5 二人
煌く星。淡く光る月。二人を包み込む夜の闇。だけれど二人の間には光があるように感じた。女が男を見上げる。目に涙を浮かべて。彼が彼女の方へ手を伸ばすと彼女は彼の胸に顔をうずめた。
「あなたの、あなたのそばに、いてもいいですか」
彼女は小さな声でそう言った。
「もちろん。」
彼がそう言うと、彼女は彼を見上げて嬉しそうに微笑んだ。
静かな夜に雪が舞い始めた。
男女の関係には困難は付き物である。それを乗り越えられるものだけに愛が生まれる。
そう信じたい。
彼らには、哀しくも愛おしい試練があった。
二人の出逢いはとある喫茶店。
そこは、物静かで穏やかなオーナーの雰囲気と同じ、レトロチックな店である。数席のカウンターと数席のテーブルにソファ席が一つの小さな喫茶店。淡麗な顔立ちの喫茶店のオーナー・浅葱賢(あさぎけん)さんは常連客に慕われていた。彼が立つ奥の壁には珈琲豆が並べられ、彼の淹れる珈琲の香りがいつも店内を彩っている。カウンターの奥にはレコードが置かれ、静かに‘90年代の洋楽が流れている。壁には大きな古い時計が架けられ、12時になると、曲の軽やかなメロディーに対抗するように、ボーンっと渋い音をたてる。洋楽好きの常連客たちはカウンターに席を取り、レコードから流れる曲を聴きながら賢さんの淹れる珈琲の香りを楽しむ。数席あるテーブルの一つに落ち着いた雰囲気の老紳士がいる。黒いハットを被り、右手に杖を握る彼は、いつもそこの席に座っているのだ。賢さんの珈琲を一杯だけ頼み、その一杯を愛おしそうに見つめながら深く香りを楽しんだ後、ズズッと啜る。カウンターの横には小さなショーケースがあり、賢さんお手製のケーキやプリンなどが並んでいる。ショーケースの上には紅茶の茶葉が数種類だけ並べてある。ここで紅茶を飲む人は少ないが、茶葉から漂うジャスミンの香りもまたこの喫茶店を彩っている。もう一人の常連客が隅のテーブル席にPCを広げ、老紳士とは反対に、一日に四杯は珈琲を頼んでいる青年がいる。PCと向き合いながらも、珈琲を啜っては店内を見回して満足気な顔をするこの青年は、ここの喫茶店に毎日顔を出す、青藤信(あおふじしん)という小説家だった。独特ではあるもののシンプルな服装が、彼のスタイリッシュな体型によく似合っている。この喫茶店に通ううちに、信は賢さんと親しくなった。彼の楽しみはなんといっても人間観察だ。喫茶店の一番店内が見える場所で、珈琲を啜りながら小説を書き、息抜きに周囲を見渡すのだ。
そんな日常に、この都会の街には似つかない穏やかそうな雰囲気の女性が喫茶店に姿を現した。白いシャツとタイトパンツに身を包んだ彼女は、扉を開けて真正面に位置するカウンター席に向かって、その細い脚でコツンという音を店内に響かせた。彼女がドアをくぐり席に着くまでの一瞬が、信にはスローモーションのようにゆっくりと映り、まるで映画のワンシーンを見ているかのような感覚に襲われたのだった。信が彼女の美しさに息を呑んでいる間に、彼女は細く綺麗な声で賢さんに紅茶を注文していた。彼女は注文した紅茶が渡されるまで、どこを見るでもなく、ソワソワとして落ち着かないようだった。
「お待たせ致しました。」
賢さんの声で少し驚いたようにビクッとしながら、彼女はポットとカップを恐る恐る受け取った。香ばしい珈琲の中に、ほのかにジャスミンの香りが漂い、店内を彩る。彼女がポットを傾け、湯気をたたせながら紅茶をカップに注ぐと、ジャスミンの香りがより一層際立って店内に広がった。両手でカップを包み込むように持ち、まだ湯気の立っている紅茶にフーッと息を吹きかけながら、口に運ぶ。音もなく紅茶を飲む姿に信は見入っていた。
「美味しい…、はぁっ!、すみません」
思わず口をついてでた言葉に自分でも驚きを隠せずに、彼女は頬を赤らめた。
「ありがとうございます。」
賢さんがニコリと笑って相槌を入れた。
上品な立ち振る舞いの美しい彼女は、この喫茶店をつい先ほど見つけたばかりで、何かに導かれるようにドアを開けたのだった。そんな彼女の名は海藍桜依(かいらあい)。この土地にきて初めての外出だった。桜依は転勤でこの地にやってきた。彼女にとってはこの土地は騒がしく思えていたが、この日、この喫茶店は桜依にとっても落ち着ける場所となった。
賢さんの紅茶で一息ついた桜依は、ふと誰かの熱い視線を感じた。顔を上げて周囲を見渡してみる。一人の男性と目が合った。桜依は恥ずかしくなって歯に噛みながら微笑んだ。
喫茶店に入ってきた綺麗な女性から目が離せないでいた信。彼の視線に気づいた彼女と目が合って、少し恥ずかしくなりながら、ペコリと頭を下げる。それに応えるように彼女がニコリと笑った。輝かしいほどの笑みだった。
ここから二人の物語が始まるのだ。
その後も賢さんの喫茶店に通い続ける二人。お互いの存在に気づきながらも、言葉を交わすことはなく、喫茶店の空間を楽しみながらお互いをそっと見ている日々が続いた。
先に声をかけたのは信だった。
「隣、いいですか?」
「もちろん」
桜依はあの輝かしいほどの笑顔で答えた。
「どうしてここに?」
彼女は歯に噛むようにクスッと笑って、
「紅茶を飲みに。」
左手でカップを顔まで持ち上げながら桜依が答える。あっと口を開けて、信は少し恥ずかしそうに微笑んでから、
「みんな同じ答えだね。質問を変えなきゃ。」
「そうね。」
今度は桜依が悪戯っ子みたいにクスッと笑った。
「ごめんなさい、ちょっと意地悪したくなっただけよ。ちゃんと答えるわ。」
桜依はまたキラキラした瞳を信に向けながら笑った。彼女の整った顔立ちが微笑みでさらに煌めく。
「先日転勤でここにやってきたんだけど、ここってすごく都会だからなかなか落ち着かなくて…、休日だった時に、落ち着ける場所を探してたら、この雰囲気抜群の喫茶店を見つけちゃったってわけ。」
そう得意気に話す桜依は、最初に店内に足を踏み入れた時よりも緊張がとれ、日々にも慣れてきているようで、持ち前の明るさを取り戻しているように見えた。
「ようこそ。」
信が桜依に向き直って深々とお辞儀をし、続けて言う。
「賢さんの珈琲は最高だよ。」
そう言うと信は、カップを持つ左手の小指を綺麗に立てて、珈琲を一口啜って見せた。
「そうなのね、んー、それでも私は紅茶派なの。珈琲の香りも大好きだけど、ジャスミンティーも最高なの」
桜依も対抗してカップに口をつけて、自慢気に口に運んだ。可笑しくなった二人は、同時に吹き出して笑った。
桜依が笑いを抑えて尋ねる。
「あなたはどうしてここに?」
信が桜依の方に向き直り、ニコリと微笑んで答える。
「僕はいつもいるよ。ここに。僕はいつもこの店のあの場所に座って同じ珈琲を飲んで、考え事をしたり、日々の仕事をしたり、ここで日々のほとんどを過ごすからね。」
彼女も微笑みを返した。
「素敵。」
二人はもう一度カップに口をつけた。
「明日は紅茶を頼もう。」
珈琲が喉に通り、鼻に香りが残っているのを感じながら信がそう呟いた。
「ぜひ。」
桜依がクスリと笑って答えた。
その後、二人はこれまでどうして話さなかったのかと思えるほどに何時間も語り合った。二人の間には永遠とも思えるほどの時間が流れていた。誰も二人の間には入れない。友人のはずの賢さんでさえも。賢さんは楽しそうに笑い合う二人を見ながら、レコードに手をかけて、曲をバラードに変えた。他の人には、二人だけにスポットライトが当たっているようにも見えただろう。
店仕舞いを始めた賢さんに気づいて、二人はやっと外が暗くなっているのを知った。二人はカウンターにお代を置き、賢さんに挨拶してから喫茶店を後にした。帰り道でも二人は笑い合い、最寄り駅まできたところで、
「ここまでで大丈夫です。もうすぐそこだから。ありがとうございました。」
「わかった。今日はありがとう、またいつか。」
と言葉を交わし合い、少し名残惜しそうに二人は別れた。
その日、二人は互いのことを思いながら眠りについたのだった。
その日から二人は、桜依の仕事終わりに喫茶店で会い、語り合った。出逢った日に増して、語り合うことは深く深くなっていく。これまでどんな人生を歩み、何が好きで、将来はどんな二人になっていくのか。いろんな場所に行き、同じものを観て、気持ちを共有し合い、ドライブにピクニックまで、二人はどんな人から見ても、どんな時も幸せそうに笑っていた。
そんな二人をずっとそばで見ていた賢さんは、耐えきれず、ある日、信に話す。
「桜依ちゃんのことどう思ってるんだよ?」
「えっ⁈」
信は驚いて賢さんを見返す。
「そりゃ大好きさ。」
「見てりゃわかるよ。」
賢さんが呆れたように笑う。
「いや、桜依ちゃんとどうなりたいんだよ。」
「え、そりゃあ、一緒に住んでさ、ずっと一緒にいたいさ。」
へへっと信が笑ってみせる。そして、桜依の姿を思い浮かべながら続ける。
「彼女の子ってきっと可愛いだろうな。四人家族とか憧れなんだよな。」
賢さんは、わかったわかったと浮かれる信を止める。
「桜依ちゃんにちゃんと言ったのかよ。言わなくても伝わってるなんて思うなよ。」
賢さんに言われてハッとする。信は桜依と出逢えたことを奇跡のように、運命のように感じていたが、それを言葉にしたことはなかった。改めて考えた。自分は文章を書く仕事をしていながら、一番伝えたい人に何も伝えきれていなかったと深く反省した。僕は何をしてたんだよ、桜依に伝えよう、そう思った。信は彼女にプロポーズするための計画を立て始めるのだった。特別な日にしたい。桜依の誕生日は雪の降る季節、二月一日だった。この日にしようと決めた信。彼に残されたのは、後2ヶ月だった。
「ありがとう、賢さん!」
そう言い放って、信は喫茶店を後にした。賢さんは満足そうに彼の後ろ姿を見送った。
数時間後、仕事を終えて喫茶店にやってきた桜依。賢さんが笑顔で出迎えてくれたが、そこに信の姿はなかった。
「今日、彼はきていないの?」
桜依が賢さんに少し残念そうに尋ねる。
「さっきまでは居たんだけどね。ちょっと急用ができたみたいで飛び出して行ったよ。」
賢さんがニコニコしているのでなぜか聞く。
「いやあ、信と少し話してたんだよ、桜依ちゃんのこと。」
「やだなあ。」
桜依が恥ずかしそうに歯に噛む。
「信は心底桜依ちゃんのことが好きだよな。」
賢さんがやれやれといった感じで言うのを聞きながら、桜依は少し申し訳なくなった。賢さんに紅茶とケーキを注文し、しっかり味わって、家路についた。その夜、桜依は想いを巡らせた。信との日々は楽しいが、いつか終わると思っている桜依。これまでも何度も経験してきたことだった。想いを決めて話すこれまでの男性たちは、桜依の話を聞くなり、「でも…」や「いつかは…」と言った言葉を並べたてて、その場を凌ぐ。そうして少し呆れたように彼女の前から去っていった。いつしか桜依も期待するのをやめた。賢さんと話していて桜依はもしかしたらと気づいてしまった。気づいてしまったことを後悔しながらも、信にあの言葉を言わせないようにしようと心に決めるのだった。彼との時間を終わらせたくなかった。なんと傲慢かと思いながらも、ただ桜依は信との時間を少しでも長引かせていたいと願った。
それから2ヶ月間、信は忙しい日々を過ごした。人気のレストランに予約をとり、素敵なディナーを頼み、花束も用意した。指輪を悩みに悩んで購入する。桜依の指のサイズをこっそり測るのには苦労した。彼女がうたた寝をしている時を見計らってそーっと測る。なんとほっそりと綺麗な指だろうかと思う信。桜依が目覚めると、彼女の手を自分の両手で包み込み、その小さな手にそっと口づけした。彼女は驚いたように、でも嬉しそうに微笑みを返した。信が内心、バレないでくれと願っていたとも知らずに。
そして迎えた桜依の誕生日。緊張しきった信の手は震えていた。それに気づいた桜依がそっと信の手を握った。ハッとして彼女を見る信。
「ありがとう。」
桜依は満面の笑みで信に言った。そんな彼女を見て信は、やっぱりこの人しかいないなと思う。
二人はディナーを楽しんだ。信は桜依に告白する機会を窺ったが、彼女がその話題を避けているかのように話題を次々と変えていく。そして、突然話が途絶えた。今だ!信が思った瞬間、彼女が先に口を開いた。
「私ね、赤ちゃん、産めないの。」
そう言って俯いてしまった。以前、信は何度か桜依に子どもがほしいと話していた。桜依はその時どんな気持ちだったのか信は想像していた。そして、どんなに辛かったかと信は申し訳なくなった。
彼女は続ける。
「私ね、10代の頃少し体調崩して学校行ってない時期があったって言ったでしょ。その時にね、子ども産めない体になったの。」
淡々と、ただただ流れるように話す彼女が、信の目には別人のように映った。彼女にどんな言葉をかけるべきかわからず、沈黙の時間が流れる。
沈黙に耐えきれず桜依が呟くように言った。
「もう、終わりにしよっか」
そう言い残して桜依は逃げるように店を出るのだった。呆気に取られて信は少しの間動けずにいた。何が起こったのか頭の中を整理した。
そして、彼は彼女を追って勢いよく席を立った。
嗚呼、やっぱり。桜依は思った。信が何か計画をしていることには気づいていた。そして、それはきっとプロポーズだと感じていた。彼があの言葉を言いたいのだと、桜依はわかってしまった。そしてその後自分が話すことも、そして彼が申し訳なく微笑むことも。桜依にはわかっていた。だから、先に言おうと思ったのだ。彼の困った顔を見る前に、自分から去っていこうと。最初からそう決めていたと自分に言い聞かせて、店を後にする桜依。だけれどこれまでの桜依とは少し違った。どうしようもなく虚しく、苦しかった。いつもと同じじゃないかと思う一方で、目尻がじんわりと熱くなるのを止めることなどできなかった。
外はすっかり暗くなっていた。桜依の後ろ姿を見つけ、駆け寄る信。
「そんなのは嫌だ。」
追いついた信が桜依の手をひいてそっと抱きしめる。
「それでも君がいいんだ。」
そう言って彼女に向き直り、買った指輪をコートのポケットから取り出し、彼女の前に突き出した。そして彼は、桜依の恐れていたあの言葉をとても優しく言うのだった。
「結婚しよう。」
桜依は少し呆気にとられながらも嬉しそうに頷く。信がそっと彼女の左手を握った。街灯に照らされて銀色に輝く指輪は、彼女のすらっと伸びた指にぴったりとはまった。自分の指に輝く宝石をはめる信を見つめた桜依の瞳には涙が光っていた。
空には星が煌めいている。月が淡く光り、夜が二人を包み込む。だけれど二人の間には光があるように感じた。桜依が信を見上げる。目に涙を浮かべて。信が手を伸ばすと桜依は彼の胸に顔をうずめた。
「あなたの、あなたのそばに、いてもいいですか」
桜依が小さな声でそう言った。
「もちろん。」
そう言うと、彼女は信を見上げて嬉しそうに微笑んだ。
静かな夜に雪が舞い始めた。
二人は近くの砂浜に腰を下ろして語り合った。
桜依は何度も何度も自分の指で煌めく指輪を眺めながら嬉しそうに目を輝かせていた。そんな彼女を信は愛おしそうに見つめる。
その日は特に冷え込む夜だったが、二人にはとても温かく感じた。穏やかな風が波音をたてている。その音すらも二人を包み込む。不思議なことに、この辺りでは人気のあるその夜の砂浜には、二人の他に誰もいなかった。
その日、二人にとってその場所は特別なものとなった。
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