヴィはゆきと同じ女の子だからな」

「大丈夫です。きっとレヴィも、大きくなりますから」


全く根拠がないゆきの言葉でも、レヴィは多分に勇気づけられた。

主に自分の胸を見ながら。


「そういえば、レヴィの髪はどうやって……?そのハサミだと、少し大きいです」

「眉毛用の化粧コスメハサミ買って使った」


ゆきにはその単語の意味が分からないのだろう。

カナエの手の平に収まる頭が、左に傾いた。


「こら、もう動くなよ。ハサミがブレると危ないからな。しばらくじっとしててくれ」

「……はい……!」


何故かゆきは目をつむって、来たる何かに備えるように、表情をほんの少しだけ強張こわばらせた。

ゆきの銀髪をいじっているうちに切り口の目星を付けたカナエは、肩甲骨辺りの髪を左の指で挟む。

その指の内側に沿うようにして重ねた右手のハサミを、ゆっくりと閉じた。


――じゃきり。


その瞬間にゆきの髪ではなくなった銀の一房は、床に敷いたポリ袋にことりと舞い落ちた。


「……あれ……?切られたのに、痛くありません……」

「んなわけねーよ。髪の毛は肉体の一部だけど、神経も通ってないから痛みなんか感じないぞ。

もしかして――痛いと思ってて、それでも我慢しようとしてたのか?」

「……髪を引っ張られると、すごく痛いので……ごめんなさい」


申し訳なさそうにゆきは言う。

レヴィは下水道での一幕を思い出したのか、瞳に涙をたたえた。


「――バカ。レヴィが泣き虫妖精なら、ゆきはごめんなさい妖精かよ。

そう何回も謝るな、ゆきは何も悪いことをしていない。

あと我慢もするな、自分が傷つきそうになったら俺に言え」

「……………………はい……」


カナエは仕方のないような微笑みを浮べて、ゆきの頭を軽くぽんと撫でる。

作業を再開した。

一旦髪を切り始めてしまえば、カナエは止まることはない。

自分で自分の髪を切って、人形サイズのレヴィの髪をも経験していたカナエにとって、ゆきの髪の攻略は存外簡単だったのだ。

まずは大まかなアウトラインを描くようにざっくりと切り落とす。

要らない部分を気にする必要はないのだ。

カナエもゆきもレヴィも、ずっと無言だった。

じゃきり、じゃきりと軽快な音だけが響く。


「……カナエ、なんだか不思議です。気持よくて、ぽわぽわします」


ゆきが話しかけてきた頃には、気がつけば相当な時間が経っていた。

長かった銀髪は、今や肩のラインまで短くなっている。

足元のポリ袋の上に、銀髪が羽毛のように散乱していた。


「確か、散髪時はハサミの振動がその髪を伝って、頭皮を軽く刺激するんだと思うぞ」


カナエは自前の雑学を披露ひろうするが、ゆきは聞いてはいなかった。

どこか無愛想さすら覚えるゆきの無表情が、同じ無表情であっても、少し緩やかになったような気がした。

レヴィはテーブル端に両足を投げ出し、両手で頬杖を付いて、カナエとレヴィを笑顔で見守っていた。


じゃきり、じゃきりと音がする。

窓を閉め切った静かなリビングに、ただ延々と、ハサミと髪がリズムを刻む。

大雑把に切ったアウトラインに、カナエは繊細にフォローを入れていく。

ほんの少しだけ髪を指に挟み、指に重ねたハサミで切り取る。

僅かに切り込みを入れては、再度微調整を繰り返していく。

ゆきの肩のラインに沿って切り残されていた銀髪は、時間経過と共により短くなってゆく。

銀髪が短くなるにつれ、カナエのハサミを切り込むリズムが早まった。

終わりへと近づいた。


――――――――じゃきり。


「……ふぅ……。出来たぞ、ゆき」

「…………」


ベッド横のゴシック時計を見れば三時を示している。

あの下水道での出会いから、僅か一時間半しか経っていない計算になる。

それはどこか、遠い昔の記憶のような気がした。


カナエは少し後ろに下がって、ゆきのショートヘアの仕上がりを眼を細めて確認する。

なかなか満足の行く仕上がりになっていた。

うなじ半ばで切り揃えた銀髪は、丁寧に毛先を切り込まれてゆるやかにふわっとしている。

後頭部や側頭部を覆う髪、両耳から頬にかけてのサイドヘアのボリュームに厚みを残してメリハリをつけることで、髪全体の立体感を演出している。

ゆきがロングヘアだった時は、その髪質をストレートだとカナエは思っていたが、どうやら腰まで伸びる髪の自重じじゅうでなだらかに見えていただけだった。

髪の重みを取っ払ったショートヘアになってから、ゆきの銀髪の印象は一転して、髪はほころんでふわふわとした綿菓子のようだ。


「ゆきちゃん、とっても可愛くなりましたねっ!」


レヴィはまるで自分のことにように喜んでいた。


「いや、まだ前髪が残ってる。ゆき、ちょっと眼を閉じててくれよ」

「…………」


カナエはゆきの前方に回りこんで、眼を覆い隠すほどの前髪に手を付けようとした。


「……って、寝てるのか?」


そこでカナエは、初めてゆきが眠っていることに気づいた。

ゆきは椅子に深くもたれ掛かり、リラックスした状態で肩をかすかに上下させていた。

耳を澄ませば、すーすーと可愛らしい寝息が聴こえてくる。

寝息と言っても、『現象妖精』は生命維持に呼吸を必要としないので、これはただ肉体に空気を循環させているに過ぎないのだが。

