第2話 キャンパス

「誰って……」

 彼女の予想外の言葉に僕はよろめく。冗談でも言っているのか、と思いながらも、彼女の声色の真剣さは、それをことごとく否定している。

「君の彼氏じゃないか」

 僕がそう言うと、彼女はとても不機嫌そうな顔を浮かべる。

「何を言ってるんですか、気持ち悪い……」

 僕は、目の前の景色が夢か何かのように思えた。彼女がジョークを言っていると、思いたかった。ただ一方で、敬語で堅く話している彼女に違和感のようなものも感じていた。

「あの日、くいが電話をかけてくれたのに、それに対して無愛想に返してしまったろ? 本当に申し訳なく思ってる、ごめん」

 半年前のあの日、僕が電話に不誠実な態度で出てしまったから彼女は怒っている、そう以前のことを思い出して、言った。

 これで元に戻ってくれる、そう思った。

 しかし彼女は、少し思い出すような素振りを見せながらも、

「あの、本当に何の話をしているのか、分からないんですが……」

 と本気で困惑しているように言った。冗談なら早くやめてくれと僕は思った。ただでさえ、目の前の彼女の姿が完全にくいのそれであるのが、彼女の発言一つ一つを強く冗談のように思わせていた。

 しかし……。彼女がくいではないと言われれば、今僕は確信を持ってそれを違うとは言えなかった。これまでの流れを見れば、確かに、彼女の様子は僕が知るくいとは、何もかもが異なっていたのだ。

 第一、彼女はくいがよく着ていたオレンジのパーカーを着ていなかった。また彼女は、くいのように柔らかい話し方をしていなかった。何より彼女からは、内面的な部分においての「くい」らしさを感じていなかった。

「一応、確認させてほしい。君の名前は?」

 違ったらどうしよう、などとは考えない。

 とりあえず、訊く。

 彼女はため息を一つして、少し怒りを垣間見せながら言う。

「のぞみです」

「――っ」

 分かっていたのに、何かで心臓を突かれたような感覚になった。

 けれども確かに、彼女がくいとは違う人物であることには辻褄が合っていた。

「のぞみです」くいはこんな風に「です」をつけるなどといった話し方を絶対にしない。敬語を使わないのだ。たとえそれが初対面の相手だったとしても。

 それに、先述の通りくいはいつもオレンジ色のパーカーを身につけていた。それなのにもかかわらず、目の前の女性、のぞみが身につけているのは濃い青のきちんとしたカーディガンだ。やはりどうみても内面的な部分が違いすぎていたのだ。

 だが一方で、見た目は明らかに同一人物だった。

 二重の、大きくくりっとしている目。栗色の柔らかな髪。すうっと高く整った鼻筋。そして、その少し高い柔らかめの声。

 すべて、僕が見た、僕が一緒に一年を過ごしていた、あのくいと瓜二つだった。

 頭にある傷については分からなかったけれど。

 一方頭の中では「ドッペルゲンガー」という言葉が思い浮かび、気味が悪くてすぐに追い払う。

「あの」

 そして、彼女の声が聞こえる。

「はいっ」

 僕は慌てて返す。

「だから、別人だと思いますよ」

 彼女は冷静にそう言った。その声からは、人が行き交うキャンパスで、急に話しかけ、注目を集め、その上急に泣き出し、挙句の果てには自分が彼氏だなどと言った僕に対する、軽蔑のようなものが感じられた。

「そうか……」

 それでも、ここまできてもなお、僕はやはり彼女がくいと無関係な存在には思えなかった。

 ここまで見た目が似ているなんてことが、本当にあるだろうか、と。

「私、このあと講義があるので行きますね」

 そう思っている間に、彼女は立ち上がってしまう。スマホをポケットに閉まって、コーヒーを一口飲んで。

(どうする?)

