第02章『ぁぉU』
第04話
「黙っていて欲しいなら、私の
京香は瑠璃の顎を上げ、拒否を許さぬ命令を下した。
従わなければ、正体を隠していかがわしい写真を投稿していることを――どういうかたちであれ、世に晒す。
立派な脅迫行為であった。挙げ句、部長と派遣社員という間柄となる。会社のコンプライアンスだけでなく、この国の法律に違反していることを、京香は自覚していた。もしも、瑠璃がここでの会話を録音していたなら、彼女も無傷では済まないだろうが立場は逆転するだろう。
しかし、京香にその可能性は浮かばなかった。『弱者』相応の知恵しか持っていないと、見下していたのであった。有無を言わずに怯えているだけだと、決めつけていた。
そのうえでの『刺激』だ。
「よくわかりませんけど……従うしかないですね。ていうか、わたし女ですけど?」
瑠璃は頷かない。しかし、状況を理解しているようだった。京香の手を払い除け、改めて睨みつけた。
返事が無くとも、ひとまず肯定したのだと京香は受け取った。そして、思っていた通りだと手応えを得た。
「私、女の子が好きなのよ。あんたとしても、キモいオッサンよりは全然マシでしょ?」
より悪いケースを提示して、正当化する。
今日この場でここまで迫ることは、京香としても想定外だった。今後のことは全く考えていなかった。とはいえ、折角の週末であり、時間を開けたくないことから、さっそく新たに命令を下した。
「とりあえず、仕事終わったら駅前で待ってなさい。七時前ぐらいに迎えに行くわ。居なかったら……わかるわよね?」
京香は笑顔でそれだけを伝えると、振り返る。扉の鍵を開けて、会議室を出た。念のため周囲を確かめるが、やはり人気は無かった。
上機嫌に階段を下りながら、そういえば今夜は婚約者から食事に誘われていたと思い出した。しかし、そのようなことはどうでもいい。適当な理由をつけて断ることにした。京香に罪悪感は一片も無かった。
やがて、終業時間から一時間が過ぎた午後六時半、京香は仕事が一区切りついた。
週末のこの時間までオフィスに居るのは、京香の他に課長の三上凉だけだった。
「三上さん、今日はそろそろ置きませんか?」
「うん。もうちょっとで置くけど……なんか、いつになく機嫌いいね」
京香はそう提案すると、振り返った凉がにんまりと笑みを浮かべた。
「どうせこの後、
「まあ……そんなところです」
「へぇ。結婚式のスピーチで何喋るか、考えないとね」
「いやー、それは早いですよ」
凉が勘違いをするのは無理がないと、京香は思う。しかし正すことは出来ず、話を合わせておいた。
部長として最後まで残っていたかったが、凉の反応から、一足先にパソコンの電源を切った。
「すいません。それじゃあ、今日はお先に失礼します。お疲れさまです」
「お疲れー。楽しんできなよ」
「はい」
京香は頷き、オフィスを離れた。
凉に言われた通り、週末を楽しもう――婚約者以外の人間と。直前になったが、彼には既にキャンセルの連絡を入れていた。残念そうな様子ながらも、受け入れてくれた。主導権はこちらにあるので、大抵のことは許される。
京香は自動車の運転席に乗り込むと、電車の駅へと走った。工場から最寄りの駅までは、徒歩で約十五分、自動車なら約五分となる。
すっかり暗くなった時間帯で――ショッピングモールが隣接する駅は、明々としていた。仕事帰りの人間で賑やかだった。
瑠璃には駅前で待つよう告げたが、具体的な場所を告げていない。
それを理由に瑠璃が意図的に合流を避ける可能性もあることに、京香は今になって気づく。結果的に命令に背くことになろうとも、仕方ないと言える。
だが、どうしてかそれは無いと思った。事態をとても楽観視していた。
京香はひとまず、駅前のロータリーを徐行で走る。外を注意深く眺めて走っていると――コンビニの前で、ひとりの女性を見つけた。車道との境である柵に、腰かけていた。
グレーのオーバーサイズのトレーナーに、デニムのショートパンツと黒いタイツ。黒いキャップを被り、黒いマスクで口元を覆っている。そして、黒いウサギのリュックを背負っていた。
距離と明るさのせいか、紫のインナーカラーは見えない。長い黒髪の女性が、気だるそうな瞳を携帯電話の画面に落としていた。
「小柴さん」
京香はなるべく近づくと、助手席の窓を開けて呼びかけた。
携帯電話から顔を上げた瑠璃は、溜め息をついて自動車に近づいた。
瑠璃が助手席に乗り込んだのを確かめると、京香は何も言わずに自動車を走らせた。
「それで……どうするんですか?」
ロータリーから出ようとするも、赤信号で停車する。
「とりあえず、私の
この予定は、夕方に会議室を出て咄嗟に考えたことだった。
京香としては、何であれ派遣社員と仕事外で絡んでいることを、職場の人間に見られたくない。だから、ひとまずは目の届かない所に場所を移すべきだ。
