第3話 女性がタバコを吸うのは

 長い間声を出していないと、声の出し方を忘れるらしい。

 

 バイト中にはそれはない。

 接客業である以上、強制的に声を出すことになるから。

 ただ学校では声の出し方を忘れそうになる。

 

 なぜか? 話すような相手が一人もいないからだ。

 

 俺はクラスに友達がいなかった。

 陽キャはもちろん、陰キャと自称する生徒であっても友達はいる。同じ階層にいる生徒同士が徒党を組み、群れを形成している。

 教室の中には毅然とした階層が存在している。

 なのに俺はそのどこにも存在していない。無だ。


 陽キャはピックトゥックの動画やミンスタグラムの話をしていて、陰キャはアニメやソシャゲの話で盛り上がっている。


 俺はどの輪にも入れなかった。

 SNSも流行りのアニメもソシャゲもろくに触れてなかったからだ。


 コミュニケーションにおいて共感は大事だ。共通の話題が全くない俺が、彼らの輪の中に入れないのは自然の流れだった。


 SNSはともかく、今からでも流行りのアニメを見たりソシャゲを始めれば、皆の話題についていくことはできる。

 もしかすると、友達を作ることもできるかもしれない。

 でもそれはしたくなかった。作品は作品として純粋に楽しみたい。誰かと繋がるために作品を利用しているみたいで気が引けた。不誠実な態度だと思った。

 だから俺は、誰ともかかわらずに一人、自分の席で小説を読む。


 小説は好きだった。

 それを読んでいる間だけは、一人になることができるから。

 でも小説を好きな人間は、周りに誰もいなかった。少なくともクラスには。話せるような相手に今まで出会ったことがない。

 

 この世に小説を読んでる人なんているんだろうか、とたまに思うことがある。

 朝登校してから放課後になるまで、本の世界に閉じこもっていた。校門を出るまで誰とも言葉を交わさないこともざらだった。


 

 放課後は行きたくもないバイト先に行き、着たくもない制服を着て、一刻も早く退勤時間が来るよう祈りながら労働に勤しむ。

 一度しかない人生の貴重な時間を時給千百円に変換する。

 どれだけ充実していても、どれだけ苦痛でも、等しく千百円。そこに差はない。この前までは苦痛に満ちた千百円だった。

 でも今は少しだけ変わった。


 夜の九時を回った頃。

 いつものように彼女が店にやって来る。冬の夜みたいな黒い服を着た彼女は、他の商品には目もくれずにレジを訪れる。


「こんばんわ。二十五番、一つくださいな」


 俺もまたいつものように棚のタバコの箱を取り、レジを通す。

 彼女はタバコの箱を手に取ると、俺に向かってはにかむ。


「すぱしーば」


 ありがとう、と言っているのは分かる。いつもそうだから。

 ただ、何語だっただろうか。確か北の方の言葉だったような気がする。彼女が去った後もしばらく考えて、ああ、ロシア語だ、と思い出す。

 すっきりしたところで不意に声を掛けられた。


「あの子、よく店に来てるよな。すげーかわいい」


 同じシフトに入っている大学生バイトの男子だった。

 髪を染めていて、顔が浮腫んでいる。毎日飲み会続きで、常に金欠状態らしい。聞いてもないのに、以前なぜか少し自慢げにそう話してくれた。

 バイト中にもよくスマホをいじっていて、自分のことを酒袋と自称していた。毎日飲み会ばかりしているから、酒袋。女子と話を合わせるためだけに人気のアニメを見て、堂々とオタクを自称していた。