 僕の中で自問が始まる。

 ここで彼女を行かせてしまったら、もう絶対に会えない、そんな気がしていた。

 それに、彼女を手放すのは先程思ったことからも惜しい気もしていた。

 でも、ここで引き留めたら、より一層警戒心を強めてしまうかもしれない。

「じゃあ」

 彼女が手を上げ、僕を一瞥する前に。

「あの!」

 考えの末、僕は咄嗟に言葉を発していた。

「今日は失礼なことをしてしまい、すみませんでした」

 結局、僕は謝ることが一番だと思った。

 声を大にして言った。

 すると――。

「……いや、私の方こそ、初対面なのに無愛想に接しすぎてしまい、すみませんでした」

 彼女は意外にも、謝り返してくるのだった。

「いや、そんな、謝らないでください! のぞみさんが、失踪してしまった僕の恋人であるくいにあまりにも似ていたので、つい、胸が高ぶってしまって。本当にごめんなさい」

 彼女の言葉を聞いて急激に罪悪感が湧き上がり、僕は深く礼をしながら再三謝った。

 正直、やはり今彼女を離したくない気持ちはあった。聞きたいことも全く聞けていないし、何より、本当に彼女がくいでないとは外面的な意味で言い切れないからだ。

 けれどもこれ以上彼女を引き止めるのは、彼女の機嫌をただ一方的に害する気がしていた。

 また会える保証はないけれど、僕は彼女と別れることを決めた。

「ありがとうございます」

 彼女が少し笑って、言う。

「それじゃあ」

「さよなら」

 僕はそう言うと、講義室に向かっていく彼女の後ろ姿をその場で見続けていた。

 別れ際彼女が顔に出した笑顔が、くいと似ているなと思いながら。


 それから三日後の昼、僕は彼女が座っていたベンチを訪れていた。

 その日の空は雲一つない十二分に澄み渡った快晴で、時折涼しげな風が僕の頬をかすめるほどに吹いていた。

 あの日から僕の注意は散漫で、教授からも「大丈夫か?」と心配される始末だった。

 それは、自分の恋人と瓜二つの女性と急に出会ったと言うこともあるし、何より、三日前出会ったのぞみという女性が、やはりくいと無関係には思えなかったからだった。

 連絡先とか、学部が何だとか、それくらいは聞いておいても良かったのかな、などと今になって後悔する。

 練習するアメフト部の様子を見ながら、持ってきたコーヒー――彼女が昨日飲んでいた――が入ったペットボトル、その蓋を開けた。

 コーヒーはあまり飲まないのだが、今日は飲もうと突発的に思ったのだ。

 北海道の大学のキャンパスで、ベンチに座りながら、たそがれて、一人コーヒーを飲む。

 二十一になるまだ若い大学生だとは、到底思えないだろう。

「はあ……」

 またため息を吐いてしまう。

 ここのところ、ため息の回数が多いような気がしていた。


 するとその時、横に何らかの気配を感じた。

 少しためらいながらも、僕は首を曲げようとする。

 少しずつ首を曲げ横を向いた。すると、そこには思いがけない人物が立っていた。

「あなたは……」

 聞き慣れた声が、僕に向かいそう呟く。

「偶然」

 僕も思わずそう返す。

 もう会えないと思っていたから、その衝撃はより大きなものだった。

「どうも」

「どうも」

 お互いに挨拶を交わす。

 そして、僕が手に持っているコーヒーを見て、目の前の人物――のぞみがぼそりと言う。

「あ、お揃い」

 それから、カバンから僕が持っている(彼女も昨日持っていた)コーヒーと同じものを取り出して、微笑んだ。

 少し、違和感を覚えた。

「横、座ってもいいですか?」

 すると急に、彼女がそう尋ねた。

「全然、構いませんよ」

 むしろありがたいくらいだった。

 僕がそう返すと、彼女は僕の隣にちょこんと座った。

 僕と彼女との間には、30cmほどの間隔が空いている。

「そういえば、ここの学生ですか?」

 彼女がぶっきらぼうに僕に訊いた。

 どうやら彼女は、関係が深くないのにもかかわらず僕と話そうとしてくれているみたいだった。

 性格は違えど、くいと同じ見た目をしている女性から話しかけられるというのは、懐かしい気分に浸らせてくれるものだった。

 それに僕はこの間失礼なことをしたのにも関わらず、だ。

 だがそれは、彼女の優しい一面であったのかもしれない。

「はい、文学部で。すぐそこの講堂に通っています」

 僕は質問に答えた。

 それを聞き、彼女は下を向きながら明るく言う。

「そうですか、私は理学部で」

 僕は訊く。

「学科は?」

