一章「神戸グラビティバウンド——Reverse city——」①

……土曜日はお昼まで授業がある。

先週はサボってしまったが、今日だけはちゃんと行くと決めていた。

本当は行く気なんて全く無いが、言われた通りにしないと面倒なことになる。

だから寝る前に目覚まし時計の確認もした。

じゃあ、なんでベルが鳴らないのだろうか……


室月むろつきカナエは閉じたまぶたでうつらうつらと思考を錯綜させながら、右斜め上、目覚まし時計の普段の定位置に右手を落下させた。


ぷにゅっ……。


その感触は時計らしからぬ柔らかな弾性を示していた。

押したり引いたり摘んだり、指の動きに順応じゅんのうして変形する様はどう考えても時計のそれではない。

ついでに振動も鈍く伝わってくるようで、いよいよって不穏を感じたカナエは、意志の力で重いまぶたをこじ開けた。


――振動する二つのベルの間に挟まれた小さな女の子の尻を、カナエの右手は掴んでいた。


「この状況で……寝てるのか……ッ!?」


ゴシック調の大きな時計、その上部についたテニスボール大の二つのベルの隙間に、ピッタリと顔面をめり込ませて少女は爆睡していた。

本来ならば大音量で起床を知らせるベルの振動を、両頬を押し付けた少女の顔面が余すこと無く吸収している。

ウェーブのがかった自らの金髪に埋もれた少女の寝顔は、高速でブレる最中であるにも関わらず大変安らかなものであった。

ベルの振動によって、開いた口からこぼれる涎が忙しなく左右に飛び散っている。


「ブルドッグかよおめーは」


幸せそうに爆睡する少女の頬を、右手でむぎゅうと変形させるが、当然の如く無反応で小さな寝息を立て続ける。

カナエは強硬手段に出ることにした。

曲げた人差し指が元に戻ろうとする力を親指で押し留めて、少女のひたい中央に照準を合わせ、いわゆるデコピンを炸裂させた。


ペチンッ、とキツめの音を響かせて――それと同時に少女はガバッと顔を上げた。


「――キャ、キャナエしゃまあぁあぁ。大変らいへんれしゅ、大地震だいずぃしん!いましゅぐ避難いなんを!」

「揺れてるのはレヴィの頭だ」


カナエはレヴィと呼んだ少女の腰へと右手を回し、ユーフォーキャッチャーの要領で持ち上げた。


「ひゃっ!」


――ジリリリリリリリリリリッッッッ!


“つっかえ”が取れてベルが鳴り出す。

カナエの右手に掴まれたレヴィは、俗に言うメイドさんの格好をしていた。

黒のロングワンピースの上から白のフリルエプロンを羽織った姿は、人間で言う背中半ばまで伸びるナチュラルウェーブの金髪も相まって、一見してコスプレではなく本場英国人のような出で立ちをしていた。

