アナタはわたしの手の中

未田

第1部

第01章『ピアスホール』

第01話

 四月八日、月曜日。

 信号が赤になり、妙泉京香よしずみきょうかは自動車のフットブレーキを踏んだ。

 時刻は午前七時四十五分。黄色いカバーに覆われたランドセルを背負った子供達が、横断歩道を横切っていく。春らしい初々しい光景を、京香はフロントガラス越しに眺めた。

 道路に散った桜の花びらが、風で舞い上がる。柔らかな日差しが心地良い。カーラジオの天気予報では、今日も晴れるようだ。

 京香は肩にかかったフォギーベージュの毛先を指先で弄びながら、他に誰も居ない車内で大きくアクビをした。絶好のドライブ日和だと思った。いっそこのまま、どこか遠くに行ってしまいたいほどだ。

 だが、そういうわけにもいかず――信号が青に変わると、いつもの通勤路を走った。


 午前八時に、勤務地へと到着した。街外れに位置する、工業団地だ。

 白く綺麗な工場は他に比べ、まだ清潔感がある方だと、京香は思う。

 株式会社妙泉製菓よしずみせいか――国内にふたつある工場の、ひとつだった。全従業員四百名の内、ここでは七十名ほどが働いている。

 京香は、商品開発部開発一課のオフィスへと向かった。


「おはようございます、京香部長」

「おはよう」


 部下と挨拶を返しながら、最奥に位置する自席に腰を下ろした。

 九人の社員が在籍するこの部署は、午前八時半の始業時間を前に、今日もほとんどが揃っていた。


「妙泉部長、おはようございます!」


 ひとりの女性社員が京香の前まで近づき、深々と頭を下げた。

 カシスブラウンのショートボブの彼女から――態度だけでなく全身から、三十二歳の京香はフレッシュさを感じていた。それだけ若く、元気がある。

 この四月から大学の新規卒業で入社した、両川昭子もろかわあきこだ。入社前の希望通り、商品開発部へと配属された。


「おはよう、両川さん。前にも言ったけど、この会社には妙泉が何人か居るから……名前で呼んでくれて構わないから……早いところ、慣れてちょうだい」


 京香は微笑んで見せた。事実、社内では『京香部長』と呼ばれている。


「え、えっと……。そろそろ研修に行ってきます!」

「貴方には期待してるから、頑張ってらっしゃい」

「はい!」


 新入社員は、まずは製造現場で約一年の研修を受けなければいけない。

 立ち去る昭子に――ようやくうるさい小娘が居なくなったと、京香は思った。名前を呼ぶことに照れる姿が、可愛いとも感じなかった。

 やる気に満ち溢れた二十二歳の新入社員は、貴重な存在だ。会社の戦力として、育てるつもりだ。

 しかし、昭子の明るく元気な人柄が、京香は苦手だった。採用の時点でそれを理由に反対したが、人事部と役員に通じるわけがなく、半ば押し付けられるかたちとなった。


 京香は、部長席からぼんやりとオフィスを眺めていると――私服姿の社員の中、食品工場白衣に帽子、マスクと、全身白色の人物が目に留まった。身長百五十センチほどの小柄な身体から、女性だとわかる。

 机の傍に立ち、社員から何やら説明を受けていた。新商品の試作についてだと、京香は察した。

 商品開発部は、派遣会社からふたりの栄養管理士を雇用している。この四月から新たに派遣されたのが、彼女だった。

 こちらの目線に気づいたのだろう。派遣社員の女性は振り返り、京香に会釈した。

 愛想は無い。礼儀は最低限。そして、帽子とマスクの隙間から気だるげな瞳が覗く。

 昭子とは対称的だと、京香は以前から感じた。正規雇用と非正規雇用という立場の違いからも、顕著だった。

 この女性の態度が気に食わないわけではない。派遣社員の身分相応であり、珍しくもない。工場で毎日見ている白衣の作業者のひとりだ。白衣を脱いだ姿を知らない。そもそも、京香は部長である立場から、仕事で絡むことも無い。

 ただ、どうしてか――この一週間、無意識で目で追っていた。興味の度合いは、昭子よりも遥かに大きい。

 京香は机の引き出しから、ひとつのファイルを取り出した。派遣会社から人事部を通して渡された、派遣社員のプロフィールが簡単にまとめられたものだ。履歴書ではないので、顔写真は無い。


小柴瑠璃こしばるり……二十一、ね」


 氏名と年齢を小さく呟く。

 寒色のイメージが浮かび上がるが、冷静に捉えると紫と青の二色が混在している。おかしな氏名だと、京香は思った。


 京香はパソコンを立ち上げてメールの確認をしていると、やがて午前八時半になり、始業のチャイムが鳴った。

 このタイミングを席を立ち、給湯室へと向かう。狭い空間には、他に誰も居ない。時間をずらして使用できるのは部長の特権であり、毎朝の日課でもあった。


「はぁ」


 溜め息を漏らしながら、コーヒーを淹れる準備をする。

 新しい季節に新しい社員との出会いはあったが、京香としては特に変わり映えが無かった。

 これまで通り、この工場で『外圧』を躱しながら、適当に部長としての仕事をしている『ふり』を見せる――退屈な日々を過ごすのだろう。きっと、アクビはこれから先も止まらない。


