第05章『無邪気』

第13話

 五月四日、土曜日。

 午前六時半に京香は起床した。大型連休も後半に差し掛かり、身体が少し気だるい。朝食としてパンを食べると共に、濃い目のコーヒーで目を覚ました。

 窓の外は気持ちよく晴れている。テレビの天気予報では、崩れることが無いらしい。


 京香は寝室のクローゼットを開け、並んだ衣服を眺めた。仕事はスーツであり、婚約者とのデートは適当に選んでいるが、今朝は悩んだ。

 季節は春から初夏へと移り、ここ何日か日中は少し汗ばむほどだ。気候的な難しさだけでなく――自らの『所有物』と歩く際、どのような格好が相応しいのかわからなかった。

 年上かつ『小遣い』を与える立場なのだから、多少なりとも敬われたい気持ちはある。

 だから、京香はベージュのニットとカーキのフレアスカートを選んだ。いざ着てみると少し地味かと思うが、落ち着いた雰囲気だと、良いように考えた。外で肌寒く感じる可能性も考え、薄いネイビーのジャケットも羽織ることにした。

 化粧の後、フォギーベージュのミディアムヘアの毛先を、カールアイロンで外側に跳ねさせた。

 外出にここまで念入りに準備をすることは、滅多に無い。緊張と――期待感に、胸を膨らませた。


 日焼け止めを塗って京香は準備を終え、ふと携帯電話に目をやる。SNSの投稿通知が届いていた。『ぁぉ∪』のものだ。

 アプリを開いてみると、姿見鏡越しに撮ったであろう、下着姿の全身写真が投稿されていた。ピンクの下着はフリルが多く、可愛らしい――しかしセクシーなものだ。


『本日の下着報告です』


 添えられた一文は、誰に対する報告なのだろう。

 このタイミングで見せられ、京香は何とも言えない気持ちになった。休日の朝から性欲が込み上げることはなかった。

 やがて午前八時半頃、京香は自宅を出ようと玄関に向かう。今日は割と歩くことを思い出し、パンプスではなくスニーカーを履いた。


 自動車を運転し、午前九時前に電車の駅へと到着した。

 大型連休なので、多くの人で賑わっていた。京香はロータリーを徐行すると、コンビニ前で携帯電話を触っている小柴瑠璃を見つけた。

 ここで拾うのは、いつも陽が暮れてからだった。明るい世界で、通行人を背に待っている女性――何気ない光景が、京香にはなんだか新鮮だった。

 とはいえ、瑠璃はいつもの黒いキャップを被り、黒いマスクで顔の下半分を隠していた。オーバーサイズのスウェットワンピースは黒ではなくグレーであり、かろうじて初夏らしさがある。そして、黒いウサギのリュックを背負っていた。

 結局のところ、ルーズなシルエットは普段とあまり変わらず、京香は少し残念だった。


「おはようございます」


 視線に気づいたのか、瑠璃が近づいて助手席に乗り込む。

 キャップとマスクで顔はほとんど見えないが、声のトーンがなんだか上機嫌のように京香は聞こえた。希望した所に行けるからだろうと思った。


「あれ? ママ、怒ってます? 別に遅刻してませんよね?」

「その服、かわいくない!」


 京香は答えると同時、自動車を出した。


「いや……別に、指定しなかったじゃないですか。ていうか、動きやすさが一番ですよ」

「指定しなくても、可愛いの着てオシャレしてくるのが常識でしょ? 折角のデートなんだから……」

「え? デートなんですか?」

「そうだけど? 立派なママ活よね?」


 小声で訊ねる瑠璃から、京香は恥じらいを感じた。

 もしかすると、交際している恋人同士でなければデートが成立しないとでも思っているのだろうか。そのような疑念が生まれる。初めての性交といい『裏垢女子』の割に変に純情うぶだと思った。やはり、瑠璃の基準がわからない。

 それよりも――こちらが念入りに準備をしたので、余計に残念だった。


「こんなことなら、私が服を用意すればよかったわね」

「どうせまた、変なやつでしょ? 勘弁してください……」

「なんでよ。可愛いじゃない」


 ホテルのディナーで着せた衣服を思い出す。所有物は人形であり、着せ替えはこちらの権利だと京香は主張したかった。


「ちなみにだけど……もし指定してたら、どういうの着てくれたの?」

「仮定の話になるんで、答えようがありません」


 京香は先程の言葉が気になり訊ねるも、瑠璃は答えようとしなかった。なんだか気まずそうな声に聞こえた。


「質問を変えましょう。あんた、服は普段どこで買ってるの?」

「正直に話すと……ネット通販オンリーです」

「なるほど。だから、サイズの合わないやつばっかりなのね」

「それもありますけど、わたしの好みも込みです」


 好みと言われるとぐうの音も出ないが、京香は釈然としなかった。


「このご時世にジェンダー絡みのこと言って悪いんだけど……もうちょっと、女の子らしい服も持ってみたら? 駅前のモールとか量販店とか行けば試着できるし、サイズも合うわよね?」

「やですよ。店員さんと喋れませんから……」

「結局それじゃない!」


 瑠璃が似たような衣服ばかり着ている理由として、嗜好よりもそっちの原因が大きいと京香は思った。自らを『コミュ障』と謳っているが、京香の想像以上のようだ。

 呆れていると、ある不可解な点に気づく。自宅を出る前に閲覧した『ぁぉ∪』の投稿と、辻褄が合わない。

 信号が赤になり、自動車を停車させた。京香は助手席の瑠璃を見下ろした。


「今日もその下は、エロい下着なのよね?」

「ふっふっふ……盛大にネタバレしました」


 瑠璃がしてやったりな笑みを浮かべる。

 やはり瑠璃に悪意があったのだと、京香は思う。それについても問い詰めなければならないが、今の論点は別のところにある。


「あんた、下着のサイズは妙にぴったりだけど……それも通販で買ってるの?」


 下着の購入には、詳細な採寸が必要となる。ひとりで行えなくもないが、表示寸法と実物が必ずしも合うとは限らない。

 瑠璃の下着姿をこれまで見て触れて確かめてきたが、一寸の狂いも無かった。まるで、試着まで行って購入したかのような――


「何言ってるんですか? これは普通にお店で試着して買ってますけど……。ていうか、高額な商売道具なんですから、通販で買ってサイズ合わないリスクは取れませんよ」

「ごめん……。やっぱり私、あんたの基準がわからないわ……」


 けろりと答える瑠璃に、京香は頭が痛くなった。

 ひとりで黙々と試着しているのかもしれないが、店員と話すのは避けて通れないはずだ。それは大丈夫なのか、まるで想像できなかった。

 信号が青に変わり、京香は自動車を走らせた。



   *



 瑠璃を拾って自動車を走らせること、約一時間。

 自然豊かな湖までやって来た。広い駐車場で自動車から降りる。

 のどかな所だが人気が多く、落ち着かないと京香は感じた。

 湖沿いには、海外のある地域をコンセプトとしたショッピング施設が自然に溶け込んでいた。そこを通り抜け、目的地まで歩く。


「やっと着いたわね」


 一応は、テーマパークになるのだろうか。この国でも馴染みのある、世界的に有名な――京香は幼少期から愛らしいカバだと思っていたが、トロールと呼ばれる妖精らしい――が登場する、海外の絵本を再現した施設だ。


「ありがとうございます、ママ。前から一度、来てみたかったんですよね」


 瑠璃が提案した所は、ここだった。

 背負っている黒いウサギのリュックサックといい、格好とは裏腹に可愛いキャラクターが好きなのだろう。いざこの地に立ち、瑠璃が喜ぶというより興奮しているように、京香には見えた。とても珍しい。

 もう五年ほどになるだろうか――京香の住む街からまだ近場であるため、この施設が出来た当時は割と騒がれた。しかし訪れる機会が無く、京香も初めてだった。

 開場の午前十時を前に、ゲート周辺には人だかりが出来ていた。大型連休だから仕方ないとはいえ、京香はげんなりした。


「もうちょっとで開きますよ」


 だが、隣に立つ瑠璃はソワソワした様子だった。携帯電話ので、施設内の設備を確かめていた。


「どこを回るのか、あんたに全部任せるけど……ひとつだけいい?」


 顔を上げた瑠璃に、京香はそっと耳打ちした。


「これだけ混んでる所でママって呼ばれるの恥ずかしいから、名前で構わないわよ」


 母娘に見えないにしろ、その呼称で周りから不審な目で見られるのは嫌だった。

 瑠璃からにんまり笑われると思ったが、意外と素直に頷かれた。

 その時、ちょうど午前十時を迎え、人だかりが移動を始めた。


「行きましょう、京香さん」


 瑠璃が京香の手を引いて、歩き出す。まるで幼い娘のようだと、京香は感じた。

 周りから名前で呼ばれることは、仕事で慣れているはずだった。だが、瑠璃から呼ばれるのは初めてであり、なんだか新鮮だった。


「ええ」


 普段怠惰な瑠璃が、こうして明るい顔を見せているからだろう。

 歳柄にもなく、京香も今日は楽しもうと思った。

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