しかし、それを着用するレヴィの身長は三〇センチ前後とお人形サイズである。


「……もう時間ですねっ。カナエさまっ、朝食を取りましょう」

「もう時間がない」

「ほえ?目覚ましが鳴っているので七時じゃないんですかっ、って……え、はち、八時じゃすと……ひゃああぁぁぁぁあ!ちこくですうううう!」


レヴィはこの世の終わりとばかりにしゅんと落ち込んだ。

カナエの手から離れて時計のすぐ隣に降り立つ。

未だ虚しく鳴り続ける時計の、突き出された長さ数センチのスイッチを両手で押す。

そのままレヴィはスイッチにすがりつき、下を向きとつとつと事情を語り出した。


「……今日こそはメイドらしくっ、先んじてカナエさまを起こそうとしましたっ……」

「また起こされたんだけどな」

「ひゃい!」


図星の指摘にビクリと反応したレヴィが、その衝撃で再度スイッチをかちあげる。

また耳障りなベルがけたましく鳴り響くが、レヴィがその音を消す心の余裕はなかった。


「カナエさまのお目覚めに、淹れたての紅茶と甘いケーキを、頂いて欲しかったのですっ」

「……」

「目覚まし時計のすぐ隣で寝れば、カナエさまよりも先に起きれると思ったのですが、ですがっ…………時計をまくらにしてしまいましたぁ……」


レヴィの瞳は澄んだ翡翠色をしていて、その瞳とは別に、眼の中にはデコレーションシールと見間違えてしまいそうな淡く黄色い星模様が刻まれている。

申し訳なさで少し潤んだ瞳の中で、星がきらめいているようにも見えた。

カナエは鳴り続けるベルのスイッチを、レヴィの両手ごと、そっと下に降ろして音を消した。


「過ぎたことは仕方がない。『現象妖精』だけじゃなく、人類だって睡眠欲には抗えないからな」

「早寝遅起きの『現象妖精』なんて、メイドとしてちっともカナエさまの役に立ってませんっ」

「寝る子は育つって言うだろ。レヴィは健やかに寝て大きくなって、ボンキュッボンでスタイル抜群のスーパーメイドに将来なってくれ。今はその布石だ、多分」

「でもわたし、実はスタイルいいほうなんですよっ?」


レヴィは安っぽい色目でカナエを見やる。


「……定規と分度器で図ってやろうか?」

「わたしのバストは図形じゃありませんっ!」


僅かな自信を速攻でぶち折られたレヴィは消沈する。

しかし眼の前にあった時計を見て初心を思い出したレヴィは、ガバっと顔を上げてまくしたてた。


「そうですっ!カナエさま、学校です学校!どうしましょう」

「よし、サボろう」

「遅刻してでも行きましょう!先週もサボられましたので余計にっ!」

「その日は前日にバニラエッセンスと下剤入れ間違えたケーキ食わされたせいだろうが」

「ひゃあごめんなさいぃいぃい」

「なんかもう今日はダラダラしたい気分なんだ。もう行かない。レヴィはどっか行きたい?」

「分かりました」


切り替えが早い。


「では喫茶店とケーキ屋とアイスクリームの屋台とあんみつ屋とそれから……」

「胃がもたれるわ!たまには人間用に主食挟め」

「――わたしたちは甘いものしか食べれませんっ。わたしにとっては、甘いもの以外を食べたいって人間の気持ちが分からないんですっ……」

「えっとなレヴィ、『現象妖精』が唐辛子入りのおつまみや麻婆豆腐食べたらどうなる?」

「前にカナエさまのものを一口頂いて、洗面台に直行しましたっ……」

「人間はそれほどじゃないけど、甘いものしか食べないってのは中々堪えるんだぜ」

「『現象妖精』は甘さしか栄養にならないのでっ、カナエさまにはいつも同じようなものを……」

「いやいや、そこまで責めてないから!脳味噌の回転には糖分が必要とかどっかで聞いたし、特に朝とか頭ボケてるから目覚ましがてらに丁度いいんじゃない?