 京香はふとスーツのポケットから携帯電話を取り出し、SNSのアプリを開いた。

 普段使いとは別の、もうひとつのアカウントに切り替える。こちらは一切の発信を行わず、フォロワーも受け付けない。ある目的のためだけに作成したアカウントだ。

 タイムラインをスクロールすると、半裸の女性の写真がいくつも流れた。どれもモザイクやスタンプで加工、或いはマスクを着用することで顔を隠している。性的な画像や動画を投稿している、俗に言う『裏垢女子』だ。

 他人にはとても言えないが、京香は同性の裸体に興味があった。専用のアカウントで彼女達をフォローし、閲覧することが唯一の楽しみだった。


「あ……この人……」


 ある投稿が目に留まり、スクロールしていた指が止まった。

 投稿されたのは、約二時間前。オーバーサイズの黒いカットソーをたくしあげた自撮り写真に『月曜だるっ』の一言が添えられていた。黒いレースのブラジャーに包まれた乳房は、世間では大きい方に分類されるだろう。例に漏れず大きいスタンプで顔を隠しているが、肩には紫のインナーカラーが入った長い黒髪が流れている。既に六百ものハートマークいいねがついていた。

 他者にはとても見せられない笑みが、京香に浮かぶ。

 黒いウサギのキャラクターをアイコンにしたこのアカウントの女性は『ぁぉ∪』と名乗っていた。他の投稿でもわかる人物像から、俗に言う『ダウナー系』なのだろう。衣服を含めだらしない雰囲気に反し、色気のある下着を着用していることから、京香は気に入っていた。

 広い世界で確かに実在する彼女自体に、興味は無かった。どこに住んでいて何の仕事をしているのか、どうでもいい。詮索しないのがマナーだと京香は思う。性的なコンテンツを提供する側と、消費する側――四万人のフォロワーのひとりで居るだけで、充分だ。

 四月の上旬だけでなく、今日が月曜日で気だるいのは、京香も同じだった。


「ぼちぼち頑張りますか」


 しかし、この投稿を閲覧してことで、僅かながらにモチベーションが湧いてきた。

 京香は感謝と応援の意味を込めて、ハートマークを押した。



   *



 午後五時半になり、工場に終業のチャイムが鳴る。

 品質管理室に居た京香は、このタイミングで商品開発部のオフィスへと戻ろうとした。定時で上がるのは諦めているが、なるべく早く仕事に一区切りつけたい。


「お疲れさまです、京香部長」

「お先です」

「ええ。お疲れさま」


 途中、廊下で何人もの従業員とすれ違った。作業着姿の者も、私服に着替えた者も、様々だ。

 その中で、正面から歩いてきたある女性の姿が京香の目に映った。

 いや、女性と呼ぶには若く、そして小柄だった。どちらかというと、少女という表現が相応しいだろう。

 オーバーサイズの黒いフード付きパーカーに、グレーのスウェットパンツ。いくら食品工場の従業員とはいえ、珍しいほどにルーズな格好だった。

 京香の目を引いた理由はそれだけではなく――長い黒髪に、紫のインナーカラーが見えたからであった。


「お疲れさま、小柴さん」


 紫色から、今朝確かめた派遣社員の氏名を思い出した。

 切り揃えた前髪と黒いマスクの間から見える気だるい瞳が、とても特徴的だったのだ。見間違えるはずがないと、京香は自信があった。作業着以外の、私服姿の小柴瑠璃を始めて目にした。


 すれ違い様の挨拶に、瑠璃が驚いた様子で振り返った。

 その際、黒いウサギを模したリュックサックの、長い耳の部分と共に――長い黒髪が揺れ、京香には瑠璃の右耳が見えた。一瞬だったので詳しい位置と数はわからないが、五個ほどのピアスが付いていた。


「お、お疲れさまです……」


 声は小さく、たどたどしい様子だった。

 京香の口元に、薄っすらと笑みが浮かぶ。振り返ると、特に立ち止まることなく瑠璃が立ち去っていた。

 製造ラインに関わってないにしろ、異物混入の可能性から工場内は原則、ピアスの着用が禁止だ。着替える際に脱着しているのか、本来であれば立場上、注意しなければならない。

 しかし、それどころではなかった。紫のインナーカラーが入った黒髪が『ある人物』を彷彿とさせていた。


「まさかね……」


 それに該当する人物など、国内だけでも無数に居るだろう。たったそれだけで結びつけるのは、あまりにもバカげている。

 京香はそう自分に言い聞かせ、そわそわする気持ちを落ち着かせた。

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