第8話 スーパーで出くわす

 遠くの国で戦争が起こることより、政治家の裏金問題が発覚したことより、六十五円のおにぎりが撤去されたことの方が俺には一大事だった。


 スーパーの一角、棚の前で立ち尽くす。

 夕食の買い出しに来ていた。

 それまで六十五円で売られていた格安のおにぎり。それがなくなっていた。百円以上のおにぎり群に棚は埋め尽くされていた。

 六十五円のおにぎり。貧乏学生にとっては天からの恵みのような存在だった。

 こんなに安くて利益が出るのかと心配になるくらいに。

 撤去されたのを見るに、やっぱり全然儲けは出ていなかったのだろう。

 おにぎりだけじゃない。卵や洗剤、トイレットペーパーに至るまで。ありとあらゆるものが値上げしていた。


「なのに豆腐、お前は凄いよ……」


 俺は絹ごし豆腐を手に取ると、買い物かごに入れる。三個入りで税込八十五円。一食あたりおよそ三十円。

 一人暮らしにおいて栄養をどう確保するかは最重要課題だ。

 野菜は高い。それに買っても使い切れない。カット野菜なら食べきれるが、実は栄養があまりないという話を聞いたことがある。製造過程で失われるのだとか。本当かどうかは分からないが、その話を聞いて以来、何となく忌避している。