……ということで頼むよ」

「ほえ?」

「メイドさんになってくれるんじゃなかったのか?ほら、紅茶とケーキ」

「あ、はいっ!お膳立てしてまいりますので、今しばらくお待ち下さいっ!」


そう言い残して、シングルベッドの真向かいにある台所へと、レヴィはすっ飛んでいった。

『現象妖精』というが、彼女たちには羽がない。

重力を制御して飛行するわけでもなく、単に彼女らは地表や重力といった概念に縛られずに空を歩いているのだ。


レヴィは自分と同じ大きさの給湯ポットの『温める』ボタンの上に着地し、半ば浮いた状態で時間と温度調節のステップを刻んだ。

次にポットから離陸して、冷蔵庫のすぐ横にある食器棚に降り立つ。

そこにあるスプーンを一つ掴み、柄の部分を冷蔵庫の扉の隙間に差し込んで、テコの原理で力を加えて開けてみせた。

一番上の段に手を伸ばし、昨日カナエと買いに行った飾り気のないのスポンジケーキの一切れを皿に乗せて、その重量と戦うようにに危うげに取り出した。

頭に乗せて、うんしょうんしょとゆっくりとした速度でテーブルに運んでいく。


その後もレヴィは冷蔵庫とテーブルを何往復もして、裸のスポンジ生地をケーキへと飾り立てていく。

クリームとチョコをめいっぱい絞り、銀箔で覆われた粒上の糖衣菓子アラザンをまぶし、カットされたいちごとパイナップルを上に載せる。

あっという間に絵になるものが出来上がった。


カナエはそれを見届けてから、レヴィと入れ替わるようにして台所に向かう。

台所で歯磨きを終えて帰ってくる頃には、レヴィは熱湯の入ったコップにティーバッグを垂らしていた。

そのコップを、レヴィではなくカナエがテーブルまで運ぶ。

ケーキと違って、落としでもするとレヴィに被害が及ぶからだ。

それを見たレヴィは、少しだけしゅんとした表情を浮かべた。


「お砂糖とミルクはどうされますか?」

「棒のやつ二つとフレッシュたっぷりで」

「棒のやつ……これを二つですね!」


レヴィがどこからか持ってきた細長い容器を見て、カナエは目を剥いた。


「それも下剤だ!また土曜をオジャンにする気か!」

「ふええ、なんでこんなに下剤がいっぱいあるんですかあ」

「この前買い物任せたらレヴィが沢山買ってきたんだろうが!どんな間違え方をした!」

「色と形が似てたのでついっ……」

「コレ置いてた場所どう見ても食品コーナーじゃなかっただろ!俺の家の食卓には少なくとも錠剤とかプロテインは並んでないからな!」


正しいものを持ってきたレヴィは、んぎぎぎぎと精一杯の力を込めて開封し、コップへと流し込む。

釜をかき混ぜる魔女よろしく、全身を使ってスプーンで砂糖とミルクを溶かしこんだ。


「カナエさまっ、準備完了です」


広いとは言えないリビングの中央に置かれた二人掛けテーブル。

テーブル上に立つレヴィと、カナエは対面する形で座る。

さっきまでただのスポンジ生地だったものは、店頭に並べられていても遜色のないくらいに鮮やかなケーキへとデコレーションされていた。

紅茶だって、どこの会社の給仕係よりも上手く淹れているはずだ。

なのに、レヴィは不満そうな表情をしていた。


「どうしたんだ?よく出来てるじゃん」

「……わたしにもっと出来ることがあればいいなっ、って思ってました」


カナエはケーキにフォークを突き立てて、所在なさげにもじもじとするレヴィを見やる。


「熱量操作能力があればっ、ケーキを生地から作れます。重力操作能力があれば、調理器具を使うことができます、コップだって運べるし、紅茶だって一人でブレンド出来るかもですっ」

「ケーキ作ったりしてるじゃん。よく劇物混ぜたりするけど」

「生地はだいたい市販ですっ。それに包丁やオーブンを使う時はいつもカナエさまに頼ってばっかりです。わたしは、あるじさまに使われるべき『現象妖精』なのにっ、何の能力も……」


レヴィの目元がうるみだす。

溢れた涙は、瞳の中の星すらも流してしまうようで。


「いたっ」

カナエはレヴィにまたデコピンした。スプーンにケーキの欠片を載せて、レヴィに差し出す。

「ウジウジするなよ、泣き虫妖精。お前は涙を司る能力でも持ってるのか」


レヴィは口いっぱいに頬張りながら、すぐに笑顔を浮かべてみせた。


「はむっ。カナエさまっ、ありがとうです」


今度は使い終わったフレッシュ容器の一つに、カナエは紅茶をよそってレヴィに手渡す。


「この前俺が代わりに朝食作っただろ。少なくともその時の俺はこんなに可愛くケーキデコれなかったし、ティーバッグの紅茶だってただの苦い汁に生まれ変わったぞ。だから誇っていい」

「わたしはもっとカナエさまをお世話したいですっ!パーフェクツなメイドみたいにっ!」

「じゃあめっちゃ寝ろ。寝て大きくなったら調理でも何でも出来る」

「またそれですかぁ!次こそはカナエさまに起こされないようにしますからねっ!」


お互い口元にケーキをつけながら、ケラケラと笑い合う。実に和やかな朝食風景であった。


――ピピピピピピピピ。


ベッドの枕元に置いたスマートフォンから、デフォルトの着信音がこだました。

おそるおそるカナエはそれを手に取り応対する。


「ノゾミ先生、あのこれは――」


有無を言わせない返す刀が、スピーカーから部屋中に響き渡った。


『――カナエ君、今日こそは学校に来いとワタシは言ったはずだが何をしている?もしかして寝坊してレヴィ君とイチャついた後そのままバックれて休日を謳歌するつもりか?』

「エスパーか何かですか」

『科学の先生らしくお手製の盗聴器を君の家に仕掛けておいた』

「全国の科学の先生は盗聴器なんて作りません!」

『簡単な推察だよ。この時間までカナエ君は学校に来ていないが、電話にはすぐに出て声色は異常なし。つまり寝坊やワタシの仮定は外れて、日頃の行いからサボってるとしか思えない』

