第4話・幸せな時間に鳴り響く警鐘


 丸一日自転車を漕いだおかげで、足は震えている。

 それでも一歩ずつ、たしかに前に進んだ。ヘリのプロペラ音はもはや聞こえない。たぶん、もう地上に降りて僕たちを探し回っているのだろう。


 いつ見つかるかなんて分からない。でも、見つかるわけにはいかない。花乃は、僕が守るのだ。なにがあっても。


 そう強く言い聞かせて、僕は崩れそうになる足を踏ん張った。


 僕たちは、海に突き出した岬に立っていた。とても見晴らしのいい岬だ。下の方に、入江が見える。


 決して、逃げることを諦めたわけじゃない。ただ、背中でぐったりしていた花乃が、最後に海が見たいなんてぽつりと言ったから。そんなことを言われたら、来るしかないじゃないか。少しの間だけなら、と、僕はその願いを聞き入れた。


 花乃を背中から降ろし、リュックも降ろした。花乃を横抱きにして、海が見えるようにしてやる。

「花乃。花乃。着いたよ。海だよ。ほら、波の音、聴こえる?」 

「……う、ん……」

 花乃は閉じていた瞼を薄く開いた。こころなしか、瞼が腫れているような気がする。苦しそうな呼吸音に、こちらまで苦しくなってくる。


「ほんとだ……すごく、きれい」


 花乃は嬉しそうに微笑み、僕の手をぎゅっと握った。


 胸が締め付けられる。どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕も花乃もなにか神様に嫌われるようなことをしたのだろうか。

 なにか、悪いことをしただろうか。


「海、かぁ……これが海かぁ」

「海、好きなの?」 

「うん……生き物って、海から生まれたんでしょ?」 

「え?」 

「前、研究所のひとに聞いたの」

「研究所?」

「うん。わたしたちはみんな、海から生まれたんだって」

「……海……」

 花乃の言葉を復唱しながら、果てのない水平線を見つめる。

「ねぇ、春太」

「……ん?」

「わたしね、春太に話さないといけないことがある」


 知らず知らず、花乃を抱く手に力が籠った。衝動的に聞きたくないと耳を塞ぎたくなったけれど、花乃を離すわけにもいかなくて、僕は怯えるようにただ花乃を見るしかできない。

 

 そんな僕を見て、花乃は小さく笑った。

「……ねぇ、春太」


 花乃は真剣な表情で、僕を見つめていた。 

「……どうしたの?」

 震える声で尋ねる。すると、花乃は言った。

「……わたしなの」

「え?」

「……わたしが、この国を滅ぼしたの」

 周囲を支配していた波音が、急激に引いていった気がした。 

 花乃の瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。

 

「え……」

「わたしね、ウイルス兵器なの」

 花乃は淡々とした口調で、まるで遠い国の物語でも綴るように喋る。

「わたしは、栃木とちぎの研究機関で科学的に生み出されたの。大人が――国のひとが言うにはね、もうすぐ第三次世界大戦が始まるんだって。それに備えるために、国が秘密裏ひみつりに生み出したウイルス兵器。それが、わたし」

 

 そう言って微笑む花乃は、メリーゴーランドではしゃいでいた少女とは思えないほど、とても大人びている。

 

「……騙しててごめん。きみの大切なひとたちを奪って、ごめんなさい」

「……え……」

 僕は、花乃が放った言葉の意味がいまいち分からなくて、ただぎこちなく笑うことしかできない。


「待って待って……花乃がウイルス? 第三次世界大戦って、なに……そんなの起こるわけないじゃん。日本に軍なんてないんだし……それに、花乃はただの人間だよ」

「軍がないから敵に攻め込まれないなんてことはないんだよ。あくまで自国防衛のためっていう名目で、わたしは作られたんだって」 

「はぁ……?」

 

 意味がわからない。頭が全然回らない。

 だって、花乃は花乃だ。ちゃんと体温を感じたし、呼吸音だってする。花乃はちゃんとしたひとだ。間違いない。

 

「わたしは、生きてるだけで砂化ウイルスを生成する化け物なの。呼吸をすることで、地球上にウイルスをばらまく」

 ぐっと奥歯を噛み込むと、歯が削れる音がした。

「なら、なんで僕は生きてるの?」

 自分でも驚くほど、低い声が出た。

「きみがウイルス兵器なら、僕はとっくに砂になってるはずでしょ」

「……それは」

 

 花乃の手を取って、その手を僕の胸に押し付けた。花乃は一瞬身を固くしたけれど、僕の体温に触れると、頬を赤くして俯いた。

「僕を見てよ、花乃」

 花乃がおずおずと僕を見る。僕は、まっすぐに花乃を見つめ返して言った。

「僕は生きてる。きみは、ウイルスなんかじゃない!」


 花乃はいっそう泣きそうな顔をして、首を振った。

「……違うの。わたしは、今はもう、ウイルスすら作れない体になってるの」


 ちゃんと話すから聞いて、と、花乃はぽつぽつと話し始めた。


 花乃は、栃木県にあるとある国の研究所で開発された。あくまで自国防衛のために生み出されただけで、国に危険が及ぶことがなければ、そのまま施設内で一生を終えるはずだった。


 しかし、三ヶ月前、研究施設から誤って砂化ウイルスが漏れてしまった。原因は、花乃といちばん多く接触していた研究者の単純なミスでの感染だったという。

 そのひとりの感染を皮切りに、砂化ウイルスは瞬く間に日本に蔓延した。


 国はこの事実を隠蔽いんぺいするため、自然界で突如とつじょ発生したウイルスであると世界保健機関に報告し、研究施設から砂化ウイルスの資料をすべて破棄はきすることを決断したという。


「破棄……」


 花乃の話は難しくて、理解なんてこれっぽっちもできなかった。けれど、とにかく悪いのはこの国で、花乃ではないということだけは分かった。


「わたし、施設の中で殺されそうになって、逃げ出したの。死ぬのが、怖かった」

 当たり前だ。そんなの、僕が同じ立場でも逃げ出すに決まっている。国の身勝手な理由で生み出され、身勝手な方針転換ほうしんてんかんで殺されるなんて。そんな運命、残酷にも程がある。


「もともとわたしは、特殊な薬液の中から生まれた科学的な人間。生きる上で体内で生成されてしまう毒素どくそを打ち消すために、特製の薬を飲まないといけない。……でも、その薬を飲むと毒が消える代わりに砂化ウイルスが生成されてしまう。これまでは……生きるために仕方なくその薬を飲んでいたけど、たぶんそれが国の狙い。わたしが用済みになったら、薬を作らなくすれば簡単に殺せるから……」

 

「なんだよ、それ……」


 悔しくて悔しくてたまらなくなる。


 大人なのに、頭も僕たちよりずっといいはずの人間なのに、どうしてこんな残酷なことができるのだろう。こんな、小さな少女を政治のために使うなんて。

 

「でも結局、それを制御する薬を作れる人も、作る資料も消されちゃった。だからもう、わたしは終わりなんだ」

「それって……」

 耳を塞いでしまいたくなるのを懸命に堪えて、僕は花乃に尋ねる。

 

「今、わたしの体はわたしにだけ効く毒でいっぱいってこと。ごめんね、春太……わたし、もうすぐ死ぬと思う」

「……まさか、そんなわけ」

 そんなわけない、と花乃を見つめるけれど、続ける言葉が出てこない。

 

「いいの。だってこの毒を消すための薬を飲んだら、わたしの体は問答無用で砂化ウイルスを作っちゃう」


 そうしたら春太やリュックといられなくなっちゃう、と花乃は言う。

「自業自得なんだよ……わたし、たくさんのひとを殺しちゃったから。ふたりを殺してまで、生きたいなんて思わないよ」


 花乃が薬を飲めば、僕は砂になる。でも、もしこのまま、花乃の体を毒素が満たしていったら……。

 言葉にすら、頭の中に思い浮かべることすら嫌な文字が浮かぶ。

 

「……このままじゃ、花乃は」

 花乃は穏やかな顔をして、僕を見つめていた。

「最後に学校に行って、普通に授業を受けて、給食を食べて、学校を抜け出して、メロディランドで遊んで……わたし、すごく、すごく楽しかったよ」

 

 僕は花乃を抱き上げ、立ち上がった。


「研究所に行こう! もしかしたら薬が見つかるかもしれない。僕がちゃんと、感染対策すればいいだけだ!」

 しかし、花乃はゆっくりと首を横に振る。

「もう、無理だよ」 

「無理なんかじゃない! 諦めちゃダメだ!」

「春太……」


 花乃はそれ以上話すことも辛くなったのか、荒い呼吸を繰り返すだけで黙り込んでしまった。


 僕は一歩づつ、足を踏み出す。


 もう、頭のどこかでは分かっていた。

 ここから栃木県までの道程も、その距離を歩くとなると、どれだけ途方のない時間がかかるのかも。きっと、それまで花乃の命が間に合わないということも。

 

 分かっていても、この足を止めるわけにはいかなかった。僕が諦めるわけには、いかなかった。

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