「見た目は清楚なのに、タバコ吸うのっていいよな。ギャップってやつ? 俺、こう見えて意外とギャップに弱いんだよね」


 こう見えても何も、どうも見えていない。どう見えてると思ってるんだろう。

 世の中の人間が全て自分をちゃんと見ていると思っている。

 その自己肯定感は、俺にはないものだ。羨ましいし、同時に疎ましい。


「でも女がタバコ吸うのなんて、百パー、男の影響だからな。タバコとパチンコしてる女は絶対に彼氏か元カレの影響受けてる」

「はあ」

「見た感じ大学生っぽいよな。けどキャンパス内で見たことないな。あんな美人ならすぐに気づきそうなもんだけど」

「かもしれないですね」

「喫煙所覗いたらいたりしてな。そしたら思い切って声かけてみっか。エノっち、上手くいくように応援してくれな?」


 エノっち、とは俺のことだ。榎木結斗だからエノっち。シフトがいっしょになった初日に命名された。


 彼はいつも飲み会でどれだけバカ騒ぎをしたのかと、自分はどれだけ凄い人と知り合いであるのかと、狙っている女子の話を聞いてもいないのにしてくる。人脈の広さと抱いた女子の数と内定した会社の名前が人生の価値の全てだと思っている。


 別にそれ自体は構わない。悪い人じゃないとも思う。

 ただ、彼がこの近所の大学に通っていると知った時、勉強してそれなりの大学に入っても逃れられないんだな、と思った。

 学校でも会社でも。きっと一生、付いて回るのだ。


 彼とシフトがいっしょになった日は、千百円を得るための労力が著しく重くなる。眠りにつくまでに夜風にあたる時間が長くなる。

 

 さっき彼が話していたことを思い出す。

 二十五番さんがタバコを吸い始めたきっかけが男の影響だったら、と思う。

 思って嫌な気分になる。

 少なくとも酒袋みたいな相手じゃないことだけを願った。


 

 夜の十時まで働いて六千六百円を得た後、近所のスーパーで半額シールの貼られた弁当を買ってから家に帰った。

 冷め切った半額弁当を食べ終える。

 美味いような気もするし、そうでない気もする。舌が上等じゃないから分からない。摂るべき栄養量に達してないことだけは分かる。


 食後、いつものようにベランダに出る。

 弁当といっしょに買ってきた缶コーヒーの蓋を開ける。無糖の苦味を感じつつ、目の前の空き地に広がる夜を眺めていた時だった。


「こんばんわ。お仕事、お疲れさまです」

 

 隣の部屋のベランダに彼女がいた。手すりにしなだれがかり、指の間にさっき買ったであろうタバコを挟んでいる。


「店員さんも夜風に当たりにきたんですか?」

「バイト終わりにはしばらくそうしないと眠れなくて」

「分かります。人と長時間会った後は、疲れちゃいますもんね」

「二十五番さんもそうなんですか?」

「人混みとか、賑やかな場所は苦手です。だからここは気に入ってるんです。世の中の音がほとんど聞こえてこないから」


 閑静な場所だった。

 車通りからは離れていて、飲食店なんかもない。ベランダの前には空き地があり、側面には墓地が広がっている。

 手すりの上に置かれた灰皿に目をやる。何本かの吸い殻が冷たく横たわっていた。


「一日に結構吸うんですね」

「店員さんが出て来るのを待ってたんですよ?」

「……そうなんですか?」

「ふふ。さあ、どうでしょうね?」


 二十五番さんは微笑むと、まどろむように気怠げにタバコを吹かす。

 酒袋の言っていたことをふと思い出す。彼女がタバコを吸い始めたきっかけ。パチンコとタバコは男の影響が百パーセント。


 バカのフリをすれば訊くことができる。

 けど、できなかった。

 彼女の前では、バカのフリじゃなくて、賢いフリをしたくなってしまう。本当はバカだということを隠したくなる。


「店員さんはいつも何時間くらい働いてるんですか?」

「六時間です。夕方の四時から夜十時まで」

「四時からだと、学校が終わってから間に合います?」

「すぐ近くにあるので」

「あ、じゃあもしかして、布瀬高校の学生さんですか?」

「そうです」

「なるほど。店員さんは後輩くんでもあったんですね」

「ってことは、二十五番さんも?」

「はい」


 どうやら同じ学校の出身だったらしい。二十五番さんは俺の先輩だった。


「ここ、ちょうど私の大学と店員さんの高校の間くらいにありますもんね。お互いに通学するには便利です」

「そういえば、二十五番さんはどこの大学に?」


 二十五番さんは大学名と学部を口にする。

 やっぱり。酒袋と同じ大学だった。彼は経済学部だから、文芸学部の彼女とは学部は違うけど。キャンパス内で出くわす可能性はある。


「文芸学部ということは、本とか読むんですか」

「読みますよ。特に小説が好きですね」

「あ、俺も読みます、小説」

「そうなんですね」

「お金がなくて定価で買えないから、中古が多いですけど」

「私も中古とか、図書館が多いですよ」

「どういうの、読みますか」

「純文学が多いですね。川上未映子とか小川洋子、村田沙耶香とか」

「俺も好きです。猫を抱いて象と泳ぐが面白かったです」

「チェスの話ですよね。私も好きです」


 自分の好きなものの話が通じたのは初めてだった。

 学校の誰も知らないものの話を、他の人とできた。

 自分の好きなものを同じように好きな人が手の届く範囲に実在していた。そのことは俺にとって衝撃的なことだった。


 それからしばらく本の話をした。彼女の灰皿に吸い殻と灰が積もった頃、俺はふと彼女のベランダの隅に置かれたものに目を留めた。


「そのゴミ袋、どうしたんですか」


 パンパンに膨れたゴミ袋がいくつか積んであった。


「これなんですけど、出しそびれちゃったんです。回収、朝早いじゃないですか。起きたらもう清掃車がいなくなった後で」


 このアパートのゴミ捨て場は当日の朝以外、ゴミを出せない。

 蓋があるゴミ捨て場なら前日の夜から出せるけど、このアパートのゴミ捨て場は当日の朝にしか出すことができない。

 蓋がなくてネットしかないから、前日の夜からゴミ袋を出してしまうと、カラスに好き放題荒らされてしまうからだ。

 回収車が訪れる朝十時までにゴミを出せないと時間切れ。回収されない。


「私、夜行性なので。朝は弱いんです。高校の時も毎日遅刻ばかりで。今もお昼以降の講義しか取ってないですし」

「大学は自分で時間割、選べますもんね」

「でも、困っちゃいました。このままだと永遠にゴミが出せなくて、そのうちゴミ屋敷になってしまいますね」

「だったら、俺が代わりに出しましょうか」

「え?」

「前日の夜にベランダにゴミ袋を置いておいて貰えたら、回収日の朝、登校するついでにいっしょに出しておきますよ」

「……いいんですか?」

「はい。どっちにしてもゴミ出しはしないとですし」

「重たくありません?」

「一つや二つ増えたところで、大して労力も変わりませんよ。それに普段、バイトの時にもっと重いのを持ってますし」

「それは、すごく助かります」


 彼女は両手を合わせると言った。


「では早速、次からお願いしてもいいですか?」

「了解です」


 俺は彼女のベランダに置かれていたゴミ袋を受け取る。透明のゴミ袋。見ようと思うと中身を見ることもできる。

 明日の朝に出すまでの間、ここに置いておくことにする。


「店員さんのおかげで、ゴミ屋敷にならずに済みそうです」


 二十五番さんはほっとしたように微笑む。


「でも、自分の捨てたゴミを見られるのは、ちょっと恥ずかしいですね」

「見ないようにしますから、安心してください」

「ふふ、紳士ですね。そうだ。また今度、お礼をさせてください」

「別に気にしなくていいですよ」

「私が気にするんです。なので、何がいいか考えておいてください。特に希望がなければ私が勝手に決めますけど」

「じゃあ、まあ、わかりました。考えておきます」

「はい。それじゃ、おやすみなさい」


 彼女はそう言うと、部屋に戻っていった。

 その後しばらく、俺は夜風に吹かれながらお礼を何にするか考えていた。でも結局これと言った答えが出ることはなかった。


―――――――――――――――――――――


☆とフォローで応援してくださると更新のモチベーションになります!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る