「推察でもなくただのこじつけだけど言い返せない……。ちなみにその仮定ってのは何です?」

『レヴィ君による素敵ブレンドの美味しい紅茶でカナエ君がトイレとお友達だった場合』

「やっぱり仕掛けてるでしょ!Gメン的なの部屋に呼んでいいですか!?」

『いや、昨日レヴィ君が淹れてくれた紅茶から異臭がしたので、成分分析に回したら市販の下剤に使われているアントラキノンなどが検出されてね』

「なんてもんを持ち歩いてるんだ俺まで勘違いされるだろうが!」

「びゃあノゾミさんごめんなさいぃいぃい!」

『レヴィ君はあの灰谷義淵ですら発見し得なかった便通を司る妖精なのかもしれない』

「割りと実用的だけど物理学一切関係ねえ!」

「わたしにも新たな力が!?」


繰り返し頭を下げて謝罪し倒していたレヴィは、ガバッと顔を上げて目をキラキラとさせた。


「現金なやつだなお前」

『うん?レヴィ君はなんて言ってるんだ?』

「チッ、飲んだら一キロはダイエット出来たのに」

「そんなことは言ってませんっ」

『二キロほど痩せたよありがとう』

「飲んだんすか!異臭したってさっき言ってましたよね!」

『まあそんなことはどうでもいい』

「あ、はあ」

「カナエ君は結局今週も、いや、今月も来ないつもりのか?土曜日だけ一度も出席していないじゃないか。一学期の間、そして二学期に入って二週間目の今も』

「国民の休日はきっちり謳歌したいんです、たぶん……」

『休日出勤している社会人を舐めているのか?』

「すいません」

『君が何を考えてボイコットしているのかはどうでもいい。いいな、八時四〇分までに来い』


通話が途切れた。

カナエは携帯をベッドに放り投げて、飲みかけのカップにまた口を付けた。


「カナエさま、もしかしてその紅茶おいしくないですか?」

「いいや違うんだレヴィ。これは苦虫を噛み潰したような表情って言うんだよ」

「ひえっ!虫まで入れちゃいましたかわたしっ!?」

「ちっげーよモノの喩えだ!」


はあ、と溜息をついてからレヴィに状況を説明した。


「今日遅刻したらマズいってことですか?あと甘味処巡りもなし……。でもちゃんと行きましょうカナエさまっ!そもそもなんで土曜ばっかりサボられるのですか?」

「行きたくねえんだよ、あの授業。ほら、なんていうか、苦手科目っていうか?」


カナエは適当な調子でうそぶきながら、ケーキを綺麗にさらえてゆく。


「カナエさまが……学校を退学になったらわたしも悲しいですっ。一緒に頑張りましょう!」

「時間的に無理だな」

「またわたしのせいで……ううぅ……」

「だーかーらー、泣き虫妖精になるのやめろ。まだ便秘妖精の方がマシだ」

すっ、とカナエはレヴィに半分ほど紅茶が残ったカップを差し出した。

「砂糖追加してくれ。あの棒のやつ、ちゃんと砂糖でな」


レヴィはすぐに動いてくれるかと思えたが、ブツブツと呟きながら珍しく思案に耽っていた。


「棒のやつ、棒のやつ…………。はっ、カナエさまっ!まだ間に合う方法がありますっ!」


+++++


「おいレヴィ、どうやったら間に合うんだこれ?」

「カナエさまっ、ベッドに携帯をお忘れですよっ」

「お、おう。ありがと」


カナエは玄関に出ていた。

レヴィはカナエが背負うリュックの中に、携帯と一緒に入り込む。

その後、開け口からひょっこりと頭だけ出した。

カナエは玄関の鍵を締めつつ、ふと横目で塀に囲まれた小庭を見やると、思わず顔をしかめてしまうような植物を見つけてしまった。

天に向かって直立する緑色の厄介者やっかいもの――


「サトウキビまた咲いてるよ……」


――『現象妖精』が現れてから、甘いものに関連する産業全般が世界規模で発展した。


その内の一つとして、砂糖の原材料であるサトウキビの品種改良が行われ、いかなる天候下においても成長が可能な全天候対応型の物が生み出された。

雑草と見紛えるほどの強靭さをもったサトウキビは、今まさに雑草の如くあらゆる地域の路端に咲いてしまっていた。

たとえるなら湖に巣食う外来種。

可食であっても食べる気は起きず、ならば何の恩恵もない。


「この前刈ったはずなんだけど見過ごしてたのかなあ……。お前食う?」

「絶対に嫌ですっ!『現象妖精』はとってもグルメなんですよっ!?わたしはカナエさまのせいでスイーツの味を覚えてしまったんです。いまさら、糖分だけとか耐えられませんっ……」