 卵も高い。買うは買うけど、高い。一昔前は一パック百円で買えたらしい。俺が一人暮らしを始めるよりも前の話だ。今は二百円とか下手すると三百円近くする。三倍だ。

 そこで豆腐だ。安い。その上、美味い。栄養もある。最強だ。納豆もいい。豆腐と納豆と卵があれば何とかなる。

 一応栄養のことを考えているが、別に長生きしたいわけじゃない。無頼派を貫くだけの覚悟も度胸もないだけだ。


 一番安い卵と豆腐、納豆、パックご飯を買い物かごに入れる。サバの水煮缶も。たまには鶏肉でも買おうかと店内を移動していた時だ。


「店員さん、こんにちは」


 同じく買い物かごを手にした二十五番さんがいた。俺に気づくと、ひらひらと空いてる方の手を振ってくる。


「どうも」


 俺はぺこりとお辞儀をする。


「けど、この場所で店員さんって呼ばれると、ややこしいというか。他の客にスーパーの店員だと思われかねないというか」

「商品がどこにあるか聞かれちゃうかもしれませんね」

「まあ、一応案内はできますけど。通ってますし。それより、意外でした。二十五番さんもスーパーで買い物とかするんですね」

「店員さんには、私のことどう見えてるんです?」

「何というか、生活感がなかったので」


 コンビニには来るけど、買うのはいつもタバコ一箱だけだ。それ以外は買わない。彼女からは生活の匂いがしなかった。


「水と埃だけ食べて生きてると思いました? 私も普通に買い物くらいしますよ」


 そう言った彼女の買い物かごの中には、銀色の缶が無造作に放り込まれていた。


「それ、お酒ですか」

「はい。好きなんです。ハイボール」

「タバコも吸うし、お酒も呑むんですね」

「甘いものも好きですよ」


 普通、酒を呑む人は甘いものを好まず、甘いもの好きは酒を好まない。けれど二十五番さんはどちらも嗜むらしい。珍しい気がする。


「他には何か買われないんですか?」と俺は尋ねた。

「というと?」

「いや、夕飯の買い出しにきたのかなと」


 買い物かごの中には酒の缶だけ。他には一切入っていない。生活の匂いもしない。


「お酒だけです。お酒とタバコを買ってると、余裕がなくて」

「つかぬ事を聞きますけど、ちゃんと食べてます?」

「一応食べてますよ? たぶん」

「ちなみに今日一日の献立とか聞いてもいいですか」

「朝はコーヒーとサプリ、お昼はメロンパン、夜は未定ですけど、たぶんお酒とツナ缶を食べると思います」

「……え、毎日そんな感じなんですか?」

「そうですねえ。だいたいは」

「…………」


 思わず絶句してしまう。想像していたよりずっと酷かった。これなら刑務所の食事の方が幾分かマシだ。


「いや、さすがにもっと食べた方が良いですよ。倒れますよ」

「え? でも私、健康ですよ?」

「今はそうかもしれませんけど、そのうちぽっくり逝きかねませんよ。どう考えても栄養足りてないですし。納豆とかいいですよ」

「納豆、ネバネバしていて苦手なんです」

「じゃあ、豆腐とか」

「味が薄くて物足りないかなって。醤油も買わないといけないですし」

「卵はどうですか」

「料理しないといけないのがちょっと。調理器具、家にないんですよね」

「一つもですか?」

「ただの一つもです」


 二十五番さんは全く自炊をしない人らしい。自炊はしなくとも、調理器具の一つくらいは家にあるものだと思っていた。


「そもそも私、食べるのあんまり好きじゃないんです。何だか面倒臭くて。一人で食べるのはつまらないですし。サプリを飲む方が楽じゃないですか」

「もしかして二十五番さんって、凄い面倒臭がりですか」

「かもしれません」

「かもしれないっていうか、確実にそうですよね。最近、ゴミ袋を俺のベランダに投げ入れることもしなくなりましたし」

「捨てないととは思うんですけど、気づいたら面倒臭くて後回しにしちゃってて」と弁明するように言う二十五番さん。


 たぶん、捨てられずに放置されているのだろう。料理をろくにしないなら生ゴミとかはないだろうし、匂いとかは大丈夫だろうけど。

 二十五番さんは俺の買い物かごの中身を見やると、


「店員さんはちゃんと栄養のことを考えていて、えらいですね」


 と感心したように言った。そして何の気なしに尋ねてくる。


「もしかして、長生きしたいんですか?」

「面と向かってそう聞かれたら、恥ずかしいですけど」


 長生きしたいわけじゃないけど、早死にしたいわけでもない。生きたいけど、どうしても生きたいだけの理由までは特にない。

 そう考えると、彼女の刹那的な生き方の方が美しく思えてくる。燃え尽きる前の流れ星がもっとも輝きを放つように。輝いているように見える。

 絶対にそんなことはないのに。


「本当に食生活には気を遣ってください。まずは三食ちゃんと食べましょう」

「ふふ。心配しなくても大丈夫ですよ。それにもし私が倒れたとしても、店員さんに迷惑はかけませんから」

「そうじゃなくて!」


 気づけば声を荒げていた。


「迷惑をかけるとか、そういうことじゃなくて。俺は倒れて欲しくないんです。二十五番さんには元気でいて欲しいんですよ」


 燃え尽きる直前に強い輝きを放つ流れ星のような生き方。

 遠くから見ている人は、その美しい光景を見て喜ぶかもしれない。格好良いと囃し立てるかもしれない。

 でも俺は嬉しくない。光を放たなくてもいいから、消えないで欲しい。燃え尽きずに夜空に在り続けて欲しい。

 そう思った。だから口走っていた。


「……そ、そうですか……」


 突然、俺に声を荒げられ、二十五番さんは目を丸くしていた。こんなふうに驚いた彼女の表情を見るのは初めてだった。

 間を置いて、羞恥が込み上げてきた。店内で声を荒げてしまった。すれ違う客たちが俺たちに一瞥を寄越してくる。何とも言えない気まずさに襲われる。


「お叱りを受けてしまいました」


 二十五番さんはぽつりと自虐するように呟いた。俺に向かってというよりは、自分の胸のうちを表に出したというように。


「年下の男の子に面と向かって叱られてしまったら、これはもうちゃんと言うことを聞かないといけませんね」


 そう言うと、ふっと微笑む。そして俺に伺いを立ててきた。


「店員さん、もう少し買い物に付き合ってくれませんか?」


 

 スーパーを出た俺たちは、アパートに向かって歩いていた。

 夕陽が落ちかけ、街の濃い影がアスファルトに伸びている。

 互いの手には買い物袋が提げられていた。俺のはエコバッグ。二十五番さんはLサイズのレジ袋だった。

 レジ袋の中には食材が詰め込まれていた。サバ缶とか、パックご飯とか。その代わりにハイボールの缶の数が減っていた。


「荷物、持ちますよ」

「いいんですか?」

「俺が買わせたようなものですから」


 当初の予定通りなら、酒だけだった。角ハイボールの缶だけだった。そこにサバ缶やご飯やカット野菜が増えていた。

 その増した分の重みは俺のせいだ。だから持とうと思った。


「ありがとうございます」と彼女は微笑みながら言う。


 シンプルなお礼の言葉だった。さんくすでも、ありがとうさぎでもない。コンビニの時にしか他の言い回しはしないのだろうか。


 両手に買い物袋を提げ、夕陽に染まった道路を歩きながら俺は考える。どうしてさっきあんなに声を荒げてしまったのか。今さらながらに恥ずかしくなってくる。

 別に彼女の食生活がどうであろうと、俺には関係ないはずだ。彼女が倒れようと、迷惑が掛かりさえしなければ。なのに。


「あの、さっきはすみませんでした。声、荒げてしまって。しかも店の中で。周りの人にも見られてましたし」


 二十五番さんはきょとんとした顔をした後、からかうように言う。


「顔を覚えられたら、次からちょっと店に行きづらくなるかもしれませんね」

「……すみません」

「でも、久々に叱られました。呆れられることはあっても、面と向かって叱られることはほとんどありませんでしたから」

「生意気でしたよね」

「そうですね。ちょっぴり生意気でした」と冗談めかしながら言った後、彼女は柔らかな微笑みを浮かべた。


「心配してくれて嬉しかったです。私に倒れて欲しくないって、そう思ってくれてるのが分かって嬉しかったです」


 俺よりも少し先に歩いて行った二十五番さんが、足を止め、くるりと振り返った。  もうその頃には夕陽は沈み、夜の青が訪れていた。

 後ろ手を組みながら、彼女は言う。


「ちなみに、私も店員さんには元気でいて欲しいですよ」

「ゴミ出しをしてくれる人がいなくなるからですか?」

「お友達がいなくなるのは、寂しいですから」


 点灯した街灯が、彼女の姿を淡く照らす。薄く微笑んでいた。


 やっぱり、彼女には夜が似合う。

 買い物袋の重みを両手に感じながら、俺はそんなことを考えていた。


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