カナエはゆきの前髪を切りながら、微睡まどろむゆきを起こさないように小声でレヴィに話す。


「レヴィ、ゆきはいつから寝てたんだ?」


前髪をほんの少し左の指で挟んでは、ぱさりぱさりと切り詰めてゆく。


「ずっと前からゆきちゃんは寝てましたよっ。カナエさまは集中してらっしゃったのでっ」


目の前で安らかに眠るゆきを、カナエはさも嬉しそうに、少し恥ずかしそうに眺めていた。


「でも、なんで散髪されてると寝ちゃうんでしょうねっ。わたしも前は寝ちゃいましたし」

「散髪中はぽわぽわして気持ちよくなるって、さっき言っただろ?

でも、それだけじゃ眠れないかな。

単純に疲れてたのもあるんだろうけど……それでも大切な所を預けても良いと思える人じゃないと、散髪中に眠れない気がする。

俺が勝手にそう思っているだけかもしれないけれど――俺だってそうだったからさ」


ゆきは、もう既にカナエのことを信用してくれている。

それが、カナエには嬉しかった。


「カナエさまは自分の髪を切りながら眠れちゃうんですねっ。すっごく器用ですっ!」

「器用すぎんだろ、どんな夢遊病者だソイツ。俺もしてもらってたんだよ……母さんに、昔」

「カナエさまの、お母さま……?」

「あ、出来た」


カナエはまた少し後ろに下がって、ゆきの銀髪のショートを確認した。

心なしかゆきの左目の方向に逸れて伸びる前髪が、ふんわりと広がるサイドヘアによく似合っている気がした。


まだ、終わりではない。

今でこそゆきは眼を閉じているが、まぶたの中に宿す瞳は人間にはありえない青い雪の結晶クリスタルブルーの紋様だ。

前髪を切らないでいても良かったが、ここまでやっておいて肝心の場所に手を付けないというのをカナエは許せなかった。

だから、隠さないといけない。


カナエはクローゼットへと向かうと、一番下の引き出しから古びた帽子を取り出して、ぱんぱんと丁寧にはたいて埃を取り払う。

それをすやすやと眠るゆきの頭部に、そっと置いた。

ラフな銀髪のショートの上から、目を隠すようにつばを目深まぶかに被らせる。

灰とモノトーンでグラフチェック模様を描く洒落しゃれたキャスケットは、ゆきのボーイッシュな美少女っぷりを増長させた。


「カナエさまって帽子持ってたんですか?さっき、長髪を隠せる大きさの帽子はないと……」

「目を隠せるぐらいの帽子なら、ずっとしまってたからな。それは、父さんの」

「カナエさまの、お母さまに、お父さま……。今はどこかにいらっしゃるのですかっ?」

「言ったことなかったっけ。

七年前の『神戸グラビティバインド』で被災死した一三六人の内の一人が、俺の母さんだった。

……ちょうど、避難誘導が遅れた区画だったらしい。

俺はその時、自然学校に行ってたから助かった。

今俺がそれなりの生活を一人で送れてるのは、見舞金名目で毎月お金が振り込まれてるからなんだ。確か名義は国からだったような……」


何でもないようにカナエは言う。

結果的に母を殺した市政を、恨んでいないと言えば嘘になる。

しかしその恨みは、『七大災害』を引き起こした『現象妖精』という存在にも向かってしまう。

カナエは彼女たちを恨むことが出来ない。

だから、そんな感情は風化させると決めていた。


「…………お父さまの方は?」

「全然記憶にないし、今どうしているかも分からないかな。

俺が小さい頃に母さんと別れて、ほとんど母子家庭として育ったし。

母さんは父さんのことを酷く嫌っていたけど、その男物のキャスケットは父さんの唯一の形見として、なぜか昔、母さんが俺にくれたんだ」

「……わたしはカナエさまのメイドなのにっ、カナエさまのことを何も……うぅ、ひっぐ……」

「なんかごめんな、湿っぽい話して――その、ありがとう」

「ほえ?」


自分のために泣いてくれたレヴィを、カナエは泣き虫妖精と責めることは出来なかった。

しかしカナエは、レヴィに聞き返されて恥ずかしくなったのか、話題を逸らすように提案する。


「……そうだな、レヴィも少し寝てろよ。今三時だろ?四時になったら出掛けるから。

ちょうどその頃には、ゆきの左腕の傷も治っているだろうし」

「なんで四時なんでしょう?」

「今朝、約束しただろ。三ツ星フランス洋菓子店『ルネ・ベルモンド』のいちご尽くしケーキ」

「あっ、ルネは閉まるのがとっても早いですからねっ!」

「ゆきは道端のサトウキビ以外食ったことないって言うしな……」

「わたしもゆきちゃんの喜ぶ顔がみたいですっ!ではっ、しばしお休みなさいっ」


椅子に座るゆきのむき出しのふとももにレヴィはゆっくりと降り立つと、甘えるようにゆきの手を取って共に眠りにつく。

瞬く間に、二つの静かな寝息がカナエの耳に届いていた。


「寝るの早すぎだろ!」


カナエは二人掛けテーブルのもう一方の椅子に座って、仲睦まじく眠るゆきとレヴィを見守っていた。

するとポケットから突然、携帯の着信音が鳴り響いた。

着信相手を確認すると――


「――ぐえっ、ノゾミ先生……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る