「冗談だって」

「道端に咲いたサトウキビを食べるなんて正気の沙汰じゃありませんっ。いくらわたしの大好きなカナエさまであっても、そんなことを言われたらとってもぷんすかぷんぷんですよっ!?」

「すげえ怒ってるな!わるいわるい」

「三ツ星おフランス洋菓子店『ルネ・ベルモンド』のいちご尽くしケーキで許してあげますっ」

「ちゃっかりしすぎだろ!……いいよ、また今度な」

「わーい!棚から高級ぼた餅ですっ!」

「で、話戻していいか?高校まで四〇分掛かるのにあと二五分でどうするんだよ」

「わたしにお任せあれっ!まずはこの道を左に走って下さいっ!」


しぶしぶ言われたとおりに、カナエは歩道を駆け出そうとして、足が止まる。


「いやちょっと待て。これ反対方向じゃねえか、右だろ?」

「いいえっ、左です!」


カナエは後ろを振り向く。

リュックの開け口のふちに手を掛けたレヴィの表情はとてもしてやったり感が満ちている。

少し逡巡したが、どうせ遅刻するんだから幾ら遅れても変わりやしないと考えて、カナエはレヴィの指示に従うことにした。

今、レヴィの瞳の中のお星様を数えたら幾つになるだろうか。

そんなことをカナエは考えながら神戸の街を疾走する。


街並みは新しく、色とりどりの建築物が所狭しと並び尽くす。

カナエ宅のようなプレハブ作りもあれば、木造建築から異人館風のレンガ作りまで、ジャンルの区分なく乱立している。

マンションやビルといったもの所々見かけるが、高さは一律で八階相当までのものとなっている。

その建築高度制限は景観を乱すからというものではなく、――単に光源の邪魔だからである。


街の上に広がるものは青空ではなく、高さの限り有る灰色の天井なのだ。

等間隔で敷設された高明度の――『光子フォトン』を司る『現象妖精』によって稼働する――照明装置が照らしだす。

光源だけではなく、街を維持するシステムの一部として『現象妖精』は必要不可欠である。


――カナエはこの光が嫌いだった。


「このあとどうすればいいんだ?この先行き止まりなんだけど」

「その行き止まりでいいんですっ。街の端っこまで向かいましょう!」


走りながらカナエは周囲の人々を見渡す。

神戸の街には、外国人が当たり前のように沢山いた。

ぱっと見では、日本人の次にゲルマン系のドイツ人が多いようだ。

走ること約五分。

帰宅部で運動不足だったカナエには、たった五分の走りこみでも限界に近い。

面倒になって、もはや走るのをやめて疲労時特有の斜め上を向いたスタイルで歩いていた。

どこまでも代わり映えのしない天井の灰色を眺めていたが――突如青色に切り替わった。


北北西NNW三四五度と書かれた標識が落下防止用安全柵に固定されている。

久しく街の外を眺めていなかったカナエは、ふとその光景を写真に収めたくなった。

携帯を正面にかざすと、ここぞとばかりにリュックから飛び出したレヴィが隅っこで密やかにピースした。

カシャッ――


――鮮明な青に、線を引く無数の鈍色。


目の前には雲ひとつなく広がる青空があった。

しかしその空の絶景を台無しにするかのように、鈍色のポールが何本も何本もまばらに乱立していた。

さながら青色のキャンパスの上から灰色の絵の具を浸した絵筆を上から下へと乱雑に塗りたくるような景色だった。

ポールは真っ直ぐに伸びるものだけではなく、右に左に勝手気ままに傾くものも見て取れる。

見方を変えれば、このポールであみだくじが出来そうだな、とカナエは勝手な感想を抱いた。

彼方まで望む空と安っぽいポールの群れ、それがカナエの住む神戸という街の端っこだった。


カナエは満足気に携帯をポケットにしまうと、柵から乗り出して下を覗いた。

眼下には数メートルものぶ厚い地盤を隔てて、一九六階層のオフィス街が広がっていた。

オフイス区画はその用途から居住区画よりも高さがある。

連綿れんめんと続く階層と階層は、積層するミルフィーユのように幾重にも連なり続けている。

カナエははるか下のその果てを探すように、階層の一番下まで眼を這わせようとしたが、ある距離からは白いもやに包まれて何も見えなかった。


「ここまで来ちゃったよおい。ここから二三階層下の俺の高校までどうやって行くつもりなんだ?…………おい、まさか落ちろとでも言うつもりか?」

「はいっ!お察しの通りでございますカナエさまっ!」


ガクッ、とカナエは柵に体重を預けてしまう。


「街と街を行き来するためには、『エレベータ』を使うしかないんだぞ」

「……ええっと、カナエさま、これがなにか分かりますか?」


レヴィがゆるやかに飛行してポールをトントンと叩く。

それはどんよりとした鈍色をしている。

街の外側あちらがわから伸びて来て、ゆるやかに曲がりながら柵の内側こちらがわの地層へと深く刺さっていた。


「なんかの鉄パイプ?」

「違いますよっ、階層と階層を外側から補強する『接続ポール』です。ちなみにそれは鉄じゃなくて炭素結晶で、『現象妖精』によって加工された絶対折れないすごく硬い棒なんですよっ」

「お前めっちゃ詳しいな」

「社会の先生の言葉を借りました!カナエさまは幸せそうに涎を垂らしていましたがっ」


珍しくレヴィに何かを教えられ、カナエは思索した。


「じゃあ何、街の上に街を作るときに後乗せ後乗せで、この景観丸潰しの野暮ったい棒どもが何重にも重なっていったわけか。見慣れた光景だったけど、改めて見るとすっげー無計画だな」

「お菓子に甘さが足りないからって砂糖をドバドバまぶしていくわたしみたいですねっ」

「市販の糖度基準値に慣れろ!……で、レヴィは俺に、滑り棒をしろって言ってるのか?」

「流石はカナエさまっ、すぐに分かってしまいますっ」


カナエは昔を思い出す。

小学生の頃――正確に言うならば一〇歳前後の記憶だ。

この神戸まちの度胸試しと言えば一階層分下へと続く滑り棒だ。

カナエはそれを囃し立てる側ではなく、やらされる側だった。

しかし同類の要求は何度か飲んだことはあれど、この滑り棒だけは一度たりとも決行したことはない。

それ以外にもカナエが後ろ暗い少年時代を過ごす要因となった出来事は数多あり、目を背けたくなるような惨憺さんたんとした記憶がノンストップで脳内再生されていった。


「うへえ」

「どうされましたっ?口元がヒクヒクされていますが?」

「ちょっと懐かしんだだけだ。……よし、やろう」


カナエは腕まくりをして再び柵へと近づこうとした。


「カナエさまっ、お待ちください!わたしが接続先を見てまいりますっ!」

「おう、任せた」


レヴィはシュバッと空の中へと飛び出した。


「ええっとですねっ、うーん……、あ、これです!」


レヴィが指し示したポールは柵から手の届く場所にあった。

これならそこまで危険なく捕まることが出来るだろう。

レヴィは戻ってくるなりリュックの口から頭を出す定位置に収まった。


カナエは思う。

決して過去のトラウマめいたものに決別を告げたいとかそういう訳ではない。

目の前に棒があったら滑りたくなるのが男ってものなのだ。

そう、意地になってはいない。

カナエは身を乗り出してポールに捕まり、一声を放つなり足場を離れ落下感に身を任せた。


「おら見てろよあのクソガキどもめがッ!!」

「?」


カナエはスルスルと滑り落ちていく。

数メートルの厚みを持つ地盤を通過し、階下の街並みを見下ろす。

カナエの住む街では見当たらない高層ビルがところ狭しと並び続けていた。

すぐ目の前のビルでお仕事していた人達は、無数にひしめく『接続ポール』の一つを絶叫しながら滑落するカナエを見て表情を固まらせた。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「風気持ちいいですねっ!ねっ!」


約四〇メートルの滑り棒だ。

怖くない訳がなかった。

重力加速度が上乗せされて早まる落下感は、鉄の錆びたジェットコースターさながら生きた心地のしない時間をカナエに提供した。


「やっぱ無理やっぱ無理やっぱ無理やっ……」


しかしそれももうすぐ終わる。

本当の意味でのエレベータのように、目の前にあるビルの階数が段々と下がっていく。

もうすぐこの『接続ポール』は柵の内側へと侵入する。

そして空に投げ出されたカナエを柵の内側へと運び届けるのだ


「地面。恋しい。帰ろう」


そしてオフィス区画の地表へと近づき、――目の前をそのまま通り過ぎた。


「……は?」


今度は一九五階層自然再現区画、通称『ブナの森』がカナエの眼下に展開された。

ビルの代わりに巨大な広葉樹林が隙間なく生い茂っている。

森林の合間には『エレベータ』――地表から天へと伸びる計二六本もの灰色の巨大な柱――があちこちに点在している。

豊かな緑と灰色の建造物を縦横断するようにして、透き通った川が迷路のように線を引いていた。


「緑が綺麗だなあ空気が美味しいや!じゃねえだろちょっと待てレヴィどういうことだ!すぐ下の階層で終わるんじゃなかったのこれ!?」

「何を言っているのですかカナエさまっ」


後ろから顔を伸ばしたレヴィは、きゃぴっとした笑顔でさらりと言い放った。


「――一九七階層から一七四階層まで直通ですよっ」

「はあああああああああああああああああああああ!?二三階層分って何メートルあると思ってるんだ一キロぐらいあんぞテメエ!」

「途中でお仕事階層や自然いっぱい階層を挟んでるので、精確にはあと一.二キロですっ!」

「余計ダメじゃねえかあああああああああああああ!」

「カナエさま、これも社会の授業でやっていま――きゃっ!」


取り乱したカナエが激しく後ろを振り向き、その反動でレヴィがリュックから投げ出された。


「おい大丈夫かっ!」

「きゃああああああああああああああ」


上昇気流に乗せられたレヴィは上へとカナエの手の届かない所まで離れて行くかと思えた。


「あっ、わたし飛べるんでしたっ」


くるりと向きを変え飛んできて、落下するカナエに並んだ。


「良かった!レヴィは無事かあ、じゃねえよ!!ふざけんな!手が熱くて溶けるって!」


カナエは死を直感した。

飛ぶのはナシにしても、生きて帰るには取り敢えず落下速度の加速を止めなければならない。

カナエは風ではためく制服の裾の上から『接続ポール』を握り込む。

同時に靴底で『接続ポール』を力の限り挟み込んだ。

掴んだ制服の繊維が熱されて溶けていく。


キュルキュルキュルキュル!と靴のゴムが擦り切れる音は、落下が止むまで続くこととなる。

自然再現区画とその地盤を突き抜けて、カナエの住む階層と似たような街並みが広がった。

落下速度は緩やかになり、一九四階層の落下防止用安全柵と丁度同じ高さで停止した。

柵までは五メートルほど離れている。

自力で地面に帰還することは不可能だが、幸いにして、目の前には柵に手を載せて外の景色を眺める少女が居た。


少女はアレンジを施したセーラー服を身に纏っていた。

その襟元や袖口などの随所には星やハート型、動物を模した刺繍が施され、スカート丈も街の規律を無視したかのように太もも半ばまで詰められている。

少女は黒髪のロングストレートに、フレームが水色の眼鏡を掛けており、その童顔には理知的な風貌が見て取れた。

丁寧にセットされた黒髪の上からは、月桂樹げっけいじゅを模したカチューシャ――束ねた葉でかんむりを成しているような髪飾り――が留められている。


「……さっぱり意味が分からないわ……………………」


いきなり上から滑り落ちてきて、目の前の位置で停止したカナエを見て少女は思わずぼやいた。


――直後、何故か少女は口が滑ったとでも言うように、左手の指で唇を押さえつける。


「……?と、ともかく!そこの学生さん!いきなりだけど理由を聞かずに大人を呼んできてくれるか!?今ちょっと手が離せなくて……」


カナエは必死に懇願するが、少女は唇に手を当てたきり無言だった。

棒に掴まるカナエを、少女は怪訝な目つきでじっと見つめる。

若干引いているようだった。


「何か言ってくれよ……まだリアクション取ってくれたほうが嬉しいんだけど!」


柵の外側で棒に掴まるカナエと、五メートルを隔てて柵の内側にいる少女との相間には、なんとも言えない沈黙が漂っていた。

カナエは気まずそうな表情を浮べ、言葉を続けようと――


「――さっき電話で、例の違法業者の引渡し成立が確認出来たぞ」


ぶっきらぼうな声が、少女の遠く後ろから聞こえてきた。

ビジネススーツをラフに着こなしたオールバックヘアーの青年が、少女の元へと歩いてくる。

どうやら青年の位置からは、少女に隠れてカナエが見えていないようだった。


「現場のブツはあるだけ全部押収した。後は専門家にでも任せて、お前の里帰りにでも付き合ってやるよ――って、何だコイツ!?」


ある程度近づいたことで、青年はカナエの存在に気づく。

青年の視界内に納められた少女の体から、『接続ポール』に掴まるカナエの姿がはみ出たのだ。


「何だよこのブタの串焼きみてえなのは……」

「そこの学生さんの保護者ですか!?……てか若くね?……と、ともかく、俺今めちゃくちゃピンチなんですよ!どうか俺をこの『接続ポール』から助けてもらえないでしょうか!?」

「すまんが全く意味が分からねえ。でも確か、神戸じゃ『接続ポール』の滑り棒は度胸試しみたいなもんだろ?……ニイチャンは自分で滑っておいて、いざ怖くなると助けを呼ぶのか?」

「いや、違うんです!一般的な神戸の度胸試しと呼べるものは一階層分の距離を滑るだけなんですが、今俺が直面しているアクシデントは――」


言い訳染みた言動を早口でまくし立てるカナエを、青年はピシャリと一蹴した。


「――ちょっと情けねえなあ。自分のケツぐらい自分で拭いとけよ」

「…………」


カナエの表情筋が高速で振動する。

それを面白がったレヴィがカナエの頬をつついた。


「わあ、カナエさまがマナーモードみたいですっ!」


静観していた改造制服の少女が、たまらず小さく、ぷっと吹き出した。

相変わらず指で唇を押さえつけたままではあるが、それは発言を我慢するというよりも、笑いを堪えているようだ。


「まあ、頑張って滑ってみな。何事も最後までやり切るってのは大事だぜ」


青年はカナエから興味を無くしたとでも言うように、踵を返して去っていった。

青年に釣られて少女も、カナエからくるりと背を向ける。

唇を封じていた指を外し、両手を背に回して青年を追いかける。

どこか優雅さを感じさせる後ろ姿から、ささやき声が発せられた。


「――滑ってみなさいよ、この意気地なし」

「ンン……!!」

「カナエさまが激しくマナーモード!」

「さっきから何言ってんだおめーは」

「カナエさまっ、通報して助けてもらいましょう!リュックから携帯をお取りしますねっ!」

「ああ、そうすりゃ良かったな。でも、もういい」

「ほえ?」

「うん。滑ろう。一キロちょい」


カナエは清々しい表情で言い切った。

……そうやって、ある種の余裕が生まれると、それまでとは違った思考が頭をよぎる。

例えば、改造制服の少女が元々眺めていた方向、など。

青年の会話によると、どうやら少女は里帰りをしているらしかった。

同じ神戸の生まれと聞くと、先ほど少女に植え付けられた羞恥心は忘れ、どこか親近感すら沸いた。

カナエは自分が生まれた場所に――ふと真上に視線を向ける。

レヴィもカナエにならって、あんぐりと上を向く。


――約一〇キロ先に、街の上にある天井とは姿形が全く違う、見渡す限り果てまで続く別の天井が覆っていた。


殺風景な焦げ茶色の天井がどこまでも一面に広がっている。

しかしそれは、天井と呼べるものではなく、天蓋てんがいと言った方が正しいだろう。

遥か遠方を見やれば、焦げ茶色から深い青色へと色彩がくっきりと変化しているのが見て取れた。

そう、大地から海へと。

本来ならば人の立つべき大地の天蓋が、積層都市『逆さまの街・神戸』を覆い尽くしていた。


――その街はことわりに反していた。


さながら天から地へと伸びる、反転するバベルの塔が如く。

街は地表から静止衛星へと繋がる一本の構造物、軌道エレベータに沿うようにして建設された。

成層圏下部、高度二〇キロに存在する“重力反転境界面”を基板とし、居住、オフィス、研究、自然再現区画などを重ね続けて現在二九八階層。

全高、直径共に一五キロを超える規模を持つ積層都市――


――『逆さまの街・神戸』は、『七大災害』における復興都市のモデルケースである。

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