「生物です」

 彼女は言った。

 そしてそれは、くいと同じだった。彼女は生き物が大好きで、念願の生物学科に入ったのだった。

 彼女が生物について話す時、僕はいつも、彼女の生物に対する熱意に心を打たれていた。

 やはり共通点の多さからも、彼女がくいと何の関係もないとは言い難かった。

「そちらは?」

「英文科です」

「かっこいい」

 慣れないのか、彼女がぼそっと呟く。

 何だかとても、懐かしいような気がした。

 取り留めない空気感で、まだ関わりも少ない僕らだけど、そこには気持ちの良い景色が広がっていたのだ。

「ふふっ」

 彼女が急に笑い出す。

「え?」

 僕が聞き返す。

「いや、おかしいなと思って」

「何がですか?」

「この前はあんなに強気で来てたのに、今日はすごい落ち着いているから」

「あぁ」

 とてつもなく恥ずかしかった。

 でも、聞いてうずくまる僕に

「だけど、嫌じゃないですよ」

 彼女がフォローしてくれる。

「この前のあなたも、今日のあなたも。なんだか一生懸命で」

 それは凄く嬉しく、心地の良い言葉だった。

「あ、そうだ名前。名前何ですか?」

「ああ!」

 名前を言っていないことをすっかり忘れていた。

 くいのつもりで話しかけたから、自分のことをすっかり話していなかったのだ。

「生田今人(いくた・いまひと)。よろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 丁寧に自己紹介。機械的な動き。

「……」

 でも、彼女の色々がくいとは勝手が違い、そこまで饒舌ではない僕は、そこからの話を続けることができない。

 こう言う時には、僕は何を言えばいいのだろう。

「……」

 コーヒーを指先で弄りながら、彼女の方も、話題が尽きてしまったのか少し気まずそうにしている。

「あの」

 すると、少しの間のあとに彼女が口を開いた。

「自分から話しかけておいて何ですが、私もう行かなきゃいけなくて……」

 時計塔の針が十三を指していた。

 理系の学生は忙しいと、よく聞く。

 彼女は、僕以上にやらなきゃいけないことでいっぱいなんだろう。

 僕はそう彼女のことを汲み取る。

 そうしたら彼女が、今度は一息置いて、口を開く。

「また、ここで会えませんか?」

 僕の耳にその返答が入る。

 意外だった。本当に意外だった。

 失礼なことをこの間したというのに、また会いたいと言ってくれたのだから。

 それに、今日のは、慰めのような意味だと思っていたから。

 でも、嬉しかった。

 彼女のことはまだよくわからないけれど、いや、彼女のことがまだ分からないからこそ、彼女のことを簡単に手放してはいけない気がしていたから。

 その後僕は聞いてみたくなってしまい、つい訊いてしまった。

「本当に、いいの?」

 すると彼女は、ハテナマークを浮かべたようにぽかんとする。

「いいの? ってどういうことですか?」

「いや、この間あんなに失礼なことをしちゃったのに、また会おうとしてくれてるからさ」

 僕は少し照れながら言った。

 すると彼女は、

「生田さんは何か、私が嫌な感情を抱いているとでも思っているみたいですけど、全然そんなことはないですよ」

 と、平然と言ってくれた。

「え?」

「たしかに少し、あのときは気持ち悪いなと思いましたけど、私はそれ以上に、以前も多分言いましたけど、生田さんは一生懸命な人なんだなって思ったんです。それに、生田さんと話していると、不思議とこう嫌だなっていう感情が湧かなくて、むしろ心地よいくらいなんですよ」

 彼女が今言ってくれた一言一言が、僕の心をどこまでも心地よく撫でた。こんな感情になったのは本当に久しぶりだった。

「だから、私はまた会いたいと言ったんです」

 これ以上話を引き伸ばしては彼女に迷惑をかけてしまうと思い、返答する。

「うん、ありがとう」

 その五文字を忘れずに。

「また明日、この時間で会おう」

「はい!」

 彼女が、それを聞いて口角を上げる。目尻を下げる。

 その様子で、そんな彼女の表情に既視感を覚える。

 でも、良い気持ちだった。これから、彼女について知っていきたいと思った。

 冷ややかな風がキャンパスの中を吹き抜け、日差しが燦々と僕らや僕らの周りを照らしている。

 僕と彼女との間には、15cmほどの間隔が空いていた。

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