「いえ、まだです。ていうか……わたしの都合なんて、どうでもいいんですね。これから用事あるかも、知らないくせに……」
信号が青に変わり、京香は前の自動車に続いてアクセルを踏む。
フロントガラス越しに前方を眺めているため、助手席に座る瑠璃がどのような表情をしているのか、わからない。
「あらー。あんたに拒否権あると思ってんの? それとも、アレかしら? 帰ってエッチな自撮りとらなきゃ、って感じ?」
「そんな気分じゃないんで、やりませんよ……。それよりも……にわかに信じられないんですけど、本当に、その……部長さんしか知らないんですか?」
瑠璃は京香への呼称について、一度悩んだ様子だった。
部長という役職を把握していたことに、京香は驚いた。職場のことは無関心だと思っていたのだ。
「ええ、本当よ。私ね、あんたみたいな裏垢女子をフォローしてるの。特定したのは、本当に偶然だから……」
京香は、自らの秘密とも呼べるものを告白していた。
瑠璃がそれを逆手に取って脅迫してくる可能性が、全く無かったわけではない。言葉に説得力を持たせる内容が、それしか浮かばなかった。そして、今後のことを考えれば、大ぴらにしておく方が円滑だと思ったのだ。
「へぇ。ちなみですけど、わたしが持ってるアカウントはあれだけなんで、裏垢女子じゃないです」
瑠璃が特に驚いた様子は無かった。
おそらく、何でもいいのだろう。こじつけに近い内容だ。ムキになって言い返してきたことが可愛く、京香は笑みが漏れた。
「まあ……あんた友達居ないっぽいから、ある意味で納得」
職場でも派遣社員という立場上、京香の目からは目立たないが浮いている。それに、SNSで『ぁぉ∪』が他のアカウントとやり取りしているところを、見たことが無い。
「うるさいですね」
「友達居なくても、フォロワーが四万人居たら平気なの? あっ、そうそう……私が『ヨシピ』よ。あんたに毎月一万円も出してるサポーターなんだから、感謝のひとつぐらあってもいいと思うんだけど? ちょっとぐらいエッチなことしても、いいんじゃないかしら?」
京香はアカウント名を明かした。初めての経験であるため斬新であり、少し気恥ずかしかった。
「ヨシピ? ああ……そんな人も居ましたね。無能なくせにすぐイキる、若作りしてる気持ち悪いチビのオッサンだと思ってました」
「なんか、えらく具体的なイメージね……」
アカウント名は、材料仕入先の担当である
「お金出してわたしのエロ画像見てるんだから、感謝もクソもないでしょ。部長さんみたいなムッツリ人間とは、需要と供給の関係ですよね?」
「それもそうね……。でも、これだけ教えてくれないかしら? あんたのアカ名、あれ何て読むの? アオユー?」
京香は、以前から気になっていたことを訊ねた。
それがわかれば、およその由来もわかると思った。瑠璃という名前と青色が結びついたことも、特定に至ったひとつだ。どうして、わざわざリスクのあるアカウント名にしたのだろう。
「読み方なんて、何でもいいです。誰とも絡むつもり無かったんで、特に決めてません。アカ作った時……安物の睡眠薬のODにハマってただけです。舌の裏で溶かしたら、舌が青くなるんですよ」
「なにそれ、引くわー。私の知らない世界じゃない」
京香はハンドルを動かしながら、静かに驚いた。ODという言葉は日常生活で滅多に聞かない。
アカウント名の由来は、本名ではないようだ。∪は舌のつもりなのだろう。
「そうです。部長さんが脅した相手は、超ヤバい女の子ですよ。どうです? 怖くなりましたか?」
瑠璃が初めて笑った。自嘲気味のように、京香は感じた。
驚いたのは事実だが、白けて距離を取るほどではない。かといって『そちら側』に興味があるわけでもない。この女性は自分と正反対の位置に居ることを改めて確かめ、そして――
「そんな世界が本当にあるんだなって、面白いわね。あんたみたいなタイプの子と会うの、初めてだから……」
思っていたものと違うが、退屈だった日常の『刺激』になる存在であるとも、改めて確かめた。
「ふーん……。わたしは全っ然面白くないですけどね」
むしろ最悪です、と瑠璃が付け加える。
京香は運転に集中しているため、やはり瑠璃の表情は見えないが、子供っぽく不貞腐れているような様子だった。
「ノリ悪いわね。もっと楽しみなさいよ」
「そうは言っても、脅して無理やりお持ち帰りしてくる人間と、どんな距離感で絡めばいいんですか!?」
「それもそうね」
瑠璃は不貞腐れた様子から一変して、不満げに声を荒げた。
この女性でも一応は感情の変化があるのだと、京香は理解する。宥めるようにヘラヘラと笑いながら、自動車を運転して夜道